32.わたしたちは産めません
ハルは、妊娠していた。
医者の診断によれば、妊娠二ヶ月ほどだろうとのことだった。
その知らせに、公爵邸は喜びに包まれた。
まずは、近しい人たちにのみハルの妊娠を報告した。
使用人たちは皆、我がことのように喜んでくれた。アシュフォード家も大変な喜びようで、すぐにでも祝いの品を届けたいと騒ぎ始めた。
カシムは知らせを聞いた瞬間こそ驚きに固まっていたものの、すぐにハルの体調を気遣い、何か必要なものがあれば遠慮なく言ってほしいと申し出てくれた。
孤児院にも知らせを送り、マリアからは手紙が届いた。
皆が、ハルの妊娠を喜んでくれている。
ハルが、私との子どもを授かった。そう思うだけで、何度でも胸がいっぱいになってしまう。
しかし、喜びも少し落ち着いてくると、今度は別の感情が顔を出し始めた。
心配だ。
私にとっては、喜びと同じくらい心配の尽きない日々の始まりだった。何よりも、ハルの体が心配だった。
妊娠がわかってから、ハルのつわりはひどくなる一方だった。
食事はほとんど喉を通らず、ようやく口にできたものも、しばらくすると吐いてしまう。起きている時間も短く、気がつけば眠っている。
私は、そんなハルの隣でオロオロするばかりだった。
「ハル、何か食べられそうか?」
「……今は、ちょっと」
「水は? 医者を呼ぼうか? どこか痛いところはないか?」
「アレクシス様、さっきも同じことを言ってましたよ」
………。
侍女頭のアンナは出産経験があり、そんな私に代わってハルの細々とした世話をしてくれていた。
食べられそうなものを少しずつ用意し、ハルの様子を見ながら必要なものを手配してくれる。
まったく、情けない。
私は無力だ。何かしてやりたいのに、何をすればいいのかがわからないのだ。
「アレクシス様、大丈夫ですよ」
ある時、ハルがそう言って、私の手を握ってくれた。大丈夫だと言ってやるべきなのは、私の方なのに。
私は、夫としても、これから父親になる者としても、まだまだ未熟らしい。
ならば、学ぼう。
妊娠や出産について、きちんと知識を身につければいい。
何も知らないから、不安になるのだ。確か、神殿が男性妊娠について研究を始めていたはずだ。私はさっそく、関連する資料を取り寄せることにした。
宰相執務室。
今日もハルは休ませ、私は一人で出勤した。
休憩時間。
机の上には、神殿から取り寄せた資料が山のように積まれている。私はその一冊を手に取り、真剣に読み進めていた。
男性妊娠について。
資料によれば、直腸から分岐する形で子宮に類似した器官が形成され、そこで胎児が育つらしい。
妊娠期間は、女性とほぼ変わらない。
分娩時には女性と同様に陣痛が起こり、基本的には同じような経過をたどるという。ただし、産道が短いことから切迫早産のリスクは高くなる一方、出産時には一部のリスクが低くなる傾向がある。また、出生直後の赤子は呼吸状態に注意が必要らしい。
なるほど。
仕組みには違いがあるものの、妊娠や出産そのものは女性の場合と大きく変わらないということか。
私は資料に目を落としたまま、ふむ、と頷いた。
そして、しばらく考えた。
……いや、待て。
知識は得られた。得られたが。
私は出産を経験したことがない。
つまり、どれだけ資料を読み込んだところで、実際にハルが苦しむ姿を前にしたら、私はまた何もできずにオロオロするのではないだろうか。
想像しただけで胃が痛くなってきた。結局、私に出産経験がない以上、不安は消えないということだ。
こうなったら、私が産……
「閣下」
向かいで書類を整理していたエドガーが、静かに口を開いた。
「私たちは産めません。今、妊娠しているのはハル君です。支えることしかできないのです」
まだ何も言っていないのに。
「……わかっている」
けれど、その言葉は妙に胸に響いた。
そうか。
私はハルの代わりに妊娠することも、つわりを引き受けることも、出産の痛みを代わってやることもできない。
ならば、せめて、ハルが少しでも安心して過ごせるように。私は、私にできることをしよう。
「……そうだな」
「はい。ですから、まずは閣下が落ち着いてください。先ほどから同じページを三度お読みになっていますよ」
……そうか。
日に日に、ハルがやせ細っていく。
食べられないのだから、当然なのかもしれない。頭ではわかっている。
それでも、ハルが少しずつ痩せていく姿を見て、平気でいられるはずがない。
気がつけば、私自身も食事が喉を通らなくなっていた。ハルが食べられないのに、私だけが食べていていいのだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
「アレクシス様。ちゃんと食べてください」
ハルにじっと見つめられた。
「……私は大丈夫だ」
「大丈夫じゃありません。最近、アレクシス様も全然食べてないでしょう? 僕が倒れたら、アレクシス様が支えてくれるんですよね?」
「もちろんだ!」
思わず即答した。すると、ハルは少し困ったように眉を下げた。
「じゃあ、アレクシス様が倒れたら、僕が倒れた時、誰が支えてくれるんですか?」
……それは、確かに、その通りだ。私が倒れてしまえば、ハルを支えるどころではない。これでは本末転倒だ。
「……わかった。ちゃんと食べる」
「約束ですよ」
ハルがほっとしたように笑った。ハルに心配をかけてしまった、己が情け無い。
そんなある日、ルシアンが公爵邸を訪ねてきた。
「これをハル君に。父と母の分も持ってきた」
そう言って差し出されたのは、果物や飴などがたっぷり入った籠だった。
「こんなに?」
「食べられるものがあるといいと思ってね。母上と一緒に、口にできそうなものをいろいろ選んでみたよ」
ルシアンらしい、気遣いだった。
カシムからも、孤児院のマリアからも、手紙や差し入れが届いた。
皆、ハルのことを心配してくれている。それがありがたかった。そして何より、ハル自身も嬉しそうだった。
届いた手紙を大切そうに読み、少しだけ表情を明るくする。
「みんな、優しいですね」
「ああ。ハルが愛されている証拠だな」
「……アレクシス様のことも、みんな心配してるんですよ」
そう言って笑うハルを見て、私はまた胸がいっぱいになった。
数週間が経過した。
まだ、ハルのつわりが治まらない。
ハルは相変わらず、食べては吐くことを繰り返していた。せっかく口にできたものを戻してしまうたび、私は泣きそうになる。
食べたいのに、食べられない。
本人が一番つらいに決まっているのに、私はその苦しさを代わってやることすらできない。
それでもハルは、果物を少しずつ口にしたり、果汁を飲んだり、飴を舐めたりしながら、なんとか子どものために頑張っていた。
「ハル、無理はしなくていいんだぞ」
「わかってます。でも、少しでも食べておきたいので」
「……そうか」
私は、ハルの背中をそっと撫でた。
頑張れ、とは言えない。もう十分、頑張っている。
そんな日々を、過ごした。
そして、妊娠四ヶ月に入る頃。
さいわいにも、ようやくハルのつわりが落ち着き始めた。食べられるものが増え、顔色も少しずつ良くなってきた。
食事を終えたハルが、吐き気を覚えることなく微笑んでいる。それだけのことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
私は心の底から安堵した。
よかった。本当に、よかった。
……ところが。
「アレクシス様。そろそろ仕事に行こうと思うんです。つわりも落ち着いてきましたし、ずっと休んでいるわけにもいきません」
「駄目だ。まだ本調子ではないだろう。もう少し休んでいた方がいい」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫ではない!」
思わず声が大きくなった。
ハルが目を丸くする。
いけない。心配のあまり、つい声を荒らげてしまった。だが、ハルは一歩も引かなかった。
「僕、仕事に行きたいです」
「ハル……」
そんな顔をされると、弱い。
しかし、だからといって簡単に許可するわけにもいかない。どうしたものかと悩んでいると、そばにいたアンナが口を開いた。
「アレクシス様。体調が落ち着いているのであれば、適度に体を動かすことも大切ですよ」
「しかし、ハルは妊娠しているのだぞ?」
「もちろん、無理は禁物です。ですが、ずっと寝てばかりいるのもよくありません。出産にも体力が必要ですからね。医師とも相談しながら、無理のない範囲で動くのがよろしいかと」
「……出産に、体力」
なるほど。確かに、そう言われれば一理ある。何でもかんでも休ませればいいというものでもないのか。
私は腕を組み、真剣に考えた。
ハルは、そんな私をじっと見つめている。
「……わかった。ただし、条件がある。馬車での移動中は、私の膝の上に座ること」
「……いや、普通に隣に座ればいいですよね?」
ハルは苦笑している。だが、馬車の中で膝に乗ってもらうことだけは譲らない。
これは、私なりの譲歩だ。
ハルは最後まで納得していない様子だったが、結局、折れてくれた。
アンナは何か言いたそうな顔をしたが、結局、何も言わなかった。
よし。
医師の許可がでたら、また一緒に出勤だ。
ハルの体調に気を配りながら、無理のない範囲で仕事をしてもらおう。
まだハルのお腹はふくらんではいない。
でも、ハルのお腹の中には、私たちの子どもがいる。
心配が尽きない。
……できることなら、ずっと膝の上にいてほしいのだが。
それを口にしたら、
きっとまた怒られるだろうな。




