18.言われなくてもわかってます
アレクシス様が帰宅した。
僕は今日、アレクシス様のせいでまともに動けなくなり、有給を取らせていただいた。
アレクシス様が悪いと思う。けど、僕も拒まなかったのだから、もういいことにして、僕は玄関までアレクシス様を出迎えに行った。
「ハル」
僕の姿を見つけた瞬間、アレクシス様は迷いなく僕を抱き上げ、そのまま頬に口づけた。
出迎えのために集まった使用人さんたちから、温かな視線が注がれる。そんな視線にも、だいぶ慣れてきた今日この頃だ。
そんな僕を抱いたまま、アレクシス様が耳元で囁く。
「ハル。今夜、話がある」
何だろう?
僕がアレクシス様を見上げても、それ以上は教えてくれなかった。
夕食とお風呂を終え、寝る前の時間。
いつものように、アレクシス様の部屋で、二人並んでソファに座り、ゆっくりしていた、その時。
「ハル」
アレクシス様が、真剣な顔で、わずかに姿勢を正して僕と向き合う。その表情を見て、何か大切な話なのだと分かった。
「私と婚約してほしい」
婚約……。僕は固まった。
アレクシス様から想いを伝えてもらった日、僕も結婚については「ゆっくり考えましょう」と伝えた。
僕だっていつかは、と思っていたけれど、いざこうして婚約を申し込まれると、すぐに「はい」と答えることができなかった。
「……嬉しいです。ただ、少し、少しだけ、考えさせてください」
僕の返事にアレクシス様が固まった。その表情を見た瞬間、胸が痛くなる
「……分かった。急かすつもりはない」
アレクシス様はそう言って、いつものように僕を抱きしめた。
その夜。
今日は目を閉じても、なかなか眠れなかった。
婚約のことは嬉しかった。僕もアレクシス様の隣にずっといたい。離れたくない。
この国では、魂の番という存在があるからか、本人たちの意思による自由結婚が基本で、十八歳以上であれば、男女どちらとも結婚できる。女性が家を継ぐことだってできる。
ただ、貴族は政略結婚もあり、子どもをもうけて、家を継がせるため、異性婚を選ぶ者が多い。それがこの国の貴族社会では当たり前のようになっていた。
だから、アレクシス様に婚約を申し込まれた時、ふと頭の中に不安が浮かんだ。
――僕には、子どもを産むことができない。アレクシス様はあまり気にしていないようだけれど、それでも。
大事なことだから、アレクシス様に直接聞くべきだと思った。けれど、さっきはとっさに聞くことができなかった。
それに、もうひとつ。
僕は平民で、身分も家柄もない。アレクシス様は、それでいいと言ってくれるかもしれない。
でも、周りの人は?
僕のせいで、アレクシス様が笑われたり、侮られたりするのは嫌だ。
アレクシス様は、僕を選んでくれた。嬉しい。本当に嬉しい。だからこそ、その選択がアレクシス様を苦しめることになったらと思うと、すぐには返事ができなかった。
僕が、唯一胸を張って言えるのは、アレクシス様の魂の番ということだけ。
僕の中で、答えは決まっている。アレクシス様と離れる事はないのだから。でも、少しだけ、アレクシス様と話し合う時間が欲しい。心の準備をする時間が欲しかった。
そのとき。
背後から、アレクシス様の腕が回ってきた。
腕は、いつもより強く、まるで、逃がさないとでも言うように抱きしめられる。
「アレクシス様……?」
返事はない。
ただ、抱きしめる力が少し強くなった。アレクシス様も眠れないのだろうか。
「……アレクシス様。婚約、僕……嫌だったわけじゃありません。少し時間をください」
抱きしめる腕が、一度ぎゅっと強くなる。
「……分かった。私は、ハルと離れたくない。どこにも行かないでくれ」
その声は静かだった。
「……行きません」
アレクシス様の腕が、また強くなる。
僕はそっと、アレクシス様の腕に手を重ねた。
「おやすみなさい、アレクシス様」
今夜は余り眠れそうにない。
翌朝。
アレクシス様は、明らかに元気がなかった。
「閣下、こちらの書類を」
「……そこへ置け」
アーデル補佐官が書類を執務机に置く。アレクシス様はそれを手に取った。が、そのまま固まってしまった。
アーデル補佐官は静かにアレクシス様の手から書類を回収した。
僕は、書類の陰からそれをこっそり眺め、申し訳なさがあふれた。
今日、帰ったらちゃんと話をしよう。
その日の午後、僕は図書室に、借りていた参考資料を返しに来ていた。その帰り、少し一人になりたくて、ゆっくりと廊下を歩いていた。
やっぱり、素直にすぐ「はい」と言えばよかったのかな。でも、真剣に二人の将来を考えるからこそ、安易に返事はできなかった。
こんな自分の性格が、少し嫌になる。胸の奥には、まだ重いものが残っていた。
そんなことを考えながら歩いていたとき。
「まあ」
背後から声がした。
振り返ると、そこには数人の若い令嬢や令息が立っており、僕を見ている。
僕が勤める王城には、行儀見習いのために通う貴族令嬢や、城に勤める若い貴族がいる。また、図書室など、一部の区域は貴族に限り開放されている。おそらく、そのような方たちだろうと当たりをつける。
視線が、僕の頭の先から足元まで、ゆっくりと下りていく。まるで、値踏みされているようだった。
「こちらが、噂の方?」
「間違いありませんわ。先ほど図書室の司書の方に確認しましたもの。宰相執務室の文官はお二人しかおりませんから」
そこで、令嬢は意味ありげに僕を見る。
「アーデル様と、それ以外」
何のことだろう?僕には分からなかった。
けれど、彼女たちが僕に向ける視線には、明らかな悪意があった。
後になって知ったことだけれど、城の中では、アレクシス様と僕のことはすっかり噂になっていたらしい。
無理もない。あの冷血宰相と呼ばれるアレクシス様が、平凡な新人文官を追いかけ、その新人文官に笑いかけている。その姿に、多くの人が驚いたそうだ。
そして何より、アレクシス様が僕に寄せる想いは、誰の目から見ても明らかだった。
当然、それを快く思わない人たちもいた。
特に、以前からアレクシス様との縁談を望んでいた貴族令嬢や令息、その家族にとっては僕は邪魔者だろう。
令嬢は口元だけで笑った。嫌な笑みだ。
「随分と……貧相なのね。これがグラント宰相様がそばに置いている文官なんて。」
胸の奥が、ひやりと冷えた。令嬢が、堪えきれないというように笑った。令嬢たちの間に、くすくすとした笑い声が広がる。
この悪意からは、逃げた方がいい。
学園にいた頃、何度か貴族に絡まれたことがあるから分かる。こういうときは、逃げるに限る。僕の勘がそう告げていた。
けれど、体が動かなかった。
「庶民でしょう? 身分もない。家柄もない。その上、子どもも産めない。身のほど知らずね。グラント宰相様には、もっと相応しい方がいらっしゃるわ」
分かってる。そんなこと、全部分かってる。
僕には何もない。身分も、家柄も、子どもを産むこともできない。ただ、魂の番だということが、僕とアレクシス様をつなぐ糸だと。
視界の端が滲む。寝不足に加えて、悪意をぶつけられ、精神的な負荷も重なる。足元から力が抜けていく。それでも倒れたくなくて、僕は必死に踏みとどまった。
別の令嬢が、冷たく笑った。
「あなたご存じ? グラント宰相様は、近頃、社交にもお出ましになりませんのよ。あなたのせいかしら? 貴族にとって、それは――」
僕のせいで、アレクシス様は何かを失っているのだろうか。そんな考えが、頭の中をぐるぐると回る。
そのとき。
「ねえ、何をしているの?」
低く凍る様な声が響き、令嬢たちの笑い声が、一瞬で消えた。と、同時に空気が変わった。背後から向けられた声は静かだった。しかし、その静けさの奥には、明確な怒気があった。
振り返る。
そこに立っていたのは、ルシアンだった。顔には綺麗で穏やかな笑顔。しかし、目がまったく笑っていない。
「……アシュフォード閣下」
令嬢たちの顔が強張り、さっきまでの勢いが、目に見えて失われていく。
「何を話しておられたのですか?」
その問いに、中心にいた令嬢がかろうじて声を絞り出した。
「い、いえ、特には。ご挨拶していただけですわ」
ルシアンの視線が令嬢をとらえ、口元だけで微笑んだ。そして、ハルを背に庇うように優雅に歩を進める。
「グラント宰相閣下の補佐官を、身分等を理由に侮辱することが、この国の貴族社会における挨拶なのでしょうか?それとも――私が知らないだけで、あなたはそのように教育を受けられたのかな?」
「い、いえ……。ですが、私たちはただ事実を――」
「事実?」
ルシアンの声から、さらに温度が消えた。令嬢たちが青ざめる。
「あなた方がベル宰相補佐官に対し、口にした言葉。その内容とともに、それが事実だと私の前で公言した。そうグラント宰相閣下に報告してもよろしいのですね?」
令嬢たちの顔から、血の気が引き、その場にいた全員が黙り込んだ。空気が重い。緊張感に息をすることさえ、ためらわれるほどだった。
軽口ばかりで、どこか掴みどころがない、いつものアシュフォード閣下とは、まるで別人だった。
少しだけ、見直した。
アシュフォード閣下が、僕の方を振り向いた。
その瞬間、張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
「……すみません。もう……無理です」
足元が揺れ、視界が大きく傾く。倒れる。
そう思った瞬間、アシュフォード閣下の腕が僕の体を抱き止めた。もう立っていられなかった。
「ハル君!」
遠くで、声が聞こえた。
その声を最後に、僕は意識を失った。




