第101話 料理人自身を調理する
第101話 料理人自身を調理する
『料理人よ』
鍋の底から。
低い声が響いた。
『お前自身を調理しろ』
熊五郎の右腕を。
黒い線が走っていく。
手首から。
肘へ。
そして。
ゆっくりと。
肩へ向かって伸びていく。
「熊五郎……」
実咲が。
不安そうに近づく。
「触るな」
「でも!」
「まだ大丈夫だ」
熊五郎は。
右腕を握った。
黒い線が。
一瞬だけ脈打つ。
――ドクン。
「……」
熊五郎は。
眉をひそめる。
「この感覚……」
実咲が。
聞く。
「知ってるの?」
熊五郎は。
すぐには答えなかった。
代わりに。
厨房の鍋を見る。
魚の骨。
肉の脂。
玉ねぎの皮。
そして。
第100話までに使い切った食材から残った。
ほんのわずかな出汁。
「昔にも」
熊五郎が。
呟く。
「似たようなことがあった」
「昔?」
「ああ」
熊五郎の目が。
遠くを見る。
「まだ俺が――」
そこで。
言葉が止まった。
実咲が。
じっと見る。
「国王だった頃?」
熊五郎は。
答えない。
その沈黙だけで。
実咲には分かった。
「……やっぱり」
熊五郎は。
小さく息を吐いた。
「今は話す時じゃない」
「じゃあ、いつ?」
「全部終わったら」
実咲は。
拳を握る。
「また隠すの?」
「隠してるんじゃない」
熊五郎は。
右腕を見る。
「まだ俺自身が理解してない」
その瞬間。
鍋の底の紋章が。
再び光った。
『嘘だ』
「……!」
実咲が。
振り返る。
『お前は知っている』
黒い声が。
食堂中へ響く。
『お前が何を捨てたのか』
熊五郎の表情が。
変わった。
「黙れ」
『お前が何を殺したのか』
「黙れ」
『そして――』
黒い紋章が。
さらに大きくなる。
『何を食べて生き延びたのか』
熊五郎の右腕が。
突然。
黒く染まった。
「熊五郎!」
実咲が。
駆け寄る。
「来るな!」
熊五郎が。
叫ぶ。
右腕から。
黒い霧が噴き出す。
――ブワッ!
食堂の床が。
黒く染まる。
「熊五郎!」
「離れろ!」
熊五郎は。
自分の右腕を。
左手で押さえる。
「これは俺が処理する!」
「一人でできるの?」
「……できる」
「本当に?」
熊五郎は。
答えられなかった。
その瞬間。
ガルドが。
厨房へ入ってきた。
「何があった!」
レオンも。
後ろから続く。
「熊五郎!」
二人が。
黒い右腕を見る。
「……それは」
ガルドの顔が。
強張る。
「魔王軍の呪いか?」
熊五郎は。
首を振る。
「違う」
「じゃあ何だ?」
「俺自身のものだ」
二人が。
黙る。
熊五郎は。
ゆっくり。
鍋へ近づいた。
「この黒い力は」
右腕を。
鍋の上へかざす。
「外から入ってきたものじゃない」
黒い霧が。
鍋の中へ落ちる。
――ジュッ。
出汁が。
黒く染まる。
「俺の中に」
熊五郎が。
目を閉じる。
「ずっとあった」
実咲が。
息を呑む。
「じゃあ……」
「そういうことだ」
熊五郎は。
鍋を見つめる。
「俺が王だった頃から」
静かに。
告げる。
「この力は」
黒い線が。
右腕を覆う。
「俺の中にあった」
その時。
ガルドが。
一歩前へ出た。
「だったら」
槍を。
床へ置く。
「俺たちにも戦わせろ」
「……」
レオンも。
剣を置いた。
「一人で背負う必要はない」
熊五郎は。
二人を見る。
「お前らは関係ない」
「関係ある」
ガルドが言う。
「俺はお前の料理を食った」
レオンも。
続ける。
「俺たちは何度も助けられた」
実咲が。
熊五郎の隣へ立つ。
「私も」
熊五郎が。
実咲を見る。
「私は飼い主だから」
「……」
「こういう時くらい、そばにいる」
熊五郎が。
少しだけ笑った。
「お前は本当に……」
「何?」
「変なところで強いな」
「褒めてる?」
「たぶんな」
四人が。
鍋を囲む。
しかし。
その瞬間。
鍋の中から。
黒い手が。
ゆっくり伸びてきた。
「――!」
実咲が。
光を放つ。
――パァン!
黒い手が。
弾き飛ばされる。
だが。
消えない。
床へ落ちた黒い影が。
人の形になる。
そして。
熊五郎と。
同じ顔をした。
黒い人影が。
立ち上がった。
実咲が。
息を呑む。
「……熊五郎?」
熊五郎は。
首を振る。
「違う」
黒い人影が。
笑った。
『久しぶりだな』
熊五郎の顔から。
笑みが消える。
『――王よ』
ガルドが。
息を呑む。
「王……?」
黒い人影が。
熊五郎を見る。
『お前が捨てたものを』
一歩。
近づく。
『俺は全部覚えている』
熊五郎が。
包丁を握る。
「……そうか」
黒い人影が。
笑う。
『怖くないのか?』
熊五郎は。
鍋へ火を入れた。
――ボッ。
「怖いさ」
包丁を。
ゆっくり構える。
「だから料理する」
『料理で俺を消せると思うか?』
熊五郎は。
静かに答えた。
「消すんじゃない」
鍋の中へ。
黒い影を映す。
「食べられる形にする」
黒い人影の笑みが。
初めて消えた。
『……何?』
熊五郎が。
火を強くする。
「お前が俺の過去なら」
炎が。
鍋の底を包む。
「俺はそれを――」
熊五郎の目が。
鋭くなる。
「料理に変える」
鍋の中で。
黒い出汁が。
グツグツと煮立ち始めた。
そして。
黒い人影が。
初めて。
一歩後ろへ下がった。
『……その料理だけは』
熊五郎が。
笑う。
「何だ?」
『――完成させるな』
熊五郎は。
包丁を握り直した。
「それを聞いたら」
火が。
さらに強くなる。
「余計に完成させたくなったな」
鍋の中で。
黒い液体が。
不気味に泡立った。
――グツ。
――グツ。
そして。
その泡の一つから。
誰かの声が聞こえた。
『……助けて』
熊五郎の手が。
止まった。
その声は。
かつて熊五郎が。
王だった頃に――
死んだはずの誰かの声だった。




