第3話 熊五郎、異世界で食堂を任される
第3話 熊五郎、異世界で食堂を任される
「腹が減った」
魚屋の店主の家に着いて、まだそれほど時間が経っていない。
なのに熊五郎は、台所の前で腕を組んでいた。
「さっき魚を食べたでしょ」
実咲が呆れた顔で言う。
「あれは味見だ」
「しっかり一人前食べてたじゃん!」
「味見は大事だ」
「どこがよ!」
店主は二人のやり取りを聞きながら笑っていた。
「ははは。夕飯もまだなんだろ? 好きに使ってくれ」
「ありがとうございます」
実咲が頭を下げる。
熊五郎はさっそく台所へ向かった。
「何を作る?」
「魚がある」
「魚ばっかりだね」
「魚屋だからな」
「そうだけど」
熊五郎は魚を手に取り、じっと眺める。
「これなら――」
「何?」
「焼く」
「また焼くの?」
「焼くだけだと思うな」
熊五郎は魚に下味をつけ、香草を選び、鍋を用意する。
さらに野菜を刻み、別の鍋で煮込んでいく。
実咲は隣で手伝いながら、熊五郎の手元を見ていた。
「熊五郎って、こういうときだけ本当に手際いいよね」
「こういうときだけとは何だ」
「普段は寝てるか食べてるかだから」
「体力を温存している」
「都合のいい言い方ね」
しばらくすると、家の中いっぱいに香りが広がった。
店主が台所を覗く。
「何だ、この匂いは……」
「もう少しだ」
熊五郎は料理を皿に盛りつけた。
焼いた魚。
香草のソース。
野菜の煮込み。
そして魚の旨味を使ったスープ。
「できた」
三人で食卓を囲む。
店主が魚を一口食べる。
「……!」
続いてスープを口にする。
「……うまい」
実咲も食べてみる。
「おいしい……!」
熊五郎は満足そうに頷いた。
「当然だ」
「もうちょっと謙虚になれない?」
「うまいものをうまいと言って何が悪い」
「そういうところなんだよね……」
店主は夢中になって食べている。
やがて最後の一口を食べ終えると、熊五郎を見た。
「なあ」
「何だ?」
「明日から、店で料理を出してみないか?」
「店?」
「ああ」
店主は笑った。
「魚屋の片隅なら、調理する場所を作れる。そこで料理を出せばいい」
実咲が驚く。
「でも、お客さんが来るか分かりませんよ?」
「今日の料理を食べたら、来るさ」
店主は熊五郎を見る。
「料理を食べてもらって、お金を稼げばいい。ここで暮らしていくにも必要だろ?」
熊五郎は少し考えた。
「……やる」
「決まりだな」
「明日から料理を作る」
実咲は苦笑した。
「本当に食堂を始めることになっちゃった」
「実咲」
「何?」
「手伝え」
「やっぱり私も?」
「二人でやるんだ」
「はいはい」
---
翌朝。
魚屋の店の片隅に、小さな調理場が作られた。
テーブルを一つ。
椅子を数脚。
鍋。
皿。
そして熊五郎が料理をする場所。
「本当にここでやるんだ……」
実咲が辺りを見回す。
「最初はこれくらいでいい」
熊五郎はそう言って料理を始めた。
魚を焼く。
野菜を煮る。
香草を合わせる。
料理の匂いが店の前まで広がっていく。
最初に来たのは、一人の男だった。
「いい匂いだな」
「どうぞ」
実咲が料理を出す。
男が一口食べる。
「……うまい!」
その声を聞いて、近くにいた人が振り返った。
「何を食べてるんだ?」
「魚料理だ。食べてみろ」
その人も料理を注文する。
そして一口。
「これはうまい!」
さらに別の客が来る。
また一人。
また一人。
気づけば、魚屋の前には人だかりができていた。
「まだあるか?」
「俺にもくれ!」
「この料理は何だ?」
「スープも頼む!」
実咲は大慌てだった。
「熊五郎! お客さん増えてる!」
「見れば分かる」
「料理足りる?」
「作ればいい」
「そんな簡単に言わないでよ!」
熊五郎は次々と料理を作っていく。
実咲も皿を運び、注文を聞き、料理を出す。
魚屋の店主も手伝ってくれた。
昼を過ぎても客足は途切れなかった。
---
そして夕方。
最後の客が帰った。
「……終わった」
実咲は椅子に座り込んだ。
「疲れた……」
「そうか?」
熊五郎は平然としている。
「熊五郎は疲れないの?」
「腹が減った」
「疲労じゃなくて空腹なのね……」
魚屋の店主が笑いながら店を片づける。
「今日は大繁盛だったな」
「大繁盛って言っていいのかな?」
実咲が店を見る。
小さな場所に、たくさんの人が来てくれた。
そして――。
「ところで、売上はいくらになったんですか?」
実咲が尋ねる。
店主が、客から受け取った硬貨をテーブルの上に広げた。
「数えてみよう」
「私がやります」
実咲は一枚ずつ硬貨を並べていく。
銅貨。
銀貨。
そして、少し大きめの銀貨。
「これが……今日の売上?」
「ああ」
「えっと……」
実咲は店主に教えてもらいながら計算する。
そして――。
「……こんなに!?」
熊五郎が顔を上げる。
「少ないか?」
「違う!」
実咲は慌てて首を振った。
「多いの!」
「そうなのか?」
「だって、私たち昨日まで何も持ってなかったんだよ?」
実咲は集めた硬貨を見る。
「これで食材も買えるし、しばらく生活できるよね?」
店主が頷く。
「ああ。今日の売上なら、十分やっていけるだろう」
実咲の顔が少し明るくなった。
「……よかった」
熊五郎は硬貨を見ながら言った。
「これで明日の食材を買えるな」
「自分のお金より食材なの?」
「料理には必要だ」
「まあ……熊五郎らしいけど」
店主が笑う。
「お前さんたち、これからどうするつもりだ?」
「どうするって?」
「このままここで料理を続けるのか?」
実咲が熊五郎を見る。
熊五郎は少し考えた。
「俺は食堂をやりたい」
「そうだよね」
「だが、場所がない」
店主が頷いた。
「そうだな」
そのときだった。
少し離れた場所から、老人の声が聞こえた。
「……なら、わしの店を使わんか?」
三人が振り返る。
そこには、白い髭を生やした老人が立っていた。
杖をつきながら、こちらを見ている。
老人は、昼間から熊五郎たちの料理を見ていたのだった。
「あなたは?」
実咲が尋ねる。
老人はゆっくりと近づいてくる。
「わしは、この近くで食堂をやっている者じゃ」
「食堂……?」
「ああ」
老人は少し寂しそうに笑った。
「だが、もう年でな」
老人は自分の手を見る。
「長年続けてきた店だが、そろそろ畳もうかと迷っていた」
「……」
「今日、お前さんの料理を見ていた」
老人は熊五郎を見る。
「客の顔を見れば分かる。お前さんの料理を食べているとき、みんな笑っていた」
熊五郎は黙って聞いている。
「だから頼みたい」
老人は深く頭を下げた。
「わしの食堂を、任せてくれんか?」
実咲が驚く。
「えっ……」
熊五郎は老人を見る。
そして――。
「分かった」
「熊五郎!?」
「食堂をやりたかったんだ」
熊五郎は静かに答えた。
「それに、あんたが大切にしてきた店なら、俺が大切にする」
老人の顔が、ぱっと明るくなった。
「……そうか」
「ああ」
「ありがとう……」
老人の目には、涙が浮かんでいた。
こうして――。
異世界に来たばかりの熊五郎と実咲は、初めて自分たちの店を持つことになった。
それは、熊五郎が自分で探した店ではなかった。
長い年月を守ってきた老人から託された、一軒の小さな食堂だった。
そして、この日から。
熊五郎と実咲の本当の食堂生活が始まることになる。




