第三話 訃報欄
うちでは、みんな同じ顔をして座る。
生きている人も、そうでない人も。
見分けがつかないのは、たぶん、優しさのつもりなのだと思う。
七月十九日の夜、耳の奥が鳴った。
会社の階段を下りている途中だった。三階と二階のあいだの踊り場で、湯がガラスの中で鳴るあの音が始まった。窓の外を見ると、街灯の光の輪が白くふくらんでいる。梅雨の最後の雨が降っていて、気温が夕方から五度落ちていた。
車で十分。米屋の前に停めて、板塀のあいだを歩く。八歩目で雨の音が半分になる。数えかたを覚えてしまった。
戸を引くと、鈴が鳴った。祖父の家の風鈴の音。
「濡れましたね」
「タオル、お願いします」
三度目の受け答えは、こちらから先に言った。店主は白いタオルを出して、それからサイフォンの下の木箱を開けた。
その夜は、先客が二人いた。
添島さんがいつもの奥から二番目の席にいて、その隣に、知らない男が座っていた。
三十代の半ばくらいだろうか。細い体に、洗いすぎて色の抜けたTシャツを着ている。髪は跳ねていて、寝起きのまま出てきたようにも、ずっと起きているようにも見えた。カップを両手で包むように持って、中身を覗きこんでいる。
わたしが腰を下ろすと、男は顔を上げた。
「うわ、増えた」
第一声がそれだった。
「増えたって、なんですか」
「いや、俺、今年の頭から来てるんですけど、客が三人になったの初めてなんですよ。マスター入れて四人。祭りかな」
よく喋る人だった。声が高くて、語尾が跳ねる。喋りながら、体もよく動く。カップを持ち上げて、置いて、また持ち上げる。指がいつも何かに触れていないと落ち着かない人の手つきだった。
「あんた、うるさいぞ」添島さんが言った。
「うるさいのは俺の長所です」
「短所だ」
「短所を長所って言い換えるの、就活で習ったんですよ。俺、そこだけは真面目にやったんで」
わたしは笑った。声を出して笑ったのは、この店では初めてだった。
男の名前は分からない。ここで名前は出ない。わたしは頭の中で、この人を「Tシャツの人」と呼ぶことにした。
「お姉さん、記者さんでしょ」
「なぜ分かるんですか」
「ボールペンが胸ポケットに二本刺さってる。二本刺してる人は、書くのが仕事の人」
「一本は予備ですか」
「予備がある人は、書けないと困る人。書けないと困らない人は、そもそも刺さない」
理屈が通っていた。この人は喋りが軽いだけで、見ている。取材相手にたまにいるタイプで、そういう人の前ではこちらが観察される。
その夜、わたしたちは三人で喋った。
天気の話をした。梅雨明けがいつになるかという話で二十分もった。この店では話題が限られている。名前は出せない。仕事は職種までなら出せる。過去の話は、途中で一語が抜けるから続かない。残るのは天気と、食べ物と、値段の話だ。
Tシャツの人は、その限られた材料でよく喋った。
コンビニの新作のアイスの話をして、去年のものより二十円上がったと怒った。夏に食べる素麺のつゆの濃さの話をして、添島さんと意見が割れた。
しょうもない話ばかりだった。
しょうもない話をしているあいだ、わたしは自分が普通の人間に戻っている気がした。
途中で、この人がどのくらい通っているのかを聞いた。
冬の終わりごろに初めて来た、と本人は言った。二月か三月で、それから雨の夜はだいたい来ている、と。
「毎回、条件が揃うわけじゃないですよね」
「揃わない日はね、家で待ってるんですよ。窓開けて。霧が出ると匂いで分かるんです」
「匂い」
「なんか、湿った石の匂いっていうか。分かりません?」
分からなかった。わたしに来るのは音だ。耳の奥のサイフォンの音。人によって呼ばれかたが違うらしい。
「あんたは音か」添島さんが口を挟んだ。「俺は寒気だ。夏でも背中が冷える」
三人で、三通りだった。三通りあるということは、店が個別にやっているということだ。個別にやるためには、相手を知っている必要がある。
わたしはそこまで考えて、考えるのをやめた。この店のことを筋道で追いかけると、どこかで必ず、自分が知られている側にいるという結論に着く。
一度だけ、この人の目が変わった。
素麺の話が途切れて、店の中が静かになったときだった。振り子時計の音だけがしていた。Tシャツの人は、カップの底の残りを見ていた。
目が、落ちた。
表情は変わらない。口元も動いていない。目の中の焦点だけが、カップの底より下へ抜けた。
沈んだ、と言うほうが近い。
投げた石が水の中を落ちていくときの、あの速さだった。テーブルの向こう、床の向こう、そのもっと下のどこかへ、この人の目は落ちていった。
わたしは、その目を知っている。
取材で、家族を亡くした人に何度も会った。
話しているあいだは普通に受け答えをして、質問と質問のあいだの数秒だけ、その目になる。
底に落ちる、という言い方をわたしは頭の中でしている。落ちて、こちらが次の質問をすると、上がってくる。
「あのさ」
Tシャツの人が言った。声の高さは変わっていない。
「俺、去年の暮れに一回さ」
「お客さん」
店主の声だった。
大きくもなく、鋭くもなく、通る声でもなかった。布巾を絞る手を止めて、顔も上げずに、ただ二文字を置いた。
店の中の空気が、下がった。
温度が下がったのではない。圧が変わった。
飛行機が高度を落とすときの、耳の奥の詰まりに似た変化が、一秒だけあった。
壁のランタンの火が、芯のところまで縮んだ。
カウンターの奥、霧のいちばん手前の線が、三十センチほどこちらへ出た。
Tシャツの人の口が、開いたまま止まった。
「あ」
短い音が出て、そのあと何も出なかった。
「すいません。三つ目でしたね」
「ええ」
「たまに忘れるんですよ。喋ってると、勢いで」
「勢いは、いいものです」
店主は布巾を絞り直した。ランタンの火が元の高さに戻る。霧が三十センチ下がって、元の線に戻った。
わたしは自分の腕を見た。二の腕に鳥肌が立っていて、それが引くまでに時間がかかった。
貼り紙は、飾りではない。
そう分かったことが、その夜のいちばんの収穫だった。収穫という言葉を使ってしまうのが、記者の悪いところだと思う。
Tシャツの人は、そのあとも普通に喋った。素麺の話の続きをして、添島さんに「あんたは薄すぎる」と言われて、笑った。
笑った。
その笑いに、音がなかった。
肩が揺れて、目が細くなって、口が開いている。息が漏れる音はする。声が乗っていない。わたしは自分の耳を疑って、次に笑ったときも聞いていた。二度目も、三度目も、同じだった。
「あんた、笑い声は」
添島さんが聞いた。聞きかたが、初めて聞く質問のものではなかった。
「払いました。三月に」
「よく払ったな」
「安かったんですよ。誰も困らないでしょ、俺の笑い声がなくても」
Tシャツの人は肩をすくめて、カップの残りを飲み干した。
「軽くなりましたよ、ほんとに。おすすめです」
「笑い声って、どんなふうに払うんですか」
「飲んだら勝手に。飲むだけです」
「痛くはない」
「全然。歯医者より楽」
その人はカップを置いて、指で縁をなぞった。
「あのね、俺、払うの好きなんですよ」
「好き」
「うん。減っていくのが気持ちいい。荷物ってあるじゃないですか。持ってるだけで重いのに、中身は一回も使ってない荷物。あれを置いていける場所って、他にないんですよ」
添島さんが、鼻から息を出した。
「あんた、そのうち置くものがなくなるぞ」
「なくなったら、そのとき考えます」
「考えられなくなってからじゃ遅い」
「先輩、説教くさい」
「説教だよ」
その人は笑った。音のない笑いだった。笑い終わってから、カップの底を覗きこんだ。
底には何もなかった。何もないのに、しばらく覗いていた。
七月二十日に、気象台が梅雨明けを発表した。
明けた日の紙面は、蝉と青空とプールの写真で埋まる。整理部にとっては楽な日で、その楽なぶんが訃報欄には関係ない。人は季節に関係なく死ぬ。夏は少し増える。
その日、わたしは四件を処理した。
八十九歳の女性。七十六歳の男性。九十三歳の女性。五十四歳の男性。四人ぶんの通夜と葬儀の日時と場所と喪主の名を、それぞれ三行に収めた。斎場に三回電話をかけて、遺族に一回かけた。
一回だけ、「どんな方でしたか」を聞いた。五十四歳の男性の奥さんが出た。奥さんは、夫が去年から庭でトマトを作っていたと言った。今年は八十個も採れて、近所に配りきれなくて、まだ冷蔵庫に十四個残っていると言った。
「十四個、どうしましょうね」
わたしに聞いたのではなかった。
「傷まないうちに、召し上がってください」
そう答えて、電話を切った。答えになっていないと分かっていた。この店の店主のことを笑えない。
電話を切ってから、わたしは十四個のトマトのことを三十秒考えた。
考えて、端末に向き直った。五十四歳の男性の三行には、トマトは入らない。入る欄がない。欄がないものを人はどこに置くのかというと、たぶん、冷蔵庫に置く。
「葉山」
柏木さんが、ゲラの束を持って通りかかった。
「お盆の当番、どうする」
「入れます」
「毎年入ってるだろ。たまには休め」
「盆は件数が増えるので」
柏木さんは、束を持ち直した。
「増えるのは葬儀屋の都合だ。うちの都合じゃない」
「同じじゃないですか」
「同じにするなよ」
そう言って行ってしまった。
柏木さんは三年で訃報欄をやめた人だ。やめた理由を聞いたことはない。この職場では、辞めた理由も、やめた理由も、たいてい聞かない。聞かないでいると、そのうち聞く必要がなくなる。
聞かないから優しい、という理屈が、どこかにあった気がした。どこで聞いたのか思い出せなかった。
「葉山さん」
隣の席から声がかかった。広瀬という、去年入ったばかりの記者だ。地域面の担当で、整理部の島にはよく資料を借りに来る。
「訃報欄って、あれ、どうやって書いてるんですか」
「フォーマットがあるよ。ファイルの共有フォルダに」
「いや、そうじゃなくて」広瀬はペン先で自分のこめかみを叩いた。「葉山さんの書く訃報、なぜか読めるんですよね」
「読める」
「うち、実家が新聞取ってて。母親が言うんですよ、最近の訃報欄は読んじゃうって。同じ三行なのに、なんか違うって」
「同じだよ。名前と、日付と、場所と、喪主」
「ですよね。俺も見比べたんですけど、ほんとに同じなんですよ」
「あのですね」広瀬は帰ろうとして、戻ってきた。「俺、地域面で人物ものを書くんですけど、千二百字あっても足りないんですよ。この人のこと書ききれないな、って毎回思う」
「千二百あって足りないなら、三行は無理だよ」
「そうなんですよ。なのに葉山さんの三行のほうが、なんか、その人がいる感じがするんです」
「フォーマットが同じなんだから、気のせいだよ」
「気のせいでも、母親が読むんですよ」
広瀬は納得のいかない顔で自分の席に戻っていった。
わたしは椅子の背にもたれた。
三行のほうが人がいる感じがするというのは、たぶん、読む側の話だ。
三行しかないと、読んだ人は残りを自分で埋める。埋めるのは読者の記憶だ。
九十三歳の女性の三行を読んだ人は、自分の祖母を思い出す。三十四歳の男の三行を読んだ人は、自分の弟を思い出す。
新聞は、その埋める作業を読者にやらせている。
やらせておいて、埋めた中身の責任は取らない。
わたしは自分の書いた四件を、画面上でもう一度見た。
同じだった。何も違わない。順番も語尾も、共有フォルダのフォーマットのままだ。トマトは入っていない。花壇の朝顔も、プールの笛も、入っていない。
入っていないものを、わたしは毎回、一度だけ自分の中に通している。
通した跡が、三行のどこかに残るのかもしれない。残るとしたら、それは遺族のものではなくて、わたしの都合だ。柏木さんの言った「こっちの感傷」というのは、たぶんそういうことだった。
夕方、机の引き出しが鳴った。
いちばん下の引き出しだ。ブーッ、という短い震えが、木の板を通してデスクの天板に伝わった。指を天板に置いていたから、皮膚で感じた。
わたしは引き出しを開けた。
折りたたみの携帯電話が、前と同じ向きで入っている。銀色の塗装が角から剥げている。画面は閉じている。触ると、常温だった。
開いた。液晶は真っ黒で、何も映らない。閉じて、また開いた。同じだった。
電源は十年前から入らない。充電器は同じ引き出しの奥にある。
わたしは充電器を見た。灰色のコードが、丸めたまま輪ゴムで留めてある。輪ゴムは劣化していて、触れたら切れそうだった。
デスクの下に、コンセントがある。
手が伸びかけた。
「葉山さん、締め切り」
柏木さんの声で、手が止まった。
引き出しを閉めて、返事をして、端末に向き直った。心臓が速かった。速いのは携帯が鳴ったせいなのか、コンセントに手が伸びたせいなのか、区別がつかなかった。
たぶん、後者だ。
指先が、熱かった。
この店で払ったときは冷える。今日は逆だった。コンセントに手を伸ばしかけただけで、指の先に血が集まっている。生きている人間の体は、こういう反応をする。
七月二十一日の午前、葬儀社から五件のファックスが届いた。
北央新聞の訃報欄は、市内の葬儀社十二社と提携している。遺族の同意が取れたものだけが、社の様式に記入されて送られてくる。わたしはそれを端末に打ち込んで、確認の電話をかけて、三行にする。
三件目のファックスを手に取ったとき、指が止まった。
森口和也。三十四歳。北央市栄町。七月二十日死去。
通夜は二十二日午後六時、葬儀は二十三日午前十時、栄町中央斎場。喪主は姉の森口佳奈さん。
死因の欄が、空白だった。
葬儀社から届く様式には、死因を書く欄がある。紙面には出さない。出さないのに欄があるのは、紙面に出すかどうかを判断する側が、判断のために知っておく必要があるからだ。ふだんはそこに「病気」か「老衰」か「事故」の三文字が入る。
空白は、四年で数えるほどしか見ていない。
備考欄に、一行あった。葬儀社の担当者の字だった。
「ご遺族の意向により、簡素に」
これが何を意味するかを、わたしは四年で覚えている。
病死や事故死のとき、遺族はたいてい何かを言いたがる。長く患ったとか、突然でしたとか、最後まで本人らしかったとか。
簡素に、と書かれるのは、言いたくない種類のときだ。
そのうちのいくつかは、警察が動いている。警察が動いて、記事にならない死にかたは、限られている。
森口。
三十四歳。市内。
わたしはファックスを裏返して、また表に戻した。
社の記事データベースを開いた。
過去十年の北央新聞の全記事が検索できる。名前を入れて、期間を絞る。森口和也。ヒットは二件だった。
一件目は八年前の地域面。市民マラソンの十キロ男子の部、二十六歳、完走者一覧の中の一行。名前と、タイム。一時間四分三十二秒。
二件目は五年前の社会面の、十行ほどの小さな記事だった。市内の運送会社で、フォークリフトの接触事故。負傷者一名、軽傷。
負傷者の名前は載っていない。載っているのは会社名と、現場責任者のコメントだ。
そのコメントに、森口和也という名があった。
責任者だ。三十歳前後で、現場を任されていた。
その二件が同じ人物である保証はない。市内に森口和也が三人いても不思議はない。三人のうち誰が七月二十日に亡くなったのかは、データベースには出ていない。
わたしは検索窓を閉じた。
閉じてから、自分がやったことに気づいた。
これは取材ではない。取材のふりだ。データベースは社内にあって、電話をかける必要がなく、誰にも会わずに済む。誰にも会わない調べものだけをして、調べたと自分に言うつもりだった。
いちばん確実な方法は、最初から分かっている。
姉に電話をして、写真をもらう。
Tシャツの人の年齢は聞いていない。名前も聞いていない。あの店では名前は出ない。顔は覚えている。細い体と、跳ねた髪と、音のない笑いかた。
同一人物である根拠は、何もなかった。
森口という姓は珍しくない。市内に何十世帯もある。三十代の男性は毎月何人も死ぬ。そのうち何人かは、こういう備考の書かれかたをする。
確かめる方法は、あった。
姉の森口佳奈さんに電話をして、弟さんの写真はありますか、と聞く。
訃報欄で写真を使うことはないから、理由を作らなければいけない。追悼の記事を検討していますと言えば、たいていの遺族は出してくれる。
出してくれた写真を見れば、五秒で分かる。
受話器に手を置いた。
置いたまま、五分ほど動かなかった。
もし同じ顔だったら、わたしはどうするのだろう。
あの店に、死んだ人間が座っていたことになる。座って、素麺のつゆの濃さで添島さんと言い争って、アイスが二十円上がったと怒って、音のない笑いかたをしていたことになる。
それが本当なら、わたしが三度会っているあの少女は、何なのか。
わたしが泣いた理由は、何なのか。
わたしが払った代金を、誰が受け取ったのか。
通話ボタンの上で、指が浮いていた。
斎場の番号は、確認のためにどうせかける。かけるついでに、遺族の連絡先を聞くこともできる。聞くのは日常業務だ。追悼記事の検討という理由も、嘘ではない。三十四歳の死は、地域面の人物ものになりうる。広瀬に振ってもいい。
理由はいくらでも作れた。作れる理由の数と、やる気の量は関係がない。
窓の外で蝉が鳴いていた。梅雨明けの翌日で、朝から気温が三十度を超えている。整理部の空調は弱くて、午後になると背中に汗をかく。
わたしはこの部屋で四年、人が死んだという知らせを受け取りつづけてきた。受け取るだけだ。会いに行かない。現場に行かない。写真を撮らない。名前の漢字と、時刻と、場所を確かめて、三行にする。
その四年のあいだに、わたしは一度も、自分が知っている人間の訃報を扱ったことがなかった。
今日が初めてだった。
初めてなのに、手順が体に入っている。ファックスを読んで、端末に打って、電話をかけて、字数を数える。手順があると、人は手順を実行する。手順の外に出るには、意志がいる。
意志が、出てこなかった。
受話器から手を離した。
離した瞬間に、自分が何をしたのか分かった。
わたしは、確かめなかった。確かめれば分かることを、分からないままにする選択をした。
記者が四年でいちばん多くやることは、実は取材ではなくて、取材しないと決めることだ。
全部は取材できない。人手も紙面も足りない。だから優先順位をつける。つけたぶんは落ちる。
落ちたものについて、わたしたちは考えないようにする。
これは優先順位ではなかった。
これは、怖かっただけだ。
怖いものの正体を、わたしは三つ数えられた。
一つ目。あの人が死んでいると分かること。
二つ目。あの店が本物だと分かること。
三つ目。あの少女が誰なのかを、考えなければならなくなること。
三つ目がいちばん大きかった。
三つ目のことを、わたしは考えないようにしている。考えないようにしていることを、この一週間で四回思い出した。四回とも、別のことを頭に入れて上書きした。上書きは十年ぶんの技術がある。
わたしはファックスを端末に打ち込んだ。
森口和也さん(三十四歳)=北央市栄町=七月二十日死去。通夜は二十二日午後六時、葬儀は二十三日午前十時、栄町中央斎場。喪主は姉の佳奈さん。
三行になった。
字数を数えた。規定内に収まっている。
その日届いたのは全部で五件で、森口さんは三件目だった。八十六歳の女性、九十一歳の女性、森口和也さん、七十八歳の男性、八十歳の女性。
年齢順ではなく、届いた順に並べる。
並べてしまえば、五件は完全に同じ形をしている。同じ形をしたものは、同じ重さに見える。
確認の電話を、斎場にかけた。
「森口さんの件で、開始時刻の確認を」
「六時からです。ご親族のみで」
「喪主のお名前の字は、佳境の佳に、奈良の奈でよろしいですか」
「はい」
わたしは、いつもの一言を言わなかった。
どんな方でしたか、と聞かなかった。
聞かないことを選んで、選んだことに気づいて、気づいたまま受話器を置いた。それが、その日わたしがしたいちばん大きな仕事だった。
七月二十二日の朝刊に、三行が載った。
配達された北央新聞の十四面、下段の左から三番目。九十一歳の女性と、七十八歳の男性のあいだに挟まれて、三十四歳の男が三行で並んでいる。
わたしは自分の机で、その面を開いた。
指で、三行をなぞった。
紙のインクは乾いていて、指には何もつかなかった。
次の雨は、七月二十九日に降った。
夕立ではない。前線が停滞して、夜になっても降りつづける本降りだった。気温が二十度まで落ちて、川沿いから白いものが上がってきた。
わたしは、行くかどうかを迷わなかった。
迷うだけの理由はあった。理由を並べるより先に、耳の奥が鳴っていた。会社を出て、車に乗って、米屋の前に停めるまで、十二分。板塀のあいだを八歩で雨の音が半分になり、十歩でなくなる。
戸を引いた。鈴が鳴った。
「濡れましたね」
「……はい」
タオルを受け取る手が、うまく動かなかった。
奥から二番目に添島さん。その隣に、Tシャツの人がいた。
洗いすぎて色の抜けたTシャツ。跳ねた髪。細い体。カップを両手で包むように持って、中身を覗きこんでいる。
「あ、お姉さんだ」
顔を上げて、その人は言った。
「ひさしぶりですね。十日ぶりくらい? 俺、二回来ましたよ。二回とも誰もいなくて、マスターと二人。あれ気まずいんですよ、何話していいか分かんなくて」
声の高さは同じだった。語尾の跳ねかたも同じだった。喋りながら指がカップの縁をなぞるところも同じだった。
わたしは椅子に座った。座るまでに、いつもの倍の時間がかかった。
生きている。
そう思おうとした。目の前にいる。喋っている。カップを持っている。呼吸をしている。胸が動いている。ちゃんと動いている。
森口という姓は珍しくない。市内に何十世帯もある。
「どうしたんですか、顔色」
「疲れてるだけです」
「新聞屋さんって、夏は忙しいんですか」
「夏は、少し」
聞きたいことは、ひとつだった。
あなたは、七月二十日に死にましたか。
その一文を頭の中で組み立てた瞬間に、喉の奥が閉じた。組み立てた文の中に、あの一語が入っている。入っている文は、この店では音にならない。
言い換えを探した。
あなたの姉さんの名前は佳奈さんですか。それは名前の話で、二つ目に引っかかる。栄町にお住まいですか。住所なら通るかもしれない。通ったとして、それを聞いてどうする。栄町に住む森口さんは何人もいる。
七月二十日に何をしていましたか。
これなら通る。日付と行動だけだ。
「あの」
「はい」
「先週の、二十日って」
そこで止まった。
止めたのは掟ではなかった。わたし自身だった。
聞けば、答えが返ってくる。返ってきた答えが、どちらでも困る。生きていると分かれば、わたしは自分の三行を疑わなくて済む。死んでいると分かれば、わたしは今この人と喋っていることを説明できなくなる。
どちらにしても、わたしはもう三行を書いてしまった。
紙面に載せて、配って、市内の何万世帯かの食卓に届けた。九十一歳の女性と七十八歳の男性のあいだに挟んで、同じ重さに見えるように体裁を揃えた。
確かめなかった人間が、今さら確かめる資格を、わたしは自分に出せなかった。
「二十日が、どうしました?」
「……いえ。何でもないです」
「気になるなあ。気になる言い方して途中でやめるの、いちばんずるいですよ」
その人は笑った。
肩が揺れて、目が細くなって、口が開いた。息が漏れる音がした。
声が、乗っていない。
三月に払ったんですよ、と言っていた。安かったんですよ、誰も困らないでしょ、と。
誰も困らない。わたしは今、困っている。この人の笑い声があれば、わたしは声の記憶を頼りに、いつあの声を聞いたかを確かめられた。声のないものは、記録に残らない。
店主が火を入れた。
鎖が揺れて、上の器が押しこまれて、湯が上がる。粉が落ちて、竹べらが一度。火を落として、二度目の竹べら。黒が布を抜けて落ちてくる。香りは祖父の家の匂いになる。
カップが置かれた。
湯気は、注いだ瞬間に一度だけ上がった。上がって、二秒で消えた。あとは何も立たない。カップの縁に指を近づけても、湿った空気が触れる感じがない。
夏だからだ、と思った。
七月の終わりで、店内は蒸している。湿った空気の中では湯気は見えにくい。理科の話だ。前にも同じ理科の話を自分にした。同じ説明を二度使うとき、人はそれを説明ではなく言い訳と呼ぶ。
「お代を」
「今夜は」
「あなたが今日、書いた三行を」
指が、カップの取っ手の上で止まった。
書いた三行は四件ある。今日はまた四件処理した。どの三行のことを言っているのか、聞かなくても分かった。
「それは、払えません」
初めて、断った。
「あれは、あの人のものです。わたしのものじゃない」
「では、別のものを」
店主は、あっさり引いた。
引かれたことのほうが、こわかった。断れば通るなら、これまでのものも断れた。断らなかったのは、わたしが払いたかったからだ。
「今夜は、あなたが受話器から手を離したときの、指の感触を」
払った。
頭の芯が冷えて、指先が冷えた。
受話器に手を置いて、五分ほど動かなかった時間が、輪郭だけ残って中身が抜けた。わたしはあの日、何かを確かめなかった。確かめなかった瞬間の手ざわりが、もうない。
罪状が、また一つ消えた。
「ねえ葉山さん」
顔を上げた。
Tシャツの人が、こちらを見ていた。
わたしは名乗っていない。この店で名乗ることはできない。二つ目の掟がそれを許さない。胸ポケットのボールペンから記者だと当てた人でも、社名までは当てられない。社員証は鞄の中で、鞄は足元にある。
「なんで」
「え?」
「なんで、わたしの名前を」
その人は、きょとんとした顔をした。心底きょとんとした、いい顔だった。
「知ってますよ、俺。ずっと前から」
「ずっと前」
「うん」
それ以上の説明はなかった。説明を求めても、たぶん出てこない。この人は嘘をついていない顔をしている。知っている、と本人が思っていることだけが本当だ。
「ねえ葉山さん」
その人は、同じ呼びかたを繰り返した。
カップを両手で包んで、中身を覗きこんで、それから顔を上げた。目は落ちていなかった。上がっていた。とても機嫌のいい、素直な目だった。
「ここのコーヒーさ」
「はい」
「生きてた頃の味がするんだよね」
その夜、わたしは自分がどうやって店を出たのか覚えていない。
覚えているのは、添島さんが途中で立ち上がって、わたしの肩を軽く叩いたことだ。叩いてから、いつもの席に戻って、空のカップの前に座り直した。
「あんた、顔が白い」
「……そうですか」
「白いよ。うちの客がその顔したら、俺は窓を開ける」
「開けてもらえますか」
「窓がない車ならな」
冗談だった。笑えなかった。添島さんは笑わなかったことを責めなかった。
「聞いていいですか」
「答えられることなら」
「ここにいる人は」
そこまでで、また止まった。
死んでいるんですか、と続けたかった。続けられない。三つ目の掟は、こちらの都合を聞かない。
添島さんは、わたしが止まったところで意味を受け取ったらしかった。
「分からんよ」
「分からない」
「俺にも分からん。十年いて分からん。あんたにも分からんだろう。あの人にも、たぶん分からん」
「本人には」
「本人がいちばん分からんと思う」
添島さんはカップを回した。中身がないので、音がしない。
「この店はね」
「はい」
「聞いちゃいけないことが多すぎて、結局みんな、優しくなるんだ」
わたしは、その言葉を頭の中で二度繰り返した。
聞かないから優しい。聞けないから優しい。相手が誰で、どういう人生で、いつ終わったのかを知らないまま、素麺のつゆの濃さで言い争う。それは優しさなのか、それとも、優しさに似た何かなのか。
新聞は逆のことをする。
聞いて、確かめて、書いて、配る。書かれた側は、その三行に一生を要約される。要約する側は、要約したことを忘れる。わたしは四年で何百人ぶんの人生を三行にして、そのほとんどの名前を覚えていない。
優しいのは、どちらだろう。
「そろそろ」
店主が言った。
わたしは立ち上がった。Tシャツの人は、こちらに手を振った。手のひらを全開にして、子どもみたいに振った。
「またね、葉山さん」
「……はい」
「次、来るとき、アイス持ってきてよ。二十円上がったやつ」
「持ち込み、いいんですか」
「だめでしょうね」
その人は笑った。音がなかった。
戸を引いた。鈴が鳴った。祖父の家の風鈴の音がした。
外は雨で、霧で、路地で、十歩歩くと雨の音が戻ってくる。米屋の前に車がある。エンジンをかけて、ワイパーを動かして、家に帰った。
部屋に入って、電気をつけないまま、床に座った。
その日の紙面が、玄関のポストに入ったままだった。取りに行って、十四面を開いた。下段の左から三番目。三十四歳の男の三行が、九十一歳と七十八歳のあいだに挟まっている。
紙のインクは乾いている。指には何もつかない。
コートのポケットから、マッチ箱を出した。
軸木を数えた。十七本。減っていない。摩擦面の右端が黒く擦れていて、前より範囲が広がっている。誰かが、この箱で火をつけつづけている。
箱を床に置いて、その隣に新聞を置いた。
三行と、マッチ箱。
わたしの手元にあるのは、この二つだけだった。片方は裏が取れて、片方は裏が取れない。裏の取れたほうが、より確かだということには、ならなかった。三行は正確だ。正確だから、何も分からない。
森口和也さんは、通夜が二十二日で、葬儀が二十三日で、喪主が姉の佳奈さんだ。
それだけが確かで、それ以外の全部が、確かではない。
わたしが今夜まで確かだと思っていたものを、順に並べてみた。あの店に少女がいること。少女が待っていること。添島さんが生きていること。マスターが人であること。わたしが正気であること。
並べたどれにも、裏がなかった。
わたしはあの夜から、店の全員を疑うことを覚えた。……自分さえも。




