第九話 コーヒーの温度
終わりは、決まっている。
決まっているものを、私は毎晩数えている。
数えると、そのぶん早く来る気がする。やめられない。
十一月二十二日、雨が降った。
気温は五度だった。予報では、二十六日から二十七日にかけて雪が混じると言っていた。北央市の初雪は、平年で十一月の終わりだ。
森口さんは、三週間来ていない。
十月二十六日の夜、板塀の中でわたしを送ったのが最後だった。あの夜、あの人はわたしに「帰れる側にいてください」と言って、米屋の前で消えた。
十一月に入ってから今夜までに、条件が揃った夜が十二回あった。わたしは十回行った。十回とも、あの席は空いていた。
添島さんに聞いた。
「あいつは、来なくなったんじゃない」と、この人は言った。「来られなくなったんだろう」
「なぜですか」
「知らん」
聞かないほうがいい気がして、それ以上聞かなかった。
聞かないという技術を、わたしはまだ使っている。
職場のほうは、十一月に入ってから、かえって落ち着いた。
八月に三回ミスをして、九月に取材メモの余白に店の名前を書いて、十月には取材中に質問したことを忘れた。十一月は、一度もない。
四件の訃報を、正確に三行にしている。喪主の漢字を二度聞き、時刻を三度読み上げてもらう。定時に上がる。
柏木さんが、廊下ですれ違ったときに言った。
「調子、戻ったな」
「はい」
「顔は戻ってないぞ」
わたしは、その日は鏡を見なかった。
耳の奥が鳴ったのは、夕方の六時だった。
板塀のあいだを八歩。雨の音が半分になる。十歩でなくなる。軒先のランタンを見上げて、わたしは足を止めた。
火が、青かった。
橙色だったものが、芯の根元から青くなっている。ガスの火の内側の色に近い。その光は、板塀の木目を照らさなかった。照らしているのに、色が乗らない。
戸を引いた。鈴が鳴った。
うちの台所の風鈴の音がした。
「濡れましたね」
店の中の霧は、腰まで来ていた。
カウンターの天板の、五センチ下まで白い。座ると、胸から下が霧に沈む。自分の手が、霧の上に出ている。手だけが浮いている。
添島さんがいた。
「よう」
「霧が」
「上がってる。先週より三十センチだ」
添島さんは、上着の内ポケットから折りたたんだ紙を出した。四枚のうちの、いちばん新しい一枚だ。
「見ろ」
十一月の欄に、印が並んでいた。
一日、二日、五日、七日、九日、十一日、十二日、十五日、十六日、十八日、十九日、二十日、二十二日。
「十三日だ」わたしは数えた。「今夜を入れて、十一月だけで十三日」
「去年の十一月は三日だ」
「四倍」
「四倍だ。しかも、間隔が詰まってる。今月の後半なんか、二日と空かずに出てる」
添島さんは紙を畳んだ。
「隔日勤務の俺が、休みの日に全部来られる。そんなことは十年で一度もなかった」
わたしはカップを見た。
置かれたばかりの白いカップに、茶色い液体が入っている。もう黒くない。紅茶より薄い。カップの底の、釉薬のひび割れまで見える。
指で触れた。
冷たい。
十月の終わりに、冷たいと言った。あのときは部屋の温度と同じだった。
今夜は、部屋より冷たい。
わたしはカップを両手で包んだ。手のひらから熱が逃げていく。冷蔵庫から出したものを持っているときの逃げかたをする。
「マスター」
「はい」
「これ、飲み物じゃないです」
店主は、否定しなかった。
「四十度くらいだと思ってました」わたしは言った。「人肌より少し下。それくらいだと。違います。これは十度台です」
「はい」
「わたしが最初に飲んだのは、六月です。あのとき、湯気がまっすぐ立ってました」
「はい」
「五か月で、ここまで下がるものですか」
「下がりました」
答えになっていない。この人は九月まで、質問を返すことで答えなかった。十月からは「はい」と言うことで答えなくなった。形が変わっただけだ。
「店が終わるんだよ」
添島さんが言った。
わたしは、そちらを向いた。
「店ってのは、誰かの『待ってる』が尽きたら終わる」
「待ってる」
「そうだ。俺は十年、女房を待ってた。あんたは五か月、何かを待ってる。奥の連中も待ってる。ここは、待ってる人間の場所だ」
添島さんは、空のカップを回した。
「待ってる人間がいるうちは、店は開く。全員が待つのをやめたら、閉まる」
「誰から聞いたんですか」
「誰からでもない。十年見てりゃ分かる」
添島さんは、四枚の紙を上着に戻した。
「あんた、店が出る日が増えてるって言っただろう。あれをな、俺は最初、いいことだと思った。会える日が増えたと思った」
「違うんですか」
「違うな。あれは、店が焦ってるんだ」
「焦る」
「ろうそくは、消える前に一回明るくなる。あれと同じだ」
わたしは、ランタンのことを考えた。
青い火。橙色ではなくなった火。あれは明るくなったのか、それとも、燃えるものが変わったのか。
「マスター」
「はい」
「ランタンの火が、青いです」
「はい」
「油が変わったんですか」
「変わっていません」
「じゃあ」
「燃えているものが、少なくなりました」
その答えを、わたしはそのまま受け取った。
受け取って、次に聞くべきことを探して、聞かないことにした。答えが分かっているものを聞くのは、確認であって取材ではない。確認は、聞いた側が耐えられるときにやるものだ。
「みんなが待つのをやめたんですか」
「そうは思わん」
「じゃあ」
「一人だけ、やめかけてる」
添島さんは、奥のほうを見た。
わたしも、そちらを見た。
腰までの霧の上に、紺色の肩があった。
わたしは、椅子を四つぶんずらした。
少女のすぐ隣まで行った。五か月、この距離まで寄ったことはない。いつも三つか四つ離れた席にいた。
隣に座ると、少女は顔を上げた。
「こんばんは」
「こんばんは」
「今日も、手を見てるんですね」
「うん」
少女は掌を開いた。
わたしは、その手を見た。
指先が、透けていた。
爪の先から第一関節の手前まで、向こうのカウンターの木目が透けている。
ガラスではない。水に近い。氷が溶けて、輪郭から先に水になっていくときの、あの中途半端な透きかただった。
「これ」
わたしは声を出した。
「いつからですか」
「わかんない」
「見えてますか、自分で」
「見えてる」
少女は、指を曲げて、伸ばした。動く。動くのに、先のほうがない。
「痛くはないの」
「痛くはないです」
「怖くは」
「怖い」
少女は掌を閉じた。閉じると、指先の透けているところが重なって、いっそう薄くなった。
「あのね」
「はい」
「私、なんでここにいるんだっけ」
わたしは、息を止めた。
「誰かを待ってたの。ずっと。それは覚えてる。……あれ、誰を待ってたんだっけ」
九月には「私、なにを待ってたんだっけ」だった。十月には名前が出ないと言った。
いま、待っていた相手そのものが、抜けている。
「待ってた、っていうことだけ、残ってるの」
少女は首をかしげた。
「変だよね。中身がないのに、待ってるだけある」
わたしは、コートの内ポケットに手を入れた。
十一月九日から、毎晩ここに持ってきている。硬くて、四角い。銀色の塗装が角から剥げた、折りたたみの携帯電話。
出した。
カウンターの上に置いて、開いた。
画面が光った。待受画面が出た。
高校の入学式の日の写真。制服が新しくて、袖が長い。二人並んで、ピースをしている。
わたしは、その画面を持ち上げた。
少女の顔の、隣に。
画面の光が、少女の顔に当たった。
白いものが、動いた。
霧の色をしていた面に、光が入って、影ができた。影ができると、そこに形が出る。眉の下の窪み。鼻の稜線。上唇と下唇のあいだの線。
顔が、あった。
わたしは、画面と、その顔を、交互に見た。
同じだった。
同じというより、同じ子だった。写真の右側の子。制服の袖が長くて、笑うと右側だけ口が上がる子。
わたしは、五か月、この子の顔を見られなかった。
見られなかった理由を、わたしは知っている。添島さんが言った。見えない相手のほうが、たいてい、その人にとって大事な相手だ、と。
見えるようになったのは、大事でなくなったからではない。
払ったからだ。
喧嘩の言葉。名前を呼んだ声。受話器から離した指。止めなかった理由。泣いた回数。外してくれと言った声。祖父の葬式で立っていた場所。
七つ。
七つ払って、わたしは、この子が見えるところまで軽くなった。
見えるようになるために、わたしは妹を七つぶん失った。
その等式を、わたしはカウンターの上で組み立てた。組み立てて、成立していることを確かめて、それから、成立していることが許せなくなった。
顔が見える。
顔を覚えていない。
写真の中の顔と、目の前の顔が同じだと分かるのは、二つを並べているからだ。並べなければ分からない。並べる道具は、十年、会社の引き出しの中で電源が入らなかった。
わたしは、画面をもう一度見た。
雫と、真昼が写っている。
十六歳の二人が、袖の長い制服で、ピースをしている。この写真を撮ったのは母だ。玄関の前で、朝の光の中で、二人を並べて撮った。
その日の朝、わたしは寝ていた。
大学の一年で、講義が昼からで、妹の入学式に出ていない。母が出た。写真は母が撮った。
わたしは、そのことも、十年、考えなかった。
「あなた」
わたしは言った。
声が、震えていなかった。
震えるべきところで震えない。九月から、この体はそうなっている。
「あなた、しずくでしょう」
音が、出た。
出た瞬間に、少女の目が、こちらを向いた。
わたしの喉は、締まらなかった。
七月に、この子に呼びかけようとして、三つの音が出なかった。九月に、名前という語の使い方だけが残った子に、何と呼べばいいかを聞いて、やはり出なかった。
出た。
出たことを、わたしはそのとき喜ばなかった。
出たということは、この店の何かが、また一枚剥がれたということだ。剥がれるたびに、わたしは前に進める。前に進めるのは、床が抜けているからだ。
「え」
少女は、そう言った。
それだけだった。
驚いた顔でもない。思い出した顔でもない。名前を呼ばれて、それが自分のものかどうか判定できない人の顔だった。
「いま、なんて」
「しずく」
「……それ、なに」
「あなたの名前です」
少女は、掌を見た。それから、わたしを見た。
「私の」
「はい」
「ふうん」
ふうん、と言った。
その一音を聞いたとき、わたしの中で何かが折れた。折れた音がした気がした。実際には音はしていない。腰までの霧が、少しだけ揺れた。
「おい」
添島さんが、立ち上がっていた。
「あんた、名前を」
「言いました」
「二つ目だぞ」
「二つ目は、店主に名を尋ねない、自分の名を語らない、です」
わたしは言った。
「他人の名を呼ぶことは、書いてありません」
添島さんは、口を開けたまま、何も言わなかった。
「マスター」わたしは店主のほうを向いた。「破ってませんよね」
「破っていません」
「書いてないことは、起こるんですよね」
「はい」
店主は、そう答えた。
答えながら、この人は、わたしのほうを見ていなかった。奥の、少女のほうを見ていた。
見ている顔を、わたしはそのとき見なかった。
わたしは、少女の手を取ろうとした。
取れなかった。
指が、通った。
わたしの手が、少女の手のあった場所を、そのまま通り抜けた。抵抗がない。温度もない。空気を掴んだのと同じだった。
七月に、この子はわたしの掌に触れた。触れられた感覚はなかったが、視覚では触れていた。
いまは、視覚でも通る。
「葉山さん」
添島さんが、隣に来ていた。
「座れ」
「……」
「座って、聞け」
わたしは座った。座ると、胸から下が霧に沈んだ。
「選べる」
添島さんが言った。
「何をですか」
「あの子を、ここに残すかどうかだ」
わたしは、添島さんを見た。
「残せるんですか」
「常連にすればいい」
その言葉の意味を、わたしは五か月かけて教えられている。
掟を破った者は常連になる。奥の霧の中に席が用意されて、二度と店を出られない。何日か、何年か座って、最後は霧になる。
「常連になったら、消えるんでしょう」
「消える。ただ、時間がかかる」
「どのくらい」
「知らん。子どもは半年で消えた。婆さんは三か月だ。あれは外にいた連中の話だから、中の常連とは違う」
添島さんは、奥の霧を見た。
「奥は、動かん。俺は十年見てるが、数が減った気がしても、翌週には戻ってる。あそこは、時間が止まってるのか、遅いのか、そういう場所だ」
「じゃあ」
「あの子を奥に入れれば、たぶん、しばらく保つ」
しばらく。
わたしは、その言葉を掴んだ。
「何年ですか」
「知らん」
「十年」
「知らん、と言ってる」
「でも、いまよりは長い」
「長いだろうな」
わたしは、両手を膝の上で組んだ。
組んだ指が、温かい。十月二十六日から、ずっと温かい。
「どうすれば、常連になりますか」
「掟を破らせればいい」
添島さんの声が、平らだった。
「一杯目を出させて、おかわりを頼ませる。それだけだ。あの子は五つのうちの一つも破ってない。破ってないから、常連になってない」
「飲めば」
「飲めば代金がいる。あの子は十年、払ってない。払わないから、まだ自分でいられる」
わたしは、少女を見た。
少女は、掌を見ていた。指が線をなぞっている。透けた指先が、透けた線をなぞっている。
「もう一つの道は」
「解放だ」
「解放」
「払わせる。全部払わせて、終わらせる」
添島さんは、そこで一度、言葉を切った。
「そっちを選んだら、あの子は、今度こそいなくなる」
わたしは、口を開いた。
開いて、何も出なかった。
「あんた、五か月で七つ払ったな」
「はい」
「軽くなったか」
「なりました」
「その七つのうち、返してほしいものはあるか」
わたしは、考えた。
考えて、答えられなかった。
返してほしいと思うためには、それが何だったかを覚えている必要がある。わたしは、何を払ったかは覚えている。中身がない。中身のないものを、返してほしいと思えない。
「思えません」
「そうだろう」
添島さんは、うなずいた。
「それが、払うってことだ。払ったあとの人間は、払ったことを惜しめない。惜しめないから、また払う」
「あなたは、十年払ってない」
「払ってないから、いまも痛い」
「痛いほうが、いいんですか」
「よかない」
添島さんは、空のカップを回した。
「よかないが、女房がいる」
わたしは、奥の霧を見た。
腰までの白の向こう、カウンターの端から先に、輪郭がいくつも座っている。数えられない。五つ数えて六つ目を数えているうちに、最初のものが消えている。
あそこに、雫を入れる。
そうすれば、この子はしばらく保つ。何年か、あるいは何十年か。わたしが五十になっても、七十になっても、雨と霧の夜には、ここに来れば会える。
会って、何をするのか。
わたしは、その先を考えた。
十年後の雫は、いまより減っている。名前も、待っていたことも、掌の線も、順に薄くなる。会話は成立しなくなる。座っている輪郭に向かって、わたしが一人で喋ることになる。
ただ、いる。
いることと、いないことのあいだには、絶対的な差がある。四年間、訃報欄でその差を三行にしてきた人間として、わたしはそれを知っている。
知っていて、もう一つ知っている。
奥に入れるというのは、この子に掟を破らせるということだ。
十年、この子は一つも破っていない。飲まない。払わない。名も語らない。二時前に出ることだけは、たぶん、できない。それ以外の四つを、十年守っている。
守りつづけた子に、破らせる。
破らせるのは、わたしのためだ。
「添島さん」
「なんだ」
「奥に入れたら、あの子は、待つのをやめられますか」
添島さんは、答えなかった。
「やめられませんよね」
「……」
「待つのをやめないまま、忘れていくんですよね。誰を待ってるか分からないまま、待ちつづける」
「そうだろうな」
「それは」
わたしは、声が出るまでに時間がかかった。
「それは、十年の延長ですよね。救いじゃなくて」
添島さんは、しばらく黙っていた。
「あんた、頭がいいな」
「よくないです」
「よくない人間は、そこまで考えん」
添島さんは、空のカップを回した。
「俺はな、女房が奥にいたら、たぶん、そうしてる」
「え」
「奥にいたら、俺は毎晩来て、座って、十年見てた。減っていくのを見ながら、それでも来てた。俺はそういう人間だ」
この人が「それでも」と言ったのを、わたしは初めて聞いた。
「いなかったから、俺は選ばずに済んだ」
添島さんは、そう言った。
「あんたは、選ばにゃならん」
窓の外が、赤かった。
わたしは、そのとき初めて振り返った。
窓の中央に、赤い傘があった。
近い。
ガラスから、五十センチもない。十月には窓のガラスまでの距離があった。骨が八本見えるところまで来ていた。
いまは、傘の布地の織り目が見える。
その下に、顔があった。
丸い顔だった。頬に肉がついていて、笑えば目が線になりそうな作りをしている。制服を着ている。北央第三高校の、紺のブレザー。袖が長い。
三沢真昼だった。
十年前の写真の、雫の隣の子。わたしが十四枚のうち三枚でしか見なかった子。わたしが二年目の秋に、企画のリストから消した家の、娘。
その子が、窓の外に立っていた。
わたしは椅子から立った。
立った拍子に、腰までの霧が渦を巻いた。
「葉山さん」
添島さんの声が、遠かった。
わたしは窓に近づいた。ガラスに手をついた。冷たくなかった。ガラスの温度がない。
真昼は、こちらを見ていた。
目が合った。
死者は、赦された瞬間だけ生者と目が合う。その話を、わたしはまだ知らない。知らないまま、目が合ったことに驚いていた。
真昼の頬が、光った。
線が一本、目の下から顎に向かって走っている。
濡れている。
雨ではない。雨なら顔じゅうが濡れる。その線だけが、内側から出てきた水だった。
「あの子」
わたしは言った。
「泣いてます」
添島さんが、窓のほうへ来た。
「見えん」
「泣いてます。頬が濡れてる」
「葉山さん」
添島さんの声が、変わっていた。
「死んだ人間は、泣かん」
「え」
「十年見てきた。奥の連中も、外の連中も、一度も泣かん。泣けんのだと思ってた」
わたしは、窓の外を見た。
真昼の頬に、二本目の線が走った。
「マスター」
わたしは振り返らずに言った。
「死んだ人は、泣けないんですか」
「泣けません」
「泣いてます」
「はい」
「なぜですか」
店主は、しばらく答えなかった。
答えてから、その声の高さが、初めて揺れた。
「境が、崩れています」
わたしは振り返った。
「境」
「あの方は、あちらにいます。あなたは、こちらにいます。あいだに一枚あって、その一枚が、いま、薄い」
「掟を破ったからですか」
「それもあります」
「他には」
「終わりが近いからです」
店主は、そう言った。
「終わりに近づくと、決まりごとが順に効かなくなります。泣けないものが泣きます。入れないものが入ります。呼べない名が呼べます」
わたしは、自分が三十分前に「しずく」と呼べたことを思い出した。
あれも、そうだった。
わたしが破ったのではない。この店が、破れかけている。
窓の外の真昼は、まだ泣いていた。
わたしは、ガラスに手をついたまま、動けなかった。入れてやりたいと思った。思って、その次に、この子に何を言えばいいのかが分からなくなった。
十年、わたしはこの子を、雫を殺した子として頭の隅に置いてきた。置いて、一度も見なかった。見なかったのは、見れば順番が崩れるからだ。
いま、目の前で泣いている。
十六歳が。
十年、十六歳のままで、雨と霧の夜のたびにこの窓の外に立って、入れないまま、今夜、泣いている。
わたしは、外へ出ようとした。
戸口へ歩いた。三歩で、足が止まった。
止めたのは掟ではない。わたし自身だ。
出て、何を言うのか。
ごめんなさい、ではない。この子に謝る筋合いが、わたしにあるのか。運転したのはこの子だ。無免許で、親の車を持ち出して、雫を乗せた。順番の始点をこの子に置いて、わたしは十年、そこで止めていた。
始点を動かすと、わたしに戻る。
戻ると、この子に謝ることになる。
謝る。何を。
妹を殺した子に、何を謝るのか。
わたしは、その問いの前で立っていた。三歩ぶん進んだところで、四歩目が出なかった。
「葉山さん」
添島さんが、後ろから言った。
「出るな」
「なぜですか」
「出たら、あんたが入れることになる」
「入れちゃいけないんですか」
「そうじゃない」
添島さんは、こちらへ来た。
「入れるなら、腹をくくってからにしろ。中途半端に呼んで、あとで追い出すのがいちばん残酷だ」
わたしは、窓のほうを見た。
真昼は、そこにいた。泣いている。傘を持つ手が、赤い布の柄をきつく握っている。指の関節が白い。
死者に、血の色はないはずだった。
「マスター」
わたしは言った。
「あの子を入れるには、どうすればいいんですか」
店主は、答えなかった。
八月にも同じことを聞いた。あのとき、この人は「代金がなければ入れません」と言って、そのあと「そういう方が、いちばん重いものを払えます」と言った。答えになっていない答えだった。
いまは、答える人になっている。
答える人が、答えない。
「言えないんですか」
「言えます」
「じゃあ」
「あなたが、次の雨の夜に、自分で見つけてください」
初めて、この人がわたしに何かを渡した。
答えではなかった。宿題だった。
「マスター」
わたしは、カウンターに戻った。
「お代を」
言われる前に、わたしから言った。
「今夜は、いただきません」
店主は、そう答えた。
「なぜですか」
「あなたからは、もういただきません」
「払うものが、なくなったんですか」
「いいえ。まだあります」
「じゃあ、なぜ」
店主は、伏せた器を見ていた。
「残っているものが、要るからです」
「何にですか」
「あなたが、あとで使います」
わたしは、その答えの意味を掴めなかった。
掴めないまま、次の質問をした。この人は、十月から全部の質問に答える。答えるようになった理由を、この人は「そろそろ意味がなくなるから」と言った。
「あとどのくらいですか」
「次の雨の夜が、最後です」
わたしは、その一文を、二度聞き返さなかった。
聞き返す必要がなかった。カップの底が見える。ランタンの火が青い。霧が腰まで来ている。少女の指先が透けている。窓の外で死者が泣いている。
全部、同じことを言っていた。
「最後、というのは」
「次の雨の夜に、この店は消えます」
「あの子は」
「あの子も、消えます」
わたしは、奥を見た。
少女は掌を見ていた。指が線をなぞっている。こちらの話を聞いていない。聞いていないのか、聞こえていないのか、判断がつかない。
「次の雨は、いつですか」
「私は天気を知りません」
初めて、この人が知らないと言った。
わたしは、携帯を開いた。ガラケーではない。自分のほうだ。天気アプリを出した。一日あたり四十七分、五か月見てきた画面。
北央市。週間予報。
十一月二十三日、曇り。二十四日、曇り。
二十五日、雨。
二十六日、雪。
二十五日の欄に、傘のマークがある。最低気温は四度。二十六日から先は、全部、雪だるまのマークだった。
雪は、条件にならない。第一に、雨が降っていること。小雨以上。雪は不可。
二十五日が、最後だ。
「三日後です」
わたしは言った。
「そうですか」
「三日後の夜が、最後です」
「はい」
わたしは、椅子の背に手を置いた。背もたれのない丸椅子だ。手を置く場所がなくて、宙で止まった。
三日。
七十二時間。そのうち、この店にいられるのは、たぶん一晩の数時間だけだ。逆にまわる時計の下で、外の時間の六倍を使える。使っても、一晩だ。
十年ぶんの言葉を、そこに入れなければならない。
わたしは、自分が何を言うべきかを考えた。
考えて、分からなかった。
十年前の玄関で、わたしが何と言ったのか。その言葉は、六月十七日に払った。取り消すべき言葉が、手元にない。
言葉を持っていない人間が、どうやって取り消すのか。
「マスター」
「はい」
「わたしが六月に払ったものを、返してもらえませんか」
言った。
言ってから、無理だと分かっていることを言ったと気づいた。返す仕組みが、この店にはない。この人が、八月に野辺さんに向かってそう言った。
「返せません」
「分かってます」
「返す仕組みが、ありません」
「分かってます」
わたしは、両手をカウンターに置いた。
「じゃあ、教えてください。何を言ったか」
店主は、こちらを見た。
「私は、知りません」
「受け取ったでしょう」
「受け取ったものは、こちらに残りません」
「残らない」
「はい。私は入れ物ではありません。通り道です」
わたしは、その言葉を何度か頭の中で回した。
通り道。
払われたものは、この人を通って、どこかへ行く。この人の中には何もない。だから、この人はコーヒーを飲まない。飲む理由がない。中身がないものに、味は要らない。
そこまで考えて、わたしは考えるのをやめた。
やめたのは、その先に行くと、この人が何なのかという問いに着くからだ。
三日後に聞く。
そう決めて、わたしは顔を上げた。
「そろそろ」
店主が言った。
わたしは立ち上がった。腰までの霧が、体を避けて外側へ広がった。
奥を見た。
少女が、顔を上げていた。
顔が、あった。ガラケーの光がなくても、輪郭の中に目と鼻と口がある。薄い。薄いが、ある。
その顔が、こちらを向いていた。
「ねえ」
少女が言った。
「はい」
「さっきの、なんだっけ」
「さっきの」
「私の名前。なんだっけ」
わたしは、口を開いた。
「しずく」
「しずく」
少女は、口の中でそれを繰り返した。
繰り返して、首をかしげた。
「覚えとく。忘れちゃうかもしれないけど」
「忘れてもいいです」
わたしは言った。
「え」
「わたしが覚えてます」
少女は、わたしを見た。
薄い顔の中の、薄い目で。
「そっか」
その二文字が、少し明るかった。
「じゃあ、いいや」
少女は掌に目を戻した。指が線をなぞりはじめた。透けた指先が、透けた線の上を、端から端まで動いた。
わたしは、戸口へ歩いた。
歩きながら、自分がいま言ったことの意味を計算した。
わたしが覚えている。
覚えていられるだろうか。わたしは七つ払った。八つ目を払えば、また減る。減りつづける人間が、他人の名前を預かると言った。
三日後に、わたしは何を払うのか。
払わずに済ませる方法があるのか。
戸を引いた。鈴が鳴った。うちの台所の風鈴の音がした。
外は雨だった。板塀のあいだを歩くと、八歩目で雨の音が戻ってきた。米屋の前に、わたしの車が停まっている。
振り返った。
軒先のランタンの、青い火が見えた。
その光の届く範囲だけ、霧が薄い。薄い範囲が、六月より狭くなっていた。
三日後。わたしは三日後の夜に、十年分の言葉を、たった一杯のコーヒーの温度が持つ間に、言わなければならない。




