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第33話 北の空に現れた黒い影

第33話 北の空に現れた黒い影


 ドォォォン――!!


 北の空が赤く染まった。


 町全体が大きく揺れる。


 倉庫の棚から、木箱がいくつも落ちた。


「な、何!?」


 実咲は避難所で思わず立ち上がった。


 周囲にいた人々も、一斉に北を見る。


「今の音……」


「北門の方だ!」


「また魔物が来たのか!?」


 避難所にざわめきが広がる。


 子どもが泣き出す。


 母親が子どもを抱きしめる。


 兵士たちも立ち上がり、武器を手に取った。


 その頃――。


 食料倉庫の前でも、魚屋の店主が北の空を見上げていた。


「……あれは何だ?」


 空に浮かんでいるのは、巨大な黒い影。


 雲のようにも見える。


 だが、明らかに違う。


 黒い影の周囲では、赤い光が何度も走っている。


「魔法か?」


 魚屋の店主が呟く。


 熊五郎は黙って見ていた。


「……違う」


「違う?」


「あれは魔法だけじゃない」


「分かるのか?」


「なんとなくだ」


 熊五郎はそう答えた。


 魚屋の店主は熊五郎を見る。


 まただった。


 また、この男は何かを知っている。


 だが本人は、それを特別なことだと思っていない。


「熊五郎」


「なんだ」


「あの黒い影を見て、何か思い出さないか?」


「……」


 熊五郎はしばらく空を見る。


「いや」


 そう答えた。


「知らない」


 魚屋の店主は黙った。


 だが、自分の頭の中では――。


 別の光景が浮かんでいた。


 巨大な城。


 魔法陣。


 兵士たち。


 そして、城の最上階から戦況を見つめる一人の男。


『北門を守れ』


 誰かが叫ぶ。


『敵軍が接近しています!』


『民間人の避難を優先しろ』


 その声。


 その命令。


 なぜか、胸の奥に残っている。


「……誰なんだ」


 魚屋の店主は小さく呟いた。


 その瞬間。


 頭の奥に激しい痛みが走った。


「ぐっ……!」


「店主?」


 熊五郎が振り返る。


「大丈夫か?」


「ああ……大丈夫だ」


 魚屋の店主は額を押さえる。


 だが、記憶が止まらない。


 誰かが自分を呼んでいる。


『隊長!』


『隊長、指示を!』


『――――!』


 名前。


 誰かが自分の名前を叫んでいる。


 だが、肝心の部分だけが聞き取れない。


「俺は……」


 魚屋の店主は目を閉じた。


「俺は……誰だ?」


 その瞬間。


 頭の中で、はっきりと声が響いた。


『ガルド!』


「……!」


 目を見開く。


『ガルド隊長!』


 次々と記憶が蘇る。


 鎧を着た自分。


 剣を握る自分。


 兵士たちの前に立つ自分。


 そして――。


『ガルド! 西門を任せる!』


『了解しました!』


「ガルド……」


 魚屋の店主が呟いた。


「俺の名前は……」


 熊五郎が黙って見ている。


 魚屋の店主は胸に手を当てた。


「ガルド……」


 もう一度。


 今度は、はっきりと言った。


「俺は……ガルドだ」


 長い間忘れていた名前。


 魚屋の店主として暮らしていた自分とは違う。


 かつての自分の名前。


 そして、その名前と一緒に、さらに多くの記憶が蘇っていく。


 王城。


 兵士。


 戦場。


 魔物。


 避難する町の人々。


 そして――。


 一人の王。


「……王」


 ガルドは呟いた。


「俺は……あの方に仕えていた」


「誰に?」


 熊五郎が聞く。


「……」


 ガルドは熊五郎を見る。


 なぜか、胸が大きく締めつけられた。


 目の前の男を見ると、忘れていた記憶が次々と蘇ってくる。


 料理。


 兵士たち。


 食事をする兵士。


 そして、王の命令。


『戦える者には戦わせろ』


『怪我をした者には治療を受けさせろ』


『そして、全員に飯を食わせろ』


「……まさか」


 ガルドは小さく呟いた。


 だが、その先はまだ思い出せない。


「ガルド?」


 熊五郎が呼ぶ。


 その名前を聞いた瞬間。


 ガルドは顔を上げた。


「……そうだ」


 今度は迷わなかった。


「俺はガルドだ」


「そうか」


 熊五郎はそれだけ言った。


「思い出したんだな」


「ああ」


 ガルドは頷く。


「名前だけじゃない。少しずつだが、昔のことも戻ってきている」


「なら、無理に思い出す必要はない」


 熊五郎が言った。


「今は目の前のことを考えろ」


「……ああ」


 ガルドは頷いた。


 その言葉を聞いて、また胸の奥がざわついた。


 昔も。


 この男は、同じようなことを言っていた気がする。


 だが――。


 まだ、そこまでは思い出せない。


 その時だった。


 倉庫の周囲から、魔物の唸り声が聞こえた。


 グルルル……。


 ガルドが剣を握る。


「来るぞ」


 暗闇から、一匹の魔物が姿を現した。


 その後ろにも一匹。


 さらにその後ろにも。


「多いな」


 熊五郎が言う。


「倉庫の食材を狙っているのかもしれない」


「なら――」


 熊五郎が一歩前に出る。


「食わせるわけにはいかない」


「熊五郎、戦うのか?」


「食材を守る」


「理由がそれかよ……」


 ガルドが苦笑する。


 だが、次の瞬間には表情を引き締めた。


「俺も戦う」


 二人の前に、魔物たちが迫る。


 最初の一匹が飛びかかった。


「来た!」


 ガルドが剣を振る。


 ガキィン!


 爪と剣がぶつかる。


 ガルドは魔物を横へ弾き飛ばした。


 別の魔物が背後から迫る。


「後ろだ!」


 熊五郎が手を上げた。


 バシュッ!


 風の塊が飛び、魔物を吹き飛ばす。


 ドンッ!


 魔物が壁に叩きつけられる。


「……」


 ガルドが一瞬だけ熊五郎を見る。


 今の魔法。


 詠唱がない。


 魔法陣すらほとんど見えなかった。


 なのに、あの威力。


「やっぱり……」


「何だ?」


「いや」


 ガルドは首を振った。


「今は目の前の敵だ」


「ああ」


 二人は再び魔物を見る。


 しかし――。


 魔物たちは突然、攻撃を止めた。


「……?」


 ガルドが警戒する。


 魔物たちは一斉に北を見る。


 そして。


 一匹。


 また一匹と、倉庫から離れていく。


「何だ?」


 熊五郎も北を見る。


 遠くで――。


 また巨大な爆発が起きた。


 ドォォォン!!


 今度は、赤い光だけではない。


 黒い煙が空へ伸びていく。


「北門が……」


 ガルドが呟いた。


「突破されたのか?」


 熊五郎が聞く。


「分からない」


 その時。


 遠くから兵士の声が響いた。


「北門から伝令!」


「北門からだ!」


 別の兵士が走ってくる。


 息を切らしながら叫ぶ。


「北門の防衛線が後退しています!」


 ガルドの顔が険しくなる。


「どこまで?」


「第一防衛線を放棄! 兵士たちは第二防衛線まで下がっています!」


「住民は?」


「南へ避難を続けています!」


「負傷者は?」


「増えています!」


 ガルドは拳を握った。


 その瞬間。


 さらに記憶が蘇った。


 自分が兵士たちに指示を出している。


『北門を守れ!』


『民間人を南へ!』


『負傷者は教会へ運べ!』


 そして、その指示を出していた自分に向かって――。


『ガルド』


 あの声。


 あの王の声。


 ガルドは思わず北を見た。


「……あの方は」


 熊五郎が振り返る。


「何か言ったか?」


「いや……」


 ガルドは首を振った。


「まだ、全部は思い出せない」


 だが、一つだけ分かった。


 自分は、この町を守るために戦っていた。


 そして昔も――。


 同じような戦いを経験している。


「熊五郎」


「なんだ」


「避難所へ戻ろう」


「食材は?」


「必要な分だけ運ぶ」


「分かった」


 二人は倉庫から食材を運び出す。


 米。


 麦。


 乾燥野菜。


 保存肉。


 残っていた調味料。


 それらをできるだけ運ぶ。


 熊五郎は重い袋を軽々と持ち上げた。


「……」


 ガルドはそれを見ていた。


 まただ。


 昔の記憶。


 王が大量の食料を持ち上げていた兵士に言った。


『それくらい、一人で持てるだろう』


『無理です!』


『そうか』


 そして王自身が持ち上げる。


『……持てるではないか』


 兵士たちが呆れる。


 その光景が、今の熊五郎と重なった。


「……まさか」


「どうした?」


「いや」


 ガルドは黙って歩き続けた。


 まだ確信はない。


 だが――。


 胸の奥では、何かが繋がり始めていた。


 二人が避難所へ戻る。


 実咲が駆け寄ってきた。


「熊五郎!」


「戻ったぞ」


「遅いよ!」


「食材を取ってきた」


「本当に?」


「ああ」


 熊五郎が袋を見せる。


 実咲の顔が明るくなる。


「これなら、しばらく作れる?」


「節約すればな」


「よかった……」


 実咲は胸を撫で下ろした。


 そして熊五郎の後ろにいるガルドを見る。


「店主さん……?」


 ガルドは一瞬黙った。


 そして――。


「俺は……」


 自分の胸に手を当てる。


「ガルドだ」


「え?」


「俺の本当の名前だ」


 実咲は目を丸くした。


「ガルド……?」


「ああ」


 ガルドは頷いた。


「少しだけ、思い出した」


 だが、その直後。


 北の方角から――。


 また大きな爆発音が響いた。


 ドォォォン――!!


 避難所の人々が一斉に静かになる。


 熊五郎も北を見る。


 ガルドも見る。


 そして実咲は、震える手で熊五郎の服を掴んだ。


「……熊五郎」


「なんだ」


「あの黒い影……」


 北の空。


 黒い影が、さらに大きくなっている。


 まるで町へ近づいているようだった。


「……あれ、何なの?」


 熊五郎は答えなかった。


 ただ、静かに北を見つめていた。


 そして――。


 黒い影の奥で。


 一瞬だけ。


 二つの赤い光が輝いた。


 ガルドは、その赤い光を見た瞬間。


 忘れていた記憶の一部を、また思い出した。


『ガルド』


 あの王の声。


『あの魔王を――』


「……魔王」


 ガルドの口から、その言葉が漏れた。


 実咲が振り返る。


「魔王……?」


 ガルドは答えなかった。


 ただ北の空を見つめていた。


 そして初めて。


 その顔には、明確な恐怖が浮かんでいた。

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