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喫茶店GG(ジジィ) 〜この世とあの世の境界線〜  作者: やはぎ・エリンギ


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第八話 マスターの過去

先代は、最後の日に、ひとつだけ私に言った。

すまなかった、と言えていたら、こんな店はいらなかった、と。

私はまだ、その一言を誰にも言っていない。

 十一月二日、雨が降った。

 十一月の雨は、十月の雨より冷たい。気温が九度まで落ちて、川から上がる白いものが、街灯の光を根元から食べた。傘をさしても肩が濡れる降りかたをしていた。

 店の中の霧は、膝の下まで来ていた。

 十月の終わりに足首の高さだったものが、一週間で膝に届いた。

 座ると、丸椅子の脚が見えない。水位の上がった部屋で、椅子だけが浮いているように見える。

 添島さんがいた。

 Tシャツの人は、いなかった。

「あいつ、来ないな」

「先週も来てませんでした」

「そうか」

 添島さんは、それ以上言わなかった。

 カップが置かれた。

 わたしは色を見た。

 薄い。

 黒ではなかった。濃い茶色で、灯りにかざすと向こうが透ける。五か月、この店のコーヒーは黒かった。少し赤みのある黒で、底が見えなかった。

 底が、見えた。

「葉山さん」

 添島さんが、こちらを向いた。

「話がある」

「車ですか」

「いや、ここでいい。店の中で話せる話だ」

 わたしは、カップに手を触れずに待った。

「十年、俺は集めてた」

「何をですか」

「この店の話だ」

 添島さんは、上着の内ポケットから、折りたたんだ紙を出した。

 広げると、A4のコピー用紙が四枚あった。鉛筆で、細かい字が書いてある。表になっている。日付と、天気と、客の数と、短い覚え書き。

「これは」

「日報だ。うちの会社のとは別の」

 わたしは、いちばん上の紙を見た。

 日付が、十年ぶん並んでいた。行の数は多くない。年に十日か、多くて十五日。それがこの店の出た日だ。

「条件が揃った日を、全部書いてある」

「十年ぶん」

「最初の三年は書いてない。書きはじめたのは七年前だ。それより前は、思い出せる範囲で埋めた」

 わたしは、指で行を追った。

 六月と九月と十月と十一月に、印がかたまっている。梅雨と、秋雨と、初冬。夏の盛りと冬の深いところには、ほとんどない。

「気づいたことが三つある」

 添島さんは、指を一本立てた。

「一つ。店が出る日は、年々増えてる」

「増えてる」

「七年前は年に九日だった。去年は十四日だ。今年はもう、三十四日ある」

 わたしは、その数字を頭に入れた。

「二つ。客の数が減ってる」

 指が二本になった。

「昔は奥の霧が、もっと遠かった。カウンターの端で切れてた。いまは膝まで来てる。霧が近いってのは、常連が増えてるってことだと俺は思ってる」

「増えてるのに、減ってるんですか」

「奥は増えて、手前は減ってる」

 添島さんは、三本目の指を立てた。

「三つ目。これが一番でかい」

「何ですか」

「あんたは五か月で、掟の五行と、常連の話と、支払いの仕組みを知った。俺は十年かけて、それしか知らんように見えるだろう」

「そうは思ってません」

「思ってていい。俺も、そのつもりで喋ってきた」

 添島さんは、指を組んだ。

「マスターは、代わる」

 わたしは顔を上げた。

「代わるんですか」

「代わる。俺が最初に来たときのマスターと、いまのマスターは、別人だ」

「別人」

「俺は前のを、先代と呼んでる」

 わたしは店主のほうを見た。

 店主は、器を洗っていた。手が止まらない。この人は、自分の話をされているあいだ、いつも手を動かしている。

「先代は、どんな人でしたか」

「じいさんだった」

「いまの人も」

「いまのは、年が分からんだろう。先代は分かった。八十くらいの、痩せたじいさんだ。腰が曲がってて、サイフォンを持つのに両手を使ってた」

 わたしは、その姿を思い浮かべようとした。

「話しかたも違った。あの人はよく喋る人でな。聞いてもいないことを喋る。天気の話と、豆の話と、あとは謝ってた」

「謝る」

「すまんね、すまんね、って言うんだ。何に対してでもない。コーヒーを出しながら、すまんね、と言う。癖だと思ってた」

 添島さんはカップから指を離した。

「いつ代わったんですか」

「九年前の春だ。冬のあいだは先代がいて、春に来たら、いまのがいた」

「引き継ぎとか、説明とかは」

「なかった。俺が聞いたら、いまのマスターがこう言った。あの方は、終わりました、と」

 終わりました。

 その言い方を、わたしは頭の中で二度繰り返した。

「先代は、どこへ行ったんですか」

「知らん」

 添島さんは、そこで初めて、わたしのほうを正面から見た。

「ただな。俺は先代に、一つだけ答えてもらったことがある」

「何を」

「うちの女房が、この店に来たことがあるかどうかだ」

 わたしは、息を止めた。

「遺品にマッチがあった話は、したな」

「聞きました」

「あれを見つけて、店を探して、通いはじめて、半年くらいで聞いた。先代は、答えた」

「答えたんですか」

「答えた。いまのマスターは答えん。先代は答える人だった」

 添島さんは、空のカップの底を見ていた。

「来ました、と言った。それから、日にちを言った」


「六月十七日だ」

 添島さんは、そう言った。

 わたしは、動かなかった。

 動かなかったのは、驚かなかったからではない。驚きが体に届くまでに、時間がかかった。頭の中で、二つの日付が同じ場所に置かれて、重なって、それが何を意味するのかを、体が理解するのを待っていた。

「葉山さん」

「……はい」

「あんた、いま、顔が」

「妹が死んだ日です」

 言った。

 言ってから、ここが店の中だと気づいた。

 三つ目の掟。隣の客と、そのことについて語ってはならない。

 わたしの喉は、締まらなかった。

 言えた。

「おい」

 添島さんの声が、鋭かった。

「あんた、いま」

「言えました」

「三つ目だぞ」

「言えました」

 わたしは、自分の喉に手を当てた。

 九月に、この店で「お悔やみ申し上げます」の続きが出なかった。十月には、少女に呼びかけようとして三つの音が出なかった。掟は、こちらの意思と関係なく、口の中で言葉をほどく。

 今夜は、ほどけない。

「マスター」添島さんが言った。「三つ目は、どうなってる」

 店主は、答えなかった。

 答えない代わりに、床のほうを見た。膝の高さの霧が、カウンターの脚のあたりで回っている。

「一つ破ると、あとが緩むんですか」

 わたしは聞いた。

「掟は、五つで一つです」

 店主は、そう言った。

「五つで、一枚の紙です。一行が破れると、他の行も、同じぶんだけ薄くなります」

「じゃあ、いま」

「四行ぶん、薄くなっています」

 わたしは、戸口の貼り紙を思い出した。飴色に焼けた和紙。虫食いの穴が二つ。無骨な墨の字。

 あれが、薄くなっている。

 わたしが十月二十六日に、おかわりをくださいと言ったせいで。

 添島さんが、わたしのほうを向いた。

 この人が驚くところを、わたしは初めて見た。

「同じ日か」

「同じ日です。十年前の、六月十七日」

「時間は」

「夜の十時ごろです」

 添島さんは、カウンターに両手をついた。

「うちのが家を出たのは、その日の夕方だ。俺は乗務で、朝の四時半に上がって、家に帰ったら鍵が開いてた」

 わたしたちは、しばらく黙っていた。

 振り子時計の音がしていた。左へまわる針が、いつもの速さで動いている。

「マスター」

 添島さんが言った。

「はい」

「あの夜、うちの女房と、この人の妹は、両方この街にいた」

「はい」

「二人とも、あんたらの店に関わってる」

「はい」

「偶然か」

 店主は、布巾を置いた。

「あの夜は、条件が揃っていました」

「聞いてない」

「揃った夜には、呼ばれる人が増えます」

「増えるだけか」

「増えるだけです」

 店主は、そう言った。

 言い方に、逃げがなかった。増えるだけだ、と言い切った。それが本当かどうかを確かめる方法は、わたしたちにない。

「もう一つ聞かせてください」

 わたしは言った。

「先代の人は、なぜ店主になったんですか」

「代を継ぐ方には、条件があります」

「条件」

「謝れなかった方です」

 店内の霧が、膝のあたりで揺れた。

「謝りたい相手に、謝れないまま終わった方が、ここに来ます。来て、この仕事をします。次の方が現れるまで」

「次が来たら」

「解放されます」

「どこへ」

「私は知りません。まだ、行っていませんので」

 わたしは、その答えを聞いて、この人が「私」という言葉を使ったことに気づいた。

 五か月で、二度目だった。一度目は八月で、逃げられた人をうらやましいと思ったことがある、と言った。

「先代の人は」わたしは言った。「誰に、何を謝れなかったんですか」

 店主は、答えなかった。

「答えないんですね」

「私が申し上げることではありません」

「じゃあ、一つだけ」

 わたしは、カップの薄い茶色を見ていた。

「先代の人は、うちの祖父ですか」

 店内が、静かになった。

 添島さんが、わたしのほうを向いた。

「なんでそう思う」

「看板です」

 わたしは戸口のほうを見た。木の看板は外にある。ここからは見えない。

「GG。わたしはあれを、ジジィと読みました。読んだから、あの路地に入りました。祖父の呼び名です。妹がつけました」

「そりゃ、あんたの読み方だろう」

「そうです。わたしの読み方です」

「じゃあ」

「祖父は、十年前に死にました。妹が死んだ、そのあとです」

 わたしは、指を組んだ。

「病気でした。もともと悪かったんです。医者は、半年か一年と言ってました。……三か月でした」

 添島さんは、何も言わなかった。

「葬式のとき、母が言いました。おじいちゃんは、自分のせいだと思って死んだ、って」

「なぜだ」

「分かりません」

 その一言を、わたしは十年、そのまま置いていた。

 母には、九月に一度、電話をしている。

 用件は親戚の法事の日取りで、十五分喋った。祖父の話は出なかった。雫の話も出なかった。母とわたしのあいだで、その二つは、十年前から議題に上がらない。

 上がらないのは、母が避けているからだと思っていた。

 いま、分かる。

 議題を出すのは、たいてい、先に喋りはじめたほうだ。母は喋りはじめない人で、わたしも喋りはじめない人になった。二人とも喋りはじめなければ、そのまま十年が経つ。

 なぜ祖父が自分のせいだと思ったのか。母がなぜそう言ったのか。聞けば分かることだった。母は生きている。電話をすれば出る。

 聞かなかった。

 真昼のことも聞かなかった。祖父のことも聞かなかった。十年、わたしは何一つ聞かないできた。

 聞かないから優しい、と誰かが言った。

 わたしは優しくない。ただ、聞かなかっただけだ。

「マスター」

「はい」

「先代の人は、コーヒーを飲みましたか」

「いいえ」

「あなたも飲まない」

「はい」

「代を継ぐと、飲めなくなるんですか」

「そうではありません」

 店主は、伏せた器を見ていた。

「飲む理由が、なくなるんです」


 十一月五日、わたしは会社の引き出しから携帯電話を取り出した。

 十年前から電源の入らない、折りたたみの一台。銀色の塗装が角から剥げて、ヒンジに細い傷が二本。画面側の角が欠けて、そこだけ白い。

 充電器も出した。灰色のコードが輪ゴムで留めてある。輪ゴムは触れたら切れた。

 デスクの下のコンセントに挿した。

 十分待った。

 何も起きなかった。ランプがつかない。画面も変わらない。三十分待って、コードを別のコンセントに挿し替えて、また三十分待った。

 同じだった。

 昼休みに、市内の携帯ショップに行った。

 カウンターに置いて、事情を話した。十年前の機種で、十年通電していない、中のデータを見たい、と。

 対応した店員は、二十代の前半に見えた。名札に、下の名前だけが書いてある。

「たぶん、過放電です」

「過放電」

「電池が、決められた容量より下まで放電してしまうと、それ以上使えないようにロックがかかるんです。安全のためです。そのままだと、充電器を挿してもランプもつきません」

「壊れてるわけじゃないんですか」

「壊れてないことが多いです」

 店員は、奥から小さな機械を持ってきた。

「電池パックを外して、これで診断して、ロックを解除します。解除できれば、充電できるようになります」

「できないこともある」

「あります。十年だと、五分五分だと思ってください」

 わたしはうなずいた。

 店員は背面のカバーを外して、電池パックを取り出した。薄い板を、機械の端子に当てる。画面に数字が出た。

「いけます」

 その一言で、わたしの喉が鳴った。

 三分ほど当てて、電池パックを本体に戻して、充電器につないだ。

「電源、押してみてください」

 わたしは、その場所を探した。十年前の機種のボタン配置を、わたしは知らない。妹の携帯だ。触ったことがない。

 店員が、指で示してくれた。

 押した。

 画面が、光った。

 十年、火の入らなかったものに、火が入った。

 白くなって、それから、メーカーのロゴが出た。起動音が鳴った。短い、明るい音だった。店内のBGMの中で、その音だけが十年前から届いた。

 待受画面が出た。

 写真だった。

 雫と、真昼が写っていた。

 高校の入学式の日だ。制服が新しくて、袖が長い。二人ともピースをしている。うちの机の引き出しの封筒に、同じ写真の紙焼きがある。

 わたしは、その画面を見ていた。

 雫の顔が、あった。

 見れば分かる。照合ではなく、分かった。目の形も、鼻も、笑うと右側だけ口が上がる癖も、ぜんぶある。

 見れば、ある。

 見なければ、ない。

「日付は、たぶんリセットされてます」

 店員が言った。

「電池が完全に切れると、時計が初期値に戻るんです。今日の日付は入れ直せますけど、中の履歴に残ってる日時は、記録されたときのものが残ってます」

「履歴は、消えてないんですか」

「本体のメモリに入ってるものは、残ります。電話帳も、履歴も、メールも」

「見られますか」

「見られます。電波は入りません。解約されてるので、圏外表示のままです」

 わたしは礼を言った。

 店員は、料金はいらないと言った。

「うち、こういうの、たまに持ちこまれるんです」

「そうですか」

「多いのは、亡くなった方のです」

 その人は、そう言って、機械を片付けた。

「留守電の声が残ってることもあります。開くかどうかは、お客さまが決めてください」

 わたしは携帯を紙袋に入れて、会社に戻った。

 戻って、仕事をした。四件の訃報を三行にして、確認の電話を三本かけた。定時で上がって、部屋に帰った。

 部屋の電気をつけて、床に座って、紙袋から出した。

 開いた。

 待受画面の二人が、また出てきた。

 メニューの操作は、店員が教えてくれた。着信履歴のマークを押す。

 一覧が出た。

 いちばん上。

 ジジィ

 6月17日 21:51

 わたしは、その表示を見ていた。

 事故は、夜の十時ごろだ。記事にそう書いてある。

 九分前。

 いちばん上ということは、それが最後の着信だ。通話時間の表示があった。

 0分00秒

 出ていない。

 雫は、その電話に出ていない。

 わたしは、二番目を見た。

 ジジィ 6月17日 21:48

 ジジィ 6月17日 21:45

 ジジィ 6月17日 21:40

 三沢 6月17日 20:57

 祖父は、四回かけていた。

 九時四十分、四十五分、四十八分、五十一分。全部、出ていない。

 事故は十時ごろだ。最後の着信から、九分。最初の着信から数えても、二十分ない。

 その二十分のあいだ、車は県道を走っていた。

 わたしは携帯を床に置いた。

 置いて、両手を膝に置いて、そのまま座っていた。

 祖父は、あの夜、四回かけた。

 出ない。出ないから、またかけた。

 そのあいだ、雫は車の助手席にいた。運転しているのは、免許のない同級生だ。夜で、雨で、県道で、街灯が少ない。

 携帯が鳴る。

 一回目。二回目。三回目。四回目。

 出ない妹の膝の上で、あるいはポケットの中で、あるいはダッシュボードの上で、四回鳴った。

 運転している子が、それを聞いている。

 わたしは、メールのフォルダを開いた。

 受信箱に、四十二件あった。ほとんどが友達とのやりとりで、日付は事故の前の一週間に集中している。絵文字が多い。短い。返事が早い。

 送信箱に、三十八件。

 その下に、もう一つフォルダがあった。

 未送信ボックス(1)

 指が、止まった。

 開けば、そこに何かある。十年前の六月十七日に打たれて、送られなかったものが、一件。

 わたしは、開かなかった。

 理由は、自分でも分からない。開けば分かる。分かってしまったら、そのあとの自分がどうなるか、見当がつかなかった。

 携帯を閉じた。

 閉じてから、両手で持って、しばらくそうしていた。

 わたしは、床の携帯を見た。

 母は言った。おじいちゃんは、自分のせいだと思って死んだ、と。

 理由は、ここにあった。

 十年、わたしの会社の引き出しの中にあった。挿せば分かった。挿さなかった。

 いや、挿しても点かなかった。

 点かないことを、わたしは十年、言い訳にしていた。

 言い訳は、四千円もかからずに消えた。

 店員は料金はいらないと言った。無料でなかったとしても、数千円だ。十年、わたしはそれを払わなかった。払わない理由を、電池のせいにしていた。

 わたしが四年やってきた仕事は、確かめる仕事だ。喪主の名前の漢字を二度聞く。通夜の時刻を三度読み上げてもらう。裏の取れない話は書かない。

 その人間が、自分の家のことだけ、十年、一度も確かめなかった。

 床に座ったまま、わたしは声を出そうとした。

 出なかった。

 九月から、そこは乾いている。


 十一月九日、雨が降った。

 わたしは携帯を持って行った。

 コートの内ポケットに入れて、板塀のあいだを八歩歩いた。戸を引いた。鈴が鳴った。祖父の家の風鈴の音がした。

「濡れましたね」

「はい」

 店の中の霧は、膝を越えていた。

 歩くと、白いものが足のまわりで巻いた。水の中を歩くときの抵抗はない。抵抗がないのに、視覚だけが水の中にいると言っている。

 添島さんはいなかった。乗務の日だ。

 Tシャツの人も、いなかった。三週間、来ていない。

 わたしは、まん中の席に座った。

 店主がサイフォンを出した。

 布を張った金具を、上の器にはめこむ。鎖を管に通す。先を引っかける。竹べらで位置を確かめる。二度直した。

 わたしは、その顔を見ていた。

 五か月、わたしはこの人の手ばかり見てきた。手だけが生きていると思っていた。顔は動かないと思っていた。

 今夜は、顔を見た。

 白髪を短く刈っている。皺が深い。目のまわりの皮膚が幾重にも折り重なる彫りかたをしている。年齢の見当がつかない。七十にも、九十にも見える。

 目だけが違う。

 黒目が大きくて、濡れていて、瞬きの回数が多い。子どもの目だ。

 祖父ではない。

 祖父の顔なら、わたしは覚えている。丸い顔で、鼻が低くて、耳が大きかった。笑うと歯が三本欠けているのが見えた。この人とは、どこも似ていない。

 添島さんは、先代は八十くらいの痩せた老人だったと言った。それが祖父なら、この人はその次の人だ。

 九年前の春に、代わった。

 祖父が解放されて、この人が来た。

 では、この人は誰だ。

 謝れなかった人だ。誰に、何を謝れなかったのか。

 わたしは、その問いを頭の中に置いた。

 置いたまま、この人の手元を見た。

 湯が上がりきって、粉が落ちた。竹べらを入れる。一度だけ。粉の面に切れ目を入れて、湯とすれ違わせる。

 そこから、この人は何もしない。

 腕を組むでもなく、時計を見るでもなく、ガラスの中を見ている。一分近く、そうしている。

 その一分は、長い。

 わたしは数えたことがある。八月に、心の中で秒を刻んで、五十八まで数えた。九月は六十二。十月は数えなかった。今夜、また数えた。

 四十四。

 短くなっている。

 火を落とすのが早くなっている。それが手順の変更なのか、この店の時間の変化なのか、判断がつかない。判断がつかないものが、この五か月で増えつづけている。

 数えているあいだ、わたしはこの人の顔を見ていた。

 見ていて、思った。

 この人は、待っている。

 湯が落ちるのを待っているのではない。手はもう何もしていない。何もしないでいる一分を、この人は毎回、同じ姿勢で過ごしている。ガラスの中を見ているようで、焦点は合っていない。

 待ちかたが、慣れている。

 その一分のあいだに、動いた。

 右の眉が、寄った。

 眉間ではない。右の眉だけが、内側へ寄って、また戻った。何かを考えていて、考えの途中で引っかかったときの動きだった。

 わたしは、その動きを見ていた。

 見ていて、何も思わなかった。

 見たことがある動きだった。見たことがあると思ったことすら、意識に上がらなかった。

 わたしは、視線を手元に戻した。

 戻したのは、見てはいけないものを見た気がしたからだ。人の顔をこんなに長く見るのは、取材でもやらない。相手が黙っている時間の顔は、記事にできない。記事にできないものを見つづけるのは、失礼にあたる。

 そう自分に言って、目をそらした。

 そらした一秒あとに、何かが引っかかった。

 引っかかったものが何なのかを、確かめなかった。

 火が落ちた。

 二度目の竹べらが入る。黒が布を抜けて落ちてくる。

 黒ではなかった。茶色だ。前回より、また薄い。

 カップが置かれた。

「お代を」

「今夜は、何ですか」

「あなたが、お祖父さまの葬式で立っていた場所を」

 わたしは、店主を見た。

「場所ですか」

「はい」

「記憶じゃなくて」

「場所です。あなたがどこに立っていたか。それだけです」

 わたしは、思い出そうとした。

 思い出せた。祖父の葬式は、市の北の斎場だった。夏で、暑くて、喪服の背中が濡れた。わたしは受付にいた。母が親戚の対応で動けなくて、わたしが記帳をさばいた。

 その場所を、払う。

 払ったら、どうなるのか。

「払ったら、わたしは祖父の葬式のどこにいたことになりますか」

「どこにもいなくなります」

「行かなかったことになるんですか」

「いいえ。行きました。立っていた場所が、なくなります」

 わたしは、そのイメージを掴めなかった。

 掴めないまま、飲んだ。

 薄かった。祖父の淹れた一杯の味が、四分の一くらいの濃さで残っている。角砂糖の甘さが、遠い。

 頭の芯が、少しだけ冷えた。

 指先は、冷えなかった。

 十月二十六日から、ずっと冷えない。

 わたしは、内ポケットから携帯を出した。

 カウンターの上に置いた。

「これ、妹のです」

 言った。

 言ってから、二つ目の掟に触れていないかを確かめた。名を語ってはいない。妹、とは言った。妹という語は、五か月ずっと使ってきた。通る。

 店主は、カウンターの上の銀色を見ていた。

「十年前から電源が入りませんでした。過放電というやつだそうです。店で解除してもらったら、点きました」

「そうですか」

「着信履歴がありました。事故の九分前に、四回。全部、出ていません」

 店主は、動かなかった。

「かけたのは、祖父です」

 その言葉を出したとき、わたしは店主の顔を見ていた。

 見ていて、気づかなかった。

 この人の目のまわりが、そのとき、一瞬だけ濡れた。

 わたしは、下を向いていた。カウンターの上の携帯を見ていた。だから、見なかった。


「マスター」

「はい」

「祖父は、解放されたんですよね」

「はい」

「次の人が現れたから」

「はい」

「その次の人が、あなたです」

「はい」

 わたしは、カップの底を見た。

 底が、見える。

「あなたは、いつからここにいるんですか」

「九年前の春からです」

「その前は」

「答えられません」

「答えられない、ですか」

「はい」

 答えない、ではなく、答えられない、と言った。

 この人は言葉を選ぶ。五か月見てきて、それだけは分かる。答えない、は選択だ。答えられない、は禁止だ。

「誰かに、止められてるんですか」

「掟は、五つです」

「あれはお客のためのものだと、前に言いましたよね」

「はい」

「あなたのためのものは」

「書いてありません」

「書いてないなら、なぜ守るんですか」

 店主は、伏せた器を見ていた。

「書いていないほうが、重いんです」

 わたしは、その一文を、そのまま受け取った。

 受け取って、次の質問を用意して、用意したところで、時計が鳴りそうな気配がした。鳴らなかった。針は左へまわっている。速さは、いつもと同じだった。

「もう一つだけ」

「どうぞ」

「祖父は、誰に謝れなかったんですか」

 店主は、答えなかった。

「妹にですか」

「……」

「妹に、すまなかったと言えなかった。だからここに来た。そういうことですか」

「私が申し上げることではありません」

「じゃあ、誰が言うんですか」

 わたしは、声を大きくしていた。

 大きくしたことに、自分で驚いた。この店で、わたしは一度も声を張ったことがない。

「祖父は死にました。妹も死にました。二人とも、もういません。誰が誰に謝るんですか。謝る人がいないなら、この店は何のためにあるんですか」

 店主は、こちらを見た。

 皺の中の、子どもの目で。

「あなたが、いらっしゃいます」

 わたしは、口を閉じた。

「あなたは、生きています」

「……」

「生きている方が一人でもいるあいだは、まだ、済んでいません」

 店主は、そう言った。

 言い終えてから、布巾を畳んだ。畳んで、カウンターの端に置いた。

「マスター」

「はい」

「あなたが解放されるのは、次の人が現れたときですね」

「はい」

「現れる予定は」

「ありません」

「じゃあ、あなたはずっとここにいる」

「店があるあいだは」

 わたしは、その言い方に引っかかった。

「店が、なくなることがあるんですか」

 店主は、答えなかった。

 答えない代わりに、カップのほうを見た。わたしの手元の、底の見える茶色いものを。

「この色は」わたしは言った。「戻りますか」

「いいえ」

「薄くなる一方ですか」

「はい」

「最後は」

「そろそろ」

 わたしは立ち上がった。

 膝の高さの霧が、立ち上がった動きで渦を巻いた。渦は、わたしの体を避けるように、外側へ広がった。

 奥を見た。

 紺色の肩が、霧の手前にある。

 少女は掌を見ていた。指が線をなぞっている。端から端まで。前より、なぞる速さが遅い。

「おやすみなさい」

 わたしは言った。

 少女は、顔を上げなかった。

 顔を上げないまま、口だけ動かした。

「おやすみ」

 その声を聞いて、わたしは戸のほうへ歩いた。

 歩きながら、内ポケットの携帯を確かめた。硬くて、四角い。十年ぶんの重さがある。

 戸を引いた。鈴が鳴った。

 祖父の家の風鈴の音がした。

 一歩踏み出したところで、足が止まった。

 違う。

 祖父の家の風鈴の音ではない。

 似ている。似ているが、同じではない。祖父の家の風鈴は、もっと高くて、短く鳴って、すぐ切れた。この音は、後ろに少し伸びる。伸びて、消えるまでに一拍ある。

 わたしは、この音を知っている。

 夏の朝だ。台所で、母が窓を開ける。風が通る。縁側の風鈴が鳴る。雫が起きてきて、麦茶を出す。冷蔵庫が閉まる音がして、それから風鈴が、もう一度鳴る。

 祖父の家ではない。

 うちの家だ。

 十年前の六月十七日の朝、わたしと雫が最後に一緒にいた、あの台所の音だった。

 わたしは戸口に立ったまま、鈴を見た。

 真鍮の鈴が、揺れを収めるところだった。

 マスターが淹れるコーヒーの香りを、わたしは「祖父の家の匂い」だと思っていた。違った。あれは、わたしと雫が最後に一緒にいた朝の、家の匂いだった。



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