第五話 逆回りの時計
時計は、私が壊したのではない。
ここに来る人は、みんな、戻りたがっている。
戻りたい人ばかりが座る部屋では、針は逆にまわる。
九月に入って、取材メモの余白に「GG」と書いてあるのを見つけた。
市の防災訓練の取材だった。九月一日で、校庭に消防と自主防災組織が集まって、放水と担架搬送をやった。
わたしはメモを七ページ取って、写真を十二枚撮った。
会社に戻って原稿を起こしているときに、四ページ目の右下に気づいた。
Gが二つ。ボールペンで、二重になぞってある。
書いた覚えがなかった。
書いた覚えのない文字が自分の字で自分のノートにあるというのは、記者にとっては笑い話にならない。取材メモは記事の裏付けだ。裏付けの中に、自分の知らない書き込みがある。
わたしはそのページを破らなかった。破らずに、上から横線を引いて消した。消したあとの黒い塊が、かえって目立った。
同じ週に、天気予報を見る回数を数えた。
数えようと思って数えたのではない。携帯の使用時間の画面を開いたら、天気アプリが一日あたり四十七分と出ていた。
四十七分ぶん、わたしは雲の動きを見ている。
降水確率のパーセントを見て、風向きを見て、湿度を見て、視程の予報がないことに毎回いらだっている。
週間予報に傘のマークが出ると、指が震える。
震えるのは右手の人差し指と中指で、時間にして二秒くらいだ。震えたあとで、それが期待だと分かる。分かるのが、震えたあとなのがよくない。
いちばん困ったのは、時間だった。
九月七日、雨が降った。会社を出たのが午後八時十二分で、それは車のダッシュボードの時計で確認した。米屋の前に停めたのが八時二十四分。板塀のあいだを八歩。
店にいた時間を、わたしはその夜、意識して測った。
添島さんと話した。Tシャツの人とも話した。コーヒーを飲んで、支払いをして、少女のほうを二度見た。振り子時計は左へまわっていて、当てにならない。体感で、四時間。
店を出て、車に戻って、ダッシュボードの時計を見た。
九時三分。
三十九分だった。
わたしは車の中で、その数字を三回読み直した。携帯の時計も見た。同じだった。ラジオをつけたら、九時の時報を過ぎたばかりのニュースをやっていた。合っている。
外の世界では、三十九分しか経っていない。
その事実に気づいたとき、わたしが最初に感じたのは、恐怖ではなかった。
安心だった。
行ける、と思った。
明日も仕事がある。締め切りがある。訃報が届く。三行にする。その全部を守ったまま、わたしはあの店に何時間でもいられる。生活は壊れない。誰にも迷惑をかけない。時間の帳尻が合う。
言い訳が、一つ増えた。
八月に三回ミスをしたのは、寝不足のせいだと思っていた。寝不足でないなら、あれは別の何かだ。別の何かの名前を、わたしはその夜、考えなかった。
九月の第二週、雨が三日降った。
三日とも行った。
三日とも、飲まなかった。
九月に入ってから、カップが出る夜と出ない夜がある。基準は分からない。店主が出さない夜は、わたしも頼まない。頼まなくても、椅子はある。椅子があって、話す相手がいて、奥に紺色の肩がある。
それで足りてしまう。
足りてしまうことのほうが、飲むより悪い気がした。
三日とも、ダッシュボードの時計で測った。
九日は、体感三時間で、外は二十八分。十一日は、体感四時間半で、外は四十一分。十二日は、体感二時間で、外は十九分。
数字を並べて、それぞれの比を出した。六・二、六・四、六・六、六・三。平均して六対一だった。誤差はあるが、日によって二倍も三倍も変わることはない。
わたしはノートの後ろから三ページ目に、また表を作った。日付、入店時刻、退店時刻、体感時間、実時間、比。取材ノートの後ろから三ページ目は、この春から異常を記録する場所になっている。
表を眺めて、わたしは気づいた。
これは、逆回りの時計のことだ。
あの時計は壊れているのではない。あの部屋の中では、時間が外と別の速さで進んでいる。速さが違うだけでなく、向きも違う。針が左へまわるというのは、比喩ではなくて、あの部屋の実態を表示しているだけなのかもしれない。
だとすると、わたしは毎晩、四時間ぶんの何かを外の三十分に押しこんでいる。
押しこんだぶんは、どこへ行くのか。
その問いを、わたしは表に書かなかった。
九月十三日の午後、市の子育て支援センターの取材に行った。開所五周年で、母親と乳児が二十組ほど集まっていた。所長の話を聞いて、メモを取って、写真を撮った。
写真を撮っているとき、窓の外を見た。
曇っていた。
降水確率は四十パーセントだった。降れば夜だ。夜に降って、気温が落ちれば、川から白いものが上がる。
「あの、記者さん」
所長に呼ばれて、わたしは振り向いた。
「はい」
「今の質問の続き、まだ答えてないんですけど」
質問をした覚えがなかった。
ノートを見た。四行前に、自分の字で質問が書いてある。書いてあるのに、聞いた記憶がない。
「すみません。お願いします」
所長は答えてくれた。わたしはそれを書いた。書きながら、指がまた震えていた。
原稿は出た。柏木さんは何も言わなかった。
言われなかったことが、その週でいちばん不安だった。
九月十四日、その夜は添島さんが先に立ち上がった。
「あんた、車で来てるか」
「来てます」
「置いていけ。送る」
「え」
「話がある」
Tシャツの人が、こちらを見て、目だけで何かを言った。読み取れなかった。この店では、読み取れない目を向けられることが多い。
戸を引いた。鈴が鳴った。
外は雨だった。板塀のあいだを歩いて、十歩目で雨の音が戻ってきた。米屋の前に、わたしの車と、その後ろに黒いタクシーが停まっていた。
「乗って」
後部座席のドアが自動で開いた。
わたしは乗った。乗ってから、これが取材ではないことを自分に確認した。ノートは出さない。録音もしない。
車内はきれいだった。芳香剤の匂いがしない。シートに毛玉がない。ダッシュボードの上に、小さな布の袋が一つ置いてある。
添島さんは車を出した。市街を出て、川沿いの道に入った。街灯が少なくて、右側は堤防の斜面、左側は暗い水面だった。
「ここなら、話せる」
添島さんが言った。
「店の外なら、いいんですか」
「三つ目は、店の中の話だ。隣の客と、店の中で語るな、と書いてある。外は書いてない」
「試したことがあるんですか」
「一度だけ。十年前に」
ワイパーが二回動いた。
「うちの女房は、美代子っていうんだ」
名前を、この人は言った。
店の外だから言えた。それだけのことが、わたしの喉のあたりに引っかかった。この三か月、わたしはこの人の名前も、Tシャツの人の名前も、あの少女の名前も、一度も呼んでいない。
「十年前の、雨の夜だった」
「はい」
「その夜、俺は乗務だった。うちは隔日勤務でね。朝の七時半に出て、翌朝の四時半に上がる。一日出て、一日休む。それを繰り返す」
「一日おきですか」
「そう。だから、行きたい夜に行けないことがある。あの店に通うようになってから、それがいちばんこたえた」
添島さんはハンドルを右に切った。川沿いの道が、緩く曲がっている。
「その夜も乗務だった。深夜に一度、休憩を取る決まりがある。俺はいつも、その休憩を車の中で取る。弁当を食って、シートを倒して、三十分寝る」
「その夜は」
「その夜は、無線が入った。市の南で客がついて、乗せて、山のほうまで走った。戻ったのが一時過ぎだ」
「奥さんは」
「家にいるはずだった」
添島さんの声は、同じ調子のままだった。話しかたを変えない人だ。感情の上下を声に乗せない訓練を、この人はどこかで受けている。
「うちのは、四十九だった」
添島さんは前を見たまま言った。
「小学校の給食を作ってた。調理員でね。二十年やった。朝五時に起きて、六時半には学校にいる。俺が上がる時間と、あいつが出る時間が、ちょうどすれ違う」
「一日おきの勤務だと」
「乗務の日はすれ違う。休みの日は、昼に一緒に飯を食う。それが二十年だ」
ワイパーが動いた。雨足が少し強くなっていた。
「二十年のうちに、話すことがなくなるんだ。世間じゃそう言うだろう。うちはそうじゃなかった。話すことはあった。話す時間が、なかっただけだ」
「時間があれば、話したんですか」
「そのつもりだった。あと五年で、あいつが定年だった。定年になったら、二人で車で回ろうって話をしてた。あいつは温泉が好きでね。県内の日帰り温泉のパンフレットを、台所の引き出しに溜めてた」
「そのパンフレットは」
「まだある」
添島さんは、そこで一度、言葉を切った。
「四時半に上がって、営業所で日報を書いて、家に帰ったのが五時半ごろだ。玄関の鍵が開いてた」
「……」
「うちのは、鍵をかけない人じゃない。二回確かめる人だ。だから、開いてるってことは、出てったってことだった」
車が信号で止まった。赤が水面に映って、細く伸びていた。
「探した」
添島さんの声が、そこで少しだけ低くなった。
「まず学校に電話した。出勤してない。実家に電話した。来てない。友達に電話した。誰も知らん。昼まで待って、警察に行った」
「捜索願を」
「行方不明者届っていうんだ、今は。届を出して、それから、自分で回った」
「回った」
「タクシーの運転手だからな。市内の道は全部頭に入ってる。仕事で回るのと同じ順で、一晩に百キロくらい走った。ヘッドライトで、道の端を照らしながら」
わたしは、その光景を想像した。想像して、すぐにやめた。
「同業に頼んだ。無線で流してもらった。うちの会社だけじゃなく、市内の三社に。夜の運転手は、街の隅々を見てる。誰も見てなかった」
「四日」
「四日目に見つかった」
添島さんは、それだけ言った。
そこで、初めて言葉が止まった。
止まったのは一秒くらいで、そのあとは同じ調子に戻った。
「詳しくは言わん。あんたの仕事に関わる話でもない」
「はい」
「遺品を整理したのが、その年の暮れだ。うちのは物が少ない人でね。押入れの、コートのポケットから、これが出た」
添島さんは、ダッシュボードの上の布の袋を取って、後ろに差し出した。
わたしは受け取った。
小さな巾着で、口を紐で結んである。ほどいて、中身を手のひらに出した。
マッチ箱だった。
紙製の、小さな箱。表の紙が擦れて、角が丸くなっている。振ると、中で軸木が動く音がした。
表に、黒い印刷があった。GGの二文字。その下に、細い線で店の外観らしき図が刷ってある。低い軒と、四角いランタン。
わたしのコートのポケットに入っているものと、同じだった。
「うちのは、タバコを吸わん」
「はい」
「マッチを持つ理由がない。仏壇のろうそくは、うちはライターだ」
「軸木は」
「十七本。減ってない。数えた」
わたしは箱を開けた。
頭の赤い軸木が、隙間なく並んでいた。数えた。十七本あった。
摩擦面を見た。右端が黒く擦れている。使われている。使われているのに減っていない。
わたしのものと、まったく同じ状態だった。
「あんたも持ってるな」
「……はい」
「見せろとは言わん」
添島さんは車を出した。信号が青になっていた。
「俺が知りたいのは、一つだけだ」
「はい」
「あの店は、人を招くのか。それとも、そういう人のところに、迎えに来るのか」
ワイパーが二回動いた。
「うちのが店に行ったのは、その夜より前かもしれん。半年前かもしれんし、三年前かもしれん。行って、通って、それで、ああなったのかもしれん」
「店のせいだと」
「そうだとしたら、俺は十年、女房を殺した場所に通ってることになる」
その言葉を、この人は店の中では言えなかったはずだ。
「逆かもしれん」添島さんは続けた。「うちのは、もう決めてたのかもしれん。決めた人間のところに、あの路地が出るのかもしれん。だとしたら、あの店は最後に一杯出しただけだ。何もしてない」
「どっちだと思いますか」
「分からん」
「十年考えて」
「十年考えて、分からん」
車は堤防の道を抜けて、市街に戻りはじめた。
「あんたは、どう思う」
聞かれると思っていなかった。
わたしは巾着の紐を結び直しながら、頭の中で二つの説を並べた。記者の癖だ。並べて、それぞれの裏付けを探して、足りないほうを潰す。
潰せなかった。
どちらの説も、証拠がない。証拠がないだけではない。二つの説は、同じ事実の説明として、まったく同じ形をしている。区別する方法が、原理的にない。
「分かりません」
「そうか」
「すみません」
「謝らんでいい。十年考えて分からんことを、三か月で分かられたら、俺の十年が浮かばれん」
添島さんは、初めて笑った。声が出ていた。
そのあと、タクシーは川沿いをもう一往復した。
添島さんは何も言わなかった。わたしも言わなかった。ワイパーが規則正しく動いて、視界が濡れて、拭かれて、また濡れた。
十分ほど走って、米屋の前に戻ってきた。わたしの車が、雨に濡れて立っていた。
「もう一つ、聞いていいですか」
ドアを開ける前に、わたしは言った。
「どうぞ」
「あなたは、十年、一杯も飲んでない」
「飲んでない」
「請求されているのは、奥さんへの未練だと言いましたよね」
「言った」
「払えば、飲める」
「飲める」
「払わないのは、なぜですか」
添島さんはエンジンを切った。雨の音が、屋根の上で急に大きくなった。
「あんた、この三か月で何回払った」
「四回です」
「軽くなったか」
「なりました」
「その四つ、いま思い出せるか」
思い出せた。喧嘩の言葉、妹の名を呼んだ自分の声、受話器から手を離した指の感触、野辺さんを止めなかった理由。
「思い出せます。何を払ったかは」
「中身は」
「中身は、ありません」
「そうだろう」
添島さんは、ハンドルから手を離した。
「不思議なもんでな。何を払ったかは覚えてる。あれを覚えてないと、また同じものを払っちまうからだろう。よくできてる」
「よくできてる、ですか」
「よくできてるよ。うまいこと考えてある」
「誰がですか」
「知らん」
添島さんは、その質問には毎回そう答える。三か月で、わたしは数えるのをやめた。
添島さんは、ハンドルの上で指を組んだ。
「俺はな、女房のことを、もう半分くらいしか思い出せんのだ」
「え」
「十年経つとな、勝手に減る。誰も持っていかんのに減る。声はもう出てこん。顔は写真で補正してる。料理の味は、去年、消えた」
雨が屋根を叩いていた。
「残ってるのは、痛いところだけだ」
わたしは、その言葉の意味が分かるまでに、数秒かかった。
「あの夜、俺が無線を断っていれば。休憩を家で取っていれば。鍵の話を、一度でも本気で聞いていれば。……そういうのが、まだ全部、痛い。鮮明に痛い」
「それが」
「それが、いま、俺の中でいちばんはっきりしてる女房なんだ」
消えかけた炭を、灰の下から掘り返して息を吹きかけている人の話だと思った。
添島さんは、フロントガラスの外を見ていた。
「未練を全部渡したら、俺の中の女房は、どこに住むんだ」
前にも、同じことを言われた。七月の、初めて話した夜だった。あのときは答えられなかった。
今夜も答えられなかった。
答えられない理由が、前と違っていた。前は分からなかった。今夜は、分かってしまうからだ。
わたしが払った四つは、全部、雫のいた場所だった。
「痛いのは」わたしは言った。「つらくないですか」
「つらいよ」
「それでも」
「つらいのと、いなくなるのは、別の話だ」
「あんたも、いるだろう」
添島さんが言った。
「え」
「あんたの、痛いところ。あの店に通う人間は、全員持ってる」
わたしは答えなかった。
答えないでいると、この人はたいてい引く。三か月で分かっている。その夜は引かなかった。
「店の中じゃ聞けん。外なら聞ける。聞いていいか」
「……はい」
「誰だ」
短い質問だった。
わたしは、フロントガラスを流れる水を見ていた。ワイパーが止まっているので、光が歪んで流れていく。
「妹です」
言った。
言った瞬間に、喉が締まらなかったことに気づいた。締まらない。ここは店の外だ。
「十年前に、亡くしました。十六でした」
「そうか」
「事故です。夜の車で」
「あんた、そのとき」
「十八でした。……喧嘩してました。その夜、玄関で」
そこから先が出てこなかった。
出てこないのは、掟のせいではない。中身がないからだ。六月の、最初の一杯で払った。何を言ったのかを、わたしはもう持っていない。
「言った言葉を、覚えてないんです」
「忘れたのか」
「払いました。最初の一杯で」
添島さんは、しばらく黙っていた。
「そうか」
責める声ではなかった。
「俺は添島だ。添島光男」
わたしは顔を上げた。
「店の外なら、名乗れる。三か月も同じ店にいて、名前も知らんのは、さすがに変だろう」
「……葉山灯です」
「はやま、あかり」
「灯りの、灯です」
添島さんは、その二文字を口の中で二回繰り返した。
「いい名前だ」
「そうですか」
「うちのが好きな字だ。パンフレットに、旅館の名前で出てくる」
車の中が、静かになった。
雨の音だけがしていた。あの店の中では、雨の音がしない。ここは店の外だ。だから雨が鳴っていて、名前が言えて、妹の話ができる。
わたしはこの三か月、店の中でしか人と話していなかった。
そのことに、その夜、初めて気づいた。
添島さんはエンジンをかけ直した。
「降りな。風邪ひくぞ」
わたしは巾着を返そうとした。
「持ってろ」
「え」
「二つ並べて置いといてくれ。俺の家に一つあるより、そのほうがいい気がする」
理由になっていなかった。理由になっていないことを、この人は分かって言っていた。
わたしは巾着をポケットに入れて、車を降りた。
タクシーは、そのまま川のほうへ走っていった。テールランプが霧に溶けて、二つの赤い点が一つになって、消えた。
九月十六日は晴れた。十七日も晴れた。十八日は曇りで、夜に少し降ったが、霧が出なかった。
三日間、わたしは自分の部屋にいた。
いた、というより、いるしかなかった。テレビをつけて、消して、洗濯をして、干して、取りこんで、たたんだ。たたんだ服を、翌日また出して着た。
三日目の夜、机の引き出しを開けた。
雫の写真の入った封筒が入っている。八月の終わりに、会社の引き出しではなく部屋のほうに移した。夜に見てしまう場所に置いた。
置いたのに、三週間、開けていなかった。
開けた。
十四枚を出して、並べて、伏せて、目をつぶった。
顔は、出てこなかった。
八月にやったときと同じだった。同じだから、悪化はしていない。悪化していないことを、わたしは安心と呼んだ。呼んでから、その呼び方の異常さに気づいた。
九月十九日、また雨が降った。
その夜の店は、静かだった。添島さんは乗務日で来ていない。一日おきの勤務だと聞いてから、わたしはこの人が来ない夜の理由を知っている。知っていると、いない席が余計に空いて見えた。
Tシャツの人は、いた。
いつもの席で、カップを両手で包んで、中身を覗きこんでいる。喋りかけてこない夜は珍しかった。
「元気ないですね」
「そう見えます?」
「見えます」
「そっか」
その人は笑った。音がなかった。
「葉山さん、最近よく来ますね」
「……そうですね」
「毎回いますよ。俺が来ると、いる」
「あなたも毎回いますよね」
「俺はいいんですよ」
いいんですよ、という言い方をした。
わたしは、その言い方の意味を考えなかった。考えないほうが楽な言い方が、この店には多すぎる。
奥の霧の手前に、紺色の肩があった。
少女は、掌を見ていた。指が線をなぞっている。端から端まで、何度も。
わたしは椅子を二つぶん、奥へずらした。
「こんばんは」
少女が顔を上げた。
白い。目のあたりに影が二つあって、そこがこちらを向いた。
「こんばんは」
「今日も、手を見てるんですね」
「うん」
「減ってましたか」
「わかんない」
少女は掌を閉じて、また開いた。
「ねえ」
「はい」
「あなた、誰かに似てる」
わたしは息を止めた。
「誰だっけ」
前の夜は、こうではなかった。
八月二十九日、この子は「あなた、誰かのお姉ちゃんに似てる」と言った。「私にもいた気がする」「髪が長かった」と言った。輪郭があった。
今夜は、誰かに似てる、で止まっている。
姉、という言葉が出ていない。
わたしは自分の心臓を感じた。速い。速くて、深い。走ったあとの速さではなくて、階段を踏み外したときの、一拍だけ抜ける感じが、続いている。
「お姉さんじゃないですか」
「え?」
「前に、お姉さんがいた気がするって、言ってました」
少女は、首をかしげた。
「言った?」
「言いました」
「そうかも。ごめん、忘れちゃった」
謝られた。
わたしは、その謝罪をどう受け取ればいいのか分からなかった。
この子は自分が減っていることを知っていて、減ったことを他人に謝る。
謝るという行為ができるということは、まだ何かが残っているということだ。
残っているものが何なのかは、この子にも分からない。
「怖くないですか」
聞いてから、失礼だと思った。
「怖い」
少女は即答した。
「でもね、怖がってると、もっと減るの」
「なぜ」
「怖いのを考えてると、他のことを考える場所がなくなるから」
上書きだ。
この子も同じことをしている。十年ぶんの技術を、わたしは自分だけのものだと思っていた。
「だから、手を見てるの。手は、考えなくていいから」
少女は掌に目を戻した。
指の下で、掌の線がすこし薄い。水に濡れた紙に書いた字が、乾く前に滲んでいくときの薄さだった。
わたしは、そこから動けなかった。
聞きたいことが、頭の中で列をつくっていた。あなたは誰ですか。いつからここにいますか。誰を待っているんですか。どの質問も、二つ目か三つ目の掟に引っかかる。引っかからない質問を探しているうちに、一つ見つかった。
「あなたの占い、当たるんですか」
少女は顔を上げた。
「当たらないよ」
「当たらないのに、並ぶんですか」
「うん」
「なぜ」
「当たらないって、みんな知ってる。知ってて並んでる」
暖簾のほうを見た。列は二人だった。作業着の男と、その前に、和装の年配の女。二人とも動かずに、前を見ている。
「じゃあ、何を聞きに来るんですか」
少女は、しばらく黙った。
「あのね」
「はい」
「私が言うと、そういうことになるの」
「そういうこと、というのは」
「あなたは二十七で結婚しますね、って言うと、その人は二十七で結婚した人になるの。ならなかったのに、なったことになる」
わたしは、その仕組みを理解するのに時間がかかった。
理解したくなかったのだと思う。
「じゃあ、あの人たちは」
「聞きに来てるんじゃないの。作りに来てるの」
少女は掌を閉じた。
「私も、自分のを作りたいんだけどね。自分のは、読めない」
「読めないと、どうなるんですか」
「なにも作れない」
暖簾が揺れた。
作業着の男が中から出てきて、暖簾をくぐって、霧のほうへ歩いていった。歩きながら、口を動かしていた。
「三十二で、支店を任される」
そう言っているように聞こえた。
男は霧に入って、輪郭が薄くなって、消えた。列は一人になった。和装の年配の女が、暖簾の前に立って、待っている。
「あの人は」わたしは聞いた。「支店を任されたんですか」
「これから任されるの」
「これから」
「うん。今日から、そういう人になったの」
わたしは、その言い方を頭の中で三回繰り返した。
三回繰り返して、意味が通ったとき、背中の内側が冷たくなった。
過去が変わったのではない。この店では、過去を作ることができる。作られた過去は、その人にとっての本当になる。三十二で支店を任されなかった男が、任された男になって、霧の中へ帰っていく。
それは、嘘だ。
嘘だが、その人が持って帰れる唯一の形をしている。
「あなたは」わたしは言った。「それを、いいことだと思ってますか」
少女は、首をかしげた。
「わかんない」
「わかんないのに、やるんですか」
「だって、並ばれちゃうんだもん」
その答えは、正直すぎた。
「並ばれると、断れないんですか」
「断ったこと、ないから」
「断ってみたら」
「断ったら」少女は掌を開いた。「私、なにもしてない子になる」
わたしは、そこで黙った。
この子は、待っている。待つことしかできない。待つあいだ、何かをしていないと、待っている自分が薄くなる。だから他人の未来を作りつづけている。作りつづけて、そのぶん、自分が減っている。
そう思ったとき、心臓がまた速くなった。
理由は分からなかった。分からないまま、わたしはその速さを、たしかに知っていると感じた。
その夜、カップが置かれた。
湯気はない。八月の終わりから立っていない。
わたしは一口飲んだ。祖父の家の匂いがして、祖父の淹れた薄くて苦い一杯の味がした。角砂糖三つの雑な甘さ。十歳の夏の台所。
二口目を飲んだ。
三口目のときに、指先に伝わる温度が変わった。
温かくない。
まだ半分残っている。半分残っている状態で、外側が体温と同じになっている。飲みはじめてから、体感で五分も経っていない。
わたしはカップを両手で包んだ。手のひらのほうが温かかった。
「お代を」
「今夜は、何ですか」
「あなたが、あの子を見たときの動悸を」
顔を上げた。
「それは」
「払えますか」
心臓が速くなる、あれを。理由の分からない、階段を踏み外したような、あの一拍を。
払えば、楽になる。
あの子を見ても、何も起きなくなる。
「払いません」
初めて、最後まで断った。
店主は、うなずいた。
「では、別のものを」
「待ってください」
「はい」
「わたしが断ったら、あなたはいつも別のものを出す。断れるなら、なぜ最初にそれを言うんですか」
「私に見えるのは、その人がいちばん高く払えるものだからです」
「いちばん高い」
「はい」
「あの動悸が、わたしのいちばん高いものなんですか」
店主は答えなかった。答えない代わりに、新しい請求を言った。
「では、今夜は、あなたが十年前に泣いた回数を」
払った。
頭の芯が冷えて、指先が冷えた。肩の後ろが軽くなった。
車に戻って、シートに座って、わたしは自分の中を探した。
十年前、わたしは泣いた。通夜で泣いて、火葬場で泣いて、家に帰って部屋で泣いた。回数は分からない。分からないことが、いま、正常なのか異常なのか、判断がつかない。
もっと悪いことに、気づいた。
雫のことを考えても、痛くない。
六月の、あの最初の夜のあと、わたしは「痛みだけが残っている」と思った。喧嘩の言葉は消えたのに、胃の重さと、喉の詰まりと、耳が熱くなる感じは、そっくり同じ濃さで残っていた。中身を抜かれて、器だけがあると思った。
その器が、今夜、薄い。
指で押しても、へこまない。押している感触が返ってこない。
わたしは車の中で、意識して雫のことを考えた。玄関のたたきの白いスニーカー。ほどけた紐。青いパーカー。切れかけた廊下の照明。
映像は出る。
何も起きない。
十年、毎日持ち上げてきた重さが、そこにない。
わたしは両手でハンドルを握った。握って、額をつけて、そのまま声を出そうとした。
出なかった。
泣きかたを、思い出せなかった。
ポケットから、二つのマッチ箱を出した。
自分のものと、美代子さんのもの。ダッシュボードの上に、並べて置いた。
同じ大きさ、同じ印刷、同じ擦れかた。角の丸まりかたまで同じだった。二つとも十七本入っていて、一本も減っていなくて、摩擦面の右端だけが黒い。
十年離れた二人の女が、同じ箱を持って帰った。
一人は四日後に見つかった。
もう一人は、いま、車の中でハンドルに額をつけている。
わたしは箱を二つとも握って、指の中で温めた。紙は湿っていた。九月の雨のせいだと思った。思ってから、六月の朝も、同じことを思ったのを思い出した。
あのときと同じ言い訳を、わたしはまだ使っている。
顔を上げて、エンジンをかけた。
明日は晴れの予報だった。晴れなら行けない。行けない日が来ると、わたしはたぶん、少し正気に戻る。戻ったところで、次の雨まで待つ。
待つ、という言葉が頭に浮かんで、わたしはそれを打ち消した。
打ち消すのに、いつもより時間がかかった。




