第四話 支払いすぎた男
私は、その人が何を払えるかを見ている。
見えてしまう、と言ったほうが正しい。
見えるものを黙っていられたら、私はここにいない。
八月十三日、台風が西を通った。
北央市に直撃はしなかった。外側の雨雲だけが半日居座って、夕方から気温が落ちた。盆の入りで、街は車が少ない。会社を出たのが八時で、駐車場に着くころには街灯の輪が白くふくらんでいた。
耳の奥が鳴っていた。
二か月で、わたしはこの音に呼ばれることを日常にした。日常にするというのは、驚かなくなるということだ。驚かなくなったものは、疑わなくなる。疑わなくなったものを、記者は取材と呼ばない。
板塀のあいだを八歩。雨の音が半分になる。十歩でなくなる。
戸を引くと、鈴が鳴った。
「濡れましたね」
「はい」
添島さんがいた。その隣にTシャツの人がいて、こちらに手を振った。振りかたが子どもみたいなのは、いつもと同じだった。
三人で盆の話をした。この街は八月十五日に川で灯籠を流す。添島さんは盆の三日間がいちばん稼げると言い、Tシャツの人は灯籠の値段が去年より上がったと怒った。何にでも値上がりの話に持っていく人だった。
「灯籠って、いくらするんですか」
「千二百円。去年は千円ですよ。二割ですよ、二割」
「二割は、たしかに大きいですね」
「でしょ。何を二割上げるんだって話ですよ、紙と木の枠に」
「原材料だろう」添島さんが言った。「なんでも上がってる」
「先輩、それ思考停止です」
「思考停止でも、値段は上がるんだ」
くだらない話をしているあいだ、わたしは自分の呼吸が浅くならないことに気づいていた。
会社では浅い。斎場に電話をかけるとき、喪主の名前の漢字を確かめるとき、字数を数えるとき、わたしは息を止めている。止めていることに気づかないくらい、それが普通になっている。
ここでは、止まらない。
その理由を考えると危ないので、考えないようにしていた。
十時をまわったころ、戸が開いた。
鈴の音がして、風が入ってきた。雨の匂いと、それに混じって、酸っぱい匂いがした。
男が立っていた。
五十代の半ばくらいだろうか。ワイシャツの襟が黄ばんでいて、ボタンが二つ外れている。ズボンの膝から下が濡れて、色が変わっていた。靴は片方の踵がつぶれていて、履きつぶしたのではなく、踏んで歩いていた。
顔がまず目に入った。
頬がこけていて、髭が伸びていて、目のまわりが黒い。眼球だけが妙に湿っている。そういう顔をした人を、わたしは取材で何度か見ている。役所の相談窓口の待合と、消費者センターの前で。
男は戸口に立ったまま、店内を見回した。
「……ここ、店ですか」
「店です」
店主が答えた。
「金、ないんですけど」
「うちは、お金をいただきません」
男は、その一言で膝から力が抜けたように見えた。実際に少し沈んだ。手で戸の柱をつかんで、体を支えた。
「入っていいですか」
「どうぞ」
男はカウンターの、いちばん手前の席に座った。わたしから三つ離れている。座るときに椅子が鳴った。この店の丸椅子が鳴るのを、わたしは初めて聞いた。
「野辺です」
「お客さん」店主が言った。「名は、なしで」
「あ、そうか。すいません。貼ってあったな、さっき」
野辺と名乗った人は、頭を下げた。下げてから、また上げて、店内を見た。目の動きが速い。落ち着かないのではなく、値踏みをしている動きだった。持ち物を数える人の目だ。
「あの紙、本当ですか」
「どの項目でしょう」
「五つ目です。代金は金では払えない、店主が請求するものを差し出すこと」
「本当です」
わたしは、この人を横から観察していた。
観察してしまう自分に気づいて、やめようとして、やめられなかった。四年ぶんの癖だ。
相手の靴と、爪と、指の関節を見る。
靴は踏みつぶしてある。爪は伸びて、先が黒い。指の関節が太い。長く現場の仕事をしていた手だった。
手のひらの側に、乾いてひび割れた線が何本も走っている。
腕時計をしていない。していた跡がある。左手首の、日に焼けていない帯だけが残っていた。
そういうものを、わたしは見て、覚えて、書かない。
「あの、聞いていいですか」
野辺さんが、店主に言った。
「どうぞ」
「請求って、どうやって決まるんですか。俺、たぶん、たいしたもの持ってないんですけど」
「持っていない方は、いらっしゃいません」
「そりゃ、そうか」
野辺さんは笑おうとして、失敗した。
「じゃあ、俺のいちばん高いやつって、何ですかね」
「それを、私が申し上げるわけにはいきません」
「なんでですか」
「値段を先に言うと、皆さん、それを守ろうとします」
添島さんが、鼻から息を出した。笑ったのだと思う。
「あんた、それ、うまいこと言ったつもりか」
「事実です」
「事実なのが、いちばん質が悪いんだよ」
野辺さんは、そこで初めて笑った。
笑った、というより、頬の筋肉が引きつった。
「助かった」
その二文字を、この人は本気で言っていた。
添島さんが、わたしのほうを見た。目だけで、何かを言おうとしていた。読み取れなかった。読み取れないまま、わたしは自分の膝の上で指を組んだ。
野辺さんは、聞かれてもいないのに喋りはじめた。
こういう人を、わたしは知っている。取材で会う人の中に、一定数いる。誰にも聞かれてこなかった時間が長すぎて、聞く姿勢を見せた最初の人間に全部を出してしまう人だ。
建設業の下請けをやっていた。十二年やって、五年前に元請けが飛んだ。回収できなかった売掛が四千万で、そこから借りて回して、また借りて回した。三年目に個人の名義になった。四年目に家を売った。
「去年の暮れに、女房と息子が出ていきました」
三つ目の掟には触れない話だった。誰も止めなかった。
「出ていくとき、女房が言うんですよ。あなた、もう十年、私の顔をちゃんと見てないって」
野辺さんはカウンターの木目を見ていた。
「見てましたよ、俺は。毎日見てた。……見てるつもりだった」
添島さんが、空のカップを回した。音がしなかった。
「今日、盆でしょう。息子の誕生日なんですよ、明日が。電話しようと思って、番号を消してないんだけど、押せなくて、それで歩いてたら、路地があって」
「路地は」わたしは言った。「誰にでも見えるわけじゃないそうです」
「そうなんですか」
「呼ばれた人だけだと」
「じゃあ、呼ばれたんだな、俺は」
野辺さんは、その言葉を薬みたいに飲みこんだ。呼ばれた、という言葉が、この人の中で「必要とされた」に変換されたのが、横から見ていて分かった。
店主が火を入れた。
鎖が揺れて、上の器が押しこまれて、湯が上がる。粉が落ちる。竹べらが一度。火を落として、二度目。黒が布を抜けて落ちてくる。
「お代を」
「なんでも言ってください」
「今夜のあなたには、あなたが借りている金額を」
野辺さんが、顔を上げた。
「額を、ですか」
「額を」
「四千二百八十万円。利息込みで、たぶん五千を超えてます」
「その数字を」
野辺さんは、口を開けた。開けて、そのまま二秒止まって、それから息を吐いた。
「持ってってください」
カップを持ち上げて、飲んだ。
わたしは、その瞬間を横から見ていた。
野辺さんの肩が、下がった。
外から力が加わったのではない。中から荷物が抜けて、抜けたぶんだけ位置が変わった。首の後ろの筋が伸びて、顎の角度が変わって、背中が椅子の背に届いた。背もたれのない丸椅子なのに、届いたように見えた。
「あ」
野辺さんは、自分の手を見た。
「いくらだっけ」
「何がですか」
「借りてる額。……数字が、ない」
数字がない、という言い方だった。
金額は、この人の五年ぶんの中心にあった。朝起きて最初に思い出す数字で、寝る前に最後に確かめる数字だ。それが、いま、ない。返済の義務は残っている。督促は来る。取り立ての電話も鳴る。ただ、頭の中の数字だけが消えた。
「軽い」
野辺さんは笑った。今度はちゃんと笑った。声が出ていた。
「軽いですよ、これ。すごい」
「よかったですね」
わたしはそう言った。言ってしまった。
「まだ、払えます」
野辺さんが言った。
店主の手が、止まった。
布巾を畳もうとしていた指が、途中で開いたまま止まった。二か月見てきて、この人の手が止まるのを見たのは初めてだった。
「今夜のぶんは、いただきました」
「いや、まだあるでしょう。俺、まだ持ってるでしょう。全部持っていってくださいよ」
「一杯につき、一つです」
「じゃあ、こっちから渡すのは」
野辺さんはカウンターに両手をついた。
「渡すのは、いいんでしょう。書いてないもん、そこに。請求されたものを差し出せとは書いてあるけど、差し出しちゃいけないとは書いてない」
店内が、静かになった。
わたしは戸口の貼り紙を見た。五行を頭の中で読み直した。
書いてなかった。
「お客さん」店主が言った。声の高さが、ほんの少しだけ変わっていた。「差し出したものは、戻りません」
「戻さなくていい」
「戻したくなっても、戻りません」
「戻したくなりませんよ。俺、五年ぶりに息ができてるんだから」
野辺さんは、自分の胸の前で両手を広げた。何かを差し出す形だった。
そのまま、言った。
「女房と息子の顔を、持ってってください」
わたしは椅子から腰を浮かせた。
浮かせて、そのままだった。
止める言葉が出てこなかったのではない。止める資格がなかった。
わたしはこの二か月で、三回払っている。払って、軽くなって、帰っている。
この人がやろうとしていることは、わたしがやってきたことの、量が違うだけの同じ行為だった。
「添島さん」
「うん」
「止めないんですか」
「止めない」
「なんでですか」
「選ぶのは本人だ」
添島さんは前を向いたままだった。
「俺は十年、選ばなかった。選ばないのも選択だと思ってる。あの人は選んだ。俺が止めたら、俺は自分の十年を、あの人に押しつけることになる」
「押しつけたっていいでしょう。あんな」
「あんた、記者だろう」添島さんの声が、少しだけ低くなった。「取材した相手の人生に、口を出すのか」
出さない。
出さないと決めている。それが仕事の作法で、作法だから守っている。四年ぶん守ってきた。
守ってきた結果、わたしはここで腰を浮かせたまま何もしていない。
Tシャツの人が、椅子から降りた。
「俺、外にいます」
「おい」
「見てらんないですよ、こういうの」
戸が開いて、鈴が鳴って、閉まった。外は雨だ。あの人は傘を持っていない。
野辺さんは、そのあいだも待っていた。両手を広げたまま、店主を見ていた。
店主は、動かなかった。
長かった。振り子時計の音を、わたしは十回以上数えた。逆にまわる針が、その日はやけに遅く見えた。
それから、店主は新しいカップを出した。
「一杯につき、一つです」
「じゃあ、何杯でも」
「一晩に、一杯です」
「……じゃあ、どうしろと」
「差し出すぶんには、杯はいりません」
店主は、そう言った。
「差し出されたものを、この店はすべて受け取ります。一つでも、十でも」
「じゃあ」
「一度きりの説明です。よく聞いてください」店主は、野辺さんの目を見た。「受け取ったものは、返せません。返す仕組みが、この店にはありません」
「分かってます」
「分かっていません」
「分かってますよ」
野辺さんは笑った。
店主は、それ以上言わなかった。
言い終えたあとの顔を、わたしは見ていた。
皺は動かなかった。口元も動かなかった。子どもみたいな目だけが、一度、下を向いた。自分の手元を見たのではない。カウンターの向こう側の、床のあたりを見た。
叱られる直前の子どもがする目だった。
野辺さんは、両手を前に出したままだった。
そこから先は、早かった。
女房と息子の顔。故郷の川の名前。高校の校歌。初めて現場を任された日の、朝の空の色。二十代のころに毎日通ったラーメン屋の、暖簾の色。
出すたびに、野辺さんは軽くなった。
軽くなるというのが、こんなに幸福そうに見えるとは思わなかった。この人は笑っている。声を出して笑っている。目尻に涙が溜まっていて、それは苦痛の涙ではない。長い便秘が治った人の顔と、悟りを開いた人の顔は、たぶん同じだ。
「あーっ」
野辺さんは天井を向いた。
「なんにもない。なんにもないですよ、俺の中」
「まだ、あります」
店主が言った。
「え」
「名前が」
野辺さんは、自分の胸を手で押さえた。
「そうか。名前があるか」
「それは、お勧めしません」
「なんで」
「戻る場所が、なくなります」
「戻る場所」野辺さんは、しばらく考える顔をした。「ないですよ、もう」
「ありますか、ありませんかを、いま、あなたは判断できません」
「判断できないなら、置いてったほうがいい」
野辺さんは笑った。
「持ってってください。俺の名前」
店主は、動かなかった。
それから、両手をカウンターの上に出した。受け取る形だった。受け取りたくない人が、それでも受け取るときの、手の出しかただった。
野辺さんが店を出たのは、一時を少しまわったころだった。
歩きかたが変わっていた。踵のつぶれた靴を踏んだまま、背中がまっすぐ立っていた。戸口で振り返って、店内を見回して、それから丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」
誰に言ったのか分からない言い方だった。
戸が閉まって、鈴の音が消えた。窓の外の白い中を、人の背丈のものが右から左へ動いた。歩く速さだった。しばらくして、消えた。
「あんた、顔が白い」
添島さんが言った。
「……はい」
「今夜は帰れ。飲まなくていい」
わたしは飲まずに帰った。
野辺さんが公園で見つかったのは、十四日の早朝だった。記事が出たのは、その三日後の十七日の県版だ。三十行あった。
社会部の若手が書いたものだった。
十四日の早朝、市内の若葉台中央公園で、五十代とみられる男性がベンチに座っているのを通行人が見つけ、警察に通報した。
男性は所持品を持たず、氏名も住所も述べられない状態だった。外傷はなく、受け答えはできた。
記事には、公園の名前が出ていた。若葉台中央公園。七月に処理した井口敬三さんの住所が若葉台で、葬儀会場も若葉台会館だった。市の東側の、団地と工業団地に挟まれた地区だ。
十行目に、こう書いてあった。
男性は「自分の名前が思い出せない」と話しているという。
その一行を、社会部の若手がどう受け取って書いたのかは分かる。認知症か、頭部の外傷か、あるいは何かの疾患か。記者はそう考える。読者もそう読む。それ以外の読みかたは、この社会には用意されていない。
わたしは自分の席で、その三十行を三回読んだ。
そのあと、社会部の島に行った。書いた記者は不在で、隣の席の先輩が資料を出してくれた。
保護された人が身元不明のままだと、そこから先は福祉の話になる。
警察が身元を調べて、分からなければ市の福祉事務所が保護を継続する。
長期化した場合、県が身元不明者の情報を共有し、公開する仕組みがある。本人の同意が得られた場合や、保護している市町村が必要と判断した場合に限って、詳細が載る。
「この人、載るんですか」
「載らないと思う」
「なぜですか」
「本人が出てったから」
先輩は続報のメモを見せてくれた。
男性は病院で検査を受けて、身体に異常はなかった。翌日、本人が帰ると言い出した。
成人で、受け答えができて、本人の意思がはっきりしている場合、行き先がないという理由だけで留め置くことはできない。
「行き先を聞いたら、なんて答えたと思う?」
「分かりません」
「べつに、どこでも、って」
わたしは、その言葉をメモしなかった。
「追わないんですか」先輩に聞いた。
「追う理由がない。事件性なし、けが人なし、本人は帰ると言ってる。載せる枠もない」
「身元不明のまま、市内を歩いてるんですよね」
「歩いてるよ。歩いてる人はたくさんいる」
先輩はそう言って、自分の原稿に戻った。
責める言い方ではなかった。この人の言っていることは正しい。三十行を書いて、続報が出ないまま流れていく話は、うちの県版に毎月何本もある。人手が足りない。紙面が足りない。優先順位をつける。つけたぶんは落ちる。
落ちたものについて、わたしたちは考えないようにする。
わたしは自分の島に戻って、その日の四件を三行ずつにした。
八月二十日の夕方、駅前のスーパーで、その人を見た。
野菜の棚の前だった。作業着を着ていて、髭が剃ってある。誰かが服をくれたのか、自分で手に入れたのか分からない。かごの中に、パンとバナナが入っていた。
わたしは棚を三つ回り込んで、その人の正面に出た。
目が合った。
一秒くらいだった。その人は、わたしを見て、口の両端を上げた。
会釈だった。
スーパーの通路で見知らぬ人と目が合ったときに、日本人が反射でやる、あの薄い笑いだ。角度も、長さも、教科書どおりだった。
そのまま、横を通り過ぎていった。
わたしはレジの列に並んで、自分のかごの中を見た。何を入れたのか覚えていなかった。会計のときに、店員が金額を二度言った。二度目でようやく財布を出した。
駐車場に戻って、車の中で、しばらく座っていた。
あの人は、幸福そうだった。
一週間前より、明らかに顔色がよかった。髭が剃ってあって、服が清潔で、かごの中にパンとバナナが入っている。
四千二百八十万円を返す義務は、法的には残っている。取り立ての電話は鳴る。
ただ、それを恐怖として受け取る人が、もういない。
これを不幸と呼ぶ根拠を、わたしは持っていなかった。
持っていないのに、わたしはハンドルに額をつけて、二十分ほど動けなかった。
動けないあいだ、わたしは十日前の自分の姿勢を思い出していた。
腰を浮かせた。それだけだ。立ち上がりもしなかった。声も出さなかった。手も伸ばさなかった。浮かせた腰を、そのまま椅子に戻した。戻した記憶が、いちばんはっきりしている。
記者は、取材相手の人生に口を出さない。
その作法を、わたしは四年で身につけた。身につけた作法は、身を守る。相手の人生に責任を持たなくていい。持たなくていいから、書ける。書けるから、紙面が出る。紙面が出るから、給料が出る。
作法の外側では、それは、ただ黙って見ていたことになる。
十年前も、わたしは同じことをした。
その考えが浮かんで、わたしはエンジンをかけた。かけて、ラジオをつけて、音量を上げた。上書きだ。十年ぶんの技術がある。
八月二十四日、雨が降った。
秋雨の走りだった。気温が二十二度まで落ちて、川沿いから白いものが上がってきた。耳の奥が鳴りはじめたのは、部屋で洗濯物を取りこんでいるときだった。
わたしは、行かないつもりだった。
つもりだったのに、鍵を持って、靴を履いて、車に乗っていた。米屋の前に停めて、板塀のあいだを八歩。
戸を引いた。鈴が鳴った。
「濡れましたね」
「タオルはいりません」
わたしは椅子に座らずに、カウンターの前に立った。
添島さんがいた。Tシャツの人もいた。二人ともこちらを見た。
「聞きたいことがあります」
「どうぞ」
「あなたは、人の痛みを飲んでいるの?」
店主は布巾を畳んだ。畳み終えてから、こちらを見た。
「あなたは、痛みを持たない人間を想像できますか」
「質問に答えてください」
「答えています」
「答えてない」
わたしはカウンターを、手のひらで一度叩いた。乾いた音がした。
「あの人は、名前まで置いていった。あなたは止められた。止められる立場にいた。あなたが受け取らなければ、あの人は名前を持ったままだった」
「受け取らなければ、あの人は名前を持ったまま、この店を出ました」
「そうです」
「持ったまま出て、どうなりましたか」
「……分かりません」
「私も分かりません」
店主は、カップを一つ出した。
「私に見えるのは、その人が何を払えるかだけです。払ったあとにその人がどうなるかは、見えません。見えたことがない」
「見えないのに、請求するんですか」
「請求しなければ、出せません」
「何を」
「珈琲を」
わたしは、それを冗談として受け取ろうとした。受け取れなかった。この人は冗談を言わない。二か月見てきて、一度も言っていない。
「あの人が飲んだのは、一杯です」わたしは言った。「一杯ぶんの代金は、額だけでよかった。あとは全部、余分でしょう」
「余分です」
「余分なら、断れる」
「断れません」
「なぜ」
「差し出されたものを、この店は断れないからです」
店主は、サイフォンに火を入れた。
鎖が揺れる。上の器が押しこまれる。湯が上がる。粉が落ちる。竹べらが一度。火を落として、二度目。
「掟は、五つです」店主は手を動かしながら言った。「五つしかありません。書いていないことは、起こります」
「じゃあ、六つ目を書けばいい」
「書けません」
「なぜ」
「私が決めたものではないからです」
その一言は、答えになっていた。
この人は店主だ。店の主人ではない。主人という字を当てるなら、この店の主は別にいる。この人は、その主が決めた五行を読み上げて、請求して、受け取って、注いでいる。
雇われている、という言い方が浮かんだ。
浮かんで、次に、罰を受けている、という言い方が浮かんだ。
カップが置かれた。
湯気が、立たなかった。
注いだ瞬間にも上がらなかった。黒い面が、天井の灯りを平らに映している。カップの縁に指を近づけると、外側にわずかな温みがあった。触れられる温度だった。
夏だから、という言い訳は、もう使えなかった。
八月二十四日で、気温は二十二度。店内は蒸していない。湿った空気の説明は、今夜は成立しない。
わたしは、そのことに気づいた。
気づいて、二秒後には、別のことを考えていた。上書きした。十年ぶんの技術で、きれいに上書きした。
「お代を」
「今夜は、何ですか」
「あなたが今夜、あの人を止めなかった理由を」
指が、取っ手の上で止まった。
「理由なんて、ありません」
「あります」
「……ありました」
あった。三つか四つ、はっきりとあった。記者は取材相手の人生に口を出さない。止める資格が自分にない。選ぶのは本人だ。あの人は幸福そうだった。
その四つを、わたしはこの十日間、繰り返し自分に言い聞かせてきた。言い聞かせて、そのたびに少しずつ効きが悪くなっていた。
「払ったら、どうなりますか」
「理由が、なくなります」
「事実は」
「残ります」
わたしは飲んだ。
頭の芯が冷えた。指先が冷えた。肩の後ろが軽くなった。
残ったものがあった。
わたしはあの夜、腰を浮かせたまま何もしなかった。その事実だけが、素のままそこにある。なぜ何もしなかったのかを説明する言葉が、一つも出てこない。四つあったはずのものが、ぜんぶ抜けている。
言い訳を持たない事実というものが、こんなに重いとは思わなかった。
軽くなったぶんだけ、そこが重い。
「これは」わたしは声を出した。「救いですか」
「あなたはどう思いますか」
「逃避だと思います」
「では、逃避です」
「あなたはどう思うんですか」
店主は、器を洗っていた。湯を切って、伏せた。
「私は、逃げられた人を、うらやましいと思ったことがあります」
初めて、この人が自分のことを言った。
わたしは、次の質問を用意した。用意したものが四つあって、どれも二つ目の掟に引っかかった。
あなたは誰ですか。あなたは何を払えなかったんですか。あなたはいつからここにいるんですか。あなたは、逃げたかったんですか。
四つ目だけが、名前を含んでいなかった。
「あなたは、逃げたかったんですか」
声が出た。
店主は、伏せた器を見ていた。
「逃げるためには、荷物を置く場所がいります」
「ここが、その場所でしょう」
「ここに置いた荷物は、誰かが持つことになります」
「誰が」
店主は答えなかった。
答えない代わりに、こちらを見た。皺の中の、子どもみたいな目で。
わたしは、その目を二か月見ている。見ているのに、その夜まで、一度も正面から見返したことがなかった。
見返した瞬間に、喉の奥が締まった。
名前を聞こうとしたときと同じ締まりかたではない。もっと単純に、悲しいものを見たときの締まりかただった。
なぜ悲しいのかが、分からなかった。
「あなたは」わたしは言った。「飲まないんですね」
店主の手が、また止まった。
「二か月見てますけど、一度も飲んでない」
「私は、いいんです」
「なぜ」
「そろそろ」
店主は、そう言った。時計を見た。長針が左へまわっている。まだ一時にもなっていない。
追い出されたのだと分かった。この人が話を打ち切ったのは、初めてだった。
八月の終わりに、わたしは三回ミスをした。
一つ目は、喪主の名前の漢字を取り違えた。翌日に訂正が出た。四年でこの種のミスは二度目だった。
二つ目は、通夜の開始時刻を三十分ずらして載せた。斎場から電話が来て、柏木さんが謝った。わたしが謝るべきところを、デスクが先に謝った。
三つ目は、締め切りに三十分遅れた。
「葉山」
その日の夜、柏木さんに呼ばれた。廊下の自販機の前で、缶コーヒーを二本買って、一本をこちらに渡してきた。
「なんかあったか」
「すみません」
「謝れとは言ってない。あったかって聞いてる」
わたしは缶を両手で持っていた。温かかった。この店のカップより、ずっと温かかった。
「疲れてるだけです」
「盆から休んでないだろ」
「休みます」
「休め。それから」柏木さんは自分の缶を開けた。「雨の日に休むなよ」
わたしは顔を上げた。
「え」
「いや、なんとなくな。お前、最近、雨の日の帰りが早い」
心臓が跳ねた。
「早く帰るのはいいことでしょう」
「いいことだよ。いいことなんだが、お前は雨の日にだけ機嫌がいい」
柏木さんは缶を飲んで、それ以上聞かなかった。この職場では、たいてい聞かない。聞かないでいると、そのうち聞く必要がなくなる。
聞いてほしかった。
そう思った自分に、わたしは驚いた。
その夜、部屋に戻って、わたしは押入れを開けた。
いちばん奥に、段ボールが一つある。母が処分に困って、こちらに送りつけてきたものだ。開けたのは、受け取った日に一度だけだった。
雫の中学の卒業アルバムと、高校の体操着と、写真の入った封筒。
封筒を出した。写真は三十枚くらい入っている。ほとんどが家族の集合写真で、雫が写っているのは十四枚だった。数えた。数えると落ち着く。
その十四枚を、床に並べた。
顔が、あった。
写真の中の雫の顔は、当然、はっきりしている。目も、鼻も、口も、輪郭も、全部ある。
問題は、写真を伏せたあとだった。
伏せて、目をつぶって、思い出そうとする。
出てこない。
輪郭は出る。髪の長さも出る。制服の色も出る。中心の、目と鼻と口があるはずの場所が、白い。
わたしは写真をめくって、また伏せて、また目をつぶった。十四回やった。十四回とも同じだった。
これは支払ったせいなのか、それとも十年という時間のせいなのか、判断がつかない。
判断がつかないことが、いちばん怖かった。
わたしは写真を封筒に戻して、段ボールに入れて、押入れを閉めた。閉めてから、もう一度開けて、封筒だけを取り出して、机の引き出しに入れた。会社の引き出しではない。部屋のほうだ。
夜に見てしまう場所に、置いた。
八月二十九日、また雨が降った。
わたしは店に行った。行かないという選択肢を、その日は一度も検討しなかった。検討しなかったことに、車を降りてから気づいた。
店の中は、変わっていなかった。添島さん、Tシャツの人、逆にまわる時計、七つの丸椅子。カウンターの奥に霧があって、その手前に紺色の肩がある。
少女は、掌を見ていた。
指が線をなぞっている。端から端まで、何度も。
「あの」
わたしは声をかけた。
「はい」
「前に、お姉さんがいた気がするって、言ってましたよね」
少女の指が止まった。
「言ったかも」
「その人のこと、まだ覚えてますか」
「うーん」
少女は首をかしげた。
「いたのは、覚えてる。あと、髪が長かった」
わたしは自分の髪に手をやった。肩より下まである。十年、切っていない。
「顔は」
「顔は、ぼやけてる。前はもっと、はっきりしてたと思う」
前は、と言った。
比較ができるということは、まだ両方が残っているということだ。残っているものと、減ったものを、この子は自分で比べている。減っていることを、自分で知っている。
「思い出せないと、困りますか」
「困る」
即答だった。
「困るから、毎日、手を見てるの」
「手」
「線が減ってないか、確かめてる」
少女は掌をこちらに向けた。四つ離れた席からでは、線は見えなかった。白い、小さな手のひらがあるだけだった。
「減ってますか」
「わかんない。数えられなくなったら、それが答えなんだと思う」
わたしは、何も言えなかった。
その夜、わたしは飲まなかった。
店主はカップを出さなかった。出さない理由を、この人は説明しなかった。わたしも聞かなかった。
八月に入ってから、飲まずに帰る夜が増えていた。飲めば払う。払えば減る。減るのが怖いというより、飲まなくてもここにいられることに気づいてしまった。
わたしがここへ来る理由は、もう珈琲ではない。
理由の名前を、わたしはまだ持っていない。
いつもより早く席を立った。
戸口へ歩きながら、奥を見た。
少女は、こちらを見ていた。
白い顔の中の、目のあたりだと思われる位置が、わたしのいるほうを向いていた。前は向いても顔が白いだけだった。
今夜は、白い中に、影のようなものが二つある。
水がすこし澄んで、底の石が見えかけたときの見えかただった。
見られている。
そう思った瞬間に、影は消えた。ただの白に戻った。
「そろそろ」
店主が言った。
わたしは頭を下げた。
下げながら、自分がこの二か月で何を手放したかを数えた。
十年前の玄関で妹に言った言葉。妹の名前を呼んだときの、自分の声。受話器から手を離したときの、指の感触。あの人を止めなかった理由。
四つだ。
四つとも、なくても生きていける種類のものだった。そう思って選んだ。選んだつもりだった。四つ並べてみると、共通点がある。
全部、わたしが自分を責めるために使っていた道具だった。
道具がなくなって、責める作業ができなくなって、責めるべき事実だけが手つかずで残っている。軽くなったのではない。持ち手が折れただけだ。
戸を引いた。鈴が鳴った。
店を出るとき、マスターはいつものように見送った。その目が、子供みたいに濡れていたのを、わたしは見なかったことにした。




