29.実家に帰らせていただきます
木曜日の夜。
僕はアレクシス様と夜を過ごした。
正直流された僕も悪いとは思う。
でも、もう少し加減というものを覚えてほしい。
……そして、金曜日の朝。
僕はベッドの上で、完全に力尽きていた。
起き上がれない。身体が重い。
「ハル」
隣にいるアレクシス様が、僕の顔を覗き込む。
「大丈夫か?今日は休むか?」
僕はゆっくりと顔を上げた。
「……アレクシス様のせいですよ」
「……そうだな」
悪びれない。
この人本当にわかってるんですかね。
「僕、今日仕事なんですよ」
「休めばいい」
「簡単に言わないでください」
「しかし、仕事どころではないだろう」
「誰のせいですかぁ」
「……私。」
なんだろう。認められると余計に腹が立つ。
何とか出勤の準備を済ませた。
移動はすべてアレクシス様だ。
もはや僕専用の乗り物になりつつある。
……最近、本当に自分の足で歩く機会が減っている気がする。
宰相執務室。
「ハル君、無理しない方がいいのでは?」
ぐったりと机に張り付く僕にアーデル補佐官が声をかけてくれる。
あぁ、その優しさが染みる。
でも、生温かい目で見るのはやめてください。
正直、仕事にならない。このままでは、ただの給料泥棒になってしまう。
それは何だか嫌だった。
出勤したのだから、少しでも何か役に立ちたい。
何か、僕にもできることはないだろうか。
「ハル、仕事を頼みたい」
そんなことを考えていると、アレクシス様が絶妙なタイミングで声をかけてきた。
何でも喜んで引き受けます、という気分だ。
「はい。何でしょう?」
すると、アレクシス様は自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「ハル」
……プツン。
僕の中で、何かが切れた。
もう、我慢の限界だ!
「もう知りません!」
「ハ、ハル?」
「実家に帰らせていただきます!!」
!!!
アレクシス様が固まった。
僕はすぐにルシアン様のもとへ向かい、事情を話してお願いした。
就業時間だったため、そのままルシアン様に同行していただき、アシュフォード侯爵家にお邪魔することになった。
――そして。
「ハル君、待っていたよ。おかえり」
屋敷の扉を開けた瞬間、ルシアン様のお父上が真顔で頬を染め僕を迎えてくれた。
ルシアン様が先に連絡してくれていたらしい。
「アシュフォード侯爵様……突然すみません」
「いいんだよ。よく帰ってきたね。さぁ、パパって呼んで?」
アシュフォード侯爵様が、嬉しそうに両腕を広げる。
僕が少し身を引くと、侯爵様はしょんぼりと肩を落とした。
「……パパって呼びたくない? そうだよね。こんなおじさん、嫌だよね……」
「嫌じゃないです」
その瞬間、侯爵様は僕の手をぎゅっと握って笑った。
いや、……圧が強い。
しょうがない。
お世話になるし、背に腹は変えられない。
「お、お義父様」
「わぁ。まあ、今はそれでよしとしよう」
ひとまずお義父様と呼ぶことにして、アレクシス様と喧嘩した経緯をサロンでお茶をしながら、簡単に説明した。
もちろん、恥ずかしいところは省いておいた。
お義父様はそれ以上何も聞かず、優しく頷いてくれた。
「今日は……いや、いつまででもここにいればいいよ」
「……ありがとうございます」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
その後は、ご一家と一緒に夕食をいただき、たくさんお話をした。
侯爵夫人が優しく微笑みながら、僕に圧をかける。
「ハル君。私のことは、義母様と呼んでくれないのかしらぁ?旦那様だけずるい」
「ぅっ……。では……義母様」
「はぁい。嬉しいわ。」
こうして、侯爵夫人のこともお義母様と呼ばせていただくことになり、終始賑やかな時間を過ごした。
ルシアン様もお義兄様と呼ぶべきだろうかと思ったが、また今度考えることにする。
こうしていると、僕も本当にアシュフォード家に仲間入りできたようで、何だか少しくすぐったい気持ちになった。
その日の夜。
アシュフォード侯爵家で用意していただいた部屋で、僕はベッドに入った。
……静かだ。
いつもなら、隣にはアレクシス様がいる。
少し鬱陶しいくらい近くにいて、僕が眠るまで何かと話しかけてくる。それが今日はない。
…………ちょっと寂しい。
自分から家出したのに。
「……アレクシス様」
小さく呟いて、僕は布団を引き上げた。
一方、その頃、アレクシスもまた自分の寝室で一人だった。
あれからの記憶は、ほとんどない。
気がついたら家に帰ってきていた。
エドガーが何かいろいろと言っていた気もするが、それどころではなかった。
最終的にエドガーに帰りの馬車へ押し込まれたところだけは、うっすらと覚えている。
そして、今。
いつも隣にいるはずのハルがいない。ベッドが妙に広く感じられた。
「ハル」
アレクシスは一人で呟いた。
ハルを怒らせてしまった。
なぜハルが怒ったのかは、よくわからない。
しかし、初めての喧嘩だ。
ちょっときゅんとした。
ただ。
「……寂しい」
こんなにもハルがいないことが寂しい。
死んでしまいそうだ。
まさか、一晩離れるだけで、ここまで堪えるとは思わなかった。
そして翌日、早朝5時。
アレクシスはアシュフォード侯爵家を訪ねた。
一応、先触れは出しておいた。
もっとも、先触れが到着するのとほぼ同時に、アレクシス自身も屋敷に到着したのだが。
寝ていたルシアンを叩き起こし、逃げようとしたところを締め上げ、ハルの部屋まで案内させた。
多少強引だったかもしれないが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
アシュフォード家の客室。
ハルはベッドで丸まって眠っていた。
一晩ぶりのハルとの再会に感動していると、ハルがもぞもぞと動いた。見つめすぎたか。
「……アレクシス様?」
ハルがぼんやりと目を開け、アレクシスを見た。
「迎えに来た」
「……早くないですか?」
「一晩は長かった」
ハルは目を閉じ、ぽそっと呟いた。
「僕も……ちょっと寂しかったです」
「私が悪かった。帰ろう、ハル」
「……はい」
その瞬間。
「ちょっと、待った!」
ルシアンが割って入ってきた。
「ハル君を連れて帰るなら――」
ルシアンはアレクシスの前に立ち、腕を組んで、ものすごく真剣な顔をした。
「僕を倒してから行くといい!」
「ルシアン……」
何を言っているんだ。
アレクシスは無言でルシアンを見つめた。
「……本気か?」
「もちろん!」
ルシアンは真顔で答えた。
「僕はハルのお兄ちゃんだからね!」
そう言いながら、ルシアンはちらちらとハルの様子を窺っている。
「弟を泣かせた男を、簡単に許すわけにはいかない!」
ハルにいいところを見せたいのか? まあ、そのハルはまた寝ているがな。
正直、邪魔だったので、とりあえずヘッドロックで落とし、黙らせた。
せめてもの情けだ。
ベッドに寝かせ布団をかけてやる。
さて、ハルを連れて帰ろう。
すっかり眠ってしまったハルを腕に抱き上げる。
アシュフォード侯爵には、また改めてお礼と謝罪をしなければならないだろう。
だが、今は何よりも、ハルを自分のもとへ連れ戻すことが先だ。
……やっぱり、一晩離れるなんて無理だった。
今度からは、ハルを怒らせないように気をつけねば。
エドガーも言っていた。夫婦円満の秘訣は、自分が悪くなくても、とりあえずひたすら謝ることだと。
私はハルの尻に敷かれるくらいが、ちょうどいいのかもしれない。
……いや、ハルの尻ならご褒美か?
大歓迎だな。




