第35話 戦場へ運ぶ飯
第35話 戦場へ運ぶ飯
北へ向かう道には、戦いの跡が残っていた。
建物の壁は崩れ、石畳には大きな爪痕が刻まれている。
遠くからは、まだ剣戟の音が聞こえていた。
「……近いな」
ガルドが低い声で言った。
その手には剣。
その目は、完全に戦場を見る者の目になっていた。
「熊五郎、止まるな。前方に魔物がいる」
「わかっている」
熊五郎は食材を積んだ荷車を引きながら、前を見た。
「飯が冷める」
「そこかよ!」
実咲が思わず叫ぶ。
「今、戦場なんだけど!?」
「だから飯が必要なんだ」
「……」
実咲は言葉を失った。
だが、その直後。
瓦礫の向こうから魔物が飛び出した。
「来るぞ!」
ガルドが剣を抜く。
魔物が唸り声を上げて飛びかかってくる。
ガルドは一歩前に出た。
「そこをどけ!」
剣が振り抜かれる。
魔物が吹き飛び、地面を転がった。
熊五郎は荷車を止めなかった。
「行くぞ」
「まだ戦ってるんだけど!?」
「ガルドがいる」
「信用しすぎでしょ!」
「ガルドなら大丈夫だ」
「その自信はどこから来るのよ!」
そんなやり取りをしながら進み――。
やがて、北側の防衛線が見えてきた。
そこには数十人の兵士たちがいた。
盾を構え、槍を持ち、傷ついた仲間を支えている。
誰もが疲れ切っていた。
「……腹が減っている」
熊五郎が言った。
ガルドも兵士たちを見渡す。
「そうだな」
兵士の一人がこちらに気づいた。
「ガルド隊長!」
その呼び方に、ガルドが一瞬だけ固まった。
「……隊長?」
「はい!」
兵士は息を切らしながら答えた。
「食料を持ってきたんですか!?」
「そうだ」
ガルドが答える。
「食えるものを持ってきた」
兵士たちの顔が変わった。
疲労で沈んでいた目が、わずかに開く。
「飯……?」
「飯だ」
熊五郎が答えた。
そして荷車を開ける。
中には魚、肉、野菜、米、乾燥した食材、調味料。
限られた食材ではある。
だが、熊五郎はそれを見て、すぐに調理方法を決めた。
「火を使える場所は?」
兵士が指を向ける。
「向こうの壁際なら……」
「そこを借りる」
熊五郎は荷車から大きな鍋を取り出した。
「実咲」
「なに?」
「水」
「はいはい!」
実咲が水を運ぶ。
熊五郎は鍋に水を入れ、火を起こした。
「……こんな状況でも料理するのか」
兵士の一人が呟く。
「する」
熊五郎は即答した。
「腹が減っているからな」
鍋が温まるまでの間に、熊五郎は魚を捌く。
包丁が走る。
身を取り、骨を分ける。
野菜を切る。
肉を一口大にする。
「何を作るんです?」
兵士が尋ねる。
「汁物だ」
「汁物?」
「温かいものを食ったほうがいい」
熊五郎はそう言って、切った野菜を鍋に入れていく。
大根。
人参。
葉物。
残っていた豆。
そして肉。
じゅう、と肉が焼ける音がした。
兵士たちの視線が集まる。
「……いい匂いだ」
「肉の匂いだ……」
「腹減ったな……」
誰かが呟く。
熊五郎は何も言わず、鍋をかき混ぜる。
肉から出た旨味が湯に溶ける。
野菜の甘みも加わっていく。
そこへ魚を入れる。
魚の身が煮えていく。
「魚まで入れるのか?」
「入れる」
「肉と魚を一緒に?」
「うまい」
「……そうなのか?」
「そうだ」
熊五郎の迷いのない返事に、兵士が苦笑する。
「料理人ってのは強いな……」
「料理人じゃない」
熊五郎が答える。
「食堂の店主だ」
「違いがわからん……」
実咲が横から口を挟んだ。
「私もよくわかってない」
「お前は何をしている」
「手伝ってる!」
「なら皿を出せ」
「はいはい!」
実咲が皿を並べる。
その間にも熊五郎は鍋を混ぜる。
やがて湯気が立ち上った。
香りが戦場に広がっていく。
血と土と煙の匂い。
その中に、温かな料理の匂いが混ざった。
一人の兵士が、思わず目を閉じる。
「……家の飯を思い出すな」
「俺は母ちゃんの飯を思い出した」
「俺は酒場だ」
「今は酒場じゃないだろ」
「わかってるよ」
小さな笑いが起こった。
ほんの少しだけ。
戦場に笑い声が戻った。
熊五郎は鍋を見て、頷く。
「できた」
「本当に!?」
兵士たちがざわつく。
「順番に並べ」
熊五郎が言う。
「全員分あるのか?」
「一人一杯だ」
「……」
兵士たちが顔を見合わせる。
「それだけ?」
「今ある食材では、それが限界だ」
熊五郎は淡々と言った。
「だから、全員で食え」
最初の兵士が椀を受け取った。
両手で持つ。
湯気が顔にかかる。
「熱い……」
「気をつけろ」
熊五郎が言う。
兵士は一口食べた。
肉の旨味。
魚の風味。
野菜の甘み。
温かい汁が身体の中へ入っていく。
「……うまい」
小さな声だった。
だが、その声は周囲に聞こえた。
「うまい……」
もう一口。
そして、もう一口。
兵士の肩から力が抜けていく。
「……なんだこれ」
「どうした?」
仲間が尋ねる。
「いや……」
兵士は胸元を押さえた。
「身体が、少し軽い」
「本当か?」
「疲れが……少し引いていく」
熊五郎は頷いた。
「飯を食ったからだ」
「それだけか?」
「それだけだ」
熊五郎は当然のように答える。
「腹が減っていると、力が出ない」
別の兵士も食べ始めた。
「……温かい」
「うまいな」
「もう一杯欲しい……」
「駄目だ」
熊五郎が即答する。
「全員分がなくなる」
「ですよね……」
兵士が肩を落とす。
だが、その顔には笑みがあった。
熊五郎は次の兵士へ椀を渡す。
「食え」
「ありがとうございます!」
「ゆっくり食べろ」
負傷した兵士にも料理が運ばれる。
だが、熊五郎はそこで止めた。
「傷は治っていない」
「はい」
「治療を受けてから食え」
「わかりました」
神官たちが傷を処置している兵士には、その治療が終わるまで待ってもらう。
血が止まり、包帯が巻かれた兵士が、ようやく椀を受け取る。
「……いただきます」
一口。
その兵士はしばらく黙っていた。
そして、
「……怖かった」
ぽつりと呟いた。
周囲の兵士たちが黙る。
「死ぬかと思った」
兵士は椀を握る。
「ずっと……怖かった」
熊五郎は何も言わなかった。
ただ、次の料理を作り始めた。
「食え」
それだけだった。
兵士は頷く。
「……はい」
温かい汁を飲む。
その兵士の目から、涙が一滴落ちた。
実咲はそれを見て、胸が詰まる。
「熊五郎……」
「なんだ」
「この料理って……」
「腹を満たす料理だ」
「それだけ?」
「それだけだ」
熊五郎は鍋を見ながら言った。
「だが、腹が満ちれば少し落ち着く」
「……うん」
「疲れていれば、休める」
「うん」
「怖ければ、誰かと飯を食えばいい」
実咲は黙った。
熊五郎は料理を続ける。
「傷は治らない」
「……うん」
「だが、体力は戻せる」
「うん」
「だから食わせる」
その言葉を聞いていたガルドが、熊五郎を見る。
その瞬間。
また頭の奥が痛んだ。
――飯を食わせろ。
――傷を負った者は治療を受けさせろ。
――戦える者には食わせろ。
――誰一人、腹を減らしたまま戦わせるな。
昔の声。
昔の命令。
そして、その声は――。
ガルドは頭を押さえた。
「……またか」
「ガルド?」
実咲が心配そうに声をかける。
「大丈夫だ」
ガルドは顔を上げる。
そして熊五郎を見る。
「……お前は」
「なんだ」
「いや……」
ガルドは言葉を止めた。
目の前で鍋をかき混ぜている熊五郎。
その姿が、昔の記憶の中にある誰かと重なる。
だが、まだ思い出せない。
「……なんでもない」
「そうか」
熊五郎は気にせず、鍋を見る。
「残りは少ない」
「そうだな」
ガルドが答える。
戦場には、まだ魔物の咆哮が響いている。
それでも。
兵士たちは一時だけ武器を置き、飯を食べていた。
誰かが笑う。
誰かが昔の話をする。
誰かが家族のことを話す。
ほんの短い時間。
そこには戦場ではなく、食堂のような空気があった。
そして――。
「……静かすぎる」
ガルドが顔を上げた。
熊五郎も空を見る。
北の空。
黒い何かが、ゆっくりとこちらへ近づいていた。
「なんだ……あれ」
兵士たちがざわめく。
巨大な影。
翼。
角。
そして――二つの赤い光。
実咲の顔が青ざめる。
「……熊五郎」
「なんだ」
「……あれ、何?」
熊五郎は空を見上げた。
黒い影が、さらに大きくなる。
そして。
夜空から、低い声が響いた。
『――人間どもよ』
戦場にいた全員が動きを止める。
『ここから先は――』
赤い目が、ゆっくりと輝く。
『私が相手をする』
――夜空が、黒く染まった。




