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9.あなたも物好きですね





 昨日は、孤児院でお世話になったシスターにも、無事に就職したことを報告できた。


 たくさん心配をかけてきたので、少しは安心してもらえたと思う。久しぶりにゆっくり話もできた。仕事のことを聞かれて、色々なことを話して、なかなか充実した休みだったと思う。


 ただ、一つだけ問題があった。

 アレクシス様が、なぜか慰問中から、さらに様子がおかしい。


「ハル、こちらへ。そこは足元が悪い」


 視線の先にあるのは、小さな水たまりだった。浮遊感を感じた瞬間、アレクシス様に横抱きで抱き上げられていた。


「しっかり掴まっていろ」


 どう考えても、そこまで危険な場所ではない。しかし、アレクシス様は至って真剣だった。

 その様子を見ていた護衛の人たちは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。普段のアレクシス様を知っている人ほど、今の姿が信じられないらしい。


 アレクシス様は今まで、どんなに美しい令嬢や令息、老若男女からの誘いも、極寒の対応で切って捨ててきたという話を聞いた。冷血宰相の呼び名は、そこら辺も関係あるのかもしれない。

 そんな、様子のアレクシス様は、孤児院からの帰りの馬車で、そのまま公爵邸へ入ろうとした。僕は必死に止めた。


「ハルの帰る場所は、これから先ここだ」


 そんなことを真顔で言っていた。

 何がどうなってそうなったのか。

 僕は何とかアレクシス様を説得し、無事に自分の家へ帰った。


 そして翌朝。

 毎朝恒例の、ただ事ではない馬車での送迎。

 どうも、アレクシス様はお忍びのつもりらしいのだが、全然忍べていないのは問題だと思う。

 しかし、そろそろ僕を膝に乗せるの、あきらめてくれませんかね。



 そして、その日の昼休み。

 僕は宰相執務室を出て、廊下を歩きながら、なぜか、嫌な予感がしていた。

 廊下の角を曲がると、いらっしゃいました。


 ルシアン・ヴァン・アシュフォード閣下。

 どうしてこの人は、僕がトイレに行こうとすると現れるんだろう。


「御前、失礼します。アシュフォード閣下」


 そのまま通り過ぎてみることにした。


「ルシアンでいいよ。……ちょっと。止まって」


 アシュフォード閣下は笑いながら近づいてくる。僕は一歩、後ろへ下がった。


「ねぇハル君。僕に少し付き合ってくれない? お茶でもしよう」


「すみません。急いでおりますので、失礼します」


 横を通り過ぎようとした、が。


「外務大臣からの誘いを断るのかい?これが命令だと言ったら?」


 僕は思わず振り返った。結局、僕は断り切れなかった。というより、権力に負けた。長いものには巻かれるタイプなんで。



 案内された豪華な部屋には、すでにお茶が用意され、席は並んで座るようセッティングされていた。僕は恐る恐る席につく。


「そんなに警戒しなくてもいいよ。私が何かすると思っている?」


「思っていないとは言いません」


 アシュフォード閣下は、楽しそうに笑った。たぶん、アレクシス様より少し若いだろう。それなのに、人の反応を見るのが妙に上手い。何を考えているのか分からない。さすが外務大臣をしているだけはある。たぬきだ。

 とりあえず、お茶を飲んでしまおうと、目の前に置かれたお茶に手を伸ばす。


「ハル君は、アレクシスの愛人なの?」


 危うくお茶を吹き出すところだったが、何とかお茶を飲み込む。アシュフォード閣下は、楽しそうに目を細めた。

 何か、引っかかる笑い方だ。


「アレクシスとは幼馴染でね。アレクシスは昔から、私より何でも優れていた。剣も、勉学も、皆の評価も。今では宰相だ」


 アシュフォード閣下の表情と声が、少しだけ変わった。


「私は外務大臣になった。それでも世間はアレクシスの方を見る。そんな男が、君にはずいぶん執着しているらしい。あの男が執着する相手が、どんな人間なのか知りたかった」


 アシュフォード閣下の琥珀色の瞳が、じっと僕を見る。執着なんて知らないし、できれば知らないままでいたい。

 そのときだった。

 ふと、お茶から妙に甘い香りがすることに気づいた。不思議に思っていると、僕の身体が少しずつ熱くなり、視界がぼんやりしてきた。


「ハル君?」


 アシュフォード閣下の声が、遠く聞こえた。


「……何、これ」


 立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。

 その様子を見て、さっきまで余裕のあったアシュフォード閣下の声が変わった。


「あれ? 薬が強すぎた? おかしいな」


 アシュフォード閣下が、身体の力が抜けて前のめりになった僕の肩を支えてくれる。


 薬?お茶に何か入っていた?

 僕はアシュフォード閣下の顔を見た。

 何をされるのか分からない状況に怖くなった。


「違う。入れたのは、少し気分を高揚させる程度のものだ。君が可愛かったから、ちょっとイタズラしてやろうかと」


 アシュフォード閣下は、嘘を言っているようには見えなかった。本気で焦っているあたり、意外と悪いやつではないのかも。

 いや、薬を盛っている時点でダメなやつだ。


 僕はいつの間にかアシュフォード閣下の腕の中に、くったりとおさまっていた。離れようとしたが、身体が動かない。


「触らないで……」


 びっくりするくらい弱々しい声だった。アシュフォード閣下の動きが止まった。視線を上げて、見上げると、美しい琥珀色の瞳を見開いて僕を凝視している。

 なんか怖いんですけど。



 実のところ、ルシアン・ヴァン・アシュフォードは、小動物や可愛いものが大好きだ。


 腕の中のハルを見つめる。

 小さな身体で震える姿。くりくりとした茶色い瞳が潤んで揺れてルシアンを見上げている。

 まるで小動物が震えているようで、堪らなく可愛い。

 なんだ、この生き物は。なんだ、この感覚は。

 思い切り抱きしめたい。


「……ハル君。可愛い。抱きしめてもいい?」


 よくない。

 はぁはぁしないでもらっていいですかね。

 僕はぼんやりする頭で焦った。突然、何を血迷ったんだ、この人は。

 自慢じゃないが、僕はモテない。びっくりするほどモテない。こんなところで、アレクシス様以外の物好きに出会うとは思わなかった。

 困った。誰か助けてください。


 そのとき、バタンと扉が開いた。


「ハル」


 聞き慣れた声に僕は、ゆっくりと視線を動かした。何で僕の居場所が分かるんですか?

 あ。答えは怖いので、知りたくないです。


「……アレクシス、様……?」


 青い瞳が、ぐったりした僕と、僕を抱きかかえているアシュフォード閣下を捉えた。

 アレクシス様は深い青に染まった瞳で、アシュフォード閣下を見ていた。

 ぞっとするほど冷たい目。それなのに、その奥には、温度の高い青い炎のような怒りが燃えている。


「何をしている?」


 低い声が響き、室内の空気が凍った。アシュフォード閣下は、黙ったままだった。僕はぼんやりする頭で、二人を見る。アレクシス様が、こちらへ近づき僕の顔を覗き込んだ。


「ハル。私が分かるか?」


 僕は何とか頷いた。

 次の瞬間――ふわりと身体が浮き、アレクシス様の腕の中に抱き上げられた。

 いつもの、安心する匂いがする。ここにいれば何にも怖いものはない、そう思った。


「もう大丈夫だ」


 耳元でささやかれ、僕は無意識にアレクシス様の服を掴み、その首筋に顔をうずめる。僕を抱きしめるアレクシス様の腕に、少しだけ力がこもった。

 ……どさくさに紛れて、僕の頬にキスしないでください。そこまでは許可してませんよ。


 でも。

 助けに来てくれて、ありがとうございます。


 僕は安心して、目を閉じた。

 そして意識が落ちる直前。


 自身の虚弱体質を神に呪った。





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