6.大きなびっくり箱ですね
今日からお勤め、初出勤である。
昨日まで無職だった僕が、今日から宰相執務補佐官とは、人生、何が起こるか分からない。
ちなみに、寮の件は丁重にお断りした。さすがに、公爵家である宰相閣下の家に住むというのは無理があると思う。
いくら「安全性が心配だ」と言われても、僕はただの新人文官だ。むしろ、閣下の近くにいる方が安全ではない気がするのは、気のせいではないと思う。
そもそも、宰相閣下には昨日初めて会ったばかりなのだ。夢の中では、魂の番だと言われたけれど、いまいち僕の中では実感がない。
そんなことを考えながら、僕はベッドから起き上がろうとして、再びベッドに沈んだ。
僕は朝が苦手だ。低血圧なので、朝に弱い。
起きたいという意欲はあるけれど、身体が起きてこない。ベッドの中でしばらく天井を見つめ、ようやく起き上がる。
洗顔をして、歯を磨く。食事はパスして、昨日支給された茶色い文官の制服に袖を通す。
この地味さ加減が、最高に僕に似合う。
何とか出勤準備を終え、気合いを入れて部屋を出ようとした、その時だった。
「痛っ!」
ベッドの脚に足の小指をぶつけた。地味に痛いやつだ。しゃがみ込んで小指を押さえるが、朝からついていない。
それでも何とか気を取り直し、家を出ようとした。
ところが、玄関を出たところで、僕は固まった。豪華な馬車が、出入り口に横付けされていた。黒塗りの車体に、見事な装飾。馬も四頭立てで、御者も立派。
ただ事ではない。
そんなただ事ではない馬車が、僕の住んでいる建物の出入り口に横付けされているなんて、ありえなかった。
予想はできる。だが、正解は知りたくない。
僕は恐る恐る、その横を通り過ぎようとした。
すると、御者が僕に気づき、馬車の扉をノックしたあと、ぱかっと扉を開けた。
またもや、僕は膝から崩れ落ちそうになった。
いらっしゃいました。
無表情のアレクシス・ヴァン・グラント宰相閣下が。
知らなかった。馬車って、びっくり箱だったんですね。
「おはよう。迎えに来た」
青い瞳が、まっすぐ僕を見ている。
「乗るといい」
断る方がしんどいだろうなと思い、僕は馬車に乗り込んだ。初日から遅刻はしたくない。
僕の初出勤は、まさかの宰相閣下による送迎から始まった。
そして、馬車の中で宰相閣下は、なぜか僕を自分の膝に乗せようとしてくる。普通に座らせてもらえませんかね。
静かな攻防戦に勝利した僕は、ひとりで座席に座る。腰が沈むくらい柔らかい。お尻で高級感を堪能する。
宰相閣下はというと、肩が触れそうな距離で隣に収まった。何だろう。昨日からずっと、こんな調子だ。
僕が魂の番だということを、閣下自身は知っているのだろうか。昨日、宰相閣下とそんな話をした記憶はない。神様の夢のことも、僕は話していない。
もしかすると、閣下は、ただ単に新人の僕を気にかけているだけ?
……いや、それにしては、距離が近すぎる気がする。
そんなことを考えているうちに、馬車は城へ到着した。
結局、宰相閣下に僕が魂の番だとバレているかどうかは、分からなかった。
そして僕は、そのまま宰相執務室へ連行された。
「こちらが君の席だ」
???
宰相閣下は自分の椅子に座った。そして、宰相閣下の膝を叩いた。
僕が理解できないだけなのかと不安になり、アーデル補佐官に視線で助けを求めたが、視線を逸らされた。
「よそ見をするな」
手を引かれた、と思った時には、僕は宰相閣下の膝の上に座っていた。硬い。しかし、意味が分からない。
「閣下、本当にここが僕の席でしょうか」
閣下は不思議そうな顔をしている。
「だめか?」
「書類が書きづらいです」
「そうか。……仕方がない」
ようやく降ろしてもらえる。
そう思ったけれど、今度は背後から抱き込まれた。
僕の背中が、閣下の胸にぴったりくっつく。
しばらくの沈黙。
「普通に机と椅子が欲しいです」
宰相閣下はしぶしぶ、僕を膝から降ろした。
ようやく解放され、僕は本来の自分の席に座った。
こんな始まりだったが、仕事が始まれば、さすが冷血宰相閣下だった。指示が簡潔で、判断が的確で、無駄がない。
そして、仕事が早い。
僕が書類を一枚処理している間に、閣下は三枚終わらせている。さすがだ。
そろそろお茶の時間だ。
僕は席を立ち、お茶を受け取りに行く。執務室の端でお茶を準備し、来客用の机の上にセッティングした。
「グラント宰相閣下、お茶の準備ができました」
「ハル」
「はい?」
「ハルと呼んでもいいだろうか。名前で呼びたい」
突然だった。
「ええと……別に構いませんけど」
アレクシスは、少し嬉しそうにした。
「では、ハル。私のことも名前で呼んでほしい。アレクシスと」
呼べない。不敬罪で物理的に首が飛ぶ。
「無理です」
「なぜだ」
まだ生きていたいので!とは言えず、少し悩む。まあ、この執務室の中だけなら許されるかもしれない。
「アレクシス様」
そう言うと、なぜかアレクシスは少しだけ笑った。
アレクシス様って、笑うんだ。
昨日までは冷徹な宰相という印象しかなかったが、少しだけ普通の人に見えた。
そんなこんなで、僕の初出勤は無事に終わった。
アレクシスと目が合った。
青い瞳が、こちらを見ている。どうやら、帰りも送迎されそうだ。
でも、不思議だった。
アレクシス様は、僕が近くにいることを、当然のように受け入れている。僕もなぜか、アレクシス様の隣にいると落ち着く。
普通なら、緊張して仕方がないはずなのに。
身体の奥にあった、どこか足りなかったものが埋まるような。ここが自分の場所だと、魂が主張しているような。そんな感覚がある。
これが、魂の番というものなのだろうか。




