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19/32

19.よろしくお願いします

 



「アレクシス!」


 大きな音とともに、宰相執務室の扉が足で蹴り開けられた。


「何だ。騒がしい」


 執務机に座り、書類に目を落としていたアレクシスが、不快そうに顔を上げる。

 飛び込んできたのは息を切らせたルシアンだった。


 そして、その腕の中にいるハルを見た瞬間――アレクシスの表情が固まった。


「……ハル?」


 次の瞬間、怒りとも焦りともつかない感情が、アレクシスを一気に支配する。


 私のハルに、


「何をした!!」


「誤解だよ! 私は今回は何もしてない!」


 ルシアンに掴みかかろうとしたアレクシスを、エドガーが必死に押さえる。

 ルシアンはハルを抱いたまま部屋の中を逃げ回る。


「閣下、まずは事情を!」


 エドガーの声で我に返ったアレクシスは、荒くなった呼吸を整えながら、ハルへ手を伸ばした。


「ルシアン。ハルを渡せ」


「はい。どうぞ」


 アレクシスはルシアンから、ぐったりと意識を失っているハルを受け取った。

 腕の中のハルに大きな怪我がないことを確認する。

 顔色は少し悪いが、呼吸にも問題はなさそうだ。そこでようやく、張り詰めていた気持ちがわずかに落ち着いた。


「ルシアン。説明しろ」


「はいはい、分かってるよ」


 アレクシスはハルを腕に抱きしめたまま、執務室のソファへ腰を下ろした。

 エドガーはひとまず、鎮静作用のある茶を用意する。

 ルシアンはアレクシスから一番遠い、向かいの椅子に座り、事情を話し始めた。

 令嬢や令息たちがハルを取り囲み、身分差や、ハルが子どもを産めないことを指摘したうえで、侮蔑を込めて笑いものにしていたこと。


 そして、それを口にしたのが誰なのか。


 ルシアンは知っている限りを、すべてそのままアレクシスに伝えた。話を聞き終えたアレクシスは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、静かに口元を上げる。


「……なるほど。ちょうどいい。その者たちの家は、以前から処理すべきだと思っていた」


 その声は、ぞっとするほど冷たい響きを帯びていた。

 ルシアンから話を聞き終えたアレクシスは、ハルを大切そうに抱き上げた。

 そのまま、宰相執務室の隣にある休憩室へと運んでいく。エドガーが先行して扉を開く。

 ルシアンも後ろからついてきた。


「お前は帰れ」


 アレクシスが振り返りもせずに言った。


「扱い、ひどくない? 私もハル君の可愛い顔を見たいんだけど」


「ほう。よほど仕事を増やしたいと見える」


 アレクシスが、ゆっくりと振り返る。


「楽しみだな?」


 ルシアンは静かに扉を閉め去っていった。




 ハルを静かにベッドへ寝かせる。

 意識のないハルを見つめながら、アレクシスの怒りはおさまらなかった。

 今回は、ルシアンに感謝しなければならない。

 昨日の婚約保留が思いのほか堪えていて、ハルの周囲への警戒が疎かになっていた。


 ハルを囲んでいた中には令息もいた。もし、ルシアンが見つけてくれなければ、どうなっていたか分からない。

 ハルを傷つけた者には、それ相応の責任を取らせよう。

 ――後悔は地獄でさせてやる。

 そう、心に決めた。


 それからしばらくして。

 アレクシスが可愛がる新人文官に手を出せば、家ごと消される。

 そんな噂が、まことしやかに囁かれるようになった。




「……ん」


 僕はゆっくりと目を開けた。

 ぼんやりとした視界に、最初に映ったのはアレクシス様の顔だった。

 ……あ、目の下くまがある。


 気がつけば、僕はベッドに横になり、アレクシス様の腕の中にいた。


「気がついたか。具合はどうだ?」


「……大丈夫です」


 ぼんやりと、その温もりに包まれているうちに、僕ははっとして、先ほどの出来事を思い出した。

 ――ちょうどいい。

 昨夜は言えなかったことを、素直に全部話してしまおう。


「アレクシス様。僕は……アレクシス様と、この先離れることなんて想像できません」


 アレクシス様の青い瞳が、わずかに揺れた。


「でも、僕は庶民で……アレクシス様の子どもも産めない。やっぱり、それが気になってしまって……」


 言葉を探しながら、僕は続ける。


「だから、婚約についても……すぐに『はい』って言えませんでした」


 アレクシス様が、僕の背に回した腕に力を込める。


「私は気にしない」


 迷いのない声だった。


「ハルと一緒にいられるなら、他には何も要らない。身分が邪魔だというのなら、そんなものは捨てる。何か言いたい者には、好きなだけ言わせておけばいい」

 アレクシス様が、僕をまっすぐに見つめる。

 頬に手が触れた。


「他に、何か心配なことはあるか?」


 僕は小さく首を振った。


「……ありません」


 アレクシス様が、僕の額に自分の額をそっと重ねる。


「ハル。もう一度、聞く」


 優しい声だった。


「私と婚約してくれるか?」


 今度は、迷わなかった。


「はい」


「本当に? 後悔しないか?」


「しません」


 その言葉を聞いた瞬間、アレクシス様の表情が緩んだ。

 そして、僕を強く抱きしめる。


「……嬉しい」


 耳元で、優しく囁かれた。


「結婚は半年後だ」


 ん? 今、さらっと何か聞こえた。


 半年後の結婚は、決定事項なんですね。

 ……初めて聞きましたよ。


 まあ、ここまで来たら一緒なのかもしれない。

 どっちにしろ、もう逃げられない。

 ――逃げる気もないけど。

 そう思うと、なんだか可笑しくなって、僕は笑った。


 ……あ。

 そういえば、今度会ったらアシュフォード閣下にお礼を言おう。

 今日は、ちょっと、かっこよかった。




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