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31.あの、その匂い無理です

 


 ハルと結婚して、二年が過ぎた頃。


「閣下は、いつまで新婚気分でいるおつもりですか」


 エドガーは呆れたように言った。


 しかし、私は呆れられるようなことはしていないはずだ。

 今朝だって、出勤する際に「行ってきます」のちゅうをするかしないかで少し揉め、危うく遅刻しそうになっただけだ。


 ハルとは職場が同じなので、毎朝一緒に出勤している。

 だが、夫として、一度くらいは「行ってきます」のちゅうをしてもらいたい。これは、結婚した男なら誰しも一度は憧れるものではないだろうか。だからハルにお願いをした。


 ところが、ハルは恥ずかしがって嫌がったのだ。

 結局、玄関先でひと悶着あったものの、最後にはちゃんとちゅうをしてもらった。

 私の勝利だ。


 何も問題はない。少し出発が遅れただけだ。

 ……いや、遅刻しかけたのだから、問題はあったのかもしれない。

 しかし、仕方がないだろう。私にも譲れないものはある。


 ハルはというと、体調もずっと良さそうで、大きく崩したことはない。時折、体力の限界を迎えてしまうことはあるが、こればかりは仕方がない。


 何しろ、ハルが可愛いのが悪い。

 しかし、そんなハルについて、近頃少し気になることがあった。


 よく眠るのだ。

 元々、朝は弱い方だったが、最近は昼間もうとうとしていることが増えた。


 体調が悪いのだろうか。

 本人は特に何も言わないが、少し心配だった。


 そんなある日。

 その日も、私はハルと一緒に出勤していた。

 昼休憩になり、執務室の来客用のテーブルに、エドガーも交えて三人分のランチを広げていた時のことだ。


 突然、ハルが口元を押さえ、その場にうずくまった。


「ハル!?」


 私は慌てて駆け寄った。

 エドガーも、珍しく焦った様子でハルのそばに駆け寄る。


「どうした? 気分が悪いのか?」


「アレクシス様……匂い、無理です……」


 ……匂い?


 私は思わず、自分の身を振り返った。


 まさか、私が臭いのか!?


 加齢臭!?そんな馬鹿な!!


 ショックのあまり、ハルを抱き止める腕が震えた。


「閣下。落ち着いてください。ハル君は、食べ物の匂いのことを言っているのでは?」


「食べ物?」


 なぜだ?


 今日のランチは、ハルの好きなものばかりのはずだが。

 私が不思議に思っていると、エドガーがふと、何かに思い当たったような顔をした。


「……つわりでは?」


「つわり?」


 つ、つわり。つわり。


 つまり。


 ………………!!!


 青天の霹靂。


「エドガー、私はどうしたらいい」


 自分でも驚くほど、淡々とした声が出た。

 頭が真っ白なのだ。

 こんなにも動揺して、どうすればいいのかわからなくなったことなど、今まで一度もなかった。

 はっと我に返る。


「医者!!」


「閣下、まずはハル君を横にさせてあげましょう」


 エドガーが冷静に対応してくれる。

 そうだ。まずはハルを休ませなければ。

 私はハルを支えながらソファへと連れて行き、エドガーは窓を開けて、こもった食事の匂いを逃がした。


「私の妻も、妊娠した時は食べ物の匂いが駄目になりました。一度、医者に診てもらった方がいいでしょう」


 エドガーが落ち着いた声で言った。


「僕、妊娠してるんですかね……?」


 ハルが不安そうにエドガーを見上げた。


「まだわかりません。ただ、最近眠いとおっしゃっていたことも含めれば、その可能性はあるのではないかと」


 そう言われ、ハルが私を振り返った。


「アレクシス様?」


 私は固まっていた。

 衝撃から、まだ立ち直れずにいる。

 人間というものは、驚きすぎると本当に何もできなくなるらしい。


 ……いや、今はそんなことはどうでもいい。


 ハルが、妊娠?

 ハルが?私の、ハルが?


 その言葉の意味を、少しずつ、ゆっくりと理解していく。


 そして。


「……わたしは、父になるのか」


 ぽつりと、言葉がこぼれた。

 途端に、胸の奥が熱くなる。

 目頭まで、じわりと熱くなった。


「……っ」


 駄目だ。泣きそうだ。

 いや、もう泣いているのかもしれない。

 ハルが、困ったように、それでいて少し嬉しそうに苦笑した。


「何泣いてるんですか。まだ、決まってないんですよ?」


 そうだ。まだ決まったわけではない。

 医者に診てもらわなければ、本当のことはわからない。


 それでも。

 だって、嬉しいじゃないか。


 もし本当なら、ハルとの子どもができたということだ。

 私とハルの子ども。私が父親に、ハルが母親に。想像しただけで、胸がいっぱいになる。


「……医者を呼ぼう」


 ようやく、それだけはまともに考えられた。

 今はとにかく、医者だ。

 医者を呼んで、ハルを診てもらおう。


「エドガー」


「はい。医者を呼んでまいりますから、閣下はハル君のそばにいてあげてください」


 エドガーが部屋を出ていくのを見送り、私はソファに横になったハルの手を、ぎゅっと握った。


 父親になる?

 私が?


 ……死ぬほど嬉しい。



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