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喫茶店GG(ジジィ) 〜この世とあの世の境界線〜  作者: やはぎ・エリンギ


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7/14

第六話 傘の女

入れない人がいる。

払うものを持たない人は、ここに入れない。

いちばん何もしていない人が、いちばん外にいる。

 十月に入って、雨の降りかたが変わった。

 夏の雨は上から落ちてくる。秋の雨は横から来る。気温が下がって、川から上がる白いものが濃くなって、街灯の輪が地面まで届かなくなった。

 十月三日、その夜も店にいた。

 添島さんは乗務明けで来ていた。

 Tシャツの人は、季節が変わってもTシャツのままだった。寒くないのかと聞いたら、寒いという感覚を最近あまり使っていない、と答えた。

 答えたあとで、自分の言ったことに気づいた顔をして、笑った。音はなかった。

「先輩、明け番でしょ。寝ないんですか」

「寝る前に寄ってるんだ」

「それ、寝ないってことですよ」

「うるさい」

 添島さんは隔日勤務で、朝四時半に上がって、日報を書いて、家に帰る。帰る前にここへ寄れるのは、雨と霧が揃った夜の、上がる前の休憩のときだけだ。

「深夜の休憩を、ここで取ってるんですか」

「そうだ。決まりでな、途中で必ず取らにゃならん」

「無線が入ったら」

「切ってある。休憩中は切っていい」

「じゃあ、この四か月」わたしは言った。「雨の夜はずっと、休憩をここで」

「そうだよ」

「弁当は」

「食ってない」

 添島さんは、そう言って、空のカップを回した。

 十年間、この人は休憩時間に何も食べていない。何も飲んでいない。空のカップの前に座って、時計が逆にまわるのを見て、それから車に戻って、朝まで走っている。

 わたしは、背後の窓を見た。

 見る癖がついていた。窓の向こうは白くて、その中を人の背丈のものが横切る。右から左へ、歩く速さで。しばらくして、左から右へ。数えたことはない。数えないほうがいいと、体が判断していた。

 その夜は、横切らなかった。

 止まっていた。

 窓の中央から少し右寄りの位置に、輪郭が一つ立っている。動かない。人の背丈で、肩の幅があって、その上に丸いものが乗っている。

 丸いものが、赤かった。

 霧は白い。この店にある色は、珈琲の黒と、霧の白と、そこに火の色が乗るだけだ。四か月通って、それ以外の色を窓の外に見たことがなかった。

 赤い、傘だった。

 わたしは、その色を確かめるのに時間をかけた。

 暗い赤ではない。朱に近い。子どもの長靴に使われる、明るい赤だ。霧の白の中でその色が沈まないのは、霧が薄いからではなく、その傘だけが霧の向こう側にないからだと感じた。感じただけで、根拠はない。

 傘の下に、人が立っている。輪郭だけで、顔は見えない。

 水の底から見上げた人影に似ていた。形はある。輪郭の縁が、いつまでも定まらない。

 こちらを、見ていた。

 見ている、と分かる理由はなかった。顔がないのだから、視線もないはずだった。それでも、向きが分かる。人間は、自分に向けられた注意を、目より先に皮膚で受け取る。

「添島さん」

「うん」

「窓の外に、人がいます」

「いつもいるよ」

「立ってます。動かないで、こっちを見てます」

 添島さんが、体をひねって窓を見た。

 三秒くらい見て、正面に戻った。

「白いな」

「え」

「霧だ。何もない」

「いますよ。赤い傘の」

「見えん」

 わたしはTシャツの人を見た。

 その人は、窓のほうを見ていなかった。カップを両手で包んで、中身を覗きこんでいる。

「あの」

「見ませんよ、俺は」

 顔を上げずに、その人は言った。

「見ないんですか。見えないんじゃなくて」

「見ないんです」

 声の高さが、いつもと違っていた。跳ねる語尾が、平らになっていた。

「葉山さんも、見ないほうがいいですよ」

「見ないほうがいいって、どういう意味ですか」

 その人は、カップの底を覗いたままだった。

「見ると、こっちに来るんですよ」

「来る」

「見た人のところに来る。見ない人のところには来ない。それだけです」

「見た人はどうなるんですか」

「知らないです」

「知らないのに、見ないんですか」

「知らないから見ないんですよ」

 その言い方は、正しかった。

 正しくて、わたしには使えなかった。記者は、知らないものを見る仕事だ。見ないという選択肢を四年で何百回も使ってきたくせに、それを作法だと言って自分を許してきた。

「葉山さん」

「はい」

「今日、なんか違いますね」

「そうですか」

「なんか、目が」

 その人は、そこで言葉を探した。探して、見つからなかったらしい。

「うまく言えないな。取材のときの目、みたいな」

 わたしは窓に向き直った。

 赤い傘は、そこにあった。


「あれは、何ですか」

 わたしは、店主に聞いた。

 店主は布巾を畳んでいた。畳み終えるまで答えなかった。

「入れない方です」

「入れない」

「条件を満たしていません」

「雨も霧も、夜も揃ってます。あの人は、外にいるのに」

「揃っているのは、店が出るための条件です。入るための条件は、別です」

 わたしは戸口の貼り紙を見た。五行には、入店の条件は書いていない。

「五つ目です」店主が言った。「代金は金では払えない。店主が請求するものを差し出すこと」

「はい」

「請求できるものがない方は、入れません」

 その一文の意味を、わたしは三秒で理解して、理解したことに耐えられなくなった。

「持ってない人が、入れないんですか」

「はい」

「逆じゃないんですか」

「逆とは」

「持ってない人こそ、入れてあげるべきでしょう」

「私もそう思います」

 店主は、そう言った。

 言ったあとで、器を洗いはじめた。

「思ってるのに、入れないんですか」

「私が決めたものではありません」

 また、それだった。この人はいつもそこに戻る。戻る場所があるということは、そこから先に行けないということだ。

「時々いるんだよ」

 添島さんが言った。

「ああいうのが、時々いる。支払うものを持たん人だ。痛みの借金がないと、あの店は入れてくれない」

「痛みの借金」

「後悔とか、未練とか、嘘とか。俺らが抱えてるやつだ。あれがないと、代金にならん」

「じゃあ、何も悪いことをしてない人は」

「入れん」

 添島さんは、空のカップの縁を指でなぞった。

「持ってる人間ってのはな」添島さんが続けた。「誰かを傷つけた人間だ。裏切ったか、見捨てたか、間に合わなかったか。そういうのが痛みになる。痛みは代金になる」

「傷つけられた側は」

「代金にならん」

「なぜですか」

「持ってないからだ。悪いことをしてないから、悔いがない。悔いがないと、差し出すものがない」

 わたしは、その理屈を頭の中で組み立て直した。

 組み立て直しても、同じ形になった。

 この店は、加害の記憶で回っている。誰かを損なった人間だけが、ここに入って、その記憶で温かいものを買う。何もしていない人間は、外で立っている。

「それ、地獄じゃないですか」

「地獄じゃないよ」

 添島さんが言った。

「地獄なら、悪いやつが外に立ってる」

 わたしは、そこで黙った。

「俺が知ってる範囲で、二人いた。一人は、七年前の冬だ。ずっと窓の外に立ってた。小さかったよ。子どもだった」

「子ども」

「膝くらいの背丈だ。傘は持ってなかった。半年くらい見てて、ある夜からいなくなった」

「どこへ」

「知らん」

 わたしは膝の上で指を組んだ。組んで、力を入れた。

「おかしいでしょう」

「おかしいな」

「子どもが、なんで外にいるんですか。あの子は、何を後悔するんですか。何を嘘つくんですか。何も持ってないから入れないって、そんな」

「あんたの言うとおりだ」

「じゃあ、なんで」

「俺に言うな」

 添島さんの声が、少しだけ強くなった。強くしたことを、この人はすぐに悔いた顔をした。

「すまん。……俺も七年前に、同じことを言った。マスターに」

「なんて言われました」

「同じだよ。私が決めたものではありません、だ」

「もう一人は」

「もう一人は、去年だ。婆さんだった。杖をついてた」

「その人も、いなくなったんですか」

「いなくなった。三か月くらいで」

「三か月」

「子どもは半年、婆さんは三か月。長さは、たぶん、その人が持ってた何かで決まる」

「持ってないから入れないんでしょう」

「持ってないから入れん。けど、外に立ってられる時間はある。ゼロじゃない」

 添島さんは、カップから指を離した。

「俺はな、あれが何を待ってるのか、ずっと考えてた」

「答えは出ましたか」

「一つだけ思いついた」

「なんですか」

「誰かが、外に出てきてくれるのを待ってる」

 わたしは窓を見た。

 赤い傘は動かない。八本の骨の、その下の輪郭が、こちらを向いている。

「出ていったこと、ありますか」

「ない」

「なぜ」

「怖いからだ」

 添島さんは、はっきりそう言った。この人が自分の弱さを言葉にするのを、わたしは初めて聞いた。

「あれが女房だったら、どうする」

「……」

「違ったら、どうする。違ったときのほうが、俺には怖い」

 店主は、洗い終わった器を伏せた。

 わたしは窓に向き直った。

 赤い傘は、まだそこにあった。

 さっきより、近い気がした。


 その夜、部屋に戻ってから、わたしは眠れなかった。

 赤い傘の輪郭が、目を閉じると出てくる。出てくるのは輪郭だけで、顔はない。顔がないのに、既視感がある。

 既視感というのは、記者の言葉では、要注意の感覚だ。取材で「見たことがある気がする」と思ったものは、たいてい本当に見たことがある。人間の記憶は、思い出せないものを既視感という形で通知してくる。

 わたしは電気をつけて、机に向かった。

 紙を一枚出して、書き出した。

 十年前の六月十七日。雫が死んだ日。

 わたしが書けることを、上から順に書いた。

 雫は十六歳、高校一年生。その夜、わたしと玄関で喧嘩をした。

 雫は青いパーカーを着て、白いスニーカーを履いて、家を出た。紐が片方ほどけていた。廊下の照明が切れかけていた。

 夜十時ごろ、市の南の県道で事故。

 翌日の午前二時ごろ、病院で母から電話を受けた。

 そこまで書いて、ペンが止まった。

 事故。

 どういう事故だったのか、わたしはそこに書けなかった。

 車だ。それは知っている。雫は車に乗っていた。十六歳が車に乗るには、運転する誰かが必要だ。

 運転していたのは、誰か。

 その質問を、わたしは十年、一度も自分にしていない。

 していないことに、いま、気づいた。

 これは忘却ではない。忘れたなら、思い出そうとしたときに空白が出る。空白は出ない。出るのは、そこを見ないための別の考えだ。葬儀の段取り。母の泣き声。祖父の病室。大学の休学届。

 十年間、わたしはその一点だけを、きれいに迂回して生きてきた。

 わたしはペンを置いて、両手を膝に置いた。

 わたしは、紙の余白に、覚えていることを片端から書き出した。

 雫の高校の制服の色。カバンにつけていたキーホルダーの形。その年の三月に切った前髪の長さ。

 書けた。全部書けた。

 十六年ぶんの妹のことは、驚くほど残っている。払ったのは喧嘩の言葉と、名前を呼んだ声と、笑顔の一部だ。それ以外は、まだある。

 では、あの夜の車のことは。

 書けない。

 書けないのに、空白ではない。手を伸ばすと、別のものに当たる。葬儀の受付に立ったこと。母がうずくまったこと。祖父が病室で天井を見ていたこと。全部、雫が死んだあとの話だ。

 死ぬ瞬間の周辺だけが、避けられている。

 避けているのは、わたしだ。

 ペンを置いて、目をつぶった。

 つぶって、意識して、その一点に向かって歩いた。喧嘩をした。雫が出ていった。そのあと、雫はどこへ行ったのか。

 友達のところだ。

 誰の。

 出てきた。

 三沢真昼。

 雫の同級生の名前だった。中学からの友達で、家が三つ隣の区画にあって、休みの日に二人でうちに来て、居間でだらだらしていた。わたしが大学の課題をやっている横で、二人でスマートフォンを見て笑っていた。

 顔が出た。

 丸い顔で、頬に肉がついていて、笑うと目が線になる子だった。

 声が大きい。うちに来ると、玄関から「おじゃましまーす」と叫ぶ。

 母がそれを喜んでいた。うちは静かな家だったから、大きい声の子が来ると、家が動いている感じがした。

 小学四年のときからの友達だ。三沢の家は、うちから三つ隣の区画にある。角に赤い屋根の家があって、その二軒隣だ。歩いて七分。

 夏になると、二人でプールに行った。中学の三年間は、同じ部活だった。バドミントンだ。真昼のほうが上手くて、雫がいつも負けて、負けたあとに「まひるはずるい」と言っていた。ずるくはない。上手いだけだ。

 高校も同じところに入った。

 入学式の日、二人並んで写真を撮った。あの写真は、いま、机の引き出しの封筒の中にある。十四枚のうちの一枚だ。

 わたしは椅子から立ち上がって、引き出しを開けた。

 封筒を出して、十四枚を並べた。

 あった。

 雫の隣に、丸い顔の子が写っている。制服が新しくて、袖が長い。二人ともピースをしている。

 十四枚のうち、真昼が写っているのは三枚だった。

 わたしは、この封筒を八月に開けた。九月にも開けた。二回とも、雫の顔だけを見て、雫の顔が思い出せないことに動揺して、閉じた。

 隣に写っている子を、一度も見ていない。

 その子が、あの夜、車を運転していた。

 十六歳が。

 免許のない十六歳が、親の車を持ち出して、雫を乗せて、県道を走って、対向車線にはみ出した。

 わたしは知っていた。

 葬儀の前から知っていた。母が病院で聞いてきて、家で話していた。親戚が来るたびに、その話をしていた。あの子の親がどうとか、無免許だったとか、うちの子は乗せられただけだとか。

 わたしは、その全部を聞いていた。

 聞いて、そのまま、十年、一度も考えなかった。

 考えなかったのは、考えると、順番が崩れるからだ。

 わたしが「もう帰ってこなくていい」と言った。雫が家を出た。三沢真昼に連絡した。真昼が車を出した。事故が起きた。

 この順番だと、始点がわたしになる。

 だから、わたしは真昼のところで止めた。

 あの子が運転したから死んだ。あの子が悪い。

 その一文を作れば、始点は真昼になる。始点を真昼にして、その真昼のことを一切考えなければ、事故は「起きたこと」になる。

 誰の始点でもない、自然災害になる。

 十年、それで動いていた。

 もう一つ、思い出したことがある。

 葬儀の日、母が言った。

 あの子の親は来なかった、と。

 三沢真昼の両親は、雫の通夜にも葬儀にも来なかった。うちの親戚は、それについて何日も話していた。非常識だとか、来られるわけがないとか、意見が割れていた。

 わたしは、そのどちらにも加わらなかった。

 加わらないでいるうちに、三沢という名字が、うちの家の中で禁句になった。禁句になったものは、そのうち存在しなくなる。

 十年だ。

 歩いて七分の家に、あの子の父親と母親が、たぶんまだ住んでいる。角の赤い屋根の二軒隣。わたしは実家に帰るたびに、その前の道を通っている。

 通りながら、一度も見ていない。

 見ないという技術を、わたしは十年前から持っていた。新聞社に入るより前から持っていた。仕事で身につけたのではない。仕事のほうが、わたしに合っていただけだ。

 わたしは立ち上がって、台所で水を飲んだ。コップを持つ手が震えていた。

 震えているのに、痛くなかった。

 震えと痛みは別のものだ。九月に、痛みのほうは薄くなった。薄くなったから、こうして机に向かって、書き出して、たどり着けた。

 払ったおかげで、たどり着いた。

 その事実が、いちばん気持ち悪かった。


 十月四日、わたしは資料室に入った。

 三階の奥の、本棚と本棚のあいだが人ひとりぶんしかない部屋だ。六月に住宅地図を見に来て以来だった。

 社の記事データベースは、過去十年ぶんしか入っていない。移行のときに、それより前は業者に頼まず、自社で保管したままになっている。

 保管というのは、原紙の合本だ。

 一か月ぶんを綴じて、背に年月を書いて、棚に並べてある。うちの規模では、一か月ぶんを一冊にまとめた縮刷版という本を作る予算がない。データベースにない年月を調べたい人間は、この部屋に来て、自分の手で紙をめくる。

 十年前の六月。

 背表紙の年月を目で追って、その一冊を引き出した。重かった。両腕で抱えて、部屋の隅の作業台に置いた。

 紙は変色していた。端が茶色くなって、めくると指に粉のようなものがつく。インクの匂いがした。新しい新聞の匂いとは違う。乾いて、閉じこめられて、十年寝ていた紙の匂いだった。

 六月十八日付。事故の翌日の紙面だ。

 社会面を開いた。

 見出しは、三段だった。

 県道で乗用車が対向車線に 高校生2人死亡

 本文を読んだ。

 十七日午後十時ごろ、北央市南部の県道で、乗用車が対向車線にはみ出し、対向してきた軽トラックと衝突した。

 乗用車を運転していた市内の高校一年、三沢真昼さん(十六)と、同乗していた同校一年、葉山雫さん(十六)が病院に運ばれたが、いずれも死亡が確認された。

 軽トラックの男性運転手(当時五十八)は軽傷。

 県警の調べでは、三沢さんは運転免許を持っておらず、家族の車を無断で持ち出したとみられる。

 記事の下に、事故現場の略図が入っていた。

 県道の直線区間と、緩いカーブ。乗用車の進行方向を示す矢印が、カーブの途中で対向車線に入っている。軽トラックの位置。衝突地点に×印。

 十年前の整理部の誰かが組んだ図だ。線の太さと、矢印の角度と、×の大きさに、その人の癖が出ている。うちの図はいまも同じ体裁で作る。

 わたしは、その略図を指でなぞった。

 現場は、市の南の県道だ。会社から車で二十分。わたしは六月に、その道の三キロ先の崩落現場を取材している。行き帰りに、この×印の上を通った。

 通ったことにも、気づかなかった。

 わたしは、その記事を三回読んだ。

 三回とも、同じことが書いてあった。

 知っていた。全部、知っていた。ここに書いてあることで、初めて知ったことは一つもない。

 わたしは紙をめくった。

 三日後の、六月二十日付の紙面をめくった。通夜の日の朝刊だ。ここに、おくやみ欄がある。

 下段の左から三番目と、四番目。

 三沢真昼さん(十六歳)=北央市南栄町=十七日死去。通夜は二十日午後六時、葬儀は二十一日午前十時、南栄斎場。喪主は父の三沢和敏さん。

 葉山雫さん(十六歳)=北央市桜木町=十七日死去。通夜は二十日午後七時、葬儀は二十一日午前十一時、桜木斎場。喪主は父の葉山秀昭さん。

 三行と、三行。

 同じフォーマット。同じ語尾。同じ順番。年齢も同じ。死んだ日も同じ。

 わたしは、その六行を指でなぞった。

 紙のインクは乾いていて、指には何もつかなかった。

 書いたのは、当時のおくやみ欄の担当者だ。わたしではない。十年前、わたしは十八歳で、大学一年の夏で、新聞社にはいなかった。

 わたしがこの欄を持ったのは、四年前だ。

 四年前から今日まで、わたしはこの部屋に来られた。来て、この合本を開けば、五分で読めた。五分で読めるものを、四年間、読まなかった。

 読まなかったのは、忙しかったからではない。

 思い出した。

 入社二年目の秋、社会部が交通安全の連載を企画した。県内の交通死亡事故の遺族を訪ねる、五回続きの企画だった。デスクが候補のリストを作って、社内で意見を募った。

 そのリストに、十年前のこの事故があった。

 八年目の秋だったから、当時は八年前の事故だ。無免許運転の高校生と、その同乗者。啓発の題材としては、こちらの部が飛びつく形をしている。

 わたしはデスクのところへ行って、この件は外してくださいと言った。

 理由は言った。妹です、と。

 デスクは、そうか、と言って、リストから消した。誰も反対しなかった。社内では、たいてい誰も反対しない。

 あのとき、デスクは一つだけ聞いた。

 葉山さん、遺族としてなら話せるか、と。

 そういう聞き方をする人だった。企画の性質上、身内の記者が当事者にいるなら、むしろ強い記事になる。デスクとしては当然の判断だ。

 わたしは、話せませんと答えた。

 母がまだだめなので、と言った。

 母は、その二年前には仕事に戻っていた。だめだったのは、母ではない。

 連載は別の四件で組まれて、無事に出た。

 わたしは、そのとき、自分が身内を守ったのだと思っていた。母がまだ立ち直っていなかったし、取材が来れば家族は答えなければならない。守った。そう思っていた。

 いま、合本の前に立って、分かった。

 わたしが外させたのは、雫の件だけではない。

 三沢真昼の家族への取材も、あのとき消えた。

 あの企画が動いていれば、記者が南栄町の家を訪ねていた。父親の三沢和敏さんに話を聞いていた。無免許の娘を持った親が、八年をどう過ごしてきたかが、五百行になっていた。

 ならなかった。

 わたしが止めた。

 守るためだと言って止めて、実際に守られたのは、わたしの十年の順番だった。

 合本を閉じた。

 背に書かれた年月を、しばらく見ていた。棚に戻すのに、行きの倍の時間がかかった。

 部屋を出るとき、埃で喉が痛くなった。六月と同じだった。


 十月八日、雨が降った。

 わたしは店に行った。

 行かないという選択肢は、その日も検討しなかった。

 戸を引いた。鈴が鳴った。祖父の家の風鈴の音がした。

「濡れましたね」

「はい」

「お代を」

「今夜は、何ですか」

「あなたが、あの企画を外してくださいと言ったときの、自分の声を」

 わたしは店主を見た。

 四か月前なら、なぜ知っているのかと聞いた。いまは聞かない。この人は知っている。知っていることの説明を、この人は一度もしたことがない。

「二回目ですね」わたしは言った。「声を持っていくのは」

「はい」

「わたしから声ばかり取って、どうするんですか」

「使いません」

「じゃあ、なぜ」

「あなたのいちばん高いものが、いつもそこにあるからです」

 わたしは、その答えを受け取った。

 払った。

 頭の芯が冷えて、指先が冷えた。デスクの前で「この件は外してください」と言った、あのときの自分の声が、なくなった。言った事実は残っている。言ったときの声だけが、もうない。

 これで、六つ目だ。

 カップが置かれた。

 一口飲んで、指先の温度を確かめた。

 温かくない。

 一口目で、すでに温かくない。九月は三口目まで持った。十月は最初から、体温と同じところにいる。

 わたしは、そのことを言葉にした。

「これ、温いですね」

 言ってから、驚いた。

 わたしは自分の指を見た。爪の色が薄い。九月から、支払いのたびにここが冷える。冷えたまま、翌日の昼まで戻らないこともある。

 この四か月で、わたしは六つ払っている。

 喧嘩の言葉。妹の名を呼んだ自分の声。受話器から手を離した指の感触。野辺さんを止めなかった理由。十年前に泣いた回数。あの企画を外してくれと言ったときの声。

 六つを並べて、共通点を探した。八月にも同じことをした。あのときは「自分を責める道具」だと思った。

 今夜、別の見え方がした。

 五つとも、雫に関わるものだ。野辺さんの一件でさえ、止めなかったわたしの理由は、十年前に止めなかったわたしと同じ形をしている。

 店主は、いちばん高く払えるものを請求すると言った。

 わたしのいちばん高いものは、四か月ずっと、同じ場所から出ている。

 言うつもりがなかった。喉が勝手に動いた。四か月、わたしはずっと理科の話で片付けてきた。片付ける材料が、もう一つも残っていなかった。

 店主は答えなかった。

 答えない代わりに、カップの底のほうを見ていた。

「あの」

 わたしは店主に言った。

「入れない人を、中に入れる方法はありますか」

 店主の手が止まった。

 四か月で三度目だった。この人の手が止まるのは、いつも同じ種類のときだ。答えを持っていて、言わないと決めているときに止まる。

「代金がなければ、入れません」

「代金の話は聞きました。方法の話をしています」

「……」

「あるんですね」

 店主は布巾を置いた。

「あなたは、あの方に何かありますか」

 質問を返された。いつもの手だ。

「分かりません」

「分からないのに、入れたいのですか」

「入れたいんじゃありません」

 わたしは、自分の言葉に驚いた。

「わたしは、外に立ってる人を、四か月、見なかったことにしてました。それだけです」

 店主は、こちらを見た。皺の中の、子どもみたいな目で。

 しばらく見て、それから、視線を落とした。

「そういう方が、いちばん重いものを払えます」

「答えになってません」

「ええ」

 添島さんが、横で息を吐いた。笑ったのだと思う。

 奥の霧の手前に、紺色の肩があった。

 わたしは椅子をずらして、奥に寄った。少女は掌を見ていた。指が線をなぞっている。

「こんばんは」

「こんばんは」

「今日も、手を見てるんですね」

「うん」

「減ってましたか」

 少女は、答えなかった。

 答えない代わりに、掌を閉じて、開いて、また閉じた。

「あのね」

「はい」

「私、ひとりで来たんじゃなかった気がする」

 わたしの手が、カップの取っ手の上で止まった。

「誰かと一緒だった」

「誰と」

「……誰だっけ」

 少女は首をかしげた。

「隣にいたの。ずっと隣にいて、笑ってた。声は覚えてる。顔は、もうない」

「その人は、いま、どこに」

「知らない」

「探さないんですか」

「探せない」

 少女は、掌をこちらに向けた。

「私、名前が出ないの。もう、誰の名前も出ない」

 わたしは息を止めた。

 八月の終わり、この子は「お姉ちゃん」と言った。九月には「誰かに似てる」になった。今夜は、名前という言葉の使い方だけが残って、中身が全部なくなっている。

「あなたは」少女が言った。「名前、ある?」

「あります」

「いいね」

 いいね、と言った。

 うらやましがる声ではなかった。天気の話をするときの声だった。

「あなたのこと、なんて呼べばいいですか」

 言ってから、この店の掟を思い出した。

 名を語ってはならない。店主に名を尋ねてはならない。二つ目は、その二つだ。他人を呼ぶことは、書いていない。

 書いていないことは、起こる。

 わたしは、口の中で音を作った。

 三つの音だった。どこから出てきたのかを、わたしはそのとき考えなかった。考えないという技術を、十年ぶん持っている。

 音は、出なかった。

 喉は開いている。舌も動く。作るところまではできて、そこから先へ運ばれない。七月の夜に払ったものが、いまになって効いていた。

 わたしの声で、その名前を呼ぶ手段が、この世からなくなっている。

「どうしたの」

 少女が言った。

「なんでも、ないです」

「変な顔してる」

「そうですか」

「うん。泣きそうな顔」

 わたしは自分の顔に手をやった。

 濡れていなかった。九月から、そこは乾いている。

「泣いてないですよ」

「泣いてないけど、泣きそうな顔だよ」

 少女は、掌を閉じた。

「私も、たまになるの。泣きたい気がするのに、何を泣くのか出てこない。そういうときは、手を見る」

「手を見ると、どうなりますか」

「線は減らないから、安心する」

「減ってないんですか」

「今日は、減ってない」

 今日は、と言った。

 わたしは、そのあと何を話したのか覚えていない。覚えているのは、少女がもう一度掌に目を落としたことと、指が線をなぞりはじめたことだけだ。

 店を出るとき、窓を見た。

 赤い傘は、そこにあった。

 さっきより、近かった。窓のガラスまでの距離が、四か月前に人影が横切っていた線より、明らかに内側にある。傘の骨の数が見えた。八本だった。

 わたしは目をそらして、戸を引いた。

 窓の外の赤い傘は、わたしが見るのをやめたとき、ほんの少しだけ近づいていた。



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