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喫茶店GG(ジジィ) 〜この世とあの世の境界線〜  作者: やはぎ・エリンギ


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10/14

第九話 コーヒーの温度

終わりは、決まっている。

決まっているものを、私は毎晩数えている。

数えると、そのぶん早く来る気がする。やめられない。

 十一月二十二日、雨が降った。

 気温は五度だった。予報では、二十六日から二十七日にかけて雪が混じると言っていた。北央市の初雪は、平年で十一月の終わりだ。

 森口さんは、三週間来ていない。

 十月二十六日の夜、板塀の中でわたしを送ったのが最後だった。あの夜、あの人はわたしに「帰れる側にいてください」と言って、米屋の前で消えた。

 十一月に入ってから今夜までに、条件が揃った夜が十二回あった。わたしは十回行った。十回とも、あの席は空いていた。

 添島さんに聞いた。

「あいつは、来なくなったんじゃない」と、この人は言った。「来られなくなったんだろう」

「なぜですか」

「知らん」

 聞かないほうがいい気がして、それ以上聞かなかった。

 聞かないという技術を、わたしはまだ使っている。

 職場のほうは、十一月に入ってから、かえって落ち着いた。

 八月に三回ミスをして、九月に取材メモの余白に店の名前を書いて、十月には取材中に質問したことを忘れた。十一月は、一度もない。

 四件の訃報を、正確に三行にしている。喪主の漢字を二度聞き、時刻を三度読み上げてもらう。定時に上がる。

 柏木さんが、廊下ですれ違ったときに言った。

「調子、戻ったな」

「はい」

「顔は戻ってないぞ」

 わたしは、その日は鏡を見なかった。

 耳の奥が鳴ったのは、夕方の六時だった。

 板塀のあいだを八歩。雨の音が半分になる。十歩でなくなる。軒先のランタンを見上げて、わたしは足を止めた。

 火が、青かった。

 橙色だったものが、芯の根元から青くなっている。ガスの火の内側の色に近い。その光は、板塀の木目を照らさなかった。照らしているのに、色が乗らない。

 戸を引いた。鈴が鳴った。

 うちの台所の風鈴の音がした。

「濡れましたね」

 店の中の霧は、腰まで来ていた。

 カウンターの天板の、五センチ下まで白い。座ると、胸から下が霧に沈む。自分の手が、霧の上に出ている。手だけが浮いている。

 添島さんがいた。

「よう」

「霧が」

「上がってる。先週より三十センチだ」

 添島さんは、上着の内ポケットから折りたたんだ紙を出した。四枚のうちの、いちばん新しい一枚だ。

「見ろ」

 十一月の欄に、印が並んでいた。

 一日、二日、五日、七日、九日、十一日、十二日、十五日、十六日、十八日、十九日、二十日、二十二日。

「十三日だ」わたしは数えた。「今夜を入れて、十一月だけで十三日」

「去年の十一月は三日だ」

「四倍」

「四倍だ。しかも、間隔が詰まってる。今月の後半なんか、二日と空かずに出てる」

 添島さんは紙を畳んだ。

「隔日勤務の俺が、休みの日に全部来られる。そんなことは十年で一度もなかった」

 わたしはカップを見た。

 置かれたばかりの白いカップに、茶色い液体が入っている。もう黒くない。紅茶より薄い。カップの底の、釉薬のひび割れまで見える。

 指で触れた。

 冷たい。

 十月の終わりに、冷たいと言った。あのときは部屋の温度と同じだった。

 今夜は、部屋より冷たい。

 わたしはカップを両手で包んだ。手のひらから熱が逃げていく。冷蔵庫から出したものを持っているときの逃げかたをする。

「マスター」

「はい」

「これ、飲み物じゃないです」

 店主は、否定しなかった。

「四十度くらいだと思ってました」わたしは言った。「人肌より少し下。それくらいだと。違います。これは十度台です」

「はい」

「わたしが最初に飲んだのは、六月です。あのとき、湯気がまっすぐ立ってました」

「はい」

「五か月で、ここまで下がるものですか」

「下がりました」

 答えになっていない。この人は九月まで、質問を返すことで答えなかった。十月からは「はい」と言うことで答えなくなった。形が変わっただけだ。

「店が終わるんだよ」

 添島さんが言った。

 わたしは、そちらを向いた。

「店ってのは、誰かの『待ってる』が尽きたら終わる」

「待ってる」

「そうだ。俺は十年、女房を待ってた。あんたは五か月、何かを待ってる。奥の連中も待ってる。ここは、待ってる人間の場所だ」

 添島さんは、空のカップを回した。

「待ってる人間がいるうちは、店は開く。全員が待つのをやめたら、閉まる」

「誰から聞いたんですか」

「誰からでもない。十年見てりゃ分かる」

 添島さんは、四枚の紙を上着に戻した。

「あんた、店が出る日が増えてるって言っただろう。あれをな、俺は最初、いいことだと思った。会える日が増えたと思った」

「違うんですか」

「違うな。あれは、店が焦ってるんだ」

「焦る」

「ろうそくは、消える前に一回明るくなる。あれと同じだ」

 わたしは、ランタンのことを考えた。

 青い火。橙色ではなくなった火。あれは明るくなったのか、それとも、燃えるものが変わったのか。

「マスター」

「はい」

「ランタンの火が、青いです」

「はい」

「油が変わったんですか」

「変わっていません」

「じゃあ」

「燃えているものが、少なくなりました」

 その答えを、わたしはそのまま受け取った。

 受け取って、次に聞くべきことを探して、聞かないことにした。答えが分かっているものを聞くのは、確認であって取材ではない。確認は、聞いた側が耐えられるときにやるものだ。

「みんなが待つのをやめたんですか」

「そうは思わん」

「じゃあ」

「一人だけ、やめかけてる」

 添島さんは、奥のほうを見た。

 わたしも、そちらを見た。

 腰までの霧の上に、紺色の肩があった。


 わたしは、椅子を四つぶんずらした。

 少女のすぐ隣まで行った。五か月、この距離まで寄ったことはない。いつも三つか四つ離れた席にいた。

 隣に座ると、少女は顔を上げた。

「こんばんは」

「こんばんは」

「今日も、手を見てるんですね」

「うん」

 少女は掌を開いた。

 わたしは、その手を見た。

 指先が、透けていた。

 爪の先から第一関節の手前まで、向こうのカウンターの木目が透けている。

 ガラスではない。水に近い。氷が溶けて、輪郭から先に水になっていくときの、あの中途半端な透きかただった。

「これ」

 わたしは声を出した。

「いつからですか」

「わかんない」

「見えてますか、自分で」

「見えてる」

 少女は、指を曲げて、伸ばした。動く。動くのに、先のほうがない。

「痛くはないの」

「痛くはないです」

「怖くは」

「怖い」

 少女は掌を閉じた。閉じると、指先の透けているところが重なって、いっそう薄くなった。

「あのね」

「はい」

「私、なんでここにいるんだっけ」

 わたしは、息を止めた。

「誰かを待ってたの。ずっと。それは覚えてる。……あれ、誰を待ってたんだっけ」

 九月には「私、なにを待ってたんだっけ」だった。十月には名前が出ないと言った。

 いま、待っていた相手そのものが、抜けている。

「待ってた、っていうことだけ、残ってるの」

 少女は首をかしげた。

「変だよね。中身がないのに、待ってるだけある」

 わたしは、コートの内ポケットに手を入れた。

 十一月九日から、毎晩ここに持ってきている。硬くて、四角い。銀色の塗装が角から剥げた、折りたたみの携帯電話。

 出した。

 カウンターの上に置いて、開いた。

 画面が光った。待受画面が出た。

 高校の入学式の日の写真。制服が新しくて、袖が長い。二人並んで、ピースをしている。

 わたしは、その画面を持ち上げた。

 少女の顔の、隣に。

 画面の光が、少女の顔に当たった。

 白いものが、動いた。

 霧の色をしていた面に、光が入って、影ができた。影ができると、そこに形が出る。眉の下の窪み。鼻の稜線。上唇と下唇のあいだの線。

 顔が、あった。

 わたしは、画面と、その顔を、交互に見た。

 同じだった。

 同じというより、同じ子だった。写真の右側の子。制服の袖が長くて、笑うと右側だけ口が上がる子。

 わたしは、五か月、この子の顔を見られなかった。

 見られなかった理由を、わたしは知っている。添島さんが言った。見えない相手のほうが、たいてい、その人にとって大事な相手だ、と。

 見えるようになったのは、大事でなくなったからではない。

 払ったからだ。

 喧嘩の言葉。名前を呼んだ声。受話器から離した指。止めなかった理由。泣いた回数。外してくれと言った声。祖父の葬式で立っていた場所。

 七つ。

 七つ払って、わたしは、この子が見えるところまで軽くなった。

 見えるようになるために、わたしは妹を七つぶん失った。

 その等式を、わたしはカウンターの上で組み立てた。組み立てて、成立していることを確かめて、それから、成立していることが許せなくなった。

 顔が見える。

 顔を覚えていない。

 写真の中の顔と、目の前の顔が同じだと分かるのは、二つを並べているからだ。並べなければ分からない。並べる道具は、十年、会社の引き出しの中で電源が入らなかった。

 わたしは、画面をもう一度見た。

 雫と、真昼が写っている。

 十六歳の二人が、袖の長い制服で、ピースをしている。この写真を撮ったのは母だ。玄関の前で、朝の光の中で、二人を並べて撮った。

 その日の朝、わたしは寝ていた。

 大学の一年で、講義が昼からで、妹の入学式に出ていない。母が出た。写真は母が撮った。

 わたしは、そのことも、十年、考えなかった。

「あなた」

 わたしは言った。

 声が、震えていなかった。

 震えるべきところで震えない。九月から、この体はそうなっている。

「あなた、しずくでしょう」

 音が、出た。

 出た瞬間に、少女の目が、こちらを向いた。

 わたしの喉は、締まらなかった。

 七月に、この子に呼びかけようとして、三つの音が出なかった。九月に、名前という語の使い方だけが残った子に、何と呼べばいいかを聞いて、やはり出なかった。

 出た。

 出たことを、わたしはそのとき喜ばなかった。

 出たということは、この店の何かが、また一枚剥がれたということだ。剥がれるたびに、わたしは前に進める。前に進めるのは、床が抜けているからだ。


「え」

 少女は、そう言った。

 それだけだった。

 驚いた顔でもない。思い出した顔でもない。名前を呼ばれて、それが自分のものかどうか判定できない人の顔だった。

「いま、なんて」

「しずく」

「……それ、なに」

「あなたの名前です」

 少女は、掌を見た。それから、わたしを見た。

「私の」

「はい」

「ふうん」

 ふうん、と言った。

 その一音を聞いたとき、わたしの中で何かが折れた。折れた音がした気がした。実際には音はしていない。腰までの霧が、少しだけ揺れた。

「おい」

 添島さんが、立ち上がっていた。

「あんた、名前を」

「言いました」

「二つ目だぞ」

「二つ目は、店主に名を尋ねない、自分の名を語らない、です」

 わたしは言った。

「他人の名を呼ぶことは、書いてありません」

 添島さんは、口を開けたまま、何も言わなかった。

「マスター」わたしは店主のほうを向いた。「破ってませんよね」

「破っていません」

「書いてないことは、起こるんですよね」

「はい」

 店主は、そう答えた。

 答えながら、この人は、わたしのほうを見ていなかった。奥の、少女のほうを見ていた。

 見ている顔を、わたしはそのとき見なかった。

 わたしは、少女の手を取ろうとした。

 取れなかった。

 指が、通った。

 わたしの手が、少女の手のあった場所を、そのまま通り抜けた。抵抗がない。温度もない。空気を掴んだのと同じだった。

 七月に、この子はわたしの掌に触れた。触れられた感覚はなかったが、視覚では触れていた。

 いまは、視覚でも通る。

「葉山さん」

 添島さんが、隣に来ていた。

「座れ」

「……」

「座って、聞け」

 わたしは座った。座ると、胸から下が霧に沈んだ。

「選べる」

 添島さんが言った。

「何をですか」

「あの子を、ここに残すかどうかだ」

 わたしは、添島さんを見た。

「残せるんですか」

「常連にすればいい」

 その言葉の意味を、わたしは五か月かけて教えられている。

 掟を破った者は常連になる。奥の霧の中に席が用意されて、二度と店を出られない。何日か、何年か座って、最後は霧になる。

「常連になったら、消えるんでしょう」

「消える。ただ、時間がかかる」

「どのくらい」

「知らん。子どもは半年で消えた。婆さんは三か月だ。あれは外にいた連中の話だから、中の常連とは違う」

 添島さんは、奥の霧を見た。

「奥は、動かん。俺は十年見てるが、数が減った気がしても、翌週には戻ってる。あそこは、時間が止まってるのか、遅いのか、そういう場所だ」

「じゃあ」

「あの子を奥に入れれば、たぶん、しばらく保つ」

 しばらく。

 わたしは、その言葉を掴んだ。

「何年ですか」

「知らん」

「十年」

「知らん、と言ってる」

「でも、いまよりは長い」

「長いだろうな」

 わたしは、両手を膝の上で組んだ。

 組んだ指が、温かい。十月二十六日から、ずっと温かい。

「どうすれば、常連になりますか」

「掟を破らせればいい」

 添島さんの声が、平らだった。

「一杯目を出させて、おかわりを頼ませる。それだけだ。あの子は五つのうちの一つも破ってない。破ってないから、常連になってない」

「飲めば」

「飲めば代金がいる。あの子は十年、払ってない。払わないから、まだ自分でいられる」

 わたしは、少女を見た。

 少女は、掌を見ていた。指が線をなぞっている。透けた指先が、透けた線をなぞっている。

「もう一つの道は」

「解放だ」

「解放」

「払わせる。全部払わせて、終わらせる」

 添島さんは、そこで一度、言葉を切った。

「そっちを選んだら、あの子は、今度こそいなくなる」

 わたしは、口を開いた。

 開いて、何も出なかった。

「あんた、五か月で七つ払ったな」

「はい」

「軽くなったか」

「なりました」

「その七つのうち、返してほしいものはあるか」

 わたしは、考えた。

 考えて、答えられなかった。

 返してほしいと思うためには、それが何だったかを覚えている必要がある。わたしは、何を払ったかは覚えている。中身がない。中身のないものを、返してほしいと思えない。

「思えません」

「そうだろう」

 添島さんは、うなずいた。

「それが、払うってことだ。払ったあとの人間は、払ったことを惜しめない。惜しめないから、また払う」

「あなたは、十年払ってない」

「払ってないから、いまも痛い」

「痛いほうが、いいんですか」

「よかない」

 添島さんは、空のカップを回した。

「よかないが、女房がいる」

 わたしは、奥の霧を見た。

 腰までの白の向こう、カウンターの端から先に、輪郭がいくつも座っている。数えられない。五つ数えて六つ目を数えているうちに、最初のものが消えている。

 あそこに、雫を入れる。

 そうすれば、この子はしばらく保つ。何年か、あるいは何十年か。わたしが五十になっても、七十になっても、雨と霧の夜には、ここに来れば会える。

 会って、何をするのか。

 わたしは、その先を考えた。

 十年後の雫は、いまより減っている。名前も、待っていたことも、掌の線も、順に薄くなる。会話は成立しなくなる。座っている輪郭に向かって、わたしが一人で喋ることになる。

 ただ、いる。

 いることと、いないことのあいだには、絶対的な差がある。四年間、訃報欄でその差を三行にしてきた人間として、わたしはそれを知っている。

 知っていて、もう一つ知っている。

 奥に入れるというのは、この子に掟を破らせるということだ。

 十年、この子は一つも破っていない。飲まない。払わない。名も語らない。二時前に出ることだけは、たぶん、できない。それ以外の四つを、十年守っている。

 守りつづけた子に、破らせる。

 破らせるのは、わたしのためだ。

「添島さん」

「なんだ」

「奥に入れたら、あの子は、待つのをやめられますか」

 添島さんは、答えなかった。

「やめられませんよね」

「……」

「待つのをやめないまま、忘れていくんですよね。誰を待ってるか分からないまま、待ちつづける」

「そうだろうな」

「それは」

 わたしは、声が出るまでに時間がかかった。

「それは、十年の延長ですよね。救いじゃなくて」

 添島さんは、しばらく黙っていた。

「あんた、頭がいいな」

「よくないです」

「よくない人間は、そこまで考えん」

 添島さんは、空のカップを回した。

「俺はな、女房が奥にいたら、たぶん、そうしてる」

「え」

「奥にいたら、俺は毎晩来て、座って、十年見てた。減っていくのを見ながら、それでも来てた。俺はそういう人間だ」

 この人が「それでも」と言ったのを、わたしは初めて聞いた。

「いなかったから、俺は選ばずに済んだ」

 添島さんは、そう言った。

「あんたは、選ばにゃならん」


 窓の外が、赤かった。

 わたしは、そのとき初めて振り返った。

 窓の中央に、赤い傘があった。

 近い。

 ガラスから、五十センチもない。十月には窓のガラスまでの距離があった。骨が八本見えるところまで来ていた。

 いまは、傘の布地の織り目が見える。

 その下に、顔があった。

 丸い顔だった。頬に肉がついていて、笑えば目が線になりそうな作りをしている。制服を着ている。北央第三高校の、紺のブレザー。袖が長い。

 三沢真昼だった。

 十年前の写真の、雫の隣の子。わたしが十四枚のうち三枚でしか見なかった子。わたしが二年目の秋に、企画のリストから消した家の、娘。

 その子が、窓の外に立っていた。

 わたしは椅子から立った。

 立った拍子に、腰までの霧が渦を巻いた。

「葉山さん」

 添島さんの声が、遠かった。

 わたしは窓に近づいた。ガラスに手をついた。冷たくなかった。ガラスの温度がない。

 真昼は、こちらを見ていた。

 目が合った。

 死者は、赦された瞬間だけ生者と目が合う。その話を、わたしはまだ知らない。知らないまま、目が合ったことに驚いていた。

 真昼の頬が、光った。

 線が一本、目の下から顎に向かって走っている。

 濡れている。

 雨ではない。雨なら顔じゅうが濡れる。その線だけが、内側から出てきた水だった。

「あの子」

 わたしは言った。

「泣いてます」

 添島さんが、窓のほうへ来た。

「見えん」

「泣いてます。頬が濡れてる」

「葉山さん」

 添島さんの声が、変わっていた。

「死んだ人間は、泣かん」

「え」

「十年見てきた。奥の連中も、外の連中も、一度も泣かん。泣けんのだと思ってた」

 わたしは、窓の外を見た。

 真昼の頬に、二本目の線が走った。

「マスター」

 わたしは振り返らずに言った。

「死んだ人は、泣けないんですか」

「泣けません」

「泣いてます」

「はい」

「なぜですか」

 店主は、しばらく答えなかった。

 答えてから、その声の高さが、初めて揺れた。

「境が、崩れています」

 わたしは振り返った。

「境」

「あの方は、あちらにいます。あなたは、こちらにいます。あいだに一枚あって、その一枚が、いま、薄い」

「掟を破ったからですか」

「それもあります」

「他には」

「終わりが近いからです」

 店主は、そう言った。

「終わりに近づくと、決まりごとが順に効かなくなります。泣けないものが泣きます。入れないものが入ります。呼べない名が呼べます」

 わたしは、自分が三十分前に「しずく」と呼べたことを思い出した。

 あれも、そうだった。

 わたしが破ったのではない。この店が、破れかけている。

 窓の外の真昼は、まだ泣いていた。

 わたしは、ガラスに手をついたまま、動けなかった。入れてやりたいと思った。思って、その次に、この子に何を言えばいいのかが分からなくなった。

 十年、わたしはこの子を、雫を殺した子として頭の隅に置いてきた。置いて、一度も見なかった。見なかったのは、見れば順番が崩れるからだ。

 いま、目の前で泣いている。

 十六歳が。

 十年、十六歳のままで、雨と霧の夜のたびにこの窓の外に立って、入れないまま、今夜、泣いている。

 わたしは、外へ出ようとした。

 戸口へ歩いた。三歩で、足が止まった。

 止めたのは掟ではない。わたし自身だ。

 出て、何を言うのか。

 ごめんなさい、ではない。この子に謝る筋合いが、わたしにあるのか。運転したのはこの子だ。無免許で、親の車を持ち出して、雫を乗せた。順番の始点をこの子に置いて、わたしは十年、そこで止めていた。

 始点を動かすと、わたしに戻る。

 戻ると、この子に謝ることになる。

 謝る。何を。

 妹を殺した子に、何を謝るのか。

 わたしは、その問いの前で立っていた。三歩ぶん進んだところで、四歩目が出なかった。

「葉山さん」

 添島さんが、後ろから言った。

「出るな」

「なぜですか」

「出たら、あんたが入れることになる」

「入れちゃいけないんですか」

「そうじゃない」

 添島さんは、こちらへ来た。

「入れるなら、腹をくくってからにしろ。中途半端に呼んで、あとで追い出すのがいちばん残酷だ」

 わたしは、窓のほうを見た。

 真昼は、そこにいた。泣いている。傘を持つ手が、赤い布の柄をきつく握っている。指の関節が白い。

 死者に、血の色はないはずだった。

「マスター」

 わたしは言った。

「あの子を入れるには、どうすればいいんですか」

 店主は、答えなかった。

 八月にも同じことを聞いた。あのとき、この人は「代金がなければ入れません」と言って、そのあと「そういう方が、いちばん重いものを払えます」と言った。答えになっていない答えだった。

 いまは、答える人になっている。

 答える人が、答えない。

「言えないんですか」

「言えます」

「じゃあ」

「あなたが、次の雨の夜に、自分で見つけてください」

 初めて、この人がわたしに何かを渡した。

 答えではなかった。宿題だった。


「マスター」

 わたしは、カウンターに戻った。

「お代を」

 言われる前に、わたしから言った。

「今夜は、いただきません」

 店主は、そう答えた。

「なぜですか」

「あなたからは、もういただきません」

「払うものが、なくなったんですか」

「いいえ。まだあります」

「じゃあ、なぜ」

 店主は、伏せた器を見ていた。

「残っているものが、要るからです」

「何にですか」

「あなたが、あとで使います」

 わたしは、その答えの意味を掴めなかった。

 掴めないまま、次の質問をした。この人は、十月から全部の質問に答える。答えるようになった理由を、この人は「そろそろ意味がなくなるから」と言った。

「あとどのくらいですか」

「次の雨の夜が、最後です」

 わたしは、その一文を、二度聞き返さなかった。

 聞き返す必要がなかった。カップの底が見える。ランタンの火が青い。霧が腰まで来ている。少女の指先が透けている。窓の外で死者が泣いている。

 全部、同じことを言っていた。

「最後、というのは」

「次の雨の夜に、この店は消えます」

「あの子は」

「あの子も、消えます」

 わたしは、奥を見た。

 少女は掌を見ていた。指が線をなぞっている。こちらの話を聞いていない。聞いていないのか、聞こえていないのか、判断がつかない。

「次の雨は、いつですか」

「私は天気を知りません」

 初めて、この人が知らないと言った。

 わたしは、携帯を開いた。ガラケーではない。自分のほうだ。天気アプリを出した。一日あたり四十七分、五か月見てきた画面。

 北央市。週間予報。

 十一月二十三日、曇り。二十四日、曇り。

 二十五日、雨。

 二十六日、雪。

 二十五日の欄に、傘のマークがある。最低気温は四度。二十六日から先は、全部、雪だるまのマークだった。

 雪は、条件にならない。第一に、雨が降っていること。小雨以上。雪は不可。

 二十五日が、最後だ。

「三日後です」

 わたしは言った。

「そうですか」

「三日後の夜が、最後です」

「はい」

 わたしは、椅子の背に手を置いた。背もたれのない丸椅子だ。手を置く場所がなくて、宙で止まった。

 三日。

 七十二時間。そのうち、この店にいられるのは、たぶん一晩の数時間だけだ。逆にまわる時計の下で、外の時間の六倍を使える。使っても、一晩だ。

 十年ぶんの言葉を、そこに入れなければならない。

 わたしは、自分が何を言うべきかを考えた。

 考えて、分からなかった。

 十年前の玄関で、わたしが何と言ったのか。その言葉は、六月十七日に払った。取り消すべき言葉が、手元にない。

 言葉を持っていない人間が、どうやって取り消すのか。

「マスター」

「はい」

「わたしが六月に払ったものを、返してもらえませんか」

 言った。

 言ってから、無理だと分かっていることを言ったと気づいた。返す仕組みが、この店にはない。この人が、八月に野辺さんに向かってそう言った。

「返せません」

「分かってます」

「返す仕組みが、ありません」

「分かってます」

 わたしは、両手をカウンターに置いた。

「じゃあ、教えてください。何を言ったか」

 店主は、こちらを見た。

「私は、知りません」

「受け取ったでしょう」

「受け取ったものは、こちらに残りません」

「残らない」

「はい。私は入れ物ではありません。通り道です」

 わたしは、その言葉を何度か頭の中で回した。

 通り道。

 払われたものは、この人を通って、どこかへ行く。この人の中には何もない。だから、この人はコーヒーを飲まない。飲む理由がない。中身がないものに、味は要らない。

 そこまで考えて、わたしは考えるのをやめた。

 やめたのは、その先に行くと、この人が何なのかという問いに着くからだ。

 三日後に聞く。

 そう決めて、わたしは顔を上げた。

「そろそろ」

 店主が言った。

 わたしは立ち上がった。腰までの霧が、体を避けて外側へ広がった。

 奥を見た。

 少女が、顔を上げていた。

 顔が、あった。ガラケーの光がなくても、輪郭の中に目と鼻と口がある。薄い。薄いが、ある。

 その顔が、こちらを向いていた。

「ねえ」

 少女が言った。

「はい」

「さっきの、なんだっけ」

「さっきの」

「私の名前。なんだっけ」

 わたしは、口を開いた。

「しずく」

「しずく」

 少女は、口の中でそれを繰り返した。

 繰り返して、首をかしげた。

「覚えとく。忘れちゃうかもしれないけど」

「忘れてもいいです」

 わたしは言った。

「え」

「わたしが覚えてます」

 少女は、わたしを見た。

 薄い顔の中の、薄い目で。

「そっか」

 その二文字が、少し明るかった。

「じゃあ、いいや」

 少女は掌に目を戻した。指が線をなぞりはじめた。透けた指先が、透けた線の上を、端から端まで動いた。

 わたしは、戸口へ歩いた。

 歩きながら、自分がいま言ったことの意味を計算した。

 わたしが覚えている。

 覚えていられるだろうか。わたしは七つ払った。八つ目を払えば、また減る。減りつづける人間が、他人の名前を預かると言った。

 三日後に、わたしは何を払うのか。

 払わずに済ませる方法があるのか。

 戸を引いた。鈴が鳴った。うちの台所の風鈴の音がした。

 外は雨だった。板塀のあいだを歩くと、八歩目で雨の音が戻ってきた。米屋の前に、わたしの車が停まっている。

 振り返った。

 軒先のランタンの、青い火が見えた。

 その光の届く範囲だけ、霧が薄い。薄い範囲が、六月より狭くなっていた。

 三日後。わたしは三日後の夜に、十年分の言葉を、たった一杯のコーヒーの温度が持つ間に、言わなければならない。



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