第八話 マスターの過去
先代は、最後の日に、ひとつだけ私に言った。
すまなかった、と言えていたら、こんな店はいらなかった、と。
私はまだ、その一言を誰にも言っていない。
十一月二日、雨が降った。
十一月の雨は、十月の雨より冷たい。気温が九度まで落ちて、川から上がる白いものが、街灯の光を根元から食べた。傘をさしても肩が濡れる降りかたをしていた。
店の中の霧は、膝の下まで来ていた。
十月の終わりに足首の高さだったものが、一週間で膝に届いた。
座ると、丸椅子の脚が見えない。水位の上がった部屋で、椅子だけが浮いているように見える。
添島さんがいた。
Tシャツの人は、いなかった。
「あいつ、来ないな」
「先週も来てませんでした」
「そうか」
添島さんは、それ以上言わなかった。
カップが置かれた。
わたしは色を見た。
薄い。
黒ではなかった。濃い茶色で、灯りにかざすと向こうが透ける。五か月、この店のコーヒーは黒かった。少し赤みのある黒で、底が見えなかった。
底が、見えた。
「葉山さん」
添島さんが、こちらを向いた。
「話がある」
「車ですか」
「いや、ここでいい。店の中で話せる話だ」
わたしは、カップに手を触れずに待った。
「十年、俺は集めてた」
「何をですか」
「この店の話だ」
添島さんは、上着の内ポケットから、折りたたんだ紙を出した。
広げると、A4のコピー用紙が四枚あった。鉛筆で、細かい字が書いてある。表になっている。日付と、天気と、客の数と、短い覚え書き。
「これは」
「日報だ。うちの会社のとは別の」
わたしは、いちばん上の紙を見た。
日付が、十年ぶん並んでいた。行の数は多くない。年に十日か、多くて十五日。それがこの店の出た日だ。
「条件が揃った日を、全部書いてある」
「十年ぶん」
「最初の三年は書いてない。書きはじめたのは七年前だ。それより前は、思い出せる範囲で埋めた」
わたしは、指で行を追った。
六月と九月と十月と十一月に、印がかたまっている。梅雨と、秋雨と、初冬。夏の盛りと冬の深いところには、ほとんどない。
「気づいたことが三つある」
添島さんは、指を一本立てた。
「一つ。店が出る日は、年々増えてる」
「増えてる」
「七年前は年に九日だった。去年は十四日だ。今年はもう、三十四日ある」
わたしは、その数字を頭に入れた。
「二つ。客の数が減ってる」
指が二本になった。
「昔は奥の霧が、もっと遠かった。カウンターの端で切れてた。いまは膝まで来てる。霧が近いってのは、常連が増えてるってことだと俺は思ってる」
「増えてるのに、減ってるんですか」
「奥は増えて、手前は減ってる」
添島さんは、三本目の指を立てた。
「三つ目。これが一番でかい」
「何ですか」
「あんたは五か月で、掟の五行と、常連の話と、支払いの仕組みを知った。俺は十年かけて、それしか知らんように見えるだろう」
「そうは思ってません」
「思ってていい。俺も、そのつもりで喋ってきた」
添島さんは、指を組んだ。
「マスターは、代わる」
わたしは顔を上げた。
「代わるんですか」
「代わる。俺が最初に来たときのマスターと、いまのマスターは、別人だ」
「別人」
「俺は前のを、先代と呼んでる」
わたしは店主のほうを見た。
店主は、器を洗っていた。手が止まらない。この人は、自分の話をされているあいだ、いつも手を動かしている。
「先代は、どんな人でしたか」
「じいさんだった」
「いまの人も」
「いまのは、年が分からんだろう。先代は分かった。八十くらいの、痩せたじいさんだ。腰が曲がってて、サイフォンを持つのに両手を使ってた」
わたしは、その姿を思い浮かべようとした。
「話しかたも違った。あの人はよく喋る人でな。聞いてもいないことを喋る。天気の話と、豆の話と、あとは謝ってた」
「謝る」
「すまんね、すまんね、って言うんだ。何に対してでもない。コーヒーを出しながら、すまんね、と言う。癖だと思ってた」
添島さんはカップから指を離した。
「いつ代わったんですか」
「九年前の春だ。冬のあいだは先代がいて、春に来たら、いまのがいた」
「引き継ぎとか、説明とかは」
「なかった。俺が聞いたら、いまのマスターがこう言った。あの方は、終わりました、と」
終わりました。
その言い方を、わたしは頭の中で二度繰り返した。
「先代は、どこへ行ったんですか」
「知らん」
添島さんは、そこで初めて、わたしのほうを正面から見た。
「ただな。俺は先代に、一つだけ答えてもらったことがある」
「何を」
「うちの女房が、この店に来たことがあるかどうかだ」
わたしは、息を止めた。
「遺品にマッチがあった話は、したな」
「聞きました」
「あれを見つけて、店を探して、通いはじめて、半年くらいで聞いた。先代は、答えた」
「答えたんですか」
「答えた。いまのマスターは答えん。先代は答える人だった」
添島さんは、空のカップの底を見ていた。
「来ました、と言った。それから、日にちを言った」
「六月十七日だ」
添島さんは、そう言った。
わたしは、動かなかった。
動かなかったのは、驚かなかったからではない。驚きが体に届くまでに、時間がかかった。頭の中で、二つの日付が同じ場所に置かれて、重なって、それが何を意味するのかを、体が理解するのを待っていた。
「葉山さん」
「……はい」
「あんた、いま、顔が」
「妹が死んだ日です」
言った。
言ってから、ここが店の中だと気づいた。
三つ目の掟。隣の客と、そのことについて語ってはならない。
わたしの喉は、締まらなかった。
言えた。
「おい」
添島さんの声が、鋭かった。
「あんた、いま」
「言えました」
「三つ目だぞ」
「言えました」
わたしは、自分の喉に手を当てた。
九月に、この店で「お悔やみ申し上げます」の続きが出なかった。十月には、少女に呼びかけようとして三つの音が出なかった。掟は、こちらの意思と関係なく、口の中で言葉をほどく。
今夜は、ほどけない。
「マスター」添島さんが言った。「三つ目は、どうなってる」
店主は、答えなかった。
答えない代わりに、床のほうを見た。膝の高さの霧が、カウンターの脚のあたりで回っている。
「一つ破ると、あとが緩むんですか」
わたしは聞いた。
「掟は、五つで一つです」
店主は、そう言った。
「五つで、一枚の紙です。一行が破れると、他の行も、同じぶんだけ薄くなります」
「じゃあ、いま」
「四行ぶん、薄くなっています」
わたしは、戸口の貼り紙を思い出した。飴色に焼けた和紙。虫食いの穴が二つ。無骨な墨の字。
あれが、薄くなっている。
わたしが十月二十六日に、おかわりをくださいと言ったせいで。
添島さんが、わたしのほうを向いた。
この人が驚くところを、わたしは初めて見た。
「同じ日か」
「同じ日です。十年前の、六月十七日」
「時間は」
「夜の十時ごろです」
添島さんは、カウンターに両手をついた。
「うちのが家を出たのは、その日の夕方だ。俺は乗務で、朝の四時半に上がって、家に帰ったら鍵が開いてた」
わたしたちは、しばらく黙っていた。
振り子時計の音がしていた。左へまわる針が、いつもの速さで動いている。
「マスター」
添島さんが言った。
「はい」
「あの夜、うちの女房と、この人の妹は、両方この街にいた」
「はい」
「二人とも、あんたらの店に関わってる」
「はい」
「偶然か」
店主は、布巾を置いた。
「あの夜は、条件が揃っていました」
「聞いてない」
「揃った夜には、呼ばれる人が増えます」
「増えるだけか」
「増えるだけです」
店主は、そう言った。
言い方に、逃げがなかった。増えるだけだ、と言い切った。それが本当かどうかを確かめる方法は、わたしたちにない。
「もう一つ聞かせてください」
わたしは言った。
「先代の人は、なぜ店主になったんですか」
「代を継ぐ方には、条件があります」
「条件」
「謝れなかった方です」
店内の霧が、膝のあたりで揺れた。
「謝りたい相手に、謝れないまま終わった方が、ここに来ます。来て、この仕事をします。次の方が現れるまで」
「次が来たら」
「解放されます」
「どこへ」
「私は知りません。まだ、行っていませんので」
わたしは、その答えを聞いて、この人が「私」という言葉を使ったことに気づいた。
五か月で、二度目だった。一度目は八月で、逃げられた人をうらやましいと思ったことがある、と言った。
「先代の人は」わたしは言った。「誰に、何を謝れなかったんですか」
店主は、答えなかった。
「答えないんですね」
「私が申し上げることではありません」
「じゃあ、一つだけ」
わたしは、カップの薄い茶色を見ていた。
「先代の人は、うちの祖父ですか」
店内が、静かになった。
添島さんが、わたしのほうを向いた。
「なんでそう思う」
「看板です」
わたしは戸口のほうを見た。木の看板は外にある。ここからは見えない。
「GG。わたしはあれを、ジジィと読みました。読んだから、あの路地に入りました。祖父の呼び名です。妹がつけました」
「そりゃ、あんたの読み方だろう」
「そうです。わたしの読み方です」
「じゃあ」
「祖父は、十年前に死にました。妹が死んだ、そのあとです」
わたしは、指を組んだ。
「病気でした。もともと悪かったんです。医者は、半年か一年と言ってました。……三か月でした」
添島さんは、何も言わなかった。
「葬式のとき、母が言いました。おじいちゃんは、自分のせいだと思って死んだ、って」
「なぜだ」
「分かりません」
その一言を、わたしは十年、そのまま置いていた。
母には、九月に一度、電話をしている。
用件は親戚の法事の日取りで、十五分喋った。祖父の話は出なかった。雫の話も出なかった。母とわたしのあいだで、その二つは、十年前から議題に上がらない。
上がらないのは、母が避けているからだと思っていた。
いま、分かる。
議題を出すのは、たいてい、先に喋りはじめたほうだ。母は喋りはじめない人で、わたしも喋りはじめない人になった。二人とも喋りはじめなければ、そのまま十年が経つ。
なぜ祖父が自分のせいだと思ったのか。母がなぜそう言ったのか。聞けば分かることだった。母は生きている。電話をすれば出る。
聞かなかった。
真昼のことも聞かなかった。祖父のことも聞かなかった。十年、わたしは何一つ聞かないできた。
聞かないから優しい、と誰かが言った。
わたしは優しくない。ただ、聞かなかっただけだ。
「マスター」
「はい」
「先代の人は、コーヒーを飲みましたか」
「いいえ」
「あなたも飲まない」
「はい」
「代を継ぐと、飲めなくなるんですか」
「そうではありません」
店主は、伏せた器を見ていた。
「飲む理由が、なくなるんです」
十一月五日、わたしは会社の引き出しから携帯電話を取り出した。
十年前から電源の入らない、折りたたみの一台。銀色の塗装が角から剥げて、ヒンジに細い傷が二本。画面側の角が欠けて、そこだけ白い。
充電器も出した。灰色のコードが輪ゴムで留めてある。輪ゴムは触れたら切れた。
デスクの下のコンセントに挿した。
十分待った。
何も起きなかった。ランプがつかない。画面も変わらない。三十分待って、コードを別のコンセントに挿し替えて、また三十分待った。
同じだった。
昼休みに、市内の携帯ショップに行った。
カウンターに置いて、事情を話した。十年前の機種で、十年通電していない、中のデータを見たい、と。
対応した店員は、二十代の前半に見えた。名札に、下の名前だけが書いてある。
「たぶん、過放電です」
「過放電」
「電池が、決められた容量より下まで放電してしまうと、それ以上使えないようにロックがかかるんです。安全のためです。そのままだと、充電器を挿してもランプもつきません」
「壊れてるわけじゃないんですか」
「壊れてないことが多いです」
店員は、奥から小さな機械を持ってきた。
「電池パックを外して、これで診断して、ロックを解除します。解除できれば、充電できるようになります」
「できないこともある」
「あります。十年だと、五分五分だと思ってください」
わたしはうなずいた。
店員は背面のカバーを外して、電池パックを取り出した。薄い板を、機械の端子に当てる。画面に数字が出た。
「いけます」
その一言で、わたしの喉が鳴った。
三分ほど当てて、電池パックを本体に戻して、充電器につないだ。
「電源、押してみてください」
わたしは、その場所を探した。十年前の機種のボタン配置を、わたしは知らない。妹の携帯だ。触ったことがない。
店員が、指で示してくれた。
押した。
画面が、光った。
十年、火の入らなかったものに、火が入った。
白くなって、それから、メーカーのロゴが出た。起動音が鳴った。短い、明るい音だった。店内のBGMの中で、その音だけが十年前から届いた。
待受画面が出た。
写真だった。
雫と、真昼が写っていた。
高校の入学式の日だ。制服が新しくて、袖が長い。二人ともピースをしている。うちの机の引き出しの封筒に、同じ写真の紙焼きがある。
わたしは、その画面を見ていた。
雫の顔が、あった。
見れば分かる。照合ではなく、分かった。目の形も、鼻も、笑うと右側だけ口が上がる癖も、ぜんぶある。
見れば、ある。
見なければ、ない。
「日付は、たぶんリセットされてます」
店員が言った。
「電池が完全に切れると、時計が初期値に戻るんです。今日の日付は入れ直せますけど、中の履歴に残ってる日時は、記録されたときのものが残ってます」
「履歴は、消えてないんですか」
「本体のメモリに入ってるものは、残ります。電話帳も、履歴も、メールも」
「見られますか」
「見られます。電波は入りません。解約されてるので、圏外表示のままです」
わたしは礼を言った。
店員は、料金はいらないと言った。
「うち、こういうの、たまに持ちこまれるんです」
「そうですか」
「多いのは、亡くなった方のです」
その人は、そう言って、機械を片付けた。
「留守電の声が残ってることもあります。開くかどうかは、お客さまが決めてください」
わたしは携帯を紙袋に入れて、会社に戻った。
戻って、仕事をした。四件の訃報を三行にして、確認の電話を三本かけた。定時で上がって、部屋に帰った。
部屋の電気をつけて、床に座って、紙袋から出した。
開いた。
待受画面の二人が、また出てきた。
メニューの操作は、店員が教えてくれた。着信履歴のマークを押す。
一覧が出た。
いちばん上。
ジジィ
6月17日 21:51
わたしは、その表示を見ていた。
事故は、夜の十時ごろだ。記事にそう書いてある。
九分前。
いちばん上ということは、それが最後の着信だ。通話時間の表示があった。
0分00秒
出ていない。
雫は、その電話に出ていない。
わたしは、二番目を見た。
ジジィ 6月17日 21:48
ジジィ 6月17日 21:45
ジジィ 6月17日 21:40
三沢 6月17日 20:57
祖父は、四回かけていた。
九時四十分、四十五分、四十八分、五十一分。全部、出ていない。
事故は十時ごろだ。最後の着信から、九分。最初の着信から数えても、二十分ない。
その二十分のあいだ、車は県道を走っていた。
わたしは携帯を床に置いた。
置いて、両手を膝に置いて、そのまま座っていた。
祖父は、あの夜、四回かけた。
出ない。出ないから、またかけた。
そのあいだ、雫は車の助手席にいた。運転しているのは、免許のない同級生だ。夜で、雨で、県道で、街灯が少ない。
携帯が鳴る。
一回目。二回目。三回目。四回目。
出ない妹の膝の上で、あるいはポケットの中で、あるいはダッシュボードの上で、四回鳴った。
運転している子が、それを聞いている。
わたしは、メールのフォルダを開いた。
受信箱に、四十二件あった。ほとんどが友達とのやりとりで、日付は事故の前の一週間に集中している。絵文字が多い。短い。返事が早い。
送信箱に、三十八件。
その下に、もう一つフォルダがあった。
未送信ボックス(1)
指が、止まった。
開けば、そこに何かある。十年前の六月十七日に打たれて、送られなかったものが、一件。
わたしは、開かなかった。
理由は、自分でも分からない。開けば分かる。分かってしまったら、そのあとの自分がどうなるか、見当がつかなかった。
携帯を閉じた。
閉じてから、両手で持って、しばらくそうしていた。
わたしは、床の携帯を見た。
母は言った。おじいちゃんは、自分のせいだと思って死んだ、と。
理由は、ここにあった。
十年、わたしの会社の引き出しの中にあった。挿せば分かった。挿さなかった。
いや、挿しても点かなかった。
点かないことを、わたしは十年、言い訳にしていた。
言い訳は、四千円もかからずに消えた。
店員は料金はいらないと言った。無料でなかったとしても、数千円だ。十年、わたしはそれを払わなかった。払わない理由を、電池のせいにしていた。
わたしが四年やってきた仕事は、確かめる仕事だ。喪主の名前の漢字を二度聞く。通夜の時刻を三度読み上げてもらう。裏の取れない話は書かない。
その人間が、自分の家のことだけ、十年、一度も確かめなかった。
床に座ったまま、わたしは声を出そうとした。
出なかった。
九月から、そこは乾いている。
十一月九日、雨が降った。
わたしは携帯を持って行った。
コートの内ポケットに入れて、板塀のあいだを八歩歩いた。戸を引いた。鈴が鳴った。祖父の家の風鈴の音がした。
「濡れましたね」
「はい」
店の中の霧は、膝を越えていた。
歩くと、白いものが足のまわりで巻いた。水の中を歩くときの抵抗はない。抵抗がないのに、視覚だけが水の中にいると言っている。
添島さんはいなかった。乗務の日だ。
Tシャツの人も、いなかった。三週間、来ていない。
わたしは、まん中の席に座った。
店主がサイフォンを出した。
布を張った金具を、上の器にはめこむ。鎖を管に通す。先を引っかける。竹べらで位置を確かめる。二度直した。
わたしは、その顔を見ていた。
五か月、わたしはこの人の手ばかり見てきた。手だけが生きていると思っていた。顔は動かないと思っていた。
今夜は、顔を見た。
白髪を短く刈っている。皺が深い。目のまわりの皮膚が幾重にも折り重なる彫りかたをしている。年齢の見当がつかない。七十にも、九十にも見える。
目だけが違う。
黒目が大きくて、濡れていて、瞬きの回数が多い。子どもの目だ。
祖父ではない。
祖父の顔なら、わたしは覚えている。丸い顔で、鼻が低くて、耳が大きかった。笑うと歯が三本欠けているのが見えた。この人とは、どこも似ていない。
添島さんは、先代は八十くらいの痩せた老人だったと言った。それが祖父なら、この人はその次の人だ。
九年前の春に、代わった。
祖父が解放されて、この人が来た。
では、この人は誰だ。
謝れなかった人だ。誰に、何を謝れなかったのか。
わたしは、その問いを頭の中に置いた。
置いたまま、この人の手元を見た。
湯が上がりきって、粉が落ちた。竹べらを入れる。一度だけ。粉の面に切れ目を入れて、湯とすれ違わせる。
そこから、この人は何もしない。
腕を組むでもなく、時計を見るでもなく、ガラスの中を見ている。一分近く、そうしている。
その一分は、長い。
わたしは数えたことがある。八月に、心の中で秒を刻んで、五十八まで数えた。九月は六十二。十月は数えなかった。今夜、また数えた。
四十四。
短くなっている。
火を落とすのが早くなっている。それが手順の変更なのか、この店の時間の変化なのか、判断がつかない。判断がつかないものが、この五か月で増えつづけている。
数えているあいだ、わたしはこの人の顔を見ていた。
見ていて、思った。
この人は、待っている。
湯が落ちるのを待っているのではない。手はもう何もしていない。何もしないでいる一分を、この人は毎回、同じ姿勢で過ごしている。ガラスの中を見ているようで、焦点は合っていない。
待ちかたが、慣れている。
その一分のあいだに、動いた。
右の眉が、寄った。
眉間ではない。右の眉だけが、内側へ寄って、また戻った。何かを考えていて、考えの途中で引っかかったときの動きだった。
わたしは、その動きを見ていた。
見ていて、何も思わなかった。
見たことがある動きだった。見たことがあると思ったことすら、意識に上がらなかった。
わたしは、視線を手元に戻した。
戻したのは、見てはいけないものを見た気がしたからだ。人の顔をこんなに長く見るのは、取材でもやらない。相手が黙っている時間の顔は、記事にできない。記事にできないものを見つづけるのは、失礼にあたる。
そう自分に言って、目をそらした。
そらした一秒あとに、何かが引っかかった。
引っかかったものが何なのかを、確かめなかった。
火が落ちた。
二度目の竹べらが入る。黒が布を抜けて落ちてくる。
黒ではなかった。茶色だ。前回より、また薄い。
カップが置かれた。
「お代を」
「今夜は、何ですか」
「あなたが、お祖父さまの葬式で立っていた場所を」
わたしは、店主を見た。
「場所ですか」
「はい」
「記憶じゃなくて」
「場所です。あなたがどこに立っていたか。それだけです」
わたしは、思い出そうとした。
思い出せた。祖父の葬式は、市の北の斎場だった。夏で、暑くて、喪服の背中が濡れた。わたしは受付にいた。母が親戚の対応で動けなくて、わたしが記帳をさばいた。
その場所を、払う。
払ったら、どうなるのか。
「払ったら、わたしは祖父の葬式のどこにいたことになりますか」
「どこにもいなくなります」
「行かなかったことになるんですか」
「いいえ。行きました。立っていた場所が、なくなります」
わたしは、そのイメージを掴めなかった。
掴めないまま、飲んだ。
薄かった。祖父の淹れた一杯の味が、四分の一くらいの濃さで残っている。角砂糖の甘さが、遠い。
頭の芯が、少しだけ冷えた。
指先は、冷えなかった。
十月二十六日から、ずっと冷えない。
わたしは、内ポケットから携帯を出した。
カウンターの上に置いた。
「これ、妹のです」
言った。
言ってから、二つ目の掟に触れていないかを確かめた。名を語ってはいない。妹、とは言った。妹という語は、五か月ずっと使ってきた。通る。
店主は、カウンターの上の銀色を見ていた。
「十年前から電源が入りませんでした。過放電というやつだそうです。店で解除してもらったら、点きました」
「そうですか」
「着信履歴がありました。事故の九分前に、四回。全部、出ていません」
店主は、動かなかった。
「かけたのは、祖父です」
その言葉を出したとき、わたしは店主の顔を見ていた。
見ていて、気づかなかった。
この人の目のまわりが、そのとき、一瞬だけ濡れた。
わたしは、下を向いていた。カウンターの上の携帯を見ていた。だから、見なかった。
「マスター」
「はい」
「祖父は、解放されたんですよね」
「はい」
「次の人が現れたから」
「はい」
「その次の人が、あなたです」
「はい」
わたしは、カップの底を見た。
底が、見える。
「あなたは、いつからここにいるんですか」
「九年前の春からです」
「その前は」
「答えられません」
「答えられない、ですか」
「はい」
答えない、ではなく、答えられない、と言った。
この人は言葉を選ぶ。五か月見てきて、それだけは分かる。答えない、は選択だ。答えられない、は禁止だ。
「誰かに、止められてるんですか」
「掟は、五つです」
「あれはお客のためのものだと、前に言いましたよね」
「はい」
「あなたのためのものは」
「書いてありません」
「書いてないなら、なぜ守るんですか」
店主は、伏せた器を見ていた。
「書いていないほうが、重いんです」
わたしは、その一文を、そのまま受け取った。
受け取って、次の質問を用意して、用意したところで、時計が鳴りそうな気配がした。鳴らなかった。針は左へまわっている。速さは、いつもと同じだった。
「もう一つだけ」
「どうぞ」
「祖父は、誰に謝れなかったんですか」
店主は、答えなかった。
「妹にですか」
「……」
「妹に、すまなかったと言えなかった。だからここに来た。そういうことですか」
「私が申し上げることではありません」
「じゃあ、誰が言うんですか」
わたしは、声を大きくしていた。
大きくしたことに、自分で驚いた。この店で、わたしは一度も声を張ったことがない。
「祖父は死にました。妹も死にました。二人とも、もういません。誰が誰に謝るんですか。謝る人がいないなら、この店は何のためにあるんですか」
店主は、こちらを見た。
皺の中の、子どもの目で。
「あなたが、いらっしゃいます」
わたしは、口を閉じた。
「あなたは、生きています」
「……」
「生きている方が一人でもいるあいだは、まだ、済んでいません」
店主は、そう言った。
言い終えてから、布巾を畳んだ。畳んで、カウンターの端に置いた。
「マスター」
「はい」
「あなたが解放されるのは、次の人が現れたときですね」
「はい」
「現れる予定は」
「ありません」
「じゃあ、あなたはずっとここにいる」
「店があるあいだは」
わたしは、その言い方に引っかかった。
「店が、なくなることがあるんですか」
店主は、答えなかった。
答えない代わりに、カップのほうを見た。わたしの手元の、底の見える茶色いものを。
「この色は」わたしは言った。「戻りますか」
「いいえ」
「薄くなる一方ですか」
「はい」
「最後は」
「そろそろ」
わたしは立ち上がった。
膝の高さの霧が、立ち上がった動きで渦を巻いた。渦は、わたしの体を避けるように、外側へ広がった。
奥を見た。
紺色の肩が、霧の手前にある。
少女は掌を見ていた。指が線をなぞっている。端から端まで。前より、なぞる速さが遅い。
「おやすみなさい」
わたしは言った。
少女は、顔を上げなかった。
顔を上げないまま、口だけ動かした。
「おやすみ」
その声を聞いて、わたしは戸のほうへ歩いた。
歩きながら、内ポケットの携帯を確かめた。硬くて、四角い。十年ぶんの重さがある。
戸を引いた。鈴が鳴った。
祖父の家の風鈴の音がした。
一歩踏み出したところで、足が止まった。
違う。
祖父の家の風鈴の音ではない。
似ている。似ているが、同じではない。祖父の家の風鈴は、もっと高くて、短く鳴って、すぐ切れた。この音は、後ろに少し伸びる。伸びて、消えるまでに一拍ある。
わたしは、この音を知っている。
夏の朝だ。台所で、母が窓を開ける。風が通る。縁側の風鈴が鳴る。雫が起きてきて、麦茶を出す。冷蔵庫が閉まる音がして、それから風鈴が、もう一度鳴る。
祖父の家ではない。
うちの家だ。
十年前の六月十七日の朝、わたしと雫が最後に一緒にいた、あの台所の音だった。
わたしは戸口に立ったまま、鈴を見た。
真鍮の鈴が、揺れを収めるところだった。
マスターが淹れるコーヒーの香りを、わたしは「祖父の家の匂い」だと思っていた。違った。あれは、わたしと雫が最後に一緒にいた朝の、家の匂いだった。




