第18話 魚屋の店主が聞いた町の噂
第18話 魚屋の店主が聞いた町の噂
午後九時。
『まずは飯だ』の店内から、最後の客が出ていった。
「ありがとうございました!」
実咲が頭を下げる。
カラン……。
扉が閉まる。
店内が静かになった。
「……終わった」
実咲は椅子に座り込んだ。
「今日も疲れた……」
「片付けるぞ」
熊五郎はいつも通りだった。
「はいはい」
実咲は立ち上がる。
テーブルを拭き、椅子を整える。
熊五郎は厨房で鍋や皿を洗い、調理場を片付けていく。
しばらくして、店内がきれいになる。
「これで終わり」
実咲が最後のテーブルを拭き終える。
熊五郎は入口へ向かった。
看板を裏返す。
表に書かれている文字は――。
『まずは飯だ』
裏返すと、
『準備中』
になる。
「帰るぞ」
「うん」
二人は食堂を出た。
---
夜の町を歩く。
昼間の賑やかさはなく、通りには静かな空気が流れていた。
実咲は熊五郎の隣を歩きながら、大きく息を吐く。
「今日もいっぱいお客さん来たね」
「ああ」
「最近、本当に増えてきたよね」
「料理を作る量も増えた」
「そこ?」
「食材が必要だ」
「はいはい」
しばらく歩くと、魚屋店主の家が見えてきた。
「ただいま!」
実咲が声をかける。
「おかえり!」
魚屋の店主が笑顔で迎えてくれた。
「今日も遅かったな」
「午後九時まで営業してたから」
「そうかそうか」
店主は二人を見る。
「疲れただろう」
「疲れました……」
実咲が答える。
「まあ、飯でも食って休め」
「熊五郎が何か作るんじゃない?」
「俺も腹が減った」
「やっぱり……」
魚屋の店主が笑う。
「ところでな」
「何?」
店主が少し楽しそうな顔をした。
「最近、町でお前たちの食堂の噂がすごいぞ」
「噂?」
実咲が振り向く。
熊五郎も顔を上げた。
「どんな噂だ?」
「それがな……」
店主は椅子に座りながら話し始めた。
「『まずは飯だ』で飯を食べると、商売がうまくいくらしいって話が広がってる」
実咲は驚いた。
「やっぱり!」
「やっぱり?」
「今日も商人さんが来てたんです」
「そうか」
店主は頷いた。
「それだけじゃない」
「まだあるの?」
「ああ」
店主は続ける。
「この前、鍛冶職人の若い男が食堂で飯を食べたそうだ」
「その人も来ました」
実咲が答える。
「職人祭で認められたって」
「それでな」
店主は笑った。
「その話も町に広がってる」
「……」
「今じゃ、『あの食堂で飯を食えば、何かがうまくいく』なんて噂まで出ている」
実咲は目を丸くする。
「そんなところまで……」
「商人だけじゃないぞ」
店主は指を一本立てる。
「職人も来るようになった」
もう一本。
「旅人も来る」
さらに一本。
「町の人間まで、何か大事なことがある前には『まずは飯だ』で食べておこう、なんて言ってるらしい」
「……すごい」
実咲は驚いた。
そして熊五郎を見る。
「熊五郎」
「何だ?」
「聞いた?」
「ああ」
「どう思う?」
熊五郎は少し考えた。
「腹が減っている人間が多いんだな」
「そこじゃない!」
実咲が突っ込む。
魚屋の店主は大笑いした。
「ははは! 相変わらずだな、お前は!」
熊五郎は不思議そうに首を傾げる。
「何がおかしい?」
「お前さんの料理が、町でどんどん評判になっているってことだ」
「そうなのか」
「そうなんだよ!」
魚屋の店主は嬉しそうに笑った。
「俺の店にも最近、『あの食堂に魚を卸している魚屋はどこだ?』って聞きに来る客までいるんだ」
実咲が驚く。
「魚屋さんまで?」
「ああ」
店主は胸を張った。
「俺の魚を使った料理がうまいって評判になれば、こっちもありがたい」
熊五郎が頷く。
「なら、明日もいい魚を頼む」
「任せろ!」
店主は笑った。
「お前さんの料理が町でどこまで評判になるのか、俺も楽しみだ」
実咲は二人を見ながら笑った。
最初は、ただ食べるためだった。
熊五郎が料理を作り、実咲が手伝い、魚屋の店主が食材を用意してくれた。
それだけだった。
けれど今では――。
『まずは飯だ』という小さな食堂の名前が、町のあちこちで聞かれるようになっていた。
「熊五郎」
「何だ?」
「これから、もっとお客さん増えるんじゃない?」
「なら、もっと料理を作ればいい」
「……やっぱりそれなんだ」
実咲が笑う。
魚屋の店主も笑った。
その夜。
三人の笑い声が、静かな家の中に響いていた。
そして町では――。
『まずは飯だ』の噂が、さらに広がり始めていた。




