第二話 掟
待つということは、削れるということだ。
削れて、それでも待つ。
……お前はよく頑張っている。
翌週から、わたしはあの通りに十一回行った。
回数を数えているのは、数えていないと自分が何をしているのか説明できなくなるからだ。
取材ノートの後ろから三ページ目に、表を作った。日付、時刻、天候、視界、結果。
記者の手つきで自分の異常を記録すると、異常がすこし手ざわりのあるものになる。
六月十九日、午後八時、晴れ、視界良好、路地なし。
六月二十一日、午後十時、雨、視界良好、路地なし。
六月二十三日、午後九時、曇り、霧なし、路地なし。
雨の夜には五回行った。
米屋の前に車を停めて、駐車場のアスファルトの上に立って、二十分ほど待つ。傘を持っていく日もあれば、忘れる日もある。
区画のプレートは相変わらず三枚傾いていて、軽自動車は日によって停まっていたり、いなかったりする。
一度、住人らしい男に声をかけられた。うちの区画に何か用か、と聞かれた。
北央新聞の者ですと名乗って、この通りの古い店を調べていますと言った。嘘ではない。
男は首をひねって、ここは十五年前から駐車場だと言った。その前は空き地で、その前のことは知らないと。
「木造の平屋、ありませんでしたか。喫茶店みたいな」
「喫茶店なんて、この通りにはずっとない」
礼を言って引き上げた。裏が取れない。裏が取れない話は書かない。書かないと決めた話を、わたしは毎晩見に来ている。
七月に入るまでのあいだに、わたしは会社の資料室にも入った。
三階の奥の、本棚と本棚のあいだが人ひとりぶんしかない部屋だ。昼でも蛍光灯をつける。北央市の住宅地図が、昭和三十年代のものから年度ごとに揃っている。
米屋の並びを、古いほうから順に開いた。
昭和三十八年。米屋があって、隣が煙草屋、その隣が「浅倉商店」。
昭和五十二年。米屋、煙草屋の跡が空白、隣が空白。
平成三年。米屋、空き店舗、駐車場。
平成二十年。同じ。
喫茶店の記載は、どの年度にもなかった。
念のため、市史の商工名簿も引いた。市内の飲食店の一覧が、五年ごとに載っている。ジ、で始まる店名を上から下まで見て、次にGの欄を見た。アルファベット表記の店は三軒あって、どれも駅前のスナックだった。
資料室を出るとき、埃で喉が痛くなった。
裏が取れないことは、これで確定した。確定して、困りはしなかった。
困らないのは、わたしがもう、この件を記事にする気がないからだ。記者が裏を取るのは書くためだ。
書かないと決めた話の裏を取りに来る人間を、わたしは仕事で何度も見てきた。
遺族だ。
もうひとつ、調べたことがある。
気象台の観測記録を、この十年ぶんさかのぼった。北央市の視程の記録。視程五百メートル以下になった日が、年に平均で十一日ある。そのうち夜間で、かつ降水があった日は、年に二日か三日しかない。
六月十七日は、その二日か三日のうちの一日だった。
十年前の六月十七日も、同じ条件だった。
画面の数字を見ながら、わたしは自分が何を確かめたかったのか分からなくなった。妹が死んだ夜の視程を調べて、それをどうするつもりなのか。ノートに書き写して、ページを閉じた。
七月に入った。梅雨の後半で、雨は増えた。雨の日は増えたのに、霧が出ない。この街は盆地で、秋の朝には川霧が立つ。夏の夜に視界が消えるほどの霧が出るのは、年に何度もない。
七月四日、午後十一時、雨、視界良好、路地なし。
その夜、部屋に戻って、コートのポケットからマッチ箱を出した。
軸木は十七本ある。数えた。四回目に数えたときも十七本だった。一本も減っていない。減っていないのに、箱の側面の摩擦面が、右端の一箇所だけ黒く擦れている。前に見たときは、ヤスリの目が全面きれいに揃っていた。
指でこすってみた。黒い粉が指紋の溝に入って、硫黄の匂いがした。誰かがこの箱で火をつけている。使った軸木は箱に戻らない。戻らないのに、十七本ある。
わたしは箱を閉じて、机の上に置いた。置いてから、引き出しに入れた。入れてから、また出して、コートのポケットに戻した。三往復して、ようやくポケットに落ち着いた。
そのあいだじゅう、頭のどこかで、あの言葉を探していた。
探しながら、別のものが出てきた。
雫は、家の中でスリッパを履かない子だった。冬でも裸足で、廊下を歩くと足の裏がぺたぺた鳴った。あの音で、部屋にいても妹が起きたのが分かった。
朝、その音が近づいてくると、わたしはドアの前で止まるのを待った。ノックはしない。開けもしない。ドアの向こうで「お姉ちゃん、まだ寝てんの」と言って、返事をしないと、そのまま台所へ行く。
十年、この家にその音がしない。
母が、去年から玄関にスリッパを揃えて置いている。誰も履かない。母も履かない。何のために置いてあるのかを、わたしは聞いたことがない。
十年前の玄関で、わたしが妹に言った言葉。
場面はある。ほどけたスニーカーの紐も、切れかけた照明も、青いパーカーのフードも、ぜんぶある。
台詞だけがない。
あの夜からの十年、わたしはその台詞を毎日ひとりで唱えてきたはずだった。唱えてきた記憶はある。唱えていた内容がない。
罰を受けている感覚だけが残って、罪状が消えている。
そういう状態を、人はふつう、救いと呼ぶのかもしれない。
七月八日は、朝から蒸していた。
夕方に前線が下りてきて、気温が四度下がった。会社を出たのが九時過ぎで、駐車場に着いたときには、街灯の周りに白いものが漂いはじめている。地面から立つのではなく、上から下りてくる降りかたをする霧だった。
車のドアを開けたところで、耳の奥が鳴った。
低くて、丸くて、遠い音。湯がガラスの中で鳴るときの、あの音だった。耳を塞いでも小さくならない。頭蓋の内側で鳴っている。
呼ばれます、と店主は言った。聞こえます、あなたなら、と。
わたしはカメラバッグを助手席に置いたまま、車を降りた。
米屋のシャッターの前を通る。空き店舗のテナント募集の紙。その隣に、板塀があった。
濡れた木の匂いがした。奥に橙色の灯りがひとつ。
十歩進むと、雨の音が遠のく。敷石を踏む音だけが、耳のすぐそばで鳴る。黒い板壁の平屋。低い軒。四角いランタン。木の看板に、GG。
路地の入口で、わたしは一度立ち止まった。
板塀の板は縦に打ってあって、幅がふぞろいだった。手で触れると、木が水を吸って膨らんでいる。爪を立てると、柔らかく食いこんだ。指先に木の繊維が残る。
これは、ある。
前回は確かめる余裕がなかった。今夜は確かめた。板塀は物質として存在していて、触れば濡れて、爪を立てれば削れる。六月の朝、同じ場所はアスファルトだった。両方とも本当なら、どちらかの日に、この街のここが入れ替わっている。
記者として書けることは何もない。書けないことを確かめるのが、こんなに落ち着くとは思わなかった。
奥へ歩いた。八歩目で、雨の音が半分になった。十歩目で、なくなった。
軒の下に立って、ランタンを見上げた。ガラスの中で炎が揺れている。芯の焦げた匂いがした。芯があるということは、油があるということだ。誰かが油を足している。
引き戸に手をかけて、開ける前に一度、深呼吸をした。
戸を引くと、鈴が鳴った。祖父の家の風鈴の音がした。二度目でも同じだった。同じであることに、わたしの喉のあたりが少しゆるんだ。
「濡れましたね」
同じ声、同じ言葉。白い割烹着の店主が、カウンターの内側に立っている。皺の中の、子どもの目。
「タオル、いります?」
「……いただきます」
前回とは違う返事をしたのは、意識的にそうしたからだ。同じ受け答えを繰り返すと、この店が録画されたもののように思えてくる。
店主は白いタオルを出した。乾いていて、洗剤の匂いがしない。日に干した布の匂いがした。
今夜は、先に貼り紙を読んだ。
戸口の脇の柱。飴色に焼けた和紙。虫食いの穴が二つ。前回は目が滑った五つの項目を、今度は一行ずつ、指で押さえながら読んだ。
一、珈琲は一杯だけ。おかわりを頼んではならない。
一、店主に名を尋ねてはならない。自分の名を語ってもならない。
一、隣の客と死について語ってはならない。
一、午前二時の鐘が鳴る前に店を出ること。
一、代金は金では払えない。店主が請求するものを差し出すこと。
二行目のところで、指が止まった。
前回、わたしはこの人の名前を聞こうとして、聞けなかった。喉が締まったのではなく、言葉が手渡されてこなかった。あれは体調の問題ではなくて、ここに書いてあることだった。
三行目のところでも、指が止まった。
隣の客と死について語ってはならない。
これは実務的に不可能ではないか、と思った。喫茶店で隣り合った人間が、天気と野球以外の話をしたとして、そこに死が出てこない確率はどれくらいだろう。わたしの仕事は、その一語を毎日三行の中に置くことだ。
読み終えて、指を離した。和紙は乾いていて、指の跡が残らなかった。
「読みましたか」
店主が言った。
「読みました。これ、守らないとどうなるんですか」
「守れる方は、守れます」
答えになっていない。この人の会話の作りかたは、こちらの質問を受け取らずに、隣に置き直す。
わたしはタオルを畳んで、カウンターの端に置いた。
置きながら、店内を数えた。
丸椅子は七つ。手前から一、二、三、四、五、六、七。七つ目は霧に半分入っている。数え直しても七つだった。前回は数えていない。数えられる範囲のものが数えられると、すこし落ち着く。
壁の振り子時計を見た。針は左へまわっている。文字盤の数字は普通に一から十二まで並んでいて、逆に書かれているわけではない。針だけが逆行している。
十時二十分を指していた。
ポケットの携帯を出した。画面が点いて、時刻が出る。
十時十一分。
九分ずれている。ずれていること自体は珍しくない。電波時計でなければ、月に数分は狂う。わたしはそのまま画面を見ていた。
秒の表示が変わらない。
十秒ほど見て、数字が一つ動いた。もう十秒見て、また一つ。息を止めて数えると、こちらの体感で八秒か九秒に一度、画面の秒が一つ進む。
電波が入っていないのだと思った。圏外表示を見ようとして、アンテナの本数を確かめた。三本立っている。
携帯を伏せて、ポケットに戻した。
背後の窓を見た。白い。霧が貼りついていて、その向こうに何も見えない。見ていると、白の中を人の背丈のものが横切った。右から左へ、歩く速さで。しばらくして、もうひとつ。
外は雨だ。この雨の中を、傘もささずに何人も歩いている。足音は聞こえない。
カウンターの奥から二番目の席に、人が座っていた。
背中の広い男だった。
濃紺のシャツの肩に、うっすらと白いものが浮いている。汗の乾いた跡だ。五十代の半ばくらいで、頭は短く刈って、後頭部に寝癖のような一房がある。カウンターに肘をついて、目の前の白いカップを見ていた。
カップは空だった。
湯気も、飲んだあとの輪の跡もない。乾いている。長いこと乾いているカップの、内側の白さをしていた。
わたしが二つ隣に腰を下ろすと、男は顔だけこちらに向けた。目の下がたるんでいて、眉が薄い。
「新しい人だ」
「はじめまして。……名乗れないんですよね」
「そう。ここは名前がない。楽でしょう」
男は笑った。声を出さない笑いかたで、頬の肉が動いた。
「タクシーを引いてる。夜専門でね。帰りにここに寄る。あんたは、記者さん」
「なぜ分かるんですか」
「あんたの座りかたが、後部座席の客の座りかたなんだ。行き先を決めてから乗る人と、走りながら決める人がいる。あんたは決めてから乗るほう」
答えになっているようで、なっていない。この店の人はみんなそうなのかと思いかけて、この人は普通に喋る、と気づいた。話がずれるだけで、はぐらかされてはいない。
わたしは男を、添島さんと呼ぶことにした。本人が言った名前ではない。
シャツの胸に「添」の一字だけ刺繍が入っていて、それが会社の名か本人の名かも分からない。
名を尋ねてはならないのは店主に対してだけだから、聞いてもよかった。
聞かなかったのは、聞けば自分も名乗る流れになるからだ。
「あの掟、全部本当ですか」
「本当だよ。俺が知ってる範囲ではね」
「知らない範囲があるんですか」
「山ほどある」添島さんは空のカップを指で回した。「一杯だけってのは分かる。名前の話も分かる。二時までに出ろってのも分かる。分からんのは五番目だ」
「代金の」
「何を請求されるかは、こっちが決められない。あの人が決める。決める基準も教えてくれない。俺は十年通ってるが、いまだに何がどう選ばれてるのか分からん」
十年、という数字を、わたしは記者の癖でメモしたくなった。ノートは出さなかった。
「請求されたものを渡すと、どうなるんですか」
「軽くなる。ほんとに軽くなるんだ。ここを出るとき、階段を一段飛ばしで下りられるくらい」
「代わりに、それは戻らない」
「戻らない」
添島さんは、そこで初めてわたしの顔を正面から見た。
「あんた、もう一杯飲んだな」
「はい」
「何を持っていかれたか、分かってるか」
分かっていない、と答えるべきだった。答える前に、口が別のことを言った。
「分からないことが、分かります」
添島さんはうなずいた。それ以上聞かなかった。この人はたぶん、聞いてはいけない場所を知っている。夜のタクシーで、後部座席の客の話をどこで止めるかを覚えた人の止めかただった。
「奥は」わたしは声を落とした。「あの霧の中は、何なんですか」
「常連さんだ」
「常連というのは」
「掟を破った人。ここのルールを破ると、帰れなくなる。奥に席が用意されて、そこに座りっぱなしになる。何日か、何年か座って、最後は霧になる」
「霧に」
「そう聞いてる。俺は見たことがない。ずっと霧が濃くて、いつのまにか一人減ってる。減ったのか、俺が数え間違えてるのか、それも分からん」
添島さんは、また空のカップを回した。
「あんた、なんでここに来た」
「路地があったから」
「路地は、来る理由がある奴にしか見えない」
「あなたの理由は」
聞いてから、踏み込みすぎたと思った。この店で、人の来る理由を聞くのは、たぶん死について聞くのに近い。
添島さんは怒らなかった。カップから指を離して、カウンターの木目をなぞった。
「女房が、いなくなった。十年前だ。雨の夜だった」
お悔やみ申し上げます、と言おうとした。
言葉が、途中でほどけた。
お、の音までは出た。その先の音の並びが、頭の中で手渡されてこない。前に名前を聞こうとしたときと同じ止まりかただった。口を半分開けたまま、わたしは自分の喉のあたりを疑った。
「無理だよ」
添島さんが、こちらを見ずに言った。
「その手の言葉は、ここじゃ出ない。三つ目のやつだ」
貼り紙の三行目。隣の客と、そのことについて語ってはならない。
「じゃあ、奥さんのことは」
「話せる。いなくなった、までは話せる。その先の一語が言えん」添島さんは肩を落とすでもなく続けた。「十年やってて、いまだに不便だと思うよ。年寄りが集まると、話題の半分はそっちなんだから」
冗談の形をしていた。笑わなかった。笑うところではないのか、笑っていい場面なのか、この店ではその判断ができない。
「うちのは、ここに来たことがあるらしい」添島さんの声は、そのまま同じ調子で続いた。「遺品の中に、この店のマッチがあった。俺が知らないマッチだ。女房はタバコを吸わん」
わたしのコートのポケットに、同じものが入っている。
「それで探して、見つけて、通ってる」
「奥さんは、ここに」
「いない。奥にもいない。俺は十年、この霧を数えてる」
数える、という言葉を、この人は二度使った。霧を数える。人影を数える。数えても答えが出ないと分かっていて数えつづける行為を、わたしもこの三週間で、十一回やっている。
添島さんはカップを持ち上げて、空のまま口をつける真似をした。飲まなかった。飲むふりだけをして、置いた。
「俺は一杯も飲んでない」
「十年、ですか」
「あの人が言う代金が、俺には払えん」
「何を請求されてるんですか」
「女房への未練だ」
言い終えて、添島さんは親指で口もとをこすった。
「払えば飲める。飲めば軽くなる。それは分かってる。ただな、未練を全部渡したら、俺の中の女房はどこに住むんだ」
答えられなかった。斎場で遺族に「どんな方でしたか」と聞くとき、わたしはいつも、答えのある質問だけを選んでいる。
「この店はね」添島さんは店内を見回した。「帰る場所をなくした人間の終着駅だよ。でも終着駅ってのは、発車駅でもある」
「どっちなんですか」
「降りるか、乗り換えるか。決めるのは客だ。運転手は決めない」
タクシーの運転手が言うと、それは比喩ではなく実務の話に聞こえた。
「ひとつ教えとく」添島さんは、壁の時計に顎を向けた。「あれは当てにするな」
「逆にまわってますね」
「逆なのは構わん。速さが一定じゃないんだ。早い夜と遅い夜がある。あんたの携帯も、ここじゃ役に立たん」
「さっき見ました。秒が進まない」
「そうだ。だから四つ目の掟は、目じゃなくて耳で守る」
「鐘、ですか」
「二時になると鳴る。鳴ってからじゃ遅い。俺は一時をまわったと感じたら出る。感じるってのは当てにならんが、ここじゃ体のほうが正確なんだ」
手は動かさなかった。頭の中で三回繰り返した。目ではなく耳。鳴ってからでは遅い。
「守らなかった人を、見たことがありますか」
添島さんは、しばらく答えなかった。
「一度ある」
「どうなりました」
「気がついたら、奥に席が増えてた」
グラスの中の氷が溶けるみたいな言い方だった。何が起きたかを説明する言葉を、この人は持っていない。持っていない状態のまま十年ここに座っている。
「あんた、夜の車に乗ったことあるか」添島さんが話を変えた。「深夜の二時とか三時に」
「取材で、たまに」
「あの時間はな、行き先が曖昧な客が増える。とりあえず前へ、とか、川のほうへ、とか。俺はそういうのを乗せて走る。走ってるうちに、客が思い出すんだ。自分がどこに帰りたかったか」
「思い出さない人は」
「たまにいる。降ろす場所がないから、そういうときは終点まで走る」
「終点は」
「うちの営業所だ。そこで起こして、朝の始発を教えて、帰す」
添島さんは空のカップを持ち上げて、また置いた。乾いた陶器がカウンターに触れる音が、店の中でやけに小さく響いた。
「ここに来る前は、それが俺の仕事だと思ってた」
「今は」
「今も同じだよ。乗せてるのが俺自身になっただけだ」
カウンターの奥、霧の始まるあたりに、暖簾が下がっていた。
前回は気づかなかった。気づかなかったのか、なかったのか、判断がつかない。藍色の布で、丈が短い。墨で四文字書いてある。
手相占い。
字は上手ではない。定規を当てたみたいに角ばっていて、貼り紙の掟と同じ手で書かれたようにも見えた。暖簾の向こうは三畳ほどの小部屋になっているらしく、床の高さがすこし上がっている。中は見えない。
暖簾の手前に、人が並んでいた。
四人か、五人。壁ぎわに一列に立って、順番を待っている。
年齢も服装もばらばらで、共通しているのは誰も喋っていないことだった。
銀行の窓口の列に似ていて、銀行の列と違うのは、誰も携帯を見ていないことだ。ただ立って、前を見ている。
いちばん後ろの男が、口を動かした。
「順番、まだですか」
小さな声だった。前の人に聞いたのではない。前の人は振り返らなかった。壁に向かって言ったようにも、自分に確認したようにも聞こえた。
列の並びかたが、どこか変だった。
間隔が均等すぎる。前の人との距離が、五人とも同じ幅で保たれている。誰かが動けば全体がずれるはずなのに、誰も動かない。足の重心も変わらない。写真に撮って定規を当てたら、たぶん同じ数字が出る。
服装はばらばらだった。作業着の男がいて、その前に和装の年配の女がいて、いちばん前は制服の高校生に見える。季節も年代も揃っていない。真夏の格好と、真冬の格好が並んでいる。
「あれは」
「占いだよ」添島さんが言った。「奥の子がやってる」
「奥の子」
「あの席の子だ」
添島さんが顎で示した先、霧のいちばん手前に、紺色の肩があった。
小さな肩。髪は肩につかない長さで、後ろで細くはねている。前回と同じ姿勢で、うつむいて、カウンターの上の自分の左手を見ている。人差し指で掌の線をなぞって、指を戻して、また同じ線をなぞる。
「あの列、何なんですか」
添島さんは口を開けて、閉じた。
「言えん」
「三つ目のやつですか」
「そう」添島さんは前を向いたまま言った。「あれが何の列かは、ここじゃ言えん。あんたも聞かんほうがいい。聞いた形にしないほうが、あとで楽だ」
聞いた形にしない。記者の逆をやれ、と言われている。
わたしは列に目を戻した。
いちばん前の高校生が、暖簾をくぐった。
布が揺れて、中の光が一瞬だけ漏れた。裸電球のような、頼りない黄色だった。
そのとき、中から声がした。
「ねぇ、知ってる?」
少女の声だった。奥の席にいるはずの子の声が、暖簾の向こうから聞こえた。
「貴方はもう死んでるのよ」
わたしは、添島さんを見た。
添島さんは、何も聞こえなかった顔をしていた。眉も動いていない。
暖簾が閉じた。中から返事はなかった。
列がひとつずつ前に詰まる。全員が同時に、同じ幅だけ進んだ。
「あの子、常連ですか」
「違う」
「でも、奥にいます」
「奥にいるが、常連じゃない」添島さんは言葉を選ぶ間を取った。「常連ってのは、払わされ続けてる人だ。あの子は、払ってない。一度も」
「払わないと、どうなるんですか」
「知らん。前例がないんだろう」
わたしは椅子を回して、体ごと奥に向けた。
見よう、と思った。前回は四度失敗した。今度は、まばたきを我慢して、視線を先に少女の顔がある位置に置いてから、そこにピントを合わせにいく。取材で相手が目を逸らすときに使う手だ。
だめだった。
顔のあたりに焦点が届く直前で、視線が上へ跳ねる。天井の梁を見ている。慌てて戻すと、今度は下へ落ちる。少女の膝のあたりの霧を見ている。
五度目で、額のところまでいった。
そこから先が、白い。
水底のものを覗きこむのに似ていた。輪郭は見える。色がない。光が届く途中で散らされて、そこから下に何があるのかが分からない。
顔の輪郭は分かる。丸みも、髪の生え際も分かる。中身が霧と同じ色になっている。写真の一部が露出過多で飛んでいるときの、あの白さだった。
「見えないだろう」
添島さんが言った。
「見えません」
「無理に見ようとすると、頭が痛くなる。やめときな」
「なぜ見えないんですか」
「見えない相手ってのがいるんだよ。人による。俺には見える。あんたには見えない」
「基準は」
「知らん」添島さんは首の後ろをかいた。「ただ、俺の経験で言うとな。見えない相手のほうが、たいてい、その人にとって大事な相手だ」
「あなたは見えるんですか」
「見える。俺は、あの子に何もないからな」
何もない、という言い方が引っかかった。引っかかったまま、意味を聞くタイミングを逃した。
少女が、掌から指を離した。
顔を上げて、こちらを向いた。向いた、というのは肩と首の動きで分かっただけで、顔は白いままだった。
「あ」
少女が声を出した。若くて、高くて、少しかすれた声。
「この人、誰だっけ」
心臓が、内側から一度突かれた。
「でも」少女は首をわずかに傾けた。「待ってた気がする」
喉の奥が塞がった。塞がって、そこに熱いものが溜まった。息を吸うと震えて、吐くともっと震えた。目の縁に水が張って、店の灯りが滲んだ。
泣く理由がなかった。
見ず知らずの少女に、待っていた気がすると言われただけだ。取材先で似たようなことを言われたことは何度もある。あなたの記事を待っていました。あなたが来ると思っていました。そのたびにわたしは礼を言って、ノートを開いた。
今、わたしはノートも開けずに、丸椅子の上で肩を震わせている。
「おい」
添島さんが、こちらに手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「大丈夫か」
「……すみません。なんでもないです」
「なんでもないってことは、ないだろう」
わたしは手の甲で目を押さえた。押さえながら、もう一度奥を見た。
少女は、まだこちらを向いていた。
白い顔の中で、口のあたりだけが動いた。
「あなた、誰かのお姉ちゃんに似てる」
息が止まった。
「わたしにも、いた気がするの」少女は首をかしげたまま言った。「お姉ちゃん。名前は出てこない。顔も出てこない。いたことだけは、まだある」
まだある、という言い方をした。
在庫を数えている人の言い方だった。棚の奥に何が残っているかを確認して、残っているうちに使わなければと考えている人の。
「その人は」わたしは声を絞り出した。「今、どこにいるんですか」
「知らない」
「探さないんですか」
「探してない」少女は掌に目を落とした。「待ってる。探すのと待つのは、違うでしょう」
違う、と思った。
探すのは動くことで、待つのは動かないことだ。動かない人は減らない。
減らないはずだった。
目の前の少女は、待ちながら減っている。指先の輪郭が、さっきより霧に溶けている気がした。
気がしただけかもしれない。この店では、気がしただけのことと、起きていることの区別がつかない。
「あのね」少女が言った。
「はい」
「手、見せてくれる?」
わたしは反射で右手を出した。掌を上に向けて、カウンターの上に置いた。少女の席までは四つぶん離れている。届く距離ではない。
少女は、こちらへ手を伸ばそうとして、途中で止めた。
止めたというより、止まった。腕が、見えない板に当たったように見えた。
「だめだ」少女は自分の手を引っこめた。「あなたのは、読めない」
「どうして」
「まだ書き足されてるから」
意味が分からなかった。分からないまま、その言葉が体のどこかに残った。
少女はまた掌に目を落とした。指が線をなぞっている。端から端まで、何度も。
線が途中で切れているかどうかを確かめている人の、確かめかただった。
店主が火を入れた。
下の器の水に細かい泡がついて、壁をつたって上がる。鎖の先が揺れて、上の器が押しこまれる。湯が上がりきってから、粉が落ちる。竹べらが一度入って、浮いた層を沈める。
香りが立った。
前回と同じ、祖父の家の匂いだった。廊下の暗がりに溜まっていた匂い。畳と、線香の残りと、樟脳。今夜は鼻の奥が痛くならなかった。二度目だからか、量が少ないのか、わたしには区別がつかない。
カップが置かれた。白い厚手の、縁の欠けたカップ。
湯気が立っている。
前回のような、まっすぐ太い柱ではなかった。細い筋が一本、途中で折れて、横に流れて消える。夏だからだと思った。七月の店内は蒸していて、空気が湿っている。湿った空気の中では湯気は見えにくい。理科の話だ。
「お代を」
店主が言った。
「今夜は、何ですか」
「あなたが最後に妹さんの名前を呼んだときの、あなたの声を」
わたしは店主を見た。
わたしは妹の話をしていない。妹がいることも、いたことも、この店で一度も言っていない。名を語ってはならないという掟がある以上、言えるはずもない。
「なぜ知っているんですか」
「あなたは、それを払えますか」
質問が返ってきた。この人は答えない。答えないことが、この人の答えだ。
払える、と思った。
思ってしまった自分に、遅れて驚いた。声の記憶ひとつだ。妹の顔でも、妹の声でもない。わたしが妹の名前を呼んだときの、わたしの声。そんなものは、なくても生きていける。生きていける種類の欠落を選べるなら、選ぶ。
カップを持ち上げて、口をつけた。
温かった。
熱くはない。人肌より少し上で、舌の上に乗せてもすぐ体温になじむ。夏だからだと、また思った。
頭の芯が冷えた。前回より短く、浅く、一度だけ。
それから、味が来た。祖父の淹れた薄くて苦い一杯。角砂糖三つの雑な甘さ。十歳の夏の台所。飲みながら、わたしは自分の中を探した。
しずく、と口の中で言ってみた。
音は出る。文字も分かる。三文字の並びも、意味も、書きかたも全部ある。
その名前を、自分が声に出して呼んでいる場面が、ない。
十六年、毎日呼んでいたはずだった。朝起きて呼んで、ご飯だと呼んで、うるさいと呼んで、電話で呼んで、玄関で呼んだ。呼んだ回数を数えたら万を超える。その万回ぶんの、自分の声だけが抜けている。
わたしの声で呼ばれる妹の名前は、この世のどこにもなくなった。
体が軽くなるという感覚は、たしかにあった。
肩の後ろのあたりが、上着を一枚脱いだときの温度になっている。呼吸が楽で、椅子に座っている自分の重さが減っている。前回もこうだった。前回は泣いたせいで気づかなかった。
代わりに、指先が冷えていた。
店の中の温度が下がったわけではない。七月の夜で、湿気は多い。冷えているのはわたしの指の先だけで、爪の色が薄くなっている。膝の上でこすり合わせると、他人の手をさわっているような硬さがあった。
軽くなるというのは、こういうことか。
減ったぶんだけ、体の端から血が引く。
「添島さん」
「なんだ」
「軽くなると、指が冷えますか」
添島さんは、空のカップから目を離さなかった。
「俺は飲んでないから、分からん」
そう言われて、わたしは自分の質問の意味に気づいた。この人は十年ぶん、指を温かいままにしている。温かいまま、なにも軽くなっていない。
カップの中は、あと三口ぶんあった。飲み干して、置いた。
指で触れると、外側はもうぬるい。
「そろそろ」
店主が言った。
わたしは椅子を降りて、頭を下げた。添島さんは空のカップの前に座ったまま、片手を上げた。
戸口へ歩きながら、暖簾のほうを見た。列は三人に減っていた。
いちばん後ろの男が、また口を動かした。
「順番、まだですか」
答える者はいなかった。




