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第16話 熊五郎、夕方の営業を始める

第16話 熊五郎、夕方の営業を始める


昼の営業が終わりに近づくと、店内にいた客も少しずつ減っていった。


「ありがとうございました!」


実咲が最後の客を見送る。


カラン……。


扉が閉まった。


「……終わった」


実咲は椅子に座り込んだ。


「疲れた……」


「まだ終わってないぞ」


厨房から熊五郎の声が聞こえる。


「え?」


実咲が顔を上げる。


「片付けがある」


「……そうだった」


実咲は立ち上がった。


「はいはい、やりますよ」


二人で店内の片付けを始める。


実咲はテーブルを拭き、椅子を整える。


使い終わった皿を厨房へ運ぶ。


熊五郎は鍋や調理器具を洗い、厨房を片付けていく。


「熊五郎」


「何だ?」


「今日もすごかったね」


「ああ」


「お客さん、どんどん増えてるよ」


「料理が足りなくなるかもしれない」


「また食材の心配?」


「料理には必要だからな」


「熊五郎らしい……」


片付けが終わると、熊五郎は厨房へ戻った。


「次は夕方の準備だ」


「もう?」


「夕方も営業する」


実咲は時計を見る。


「まだ少し時間あるよ」


「だから仕込みをする」


熊五郎は魚と肉を取り出した。


魚を下ごしらえする。


肉に香草と塩をすり込む。


野菜を切る。


鍋を用意する。


「今日は何を作るの?」


「昼とは少し変える」


「肉料理は?」


「作る」


「魚料理も?」


「ああ」


「じゃあ、スープも?」


「もちろんだ」


「大変じゃない?」


「料理は楽しい」


熊五郎は淡々と答える。


実咲は少し笑った。


「本当に好きなんだね」


「ああ」


仕込みを進めていると、厨房から香ばしい匂いが漂い始めた。


「……お腹空いてきた」


「味見するか?」


「する!」


実咲は嬉しそうに熊五郎のそばへ行く。


少しだけ料理を口にする。


「……おいしい」


「そうだろう」


「これ、夕方のお客さん絶対喜ぶよ」


「そうだな」


熊五郎は次々と料理の準備を進めていく。


そして――。


時計の針が進む。


午後五時。


夕方の営業開始時刻になった。


熊五郎が手を止める。


「五時だ」


「開店時間だね!」


「ああ」


実咲は急いで店内を確認する。


テーブルを整える。


椅子を並べる。


厨房から料理の香りが漂う。


「準備できたよ」


「看板を」


「分かった!」


実咲が外へ出る。


入口に立ててあった看板を裏返す。


裏側には、


『準備中』


表には、


『まずは飯だ』


「よし!」


実咲が店内へ戻る。


その瞬間――。


カラン。


扉が開いた。


「やってるか?」


「いらっしゃいませ!」


一人の客が入ってくる。


「昼に食べられなかったんだ」


続いて別の客も入ってくる。


「肉料理はあるか?」


「ああ」


熊五郎が答える。


「ある」


「じゃあ、それを」


さらに客が入ってくる。


「魚料理を頼む!」


「スープも!」


「昨日食べて、今日も来たぞ!」


実咲が驚く。


「もうお客さんが来てる!」


熊五郎は落ち着いている。


「料理を作るぞ」


「はい!」


熊五郎は厨房へ入り、肉を焼き始めた。


ジュウッ――。


香ばしい音が響く。


魚も焼かれる。


鍋からはスープの湯気が立ち上る。


店内いっぱいに料理の香りが広がっていく。


客たちは料理を待ちながら、期待に満ちた顔で厨房を見ている。


「この匂い……」


「腹が減るな」


「早く食べたい」


実咲は注文を聞きながら走り回る。


「熊五郎! 肉料理二つ!」


「分かった!」


「魚料理三つ!」


「今作る!」


「スープも!」


「任せろ!」


こうして、午後五時から夕方の営業が始まった。


昼の疲れが残っているはずなのに、熊五郎は一切動きを止めない。


実咲も必死に働く。


そして――。


『まずは飯だ』の店内は、再びたくさんの客で賑わい始めた。


昼の営業が終わっても、熊五郎の食堂は終わらない。


午後五時になれば、また新しい客がやって来る。


そして今日も――。


熊五郎の料理を食べた人たちの顔には、少しずつ笑顔が戻っていくのだった。


午後五時から始まった夕方の営業。


『まずは飯だ』の店内は、昼と変わらず賑わっていた。


「いらっしゃいませ!」


実咲が扉を開ける。


そのとき、一人の若い男が入ってきた。


年齢は二十代半ばほど。


服装を見ると、商人らしい。


だが、その顔は暗かった。


「一人だ」


「はい。こちらへどうぞ」


実咲が席へ案内する。


男は椅子に座ったものの、メニューをじっと見つめたまま動かない。


「……」


「ご注文、決まりましたら呼んでくださいね」


「ああ……」


実咲は厨房へ戻った。


「熊五郎」


「何だ?」


「あのお客さん、ちょっと元気ないね」


熊五郎は男を見る。


「腹が減っているんだろう」


「またそれ?」


「飯を食えば元気になる」


「まあ……そうかもしれないけど」


熊五郎は少し考えた。


「なら、これを出す」


「何?」


「肉料理だ」


「注文聞いてないよ?」


「俺のおすすめだ」


熊五郎は肉を取り出した。


熱したフライパンに肉を乗せる。


ジュウッ――。


香ばしい音が厨房に響いた。


塩と香草。


焼けた肉の香り。


肉汁が弾ける。


熊五郎は焼き上がった肉を皿に盛る。


香草ソースをかけ、焼いた野菜を添える。


そして男の前へ運んだ。


「お待たせした」


男が顔を上げる。


「……俺、頼んだか?」


「俺のおすすめだ」


男は少し戸惑った。


「まあ……いただくよ」


ナイフを入れる。


肉は驚くほど柔らかかった。


一口。


男の表情が変わる。


「……うまい」


もう一口。


肉汁と香草の香りが口いっぱいに広がる。


男は無言で食べ続けた。


そして――。


「……はぁ」


大きく息を吐いた。


「実はな」


男はぽつりと話し始めた。


「明日、大きな商談があるんだ」


「商談?」


「ああ」


男は商人だった。


長い間、父親の商売を手伝ってきた。


そして明日、初めて自分一人で大きな取引を任されることになっていた。


「失敗したらどうしようって、ずっと考えていた」


男は肉を見つめる。


「父さんにも期待されている」


実咲は黙って聞いていた。


「でも……」


男はもう一口、肉を食べた。


「この料理を食べてたら、なんだかやってみようって気になってきた」


熊五郎が厨房から顔を出す。


「やってみればいい」


男が熊五郎を見る。


「え?」


「成功するかどうかは、やってみなければ分からない」


熊五郎は淡々と言った。


「飯も同じだ」


「飯も?」


「食べてみなければ、うまいかどうか分からない」


実咲は呆れた。


「また料理の話に戻った……」


男は笑った。


「そうだな」


そして翌日。


男は大きな商談へ向かった。


結果は――。


大成功だった。


初めて一人で任された商談だったが、契約をまとめることができた。


男は喜び、その日の夕方、真っ先に『まずは飯だ』へ向かった。


カラン――。


「いらっしゃいませ!」


実咲が顔を上げる。


「あ!」


昨日の商人だった。


「昨日の料理を食べたおかげで、商談が成功した!」


「本当ですか?」


「ああ!」


男は嬉しそうに笑った。


「昨日、ここで飯を食べてから、不思議なくらい気持ちが落ち着いたんだ」


熊五郎が厨房から出てくる。


「そうか」


「ありがとう!」


「俺は料理を作っただけだ」


「それでも、俺にとっては大事な飯だった」


男は笑った。


「今日も肉料理を頼む!」


「分かった」


熊五郎はすぐに厨房へ戻った。


実咲はその背中を見ながら笑った。


「……本当に不思議な食堂」


---


それから数日。


商人たちの間で、妙な噂が広がり始めた。


「あの『まずは飯だ』って食堂を知ってるか?」


「もちろんだ」


「あそこで飯を食べてから商談に行くと、商売がうまくいくらしいぞ」


「本当か?」


「ああ。俺の知り合いも、あそこで食べた翌日に大きな契約を取った」


「俺も今度行ってみるか」


一人。


また一人。


噂は商人から商人へと伝わっていった。


――『まずは飯だ』で食事をすると、商売が成功する。


そんな噂が、町中に広がり始めた。


もちろん熊五郎は、そんな噂を知らない。


「最近、商人の客が増えたな」


熊五郎は料理を作りながら呟く。


実咲は苦笑する。


「それだけじゃないと思うけど……」


「何がだ?」


「熊五郎の料理を食べた人、みんな何かを成し遂げてる気がする」


「そうなのか?」


「そうなの!」


熊五郎は少し考えた。


「なら、今日もうまい飯を作るか」


「結局そこなんだ……」


『まずは飯だ』。


その名は、少しずつ町の商人たちの間にも広がっていった。


そして――。


「あの食堂で飯を食べれば、商売が成功する」


そんな新しい噂が、次々と人を店へ呼び寄せることになる。

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