8.きみと家族になりたい
ある日、宰相執務室の書類を整理しながら、アーデル補佐官が僕に話しかけてきた。
「宰相補佐官に抜擢なんて、ご家族も喜んでいるでしょう」
家族。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。もう何年も、考えないようにしていた言葉だった。
「ハル君? どうしました?」
「いえ。何でもありません」
僕は書類へ視線を落とした。
「家族」という言葉が、まだ胸の奥に残っている。もう忘れたと思っていたのに。
アーデル補佐官は僕を見つめていたが、それ以上は何も聞かなかった。
「そうですか」
それだけ言って、自分の仕事へ戻っていく。僕も書類へ視線を戻した。
もう少しすれば、きっとアレクシス様も会議から戻ってくる。
そう思っただけで、不思議と胸の奥が落ち着いた。僕は小さく息を吐き、再びペンを握った。
その日の夕方。
ハルを送り届けた後、アレクシスは再び宰相執務室へ戻った。扉を開けると、エドガーが書類から顔を上げる。
「お帰りなさいませ、閣下」
「ああ」
私は自分の机へ向かった。
まだ仕事が残っている。さっさと終わらせて、ハルのことだけを考えたい。
そう思い、書類に目を通していると、珍しくエドガーが話しかけてきた。
「閣下、先ほど、ハル君にご家族のことを尋ねたのですが……少し気になりまして」
何だかんだ言って、エドガーもハルを気に入っているのだろう。記憶力がよく、書類整理も得意で、何より明るいハルを。
私は机の引き出しを開けた。そこには、ハルを宰相補佐官へ任命する際に確認した調査書が入っている。
私はそれを取り出し、ページをめくる。そして、指を止めた。
「……孤児院」
エドガーが書類を覗き込む。記録には、必要最低限のことしか書かれていないため詳細はわからない。
ただ、ハルが幼い頃から孤児院で育ったという事実と、学園への紹介状は元貴族であった孤児院の院長が書いたことが記載されていた。私は調査書を閉じた。
無理やり聞き出すことではないとわかってはいるが、本音では、かなり気になっている。
ハルは、いつか私に話してくれるだろうか。
数日後。
執務の合間に、私はハルに尋ねた。
「ハル、今度の休みの日は何をしている?」
「今度の休みの日、ですか?」
ハルは少し考え、それから穏やかに笑った。
「僕が育った孤児院へ行こうと思っています。就職できたことを、まだ伝えられていないので」
「そうか。では、私も共に行こう。慰問という名目なら問題ないだろう」
ハルは突然何を言い出したんだ。と思ったが、ここ数日で学んだ。アレクシスは意外と頑固で決めたことは譲らない。
どうやら今度の休みは、アレクシス様と孤児院に行くことになりそうだ。
ハルは困ったように笑った。
孤児院慰問の日。
私は、ハルとハルが育った孤児院を訪れた。
古い建物の中を進むと、明るい中庭が見えた。庭では子どもたちが走り回っている。ハルの姿を見つけると、一斉に駆け寄ってきた。
「ハル兄ちゃん!」
「おかえり!」
ハルは笑いながら、子どもたちを受け止めている。いつもの執務室で見せる笑顔とは違い、もっと自然で、柔らかな笑顔だった。
建物の中から、一人の老女が出てきた。ハルは嬉しそうに笑い、頭を下げる。
「シスター。お久しぶりです」
「まあまあ……本当にハルなのね。そして、グラント宰相様でございますわね。本日は、ようこそおいでくださいました。この孤児院の院長を務めております、マリアと申します」
マリアは優しく笑った。
その後。
中庭に面した部屋に通され、お茶の席に着いた。
子どもたちと中庭を走り回るハルを眺めながら、私はマリアに尋ねた。
「少し、ハルの幼い頃の話を伺っても?」
マリアは一瞬、黙った。
「……あの子のことを?」
「はい。ここで育ったと、ききました」
マリアは静かに息を吐いた。
「……そうですか」
そして、ゆっくりと話し始めた。
幼い頃のハルは、今よりもっと身体が弱かった。だから、なかなか外出することもできなかった。
そんなハルは、ある日、両親から「出かける」と言われ、とても喜んだという。そして馬車に揺られ、知らない街の神殿へ連れて行かれた。
『ここで待っていなさい』
そう大好きな両親に言われた。だから、ずっと待った。
しかし、迎えは来なかった。
ハルは、その神殿の隣に併設された孤児院に引き取られた。それが、ハルが五歳の時だった。
ハルは、いつか父と母が迎えに来てくれると思っていた。けれど、いつになっても迎えは来なかった。幼いながら、記憶力だけは人一倍良かったハルは自分が来た道を覚えていた。だから、ひとりで家に帰ろうと思った。
両親は忙しくて迎えに来られないだけだ。きっと、僕を心配して待っている、ハルはそう思った。
小さな身体で息を切らしながら、ひたすら歩いた。もともと身体が強くないハルは、ふらふらだった。
それでも、やっと家へたどり着いた。
お父さん、お母さんが「おかえり」と迎えてくれる。
やっと会える。
ハルは、そう思っていた。しかし、父と母は顔を歪めて言った。
『どうして戻ってきたの』
『体の弱い子どもはいらない。働き手にもなりやしない』
『うちは貧乏なんだ。ただ飯食いはいらない』
それでも、まだ信じたかった。
ハルは母の服に縋りついた。
『もっと頑張るから! もっといい子になるから!』
そうすれば、きっと、家にいれてもらえる。
そう思った。けれど。母は、ハルを振り払った。
ハルの目の前で家の扉が閉まる。
「……僕が弱いから? 僕はいらない子なの?」
誰も答えてくれなかった。
そこでハルはやっとわかった。
自分は、捨てられたのだ。
ハルは、生まれた家を離れた。そして、行くあてもなく、孤児院へ戻った。
ハルを探し回っていたマリアたちに保護された時、ハルは肺炎になっており、高い熱が出ていた。苦しい呼吸の中で、ハルはマリアに言ったという。
「……僕には、もうお母さんも、お父さんも……いません」
マリアの前で、幼いハルは言った。
「僕は、いらない子ですか?ここにいてもいいですか?」
マリアは何も言えなかった。ただ、小さな身体を強く抱きしめた。
「もちろんよ。ここが、今日からあなたの家です」
その言葉を聞いた瞬間、ハルは声を上げて泣いた。ずっと我慢していたものを、全部吐き出すように。
話を聞き終えても、私はしばらく何も言えなかった。ハルの気持ちを思うと、胸の奥がえぐられるように痛かった。
いつも笑っていて、明るい、あのハルが。
私の大切なハルが。幼い頃、そんなふうに泣いていた。
そばにいることができなかった自分に、腹が立った。
マリアが静かに笑った。
「ハルは、ああ見えて、とても繊細な子なんですよ。身体も昔よりは元気になりましたが、無理をすると、すぐに体調を崩してしまいます」
マリアは庭を見る。
本当にハルを心配しているのだろう。
そこでは、ハルが子どもたちと笑っていた。
私も庭を見る。
ちょうどその時。
「アレクシス様」
ハルが窓越しにこちらへ歩いてきた。
私は少し迷ったが、マリアからハルの昔の話を聞いたことを伝えた。
ハルは、少しだけ目を伏せた。
「すまない。勝手に聞いた」
「いえ。就職の書類にも記載しましたし、隠すことでもないので。大丈夫ですよ」
ハルは穏やかに笑った。
「僕は、本当の家族には、あまり恵まれなかったと思います」
その言葉に、胸が痛む。
けれど、とハルは続けた。庭にいる子どもたちを見る。
「僕は、人には恵まれたんです」
「……人に?」
ハルは小さく笑った。
「シスターも、院長先生も。ここで一緒に育ったみんなも。学園に行けたのも、周りの人のおかげなんです。だから……」
ハルは、まっすぐ前を見た。
「僕は、今ここにいられることが、すごくありがたいことだと思っています」
その表情に、悲しみはなかった。もちろん、過去を忘れたわけではないのだろう。
けれど、自分が受け取ったものを、ちゃんと大切にしている。
そして。
「アレクシス様にも、感謝しています」
「私に?」
ハルがうなずき、私を見る。
ハルは幼い日のあの時、実の親に「いらない子」というレッテルを貼られたのだ。
でも、アレクシス様に出会って。
「僕を宰相補佐官にしてくださったこともですけど……アレクシス様は、僕を必要としてくださったので」
ハルはいらない子ではない。ハルの新しい居場所をアレクシス様は作ってくれた。そう言ってハルは笑う。
アレクシスは、胸の奥が強く締め付けられるような感覚を覚えた。
ハルの生き方や考え方が好きだ。魂の番というだけでは表現できない思いが溢れる。
どうしようもないくらい、目の前の青年が愛おしいと思った。
ハルが小さく笑う。
その笑顔を見ただけで、胸の奥が満たされる。
私は、もうハルを手放せない。手遅れだ。
ハルが過去に何を失ったとしても、これから先、何一つ失わせたくない。
帰る場所がないのなら、私がハルの帰る場所になる。どんな時も、私が隣にいる。
家族というものを知らないのなら。私が、これから教えていけばいい。
私は心の中で、静かに誓った。
絶対に、ハルを幸せにする。
いつか、彼が心から「ここにいていい」と思える場所をつくりたい。
君と、家族になりたい。
そう思った。




