第七話 おかわり
十月二十三日、高校の交通安全教室の取材が回ってきた。
地域面の広瀬が別件で出られなくなって、わたしに振られた。県警の交通課が県内の高校を回っている事業で、体育館に一年生を集めて、五十分。年に十数回やっていて、記事は毎回八十行くらい出る。
北央第三高校。
車を出す前に、わたしは学校の名前を二度見た。
雫が通っていた高校だ。
十年前の六月十八日の記事に、その名前が入っている。市内の高校一年、三沢真昼さん。同乗していた同校一年、葉山雫さん。同校、というのはここのことだ。
わたしは行くと返事をした。
断る理由が作れなかった。断ればまた、外してくださいと言うことになる。二年目の秋に一度それをやって、そのときの自分の声を、わたしはもう持っていない。
体育館は寒かった。
十月の午後で、暖房は入っていない。生徒が二百人くらい、床に座っている。ジャージの子と制服の子が混ざっていて、後ろのほうは眠そうにしている。
県警の交通課の人が、スクリーンを使って話した。
自転車の並走。イヤホン。夜間の無灯火。それから、無免許運転。
十六歳と十七歳の無免許運転が、県内でも年に何件かあるという話をした。親の車の鍵は、たいてい玄関の決まった場所にある。友達に誘われて、一度だけのつもりで乗る。統計の数字がスクリーンに出た。
わたしはメモを取った。
この事業の記事は、毎回ほとんど同じ形になる。日時、場所、対象人数、講師の所属、話の主な内容、生徒の代表の感想。八十行のうち六十行が定型で、残りの二十行に、その回だけの何かを入れる。
その二十行を作るために、記者は会場を見る。眠っている子と、身を乗り出している子と、内容が自分に刺さった顔をしている子を探す。探して、終わってから声をかけて、感想を取る。
わたしは、会場を見た。
見ながら、十年前のこの体育館に、雫と真昼が座っていたことを考えた。
一年生だ。この事業は毎年やっている。十年前もやっていたなら、二人はこれを聞いている。無免許運転の話も、親の車の鍵の話も、聞いている。
聞いて、二か月後に、二人はそれをやった。
わたしはメモの余白に、そのことを書きかけて、やめた。書けば記事に入れたくなる。入れれば、この事業の記事は、その回だけの何かを持つ。
持たせてはいけない材料だった。
取りながら、体育館の右手の列を見た。
前から四列目に、髪を肩につかない長さで切った子がいた。後ろで細くはねている。膝を抱えて、少し前かがみになって、スクリーンを見ている。
横顔だった。
わたしの手が止まった。
似ている、と思った。
思ってから、何に似ているのかを確かめようとして、確かめられなかった。
雫の顔が、出てこない。
輪郭は出る。髪の長さも出る。制服の色も出る。中心の、目と鼻と口があるはずの場所が、白い。八月に写真の前でやって、九月にもやって、十月にもやって、三回とも同じだった。
いま、四回目をやっている。
体育館の床に座った知らない女子高生の横顔を見て、それが妹に似ているかどうかを、わたしは判定できない。判定するための原本が、手元にない。
呼吸が浅くなった。
浅くなったことに気づいて、深くしようとして、うまくいかなかった。喉のあたりが狭い。指先が冷たい。冷たいのは支払いのせいで、いまは何も払っていないのに冷たい。
ノートを持つ手が震えた。
わたしは体育館の後ろに下がって、壁に背中をつけた。
五十分の講義のうち、後半の二十分を、わたしは何も聞いていない。終わってから交通課の人に頭を下げて、名刺をもらって、質問を三つした。三つとも、スクリーンに書いてあったことを聞き直しただけだった。
車に戻って、シートに座った。
エンジンをかけなかった。
写真ならある。部屋の机の引き出しに、封筒がある。十四枚ある。見れば顔がある。
見れば、思い出せる。
問題は、見ないと思い出せないことだ。
写真を見て「これが雫だ」と分かるのは、記憶ではない。照合だ。免許証の顔写真を見て本人だと確認する作業と同じで、そこに妹はいない。
あと何回か払ったら、写真を見ても分からなくなるかもしれない。
そう思った瞬間に、逆のことを思った。
店に行けば、会える。
奥の霧の手前に、紺色の肩がある。顔は白くて見えないが、声はある。掌を見ている指がある。「ねえ」と言う声がある。
わたしは、その考えを打ち消そうとした。
打ち消す言葉が、出てこなかった。
会社に戻って、原稿を書いた。
八十行を、一時間半で書いた。定型が六十行あるから、埋めるのは早い。
残りの二十行には、講師が使ったスライドの数字と、生徒会長の感想を入れた。感想は、終わってから廊下で三分もらった。
交通ルールを守ろうと思いました、という内容だった。
原稿を出して、柏木さんが目を通した。
「これでいい」
「ありがとうございます」
「葉山」
「はい」
「お前、あの高校だったか」
わたしは、手を止めた。
柏木さんは、ゲラを見たままだった。
「いえ。妹です」
「そうか」
それだけだった。
聞かない。この職場では、たいてい聞かない。四年前、わたしはそれを助かると思っていた。
いまは、違うことを思う。
聞かれないというのは、こちらから言い出す機会が永遠に来ないということだ。言い出さなければ、いつまでも自分の中にある。自分の中にあるものは、腐る。
天気予報を見た。二十六日、雨。
三日後だった。
十月二十六日、夕方から降った。
気温が十四度まで落ちて、川から白いものが上がって、七時には街灯の輪が地面に届かなくなった。耳の奥は、会社を出る前から鳴っていた。
板塀のあいだを八歩。
戸を引いた。鈴が鳴った。祖父の家の風鈴の音がした。
「濡れましたね」
わたしは、タオルを受け取らなかった。
座らなかった。カウンターの前に立って、店主を見た。
添島さんがいた。Tシャツの人もいた。二人ともこちらを見た。
「おかわりをください」
言った。
店の中の音が、消えた。
雨の音はもともと聞こえない。振り子時計の音があったはずだった。その音が、途中で切れた。
添島さんが、椅子から立ち上がった。
音を立てて立ち上がった。この人が急に動くのを、わたしは四か月で初めて見た。
「おい」
「はい」
「今、なんて言った」
「おかわりをください、と言いました」
「一杯目を飲んでないだろう」
「飲んでません」
「じゃあ、おかわりじゃない」
「同じことです」
わたしは戸口の貼り紙を見た。
一、珈琲は一杯だけ。おかわりを頼んではならない。
一杯だけ、と書いてある。頼んではならない、と書いてある。頼んだ。
「葉山さん」
Tシャツの人が言った。
顔を上げて、驚いた。
その人は、笑っていなかった。
四か月、この人は笑い続けていた。音のない笑いで、目を細めて、肩を揺らして、それを毎回やっていた。いま、口が閉じている。目が開いている。眉が寄っている。
初めて見る顔だった。
「やめてください」
「なぜですか」
「やめてください」
同じ言葉を繰り返した。理由を言わない。言えないのかもしれない。三つ目の掟が、この人の説明を全部塞いでいる。
「あんた、分かってて言ってるのか」
添島さんが、こちらに近づいた。
「奥に行くぞ。掟を破ったら、常連になるんだ。俺は言ったはずだ」
「聞きました」
「聞いて、それでか」
「はい」
「なんでだ」
わたしは、その質問に答えられた。
答えられることに、自分で驚いた。この四か月、わたしは自分の行動の理由を次々に払ってきた。理由を払うと、行動だけが残る。残った行動には説明がつかない。
今夜だけは、あった。
「妹の顔が、思い出せないんです」
添島さんが、動きを止めた。
「写真を見れば分かります。見ないと出てきません。三日前、妹と同じ年の子を見て、似てるかどうかも分からなかった」
「それで」
「あの子に会えば、思い出せる気がして」
言ってから、自分の理屈のおかしさに気づいた。
奥にいるのは知らない少女だ。妹ではない。妹に似ているわけでもない。顔が白くて見えないのだから、似ているかどうかも判定できない。
あそこに行けば何かが戻る気がする、という一点だけが動かない。
その気がすることを、わたしは四か月、一度も検証していない。
「二杯目を飲めば、あの子の近くに行けるんですか」
わたしは店主に聞いた。
店主は、答えなかった。
答えない代わりに、こちらを見ていた。
皺の中の、子どもみたいな目。四か月、わたしはその目を見てきた。悲しそうな目だと思っていた。今夜は、違った。
怒っていた。
眉が動いたわけではない。口元も変わらない。目の下の皮膚が、ほんのわずかに引き締まっている。それだけで、怒っていることが分かった。
「お客さん」
「はい」
「頼まないでください」
「頼みます」
「頼まないでください」
店主が二度言ったのを、わたしは初めて聞いた。
「あんた、四か月だぞ」
添島さんが言った。
「俺は十年だ。十年通って、一度も飲んでない。飲まないほうが長生きするからじゃない。飲んだら終わるからだ」
「終わる」
「女房が終わる。あんたは、妹が終わる」
「もう終わってます」
言ってしまった。
言ったあとで、この人に言うことではなかったと分かった。この人の妻は、まだ痛みの形で残っている。残っているから、この人は十年、空のカップの前に座っていられる。
「すみません」
「謝るな」
添島さんは、そのまま立っていた。
「俺はな、あんたが来た六月から、ずっと心配してた」
「なぜですか」
「あんたが、俺と同じ顔をしてたからだ」
わたしは、その言葉を受け取れなかった。
受け取れないまま、店主のほうを向いた。
「断ってください」わたしは言った。「断れるでしょう。あなたが断れば、それで終わりです」
「断れません」
「なぜ」
「請求されたものを出すのが、この店だからです」
「それは掟にありません」
「掟は、お客さまのためのものです」店主は言った。「私のためのものは、書いてありません」
わたしは、その一文の重さを、そのときは量れなかった。
量れないまま、うなずいた。
「お願いします」
店主は、しばらく動かなかった。
それから、サイフォンの下の木箱を開けた。
いつもの手順だった。
布を張った金具を、上の器にはめこむ。鎖を管に通して、先を引っかける。竹べらで位置を確かめる。二度直した。豆を挽く。粉を小さな皿に移す。
火を入れる。
下の器の底に細かい泡がついて、壁面をつたって上がる。鎖の先が揺れる。上の器を押しこむ。湯が上がる。
湯が上がりきったところで、粉が落ちた。
香りが、立たなかった。
四か月、この瞬間に必ず立ってきた。祖父の家の匂い。廊下の暗がりに溜まっていた、畳と線香と樟脳の匂い。
何も匂わない。
粉の匂いすら、しない。
竹べらが一度入って、火が落ちて、二度目が入って、黒が布を抜けて落ちてきた。色は同じだった。黒くて、少し赤みがある。
その手つきを、わたしは見ていた。
四か月、この人の手だけが生きていると思ってきた。顔は動かない。声も抑揚が薄い。手にだけ、この人の時間が全部集まっている。
今夜、その手が、いつもより丁寧だった。
竹べらで布を張った金具の位置を確かめるのに、二度ではなく三度かけた。粉を器に移すときに、こぼれた一粒を指で拾って、器に戻した。
丁寧というより、遅い。
引き延ばしている。
わたしは、そのことに気づいた。気づいて、何も言わなかった。言えば、この人は手を速めるだけだ。
カップが置かれた。
湯気はない。八月から立っていない。
「お代を」
「今夜は、何ですか」
店主は、答えなかった。
「今夜は、何ですか」
「二杯目に、お代はありません」
「じゃあ」
「勝手に、いただきます」
わたしは、その言葉の意味を聞き返す時間を持たなかった。
飲んだ。
味が、しなかった。
苦味がない。甘味がない。酸味も、渋みもない。温度もない。舌の上に液体が乗っている感覚だけがあって、それが喉を通って落ちていく。水よりも味がない。水には水の味がある。
飲みこんだ。
頭の芯が、冷えなかった。
いつもは冷える。奥歯で氷を噛んだときの冷たさが、目の裏で一度ひらいて引く。それがない。
代わりに、後頭部の下のほうが、熱くなった。
熱いというより、こすられている。内側から、粗い布で拭かれている。拭かれているものが何なのかを、わたしは拭かれている最中に見ていた。
笑っている雫だ。
台所で、麦茶を飲みながら笑っている。中学のジャージを着ている。何がおかしいのか、口を開けて笑って、麦茶をこぼして、母に怒られて、それでも笑っている。
その場面が、拭かれていく。
笑っている、というのは分かる。何がどう笑っているのかが、順に薄くなる。口の形。目の細まりかた。声。肩の動き。
最後に、笑っているという情報だけが残った。
雫は笑う子だった。
その一行だけが、手元にある。
三行の書きかたと同じだった。
九十二年を三行にする。三十四年を三行にする。十六年を三行にする。三行にすると、その人は「そういう人」になる。花壇の世話を三十年した人。プールの笛を置いていった人。笑う子だった人。
わたしは四年、それをやってきた。
いま、自分の妹に、それをやった。
わたしは、カップの中を見た。
半分残っている。飲めば、まだ持っていかれる。飲まなければ、残る。残るものが何なのか、もう見当がつかない。
飲まなかった。
カップを置いた。
置いた音が、やけに大きく響いた。
床が、白い。
わたしは足元を見た。
霧が入っていた。
戸は閉まっている。窓も閉まっている。どこから入ったのか分からないまま、白いものが床を這っていた。足首の高さで、店の手前のほうへ広がっている。動きは遅い。遅いのに、目を離すと位置が変わっている。
奥の霧が、前に出てきていた。
「マスター」
添島さんの声が、硬かった。
「見えてる」
店主は、器を洗っていた。手が止まらない。止まらないことが、この人の答えだった。
壁の時計を見た。
長針が、左へまわっている。
速い。
いつもの倍近い速さで、目で追える速さで、左へ動いている。秒針ではない。長針だ。文字盤の数字を、一つ、また一つと逆に越えていく。
「何時ですか」
「その時計は、当てにするな」添島さんが言った。「耳で守れ。前に言った」
「鐘は」
「まだ鳴ってない」
わたしは椅子に座った。
座って、自分の指を見た。
冷たくない。
火の消えた薪が、外から見ると同じ形をしているのと同じだった。
支払いのたびに冷えていた指先が、今夜は温かい。温かいまま、何かが持っていかれた。
冷えるのは、代金を払ったときの感覚だった。今夜、わたしは払っていない。勝手に、いただかれた。
その夜、わたしは早く店を出た。
出たというより、出された。店主が「そろそろ」と言ったのが、いつもよりずっと早かった。時計は当てにならない。体感で一時間も経っていなかった。
板塀のあいだを歩いた。
八歩目で、雨の音が戻ってこなかった。
十歩目でも、戻らない。
顔を上げた。
路地が、長かった。
いつもは十歩で外の通りに出る。板塀が終わって、米屋のシャッターが見えて、車が停まっている。今夜は、板塀が続いている。前も白い。後ろも白い。
わたしは立ち止まった。
「葉山さん」
後ろから声がした。
振り返ると、Tシャツの人が立っていた。
霧の中に立っている。輪郭が、はっきりしている。周りが白いのに、その人のところだけ線が濃い。
水の中にいるものが、水の中でだけ形を持つのに似ていた。
「送ります」
「……あなた、外に出られるんですか」
「出られますよ。ここまでなら」
その人は歩き出した。わたしは並んで歩いた。
板塀は続いていた。歩いても終わらない。終わらないのに、その人が横にいるあいだは、怖くなかった。
「葉山さん」
「はい」
「俺、死んでます」
足が止まった。
その人は、立ち止まらずに二歩進んで、それから振り返った。
「ここは店の外です。だから言えます」
「……」
「三つ目は、店の中の話でしょう。外は書いてない。添島さんに聞いたんじゃないですか」
聞いた。九月に、車の中で。
「いつ」
「七月の二十日です」
「……」
「葉山さんが、三行にしてくれた日の、二日前ですね」
わたしは、その人の顔を見た。
霧の中で、輪郭が濃い。目も鼻も口もある。生きている人間の顔と、どこも違わない。
「知ってたんですか」
「あなたが書いたのは、あとで知りました」
「なぜ」
「名前を知ってたでしょう、俺。葉山さん、って」
七月二十九日の夜だ。この人が急にわたしの名前を呼んで、わたしが「なんで」と聞いて、この人は「ずっと前から知ってますよ」と答えた。
「三行の下に、名前は出ませんよ」
「出ませんね」
「じゃあ、なんで」
「分かんないです。ほんとに」
その人は、そこで笑った。
音がなかった。三月に払っている。
「死ぬとね、変なことが分かるようになるんです。誰が自分のことを書いたか、とか。誰が自分の名前を最後に呼んだか、とか。役に立たないことばっかりです」
わたしたちは歩いた。板塀は終わらない。
「一つ、確かめさせてください」
「どうぞ」
「あなたが初めて店に来たのは、二月か三月ですね」
「そうです」
「そのとき、あなたは生きてましたか」
その人は、二歩ぶんの間を置いた。
「生きてました」
「じゃあ、七月二十日から後は」
「同じ店に、同じ顔で座ってます。誰も何も言いません」
「添島さんは」
「たぶん、気づいてます」
「言わないんですね」
「言えないんですよ。三つ目があるから」
わたしは、掟のことを考えた。
隣の客と死について語ってはならない。あの一行のせいで、この店では誰も、隣の人が生きているかどうかを確かめられない。確かめられないから、みんな同じように扱う。
同じように扱われた側は、楽だ。
「あの掟は」わたしは言った。「誰のためにあるんですか」
「俺のためです」
即答だった。
「俺みたいなのが、普通に喋れるようにです。そうじゃなかったら、俺、あの店に入った瞬間に、みんなに気を遣われますよ」
「気を遣うのは、悪いことですか」
「悪くないです。ただ、四か月ぶん、素麺のつゆの話ができなくなる」
わたしは、その答えを聞いて、店主の独白を思い出した。
見分けがつかないのは、たぶん、優しさのつもりなのだと思う。
いつか、そういう三行を、あの人が言っていた。
「何度も、やってるんですね」
聞き方に、わたしは十秒かけた。
「はい」
「何度も」
「一回目は二十四のときです。それから、たまに」
その人は、そこから先を言わなかった。
どうやったのかも、どこでやったのかも、言わなかった。わたしも聞かなかった。
聞かないのは作法だ。仕事でも、その作法がある。
うちの社は、こういう死にかたを記事にしない。おくやみ欄の三行で終わる。
理由は倫理の話だ。手引きがあって、手段を書かない、目立たせない、繰り返さない、原因を一つに決めつけない、と決まっている。
守っているのは、模倣が起きるからだ。
だから、わたしは森口さんの三行を書いた。
三行しか書かなかったのは、正しかった。正しかったことと、確かめなかったことは、別の話だ。
「一回目のあと、どうなったんですか」
「病院にいました。三か月」
「それから」
「働いて、また働いて、辞めて。……あのね、葉山さん」
「はい」
「その話、あんまり面白くないんですよ」
「面白くなくていいです」
「じゃあ、一個だけ」
その人は、歩きながら空を見た。空はない。白いだけだ。
「毎回、失敗するんだと思ってたんです」
「え」
「今まで全部失敗したから、次も失敗するって、どっかで思ってた。だから、七月のあれも、たぶん失敗するんだろうなって思いながら、やったんです」
わたしは、返す言葉を持たなかった。
「失敗しなかったんですよね。びっくりしました」
その人は、そう言って、また笑った。
「びっくりしたまま、ここにいます」
板塀が、少し明るくなった。
先のほうに、街灯の光が見えた。米屋のシャッターの、あの光だ。
「葉山さん」
「はい」
「さっきの二杯目、あれ、やばいです」
声の高さが変わった。跳ねる語尾が、消えている。
「生きてる人間が、あそこに染まると、あの世とこの世の糊代がべろっと剥がれるんですよ」
「糊代」
「二枚の紙を貼るとき、のりしろがあるでしょう。あそこがあの店です。狭いんですよ、本当は。葉山さんが飲むたびに、そこが濡れて、ふやける」
「ふやけると」
「剥がれます。剥がれると、どっちの紙にも戻れない」
わたしは足を止めた。
その人は、二歩先で振り返った。
「常連ですか」
「常連は、まだ手前です。常連は店の中にいる。剥がれた人は、どこにもいない」
「野辺さんは」
「あの人は名前を置いただけです。体は向こうにあります」
「じゃあ」
「葉山さんは、まだ間に合う」
その人は、はっきりそう言った。
「帰れる側にいてください」
「あなたは」
「俺は無理です。もう決まってるので」
「決まってる」
「決まってますよ。今さらどうにもならないから、こんなに気楽なんです」
気楽、と言った。
この人は四か月、ずっと気楽そうにしていた。値上がりの話をして、素麺のつゆで言い争って、音のない笑いかたをしていた。
気楽の理由が、それだった。
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、後悔してますか」
長い間があった。
「してます」
「何を」
「毎回、次は失敗するって思ってたことです」
その人は、街灯のほうを向いた。
「思ってなかったら、たぶん、やらなかった」
米屋の前に出た。
わたしの車が、雨に濡れて停まっていた。振り返ると、板塀はなかった。駐車場のアスファルトがあって、区画のプレートが三枚傾いている。
Tシャツの人は、いなかった。
わたしは車に乗らずに、店のほうへ引き返した。
引き返せなかった。路地はない。二十分ほど、駐車場に立っていた。雨に濡れて、髪から水が落ちて、指先だけが温かいままだった。
翌日は、体が動かなかった。
会社には行った。行って、四件を三行にして、確認の電話を三本かけた。喪主の名前の漢字を二度聞き直して、通夜の時刻を三度読み上げてもらった。ミスはしなかった。
昼に、社の食堂で定食を食べた。
味が、あった。
魚と、味噌汁と、漬物。全部、ちゃんと味がした。舌は壊れていない。壊れているのは、あの店のカップの中身だけだ。
午後、資料室に行った。
十月四日に開いた合本を、もう一度出した。十年前の六月。六月十八日付の社会面。三段見出し。県道の略図。×印。
読んだ。
読んで、何も起きなかった。
九月までは、これを読むと動悸がした。十月四日には、指が震えた。今日は、何も起きない。
わたしは合本を閉じて、棚に戻した。
戻すのに、行きと同じ時間しかかからなかった。
翌々日、また降った。
十月二十八日。条件は揃った。
耳の奥が鳴った。板塀のあいだを八歩。戸を引いて、鈴が鳴った。
「濡れましたね」
店内の霧は、足首より少し上まで来ていた。二日前より上がっている。
添島さんがいた。Tシャツの人はいなかった。
「あんた、無事か」
「無事です」
「昨日、あんたが出たあと、こっちは大変だった」
「何がですか」
「時計が三周した」
添島さんは、壁を顎で示した。
「二時の鐘は鳴らんかった。針だけ、三周した」
わたしは椅子に座った。
カップが置かれた。
お代を、と店主は言わなかった。言わないまま、目の前に白いカップが置かれた。
わたしは指で触れた。
温かくない。
ぬるくもない。
冷たかった。
外側が、部屋の温度と同じになっている。十月末の店内で、十四度の外気で、そういう温度だ。手のひらで包んでも、返ってくるものがない。
「これ」
「はい」
「冷たいです」
「はい」
「前は、こんなに」
「はい」
同じ音を三度返された。
この人は、否定しない。訂正もしない。二杯目のあとから、わたしの言うことに全部「はい」と答えている。
「あなた、いつからこうなると分かってたんですか」
「六月からです」
答えた。
質問に、答えた。
四か月で初めてだった。この人は答えない。質問を返す。それがこの人の形だった。
「どうして、今夜は答えるんですか」
「そろそろ、意味がなくなるからです」
店主は、わたしの手元を見ていた。
「まだ、少し残っています」
「何がですか」
「温度が」
わたしはカップを持ち上げて、口をつけた。
味は、あった。
薄い。祖父の淹れた一杯の味が、三分の一くらいの濃さで残っている。角砂糖の甘さの輪郭だけがあって、中身が抜けている。
飲み干した。
奥の霧の手前に、紺色の肩があった。
わたしは椅子をずらして、奥に寄った。少女は掌を見ていた。指が線をなぞっている。
「こんばんは」
「こんばんは」
「手、見てるんですね」
「うん」
わたしは、自分の右手をカウンターの上に出した。
掌を上に向けて、置いた。
「これ、読めますか」
前に一度、断られている。七月だった。あなたのは読めない、まだ書き足されてるから、と言われた。
少女は、こちらを見た。
それから、手を伸ばした。
四つ離れた席から、届くはずのない距離だった。前は途中で止まった。見えない板に当たったように、腕が止まった。
止まらなかった。
少女の指が、わたしの掌に触れた。
冷たくなかった。温かくもなかった。何も感じなかった。触れられているという事実だけが、視覚から入ってくる。
少女は、掌の線を一本、端から端までなぞった。
なぞって、指を戻して、また同じ線をなぞった。
三度なぞって、手を引いた。
「読めるよ」
「……読めるんですか」
「うん」
「前は、読めないって」
「前は、書き足されてたから」
少女は、自分の掌を見た。
「もう、書き足されてない」
わたしは、自分の右手を見た。
線がある。生命線も、感情線も、細かい皺も、全部ある。減っている感じはしない。
「どういう意味ですか」
「わかんない」
少女は首をかしげた。
「でもね、読めるようになった人は、たいてい、こっち側に来るの」
わたしは、手を膝の上に戻した。
膝の上で、両手を組んだ。
組んだ指が、温かかった。
二日前から、ずっと温かい。冷えない。
冷えないことが、いちばん、こわかった。
二日前の、味のしないコーヒーの残り香が、わたしの喉の奥に、悔いの味だけを残した。
もう長くない。
あと少しで、あの子は待つことを終わる。
……私も。




