19.よろしくお願いします
「アレクシス!」
大きな音とともに、宰相執務室の扉が足で蹴り開けられた。
「何だ。騒がしい」
執務机に座り、書類に目を落としていたアレクシスが、不快そうに顔を上げる。
飛び込んできたのは息を切らせたルシアンだった。
そして、その腕の中にいるハルを見た瞬間――アレクシスの表情が固まった。
「……ハル?」
次の瞬間、怒りとも焦りともつかない感情が、アレクシスを一気に支配する。
私のハルに、
「何をした!!」
「誤解だよ! 私は今回は何もしてない!」
ルシアンに掴みかかろうとしたアレクシスを、エドガーが必死に押さえる。
ルシアンはハルを抱いたまま部屋の中を逃げ回る。
「閣下、まずは事情を!」
エドガーの声で我に返ったアレクシスは、荒くなった呼吸を整えながら、ハルへ手を伸ばした。
「ルシアン。ハルを渡せ」
「はい。どうぞ」
アレクシスはルシアンから、ぐったりと意識を失っているハルを受け取った。
腕の中のハルに大きな怪我がないことを確認する。
顔色は少し悪いが、呼吸にも問題はなさそうだ。そこでようやく、張り詰めていた気持ちがわずかに落ち着いた。
「ルシアン。説明しろ」
「はいはい、分かってるよ」
アレクシスはハルを腕に抱きしめたまま、執務室のソファへ腰を下ろした。
エドガーはひとまず、鎮静作用のある茶を用意する。
ルシアンはアレクシスから一番遠い、向かいの椅子に座り、事情を話し始めた。
令嬢や令息たちがハルを取り囲み、身分差や、ハルが子どもを産めないことを指摘したうえで、侮蔑を込めて笑いものにしていたこと。
そして、それを口にしたのが誰なのか。
ルシアンは知っている限りを、すべてそのままアレクシスに伝えた。話を聞き終えたアレクシスは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口元を上げる。
「……なるほど。ちょうどいい。その者たちの家は、以前から処理すべきだと思っていた」
その声は、ぞっとするほど冷たい響きを帯びていた。
ルシアンから話を聞き終えたアレクシスは、ハルを大切そうに抱き上げた。
そのまま、宰相執務室の隣にある休憩室へと運んでいく。エドガーが先行して扉を開く。
ルシアンも後ろからついてきた。
「お前は帰れ」
アレクシスが振り返りもせずに言った。
「扱い、ひどくない? 私もハル君の可愛い顔を見たいんだけど」
「ほう。よほど仕事を増やしたいと見える」
アレクシスが、ゆっくりと振り返る。
「楽しみだな?」
ルシアンは静かに扉を閉め去っていった。
ハルを静かにベッドへ寝かせる。
意識のないハルを見つめながら、アレクシスの怒りはおさまらなかった。
今回は、ルシアンに感謝しなければならない。
昨日の婚約保留が思いのほか堪えていて、ハルの周囲への警戒が疎かになっていた。
ハルを囲んでいた中には令息もいた。もし、ルシアンが見つけてくれなければ、どうなっていたか分からない。
ハルを傷つけた者には、それ相応の責任を取らせよう。
――後悔は地獄でさせてやる。
そう、心に決めた。
それからしばらくして。
アレクシスが可愛がる新人文官に手を出せば、家ごと消される。
そんな噂が、まことしやかに囁かれるようになった。
「……ん」
僕はゆっくりと目を開けた。
ぼんやりとした視界に、最初に映ったのはアレクシス様の顔だった。
……あ、目の下くまがある。
気がつけば、僕はベッドに横になり、アレクシス様の腕の中にいた。
「気がついたか。具合はどうだ?」
「……大丈夫です」
ぼんやりと、その温もりに包まれているうちに、僕ははっとして、先ほどの出来事を思い出した。
――ちょうどいい。
昨夜は言えなかったことを、素直に全部話してしまおう。
「アレクシス様。僕は……アレクシス様と、この先離れることなんて想像できません」
アレクシス様の青い瞳が、わずかに揺れた。
「でも、僕は庶民で……アレクシス様の子どもも産めない。やっぱり、それが気になってしまって……」
言葉を探しながら、僕は続ける。
「だから、婚約についても……すぐに『はい』って言えませんでした」
アレクシス様が、僕の背に回した腕に力を込める。
「私は気にしない」
迷いのない声だった。
「ハルと一緒にいられるなら、他には何も要らない。身分が邪魔だというのなら、そんなものは捨てる。何か言いたい者には、好きなだけ言わせておけばいい」
アレクシス様が、僕をまっすぐに見つめる。
頬に手が触れた。
「他に、何か心配なことはあるか?」
僕は小さく首を振った。
「……ありません」
アレクシス様が、僕の額に自分の額をそっと重ねる。
「ハル。もう一度、聞く」
優しい声だった。
「私と婚約してくれるか?」
今度は、迷わなかった。
「はい」
「本当に? 後悔しないか?」
「しません」
その言葉を聞いた瞬間、アレクシス様の表情が緩んだ。
そして、僕を強く抱きしめる。
「……嬉しい」
耳元で、優しく囁かれた。
「結婚は半年後だ」
ん? 今、さらっと何か聞こえた。
半年後の結婚は、決定事項なんですね。
……初めて聞きましたよ。
まあ、ここまで来たら一緒なのかもしれない。
どっちにしろ、もう逃げられない。
――逃げる気もないけど。
そう思うと、なんだか可笑しくなって、僕は笑った。
……あ。
そういえば、今度会ったらアシュフォード閣下にお礼を言おう。
今日は、ちょっと、かっこよかった。




