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喫茶店GG(ジジィ) 〜この世とあの世の境界線〜  作者: やはぎ・エリンギ


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第一話 雨と霧と、珈琲の匂い

雨が降ると、私はカップを七つ並べる。

六つは誰かのために。ひとつは、いつか来る人のために。

その人は、私の顔を見ても、たぶん分からない。

「葉山さん、四行になってる」

 柏木デスクが、赤ペンの尻でゲラを叩いた。

 刷り上がる前の紙面を、そのまま紙に出したものだ。ここに赤を入れて直す。

 北央新聞の整理部は、蛍光灯がひとつ切れかけている。二日前から、その席だけがときどき暗くなる。誰も直さない。直すほど誰も座らない席だった。

 わたしはゲラを受け取って、自分の書いた四行を上から読み直した。

 柴田カヨ子さん(九十二歳)=北央市桜木町=六月十五日死去。通夜は十八日午後六時、葬儀は十九日午前十時、桜木斎場。喪主は長男の柴田正一さん。生前は町内会の花壇の世話を三十年続けた。

「最後の一行、いらないでしょう」

「遺族の方が話してくれたんです」

「訃報欄は三行。三行に入らない情報は、その人のものじゃなくて、こっちの感傷なの」

 柏木さんの言い方には棘がない。棘がないぶん、動かせない。わたしは花壇の三十年を消して、行数を三行に戻した。カーソルが文字を食べていく。九十二年が三行になって、そのうち二行は日付と場所だ。

 訃報欄の担当になって四年目になる。

 おくやみ欄を整理部が持っているのは、うちが小さいからだ。全国紙なら地方部の担当がつく。うちは編集局全体で四十人を切っていて、紙面を組む人間が、そのまま欄の中身も作る。

 四年前にこの席が空いたとき、手が空いているという理由でわたしに回ってきた。

 仕事の中身は、電話と確認と字数の調整だ。そこに感情の置き場はない。

 斎場に電話して、喪主の名前の漢字を聞く。通夜の開始時刻を二度読み上げてもらう。それから最後に、一言だけ、余計なことを聞く。

 どんな方でしたか。

 聞かなくていい。紙面には載らない。

 それでも聞いてしまうのは、三行にまとめる前に、三行に入らない部分をいちど自分の中に通しておかないと、指が動かないからだ。

 柴田カヨ子さんは、花壇の朝顔を勝手に抜いた小学生を三十分説教して、そのあと家に上げてスイカを食べさせたらしい。

 長男は電話口で笑って、それから少し黙った。

 その黙りかたを、わたしは書けない。

 受話器を取って、次の一件にかかった。市内の斎場は三度目のコールで出た。担当の事務員は声を張らない人で、こちらが名乗る前に用件を察して、ページをめくる音をさせた。

「十六日にお亡くなりになった、井口さんの件でしょう」

「はい。喪主のお名前の字を、確認させてください」

「井口の井に、口。下のお名前は、たけしさんの、たけが武士の武で、しが史記の史です」

「武史さん。ご長男でいらっしゃいますか」

「ご次男です。長男の方は東京で、間に合わないかもしれないと」

 わたしはメモに漢字を書いて、その横に「次男」と書いた。ここまでが仕事だ。ここから先は仕事ではない。

「立ち入ったことをうかがいますが、井口さんはどんな方でしたか」

 事務員はすこし間をおいて、それから、遺族から聞いた話を教えてくれた。

 井口敬三さん、六十三歳。二十年勤めた工場が閉まってからは、市営プールの監視員をしていた。

 夏になると子どもに泳ぎを教えたがって、そのたびに施設の規則で怒られていた。翌年の夏には、また同じことをした。

 今年の夏も、更衣室のロッカーの上に自分の笛を置いたままにしてある。

「笛」と、わたしは書いた。

 書いて、線を引いて消した。

 紙面に載るのは、井口敬三さん(六十三歳)、北央市若葉台、六月十六日死去、通夜は十八日午後七時、葬儀は十九日午前十一時、若葉台会館、喪主は次男の武史さん。それだけだ。

 笛は載らない。載せる欄がない。

「向いてるよ、君は」柏木さんが自分のマグカップを覗きこみながら言った。中身はとっくに空になっている。「人の死を数える仕事。淡々としてる」

「褒めてます?」

「褒めてる。俺は三年でだめになった」

 端末に向かって、二人分の日付を打った。

 十八日、と打つ。十九日、と打つ。明日の朝刊に載る記事だから、日付は明日から先のものになる。これを四年やっていると、指のほうが先に数字を覚える。

 十七日、という数字を、今日は一度も打っていない。

 打つ必要がなかった。そのことに気づいてしまったのは、変換の候補に去年の日付が残っていたからだ。指が止まった。止まったのは半秒くらいだった。

 その半秒に、頭の中で声がした。

 十七日って、なんかいい感じの数字じゃない?

 雫が、中二のときに言った。何の話だったかは覚えていない。テストの日程だったか、部活の試合だったか。うちの台所で、麦茶を飲みながら、脈絡なくそういうことを言う子だった。

 どこがいい感じなのと聞いたら、真顔で答えた。

 十七は割れないから。誰にも分けられないの。

 意味が分からなかった。分からないと言ったら、お姉ちゃんは数学が苦手だから、と言われた。わたしは数学が得意だった。得意だと言い返して、二人でしばらく言い争って、母に静かにしなさいと言われて終わった。

 そういう会話が、十六年ぶんある。

 あるはずだった。

 デスクの上のカレンダーは、誰かが今朝めくったらしい。六月十七日の欄が正面にきている。

 数字を見て、視線をずらした。

 ずらしたことに自分で気づいて、気づいたことを、また見ないふりでやりすごす。この十年で覚えたのはその技術だけかもしれない。

 十年前の今日、妹が死んだ。

 その一文を頭の中で組み立てた瞬間に、別の作業を頭に入れた。

 明日の紙面のどこに何を置くかの確認と、来週の当番表と、切れかけている蛍光灯のこと。

 人間の頭は、ふたつのことを同時に考えられないようにできている。わたしはその仕様を、十年かけて使いこなすようになった。

 窓の外で雨がガラスを叩いていた。梅雨に入って六日目。県道の崩落現場の続報を撮りに行けと言われている。カメラバッグを肩にかけて、椅子を戻すときに、机のいちばん下の引き出しが少し開いていた。

 閉めればいいのに、指が縁にかかった。

 中には、折りたたみの携帯電話が一台入っている。銀色の塗装が角から剥げて、下の樹脂の色が出ている。ヒンジのところに細い傷が二本。画面側の角が欠けて、そこだけ白っぽい。

 警察から返されたときは、透明な袋に入っていた。

 袋の口にシールが貼ってあって、日付と品名が書いてあった。品名の欄の字は事務的で、うまい字だった。

 母は袋を開けられなくて、わたしが開けた。開けたあと、どうすればいいのか誰も決めなかったから、そのままわたしのものになった。

 電源は入らない。十年前から入らない。充電器は同じ引き出しの奥にあって、コンセントに挿したことはいちどもない。

 家に置いておくと、夜に見てしまう。会社の引き出しなら、開ける機会が減る。

 そういう理屈をつけて職場に持ってきたのが六年前で、実際に開ける回数は減った。

 減っただけで、位置はいつも把握している。今日みたいに引き出しが少し開いていると、閉めるまで肩から力が抜けない。

 挿せば、たぶん点く。点いたら、中に何か入っている。

 どちらも確かめていない。確かめない理由を言葉にしたことも、いちどもなかった。

 引き出しを閉めた。ゲラの上の柴田カヨ子さんは三行になって、明日の朝、この街の人たちの食卓に配られる。


 県道の現場は、思っていたより静かだった。

 崩れた斜面にブルーシートがかかって、重機が二台止まっている。作業員の話では、土をどけるのに一週間、路面を打ち直すのにひと月。

 写真を四枚撮って、原稿用のメモを七行書いた。土砂の量と、通行止めの区間と、迂回路。

 数字ばかりのメモは、書いていて手が冷えない。

 現場の下に、家が一軒あった。

 斜面の裾から二十メートルほど離れた平屋で、瓦の上に青いシートが乗せてある。

 庭に合羽を着た老人が立っていた。傘はささずに、崩れたところを見上げている。

 わたしが名乗ると、老人は目を合わせないまま、四十年ここに住んでいると言った。

「あと十メートル手前で止まってたら、うちだった」

「怖かったですか」

「怖いのは、止まった理由が分からんことだ」

 土は途中で止まっていた。理由は地質の話で、県の担当者が説明できる。

 老人が言っているのは、そういう話ではない。

 わたしはメモを取る手を止めた。止めた手を、また動かした。

 この会話は記事に使えない。使えないと分かっている会話を、わたしは取材のたびに拾っている。拾ったぶんだけ、ノートが重くなる。

 けが人はなかった。この件でわたしの担当する欄に名前が載ることはない。取材メモの余白に、そのことを一行だけ書いた。書いてから、なぜ書いたのか自分でも分からなくなって、ペンで潰した。

 帰りの山道に入ったのは、六時をまわったころだった。日没にはまだ間がある時刻なのに、フロントガラスの向こうが薄くなっていく。雨は降りつづけている。ワイパーを一段速くしても、視界の白さは変わらなかった。

 霧だった。

 カーブをひとつ曲がるごとに濃くなる。ガードレールの白い支柱が、五本先までしか見えない。三本先になり、二本になり、やがて前の一本が浮かんで、消えて、また次の一本が浮かぶだけになった。

 ラジオを点けた。夜のニュース番組が、県内の梅雨前線の話をしている。

 アナウンサーの声が、途中でざらついた。

 砂を撒いたような雑音が言葉の隙間に入りこんで、天気予報の後半は音の形をしていなかった。周波数を変えても、どの局にも同じ砂が混じっている。

 ラジオを切った。車内に、ワイパーの音だけが残った。

 左手首の腕時計を見た。六時三十四分。

 それから道に目を戻して、また時計を見た。六時三十四分。

 秒針は動いている。回っている。回っているのに、分の位置が変わらない。

 二回、三回とまばたきをして、四回目に、針が六時三十五分に落ちた。

 落ちた、という言い方しかできない動きかたをした。バネの戻るような、遅れて追いついたような。

 わたしはブレーキを踏んだ。

 路肩に寄せてエンジンを切ると、雨の音が急に大きくなった。

 ダッシュボードの時計は、六時三十六分を表示している。腕時計と一分ずれて、そのまま二つとも普通に進んでいく。

 何かの見間違いだと自分に言い聞かせる材料は、いくらでもあった。

 疲れている。雨で暗い。数字を見慣れている仕事なのに、数字を読み違えた。

 車を降りた。

 理由はなかった。理由がないまま、傘もささずに立って、霧の中を見ていた。市街に入る手前の、飲食店が三軒だけ残っている古い通りだ。左手にシャッターの下りた米屋があって、その隣が空き店舗で、そのまた隣に、路地がある。

 路地があった。

 この道は月に二度は通る。米屋の隣は空き店舗で、その隣は駐車場だった。舗装が割れて、白線の消えかけた月極の駐車場。そこに、人ひとりぶんの幅の路地が口を開けている。両側が板塀で、奥は霧で見えない。

 奥のほうに、灯りがひとつ浮かんでいた。

 軒先に吊るされた、四角いランタンだった。ガラスの中の火がゆれて、板塀の濡れた木目を橙色に照らしている。その光の届く範囲だけ、霧が薄い。

 わたしは記者だから、まず疑うことを覚えている。新しい店ができたのかもしれない。前を通ったときに見落としていたのかもしれない。取材のメモを取るように、頭の中で言葉を並べて、並べているあいだに、足はもう路地に入っていた。

 板塀のあいだを十歩ほど進むと、雨の音が遠のいた。

 上を見ても屋根はない。霧が音を吸っている。

 靴の下で濡れた敷石が鳴って、その音だけが妙にはっきりと耳に届く。

 ランタンの下に、黒い板壁の平屋があった。木造で、屋根は瓦で、軒はかなり低い。昭和のはじめごろに建って、そのまま雨に濡れつづけたような色をしている。

 橙色の火が、その壁を舐めている。

 濡れた黒と、白い霧と、その火だけが、この路地にある色だった。

 引き戸の上に、木の看板が出ていた。木目に沿って、彫られている文字は二つだけだった。GG、と読めた。


 ジー、ジー。

 看板の二文字を目で追ったとき、頭の中で音になったのはアルファベットの読みではなかった。ジジィ、と鳴った。

 祖父のことだ。

 母方の祖父で、名前は宗一といった。雫が二歳か三歳のころに「じいじ」と呼ぼうとして失敗し、ジジィになった。

 年寄り扱いされた本人は喜んだ。孫娘に呼び捨てにされる爺は幸せもんだ、と言って、そのままその呼び名で通した。

 祖父の家に行くことを、わたしたちは「ジジィんち行く」と言った。

 看板の文字は、見る角度を変えると縦棒の内側にもう一本の線が入って、口が二つ並んでいるようにも読めた。回、という字に見えた気もする。近づくと、また元のGGに戻った。

 引き戸に手をかけた。

 指が触れる前に、こういうのは記事にならないな、と思った。目撃者はわたしひとりで、写真を撮っても霧しか写らない。裏が取れない話は書かない。書かないなら、これは仕事ではない。仕事でないものに関わるのは久しぶりだった。

 戸を引いた。

 鈴が鳴った。

 戸口の上に吊るされた真鍮の鈴が、木枠の動きに合わせて揺れている。

 金属の音のはずだった。

 耳に届いたのは、ガラスが細く鳴る音だ。夏の縁側で、風の通り道に吊るされていた南部風鈴。

 祖父の家の、あの音だった。

 舌の下に短冊が下がっていて、そこには祖父の下手な字で「涼」と書いてあった。

 体が止まった。振り返ったが、戸の上にあるのは真鍮の鈴で、揺れが収まるところだった。

「濡れましたね」

 店の中から声がした。低くて、乾いた声だった。

 七席のカウンターがある。磨きこまれた欅の一枚板で、表面の木目が波のように流れている。椅子は木の丸椅子で、背もたれはない。カウンターの内側に、白い割烹着を着た人が立っていた。

 白髪を短く刈っている。顔の皺は深くて、笑うと目のまわりの皮膚が幾重にも折り重なりそうな彫りかたをしている。年齢の見当がつかなかった。七十にも、九十にも見える。

 目だけが違った。

 黒目が大きくて、濡れていて、瞬きの回数が多い。小学校の低学年の子どもが、知らない大人に話しかけられたときにする目だった。皺の中にその目だけが埋まっていることの落ち着かなさを、わたしは最初の三秒でうまく処理できなかった。

「タオル、いります?」

「あ、いえ。すぐ出ますので」

 出るつもりで入ったわけではなかったのに、口が勝手にそう言った。店主は気にした様子もなく、カウンターの中の何かを布巾で拭いている。

 店内は狭い。カウンターの七席がすべてで、テーブル席はない。左手の壁に振り子時計が掛かっていた。振り子は動いている。文字盤を見て、目を細めた。長針が、右から左へ進んでいる。

 時計が壊れているのだと考えた。逆に組んである時計は珍しくない。理髪店の鏡文字の時計とか、そういう趣向のものがある。振り子時計でそれをやる意味はよく分からなかった。

 右手の奥は、暗い。

 暗いというより、白い。

 カウンターの端から先が霧に沈んでいる。屋内に霧がある理屈が分からなくて、換気の悪さか、湯気か、と目で探した。

 天井の高さのあたりまで、白がゆるやかに層をつくっている。

 その白の中に、椅子の背の輪郭のようなものと、人の肩のようなものが、いくつか。

 数えようとして、数えられなかった。三つに見えて、次に見ると四つある。

「そのへんは、常連さんの席です」

 店主が言った。手は動いたままだ。

「奥のほう、寒くないですか」

「あの人たちは、寒いのが好きなんですよ」

 答えになっていない。わたしは記者の癖で、答えになっていない返答が来たときに次の質問を用意する。用意したのは、いちばん単純なものだった。

 あなたのお名前は。

 息を吸って、声を出そうとした。

 出なかった。

 喉が締まったわけではない。声帯は動く。舌も動く。

「あ」の形に口を開けたところで、その先に置くはずの言葉が、頭の中から手渡されてこなかった。

 荷物を渡そうとして、相手の手がそこになかったときのような、宙で止まる感覚だった。

 二度試して、二度とも同じところで止まった。

 三度目はやめた。

 やめたことに理由をつけようとして、目を戸口のほうへ逃がした。引き戸の脇の柱に、紙が一枚貼ってある。

 半紙より少し厚い和紙で、四隅が飴色に焼けている。虫が食った穴が二つ。墨で書かれた字は達筆というより無骨で、書き慣れていない人が定規を当てるみたいに書いた線をしていた。

 一、珈琲は一杯だけ。おかわりを頼んではならない。

 一、店主に名を尋ねてはならない。自分の名を語ってもならない。

 一、隣の客と死について語ってはならない。

 一、午前二時の鐘が鳴る前に店を出ること。

 一、代金は金では払えない。店主が請求するものを差し出すこと。

 読んだ。読んだが、頭の表面を滑っていった。

 こういう貼り紙は、たいてい店の趣向だ。お一人様一杯まで、私語はお控えください、といった注意書きを昔風に書いてあるだけの遊び。

 そう処理したほうが早かったし、実際そう処理した。

 二番目の項目に自分の喉の話が書いてあることには、気づかなかった。

 気づいていたら、たぶん出ていた。

「お座りになりますか」

 店主が、カウンターのまん中の席に手を向けた。

 わたしは座った。丸椅子は硬いはずなのに、腰を下ろすと欅の面から温いものが上がってくる。木の温もり、という言葉では足りなかった。人が三十分ほど前まで座っていた椅子の温度に、指先が触れたときの感触に近い。

 外の雨の音は、もう聞こえない。

 カウンターの内側に目をやって、探しているものが見つからないことに気づいた。

 レジがない。値段を書いた紙もない。壁にメニューが貼ってあるでもなく、豆の種類を並べた黒板もない。

 飲食店の壁というのは、たいてい情報でうるさいものだ。

 ここには何もなかった。

 背後の壁に、窓がひとつある。

 腰の高さから上が磨りガラスではない透明なガラスで、桟が縦に三本入っている。外は白い。霧が窓に貼りついていて、その先は何も見えない。

 見えないはずの白の中を、何かが横切った。

 人の背丈のものが、右から左へ、歩く速さで通った。輪郭は溶けていて、腕も足も分からない。ただ、上下の揺れかたが人の歩きかただった。そのあとに、もうひとつ通った。今度は左から右へ。しばらく間をおいて、三つ目。

 外は路地だ。人が通る幅はある。

 雨の音が聞こえないのに、と思った。あれだけの雨の中を、傘もささずに何人も歩いているなら、足音のひとつくらい聞こえていい。

「この店、長いんですか」

 聞きかたを変えた。名前が駄目なら、年数なら通る。実際、声は普通に出た。

 店主は布巾を畳んで、カウンターの端に置いた。

「あなたは、長く同じ場所にいたことがありますか」

「え」

「ないでしょう。取材の仕事は、動くお仕事です」

 わたしは自分の職業を言っていない。カメラバッグは足元にあるが、ロゴの入ったものではない。指摘しようとして、それが今すべきことなのかどうか判断がつかなくなった。

 質問には答えない。代わりに質問を返す。この人の会話の作りかたが、そのとき初めて形として見えた。


 店主がサイフォンを出した。

 ガラスの器が、上下に分かれている。下は丸くて、上は漏斗の形をしていて、細い管が伸びている。

 上の器の底に、布を張った金具をはめこんだ。垂れた鎖を管に通して、先を引っかけて、竹べらの先で位置を直す。

 中心から一ミリでもずれていたら、やり直すらしい。二度やり直した。

 下の器に、水を入れた。計量はしない。目分量で決まる。

 豆はカウンターの下の木箱から出した。挽く音がした。手回しのミルの、ごりごりという低い音が、店の中の空気をすこし震わせる。挽き終わった粉は、器には入れない。小さな皿に移して、カウンターの端に置いた。

 その一連を、わたしは見ていた。

 見るしかなかった。会話の糸口を作れない相手と狭い店で二人きりになったとき、人は相手の手元を見る。ただ、それだけでは説明のつかない見かたを自分がしていることに、途中で気づいた。

 この人の手だけが、生きている。

 顔は動かない。皺は表情をつくらない。声も抑揚が薄い。

 手だけが違った。

 布を張るときの指の開きかた。竹べらを持ち替えるときの手首のひねり。器を火の上に据えるときの、置く直前で力を抜く動作。

 そこにだけ、この人の年齢や、性格や、これまでの時間が全部集まっている。

 小さなランプに、火が入った。

 下の器を、その上に据える。上の器は、口に軽く挿してあるだけだ。斜めに立てかけたような、頼りない挿しかただった。

 底の水に、細かい泡がついた。泡は壁をつたって上がり、水面で消える。数が増えて、水の中に糸のような対流が立つ。ガラスの中で湯が鳴る音は、金属のやかんとは違う。もっと丸くて、遠い。

 管に垂れた鎖の先が、湯の中で揺れはじめた。

「沸きました」

 店主はそう言って、上の器を押しこんだ。ガラスとガラスが合わさって、密になる。

 湯が、管を昇りはじめた。

 下から押し上げられて、上へ溜まっていく。下の器の水が減って、上のガラス玉が満ちる。逆さまの砂時計を見ているようだった。

 湯が上がりきったところで、店主が粉を落とした。

 香りが立った。

 はじめは普通の珈琲の匂いだった。焙煎の焦げた甘さと、酸のとがったところ。それが、二秒か三秒のあいだに変わっていった。

 土の匂いが混じった。

 夏の午後の、水を撒いたばかりの庭土の匂い。乾いた畳の匂い。仏壇の線香が消えたあとの残り香。押入れの奥の樟脳。

 それから、南部風鈴のガラスが焼けている匂いなんてしないはずなのに、風鈴の下の空気の匂いがした。

 祖父の家の匂いだった。

 玄関を開けたときの、廊下の暗がりに溜まっていたあの匂い。夏に泊まりに行くと、最初の五分だけ強く匂って、あとは慣れて分からなくなる匂い。十年、嗅いでいなかった。嗅いでいなかったことすら忘れていた。

 鼻の奥が痛くなった。

 わたしは息を止めた。止めても匂いは消えなくて、口を開けて呼吸をしたら、今度は味になった。

 店主は、こちらを見なかった。

 粉は湯の上に浮いていた。竹べらを入れて、浮いた層を沈める。回すのではなく、粉の面に切れ目を入れて、湯とすれ違わせる。底の布には触れない。触れると濁ると、後で聞いた。

 そこから、この人は何もしなかった。

 腕を組むでもなく、時計を見るでもなく、ガラスの中を見ている。壁の振り子時計は逆にまわっている。何を基準に数えているのか分からないまま、一分近くが過ぎた。

 火を落とした。

 二度目の竹べらが入る。下の器の中の空気が冷えて、上の湯が引かれはじめた。黒い液が布を抜けて、細い柱になって落ちてくる。上に残ったのは、盛り上がった粉の山だった。

「はじめてのお客さまには、先に申し上げます」

 店主が、上の器を外しながら言った。下の器に、黒が落ちきっている。

「うちは、お金をいただきません」

「……無料ということですか」

「代金はいただきます。金では払えないというだけです」

 貼り紙の五番目が、遅れて頭の中に戻ってきた。読んだのに、置いた場所を忘れていた荷物みたいに。

「何を払えばいいんですか」

「今夜のあなたには、いちばん苦い記憶でいい」

 カップが置かれた。白い厚手の、縁の少し欠けたカップだった。湯気が立っている。まっすぐ上に、太く、途切れずに。

「記憶を、どうやって払うんですか」

「飲めば、勝手に」

 条件の分からない契約には署名しない。仕事で身についた最低限の警戒として、それは頭にあった。

 頭では分かっていた。分かっていて、指はもうカップの取っ手にかかっていた。

 匂いのせいだった。この匂いから離れる選択肢が、その時のわたしには実質的になかった。

 一口飲んだ。

 飲んだ瞬間に、頭の芯が冷えた。

 痛みではない。奥歯で氷を噛んだときの、頭蓋の内側に直接くる冷たさが、目の裏のあたりで一度ひらいて、すぐ引いた。それと入れ替わりに、何かが薄くなった。

 十年前の六月十七日、玄関でわたしが妹に何と言ったのか。

 その場面は残っている。玄関のたたきに雫の白いスニーカーがあって、片方だけ紐がほどけていた。雨だった。雫は青いパーカーのフードをかぶって、こちらを見ずに靴に足を入れた。廊下の照明が切れかけていて、光がちらついた。

 そこまでは、ある。

 言葉が、ない。

 わたしが何を言ったか。妹が何と返したか。声の大きさも、語尾も、そこにあったはずのものが、写真の中央だけ日に焼けて色が抜けたみたいに白い。

 代わりに残ったものがあった。

 胃のあたりの重さと、喉の詰まりと、耳が熱くなる感じ。あの夜からの十年、雫のことを考えるたびに体に来ていたものが、そのまま、そっくり同じ濃さで、そこにある。中身を抜かれて、器だけが手元に残された。

 わたしは何を払ったのか。

 思い出そうとして、思い出そうとしている対象がすでにないことに突き当たった。

 財布を落としたときは、中身を数え上げれば何をなくしたか分かる。

 今のこれは、財布ごと、財布があったという記憶ごと持っていかれている。

 手が空になっていることだけが分かる。

 十年間、わたしはあの言葉を一日も忘れていなかった。

 忘れたくても忘れられない、という言い方をする人がいる。その言い方は正確ではないと思っていた。

 忘れられないのではなくて、毎日自分で持ち上げていた。持ち上げていないと、自分が許されてしまう気がした。

 それが、ない。

 軽い、と体が言った。

 その軽さに、わたしの喉が鳴った。安堵の音だった。安堵したことのほうが、失ったことよりも怖かった。

 考える前に、味が来た。

 苦味が舌の奥に落ちて、そこから甘くなった。

 豆の甘さではない。もっと素朴で、雑な、砂糖を入れすぎた甘さ。

 祖父は珈琲を淹れるのが好きで、下手だった。豆を挽きすぎて、湯を注ぎすぎて、いつも薄いのに苦い液体を出してきた。

 小学生には飲めたものではなかったから、祖父は角砂糖を三つ入れた。

 十歳の夏に飲んだ、あの一杯だった。

 台所の丸椅子に座って、脚をぶらぶらさせながら飲んだ。祖父は向かいで新聞を読むふりをして、こちらの顔をうかがっていた。うまいか、と聞かれて、うまい、と答えた。雫はまだ寝ていた。

「おいしい」

 声に出したら、涙が落ちた。

 カップの中に落ちて、黒い面に小さな輪が広がった。

 手の甲で目を押さえたが、押さえた分だけ出てきた。しゃくり上げる息が止まらない。

 斎場の駐車場で泣いている遺族を何十人も見てきて、そのたびに三行にまとめてきたわたしが、今、同じ顔をしている。

 理由が分からなかった。

 祖父は十年前に死んだ。悲しくないわけがない。ただ、これは悲しさの形をしていなかった。何かをなくした直後の人間が、なくしたものの名前を思い出せないまま泣いている。それに近かった。

 店主は何も言わなかった。

 布巾を畳んで、器を洗って、湯を切って、伏せた。手だけが動いていた。泣いている客の前で手を動かしつづけるという作法が、この店にはあるらしかった。

 カップの中の湯気は、まだ立っていた。


 泣きやむまで、どれくらいかかったのか分からない。

 時計を見ても意味がなかった。長針は左へまわりつづけている。カップは空になっていて、底に黒が薄く残っていた。指で触れてみると、まだ温かい。

「そろそろ」

 店主が言った。追い出す声ではなかった。教える声だった。

 わたしは丸椅子から降りた。膝の裏が汗ばんでいる。手の甲で顔を拭いて、コートの襟を直して、頭を下げた。礼を言おうとして、また喉が止まった。今度は名前ではなくて、単純に、何に対して礼を言えばいいのか分からなかったからだ。

 戸口へ歩きながら、右の奥へ目をやった。

 霧が濃い。カウンターの端から先は白い層に沈んでいて、その中に人の輪郭がいくつか座っている。数を数えることは、やはりできなかった。四つ数えて、五つ目を数えているうちに、最初のものが消えている。

 いちばん手前に、小さな肩があった。

 制服のような、紺の何かを着ている。髪は肩につかない長さで、後ろで細くはねている。顔は横を向いていた。うつむいて、カウンターの上に置いた自分の左手を見ている。少女だ、と分かる程度には見えた。

 手は開いていた。指を反らせて、掌を天井のほうへ向けている。

 もう片方の手の人差し指で、掌の線を一本、端から端までなぞっていた。

 なぞって、指を戻して、また同じ線をなぞる。何度も。

 手相を見るときの手つきに似ていた。自分の手相を自分で見ている人を、わたしは初めて見た。

 線が途中で切れているかどうかを確かめている人の、確かめかただった。

 見覚えがある、と思った。

 思った瞬間に、目が滑った。

 視線がそこに止まらない。

 顔のあたりを見ようとすると、輪郭の手前で焦点が外れて、その向こうの霧に落ちる。落ちてから、あわてて戻す。戻したときには、また外れている。

 眼鏡のレンズに油がついているときの見えかたに似ていた。眼鏡はかけていない。

 三度やって、三度とも同じところで外れた。

「あの」

 呼びかけた声が、自分でも驚くほど小さかった。

 少女の肩が動いた。こちらを向きかけて、途中でやめる。うつむいたまま、独り言のような音量で言った。

「ねえ」

 若い声だった。高くて、少しかすれている。

「私、なにを待ってたんだっけ」

 誰に向けた質問でもなかった。返事を期待していない声の出しかたを、わたしは仕事で何度も聞いている。斎場の控室で、遺族が天井を見ながら喋るときの声だ。

 答えたかった。

 答える材料が、何ひとつなかった。

 心臓が速くなっていた。走ったあとの速さではない。

 エレベーターが下りはじめる瞬間の、内臓が置いていかれる感じが、胸のところで続いている。

 理由を探して、見つからない。今日ここに入ってから、わたしは理由の見つからない反応ばかりしている。

 もういちど、顔を見ようとした。

 四度目も、外れた。今度は外れかたが違っていて、視線が滑る前に、目のほうが自分から逸れた。見てはいけないものを見たときの逸らしかたではなくて、まぶしいものから逃げるときの動きだった。

「あなたも」

 言いかけて、続きが出てこなかった。あなたも誰かを待っているんですか、と聞くつもりだった。言葉は喉まで来ていた。押し出そうとしたら、息のほうが先に震えて、音にならなかった。

 少女はうつむいたまま、自分の掌をなぞりつづけている。

 霧が、少女の肩のあたりまで上がってきた。

 白がひとつ濃くなって、輪郭がぼやける。

 沈んでいく、と思った。

 水に沈むものは、はじめに色が抜けて、そのあと形がなくなる。あの子の肩の輪郭は、いま、その順で消えていく。手前の椅子の背も一緒に溶けて、そこに椅子があったかどうかも分からなくなった。

「次は」

 背中に、店主の声が当たった。

「呼ばれたときだけ、いらっしゃい」

「呼ばれたときって」

「聞こえます。あなたなら」

 引き戸を引いた。真鍮の鈴が鳴って、また祖父の家の風鈴の音がした。外の雨の音が戻ってくる。振り返ると、店主は帳場の内側に立って、こちらを見ていた。皺の中の、子どもの目で。

 わたしは頭を下げて、戸を閉めた。


 翌朝は晴れた。

 梅雨の中休みで、七時の時点で気温が二十四度あった。

 わたしは会社に行く前に、車をあの通りに向けた。原稿は書かないと決めていた。

 決めていて、そのくせハンドルを切ったのは、記者の性分と言うより、確認しないと今日の仕事に手がつかないという実務的な理由だった。

 米屋のシャッターは下りている。隣は空き店舗で、窓に貼られたテナント募集の紙が日に焼けている。

 その隣は、駐車場だった。

 舗装が割れて、雑草が縁から生えている月極の駐車場。白線は消えかけていて、区画の番号を書いたプレートが三枚、傾いたまま立っている。軽自動車が二台停まっていた。

 板塀はない。路地もない。

 車を降りて、駐車場の奥まで歩いた。奥はコンクリートブロックの塀で、その向こうは住宅の裏庭だ。塀の高さは大人の胸ほどで、越えれば洗濯物が干してあるのが見える。木造の平屋も、ランタンも、看板もない。

 地面を見た。ひび割れたアスファルトに、昨夜の雨の残りが小さく溜まっている。靴跡はない。わたしの靴跡も、ない。

 十分ほど立っていた。

 雑草の葉を一枚ちぎって、指でつぶした。青い匂いがした。それだけのことをして、車に戻った。

 シートに座って、シートベルトを引いた。金具を差しこもうとして、ベルトが引っかかった。コートの裾を巻きこんでいる。裾を引き出すために、ポケットに手を突っこんだ。

 指が、四角いものに当たった。

 マッチ箱だった。

 紙製の、小さな箱。表の紙は擦れて、角が丸くなっている。誰かが何度も指で開け閉めして、上着のポケットの中でこすれつづけたときの丸まりかたをしていた。振ると、中で軸木が動く音がする。

 表に、黒い印刷があった。GGの二文字。昨夜の看板と同じ並びだ。その下に、細い線で店の外観らしき図が刷ってある。低い軒と、四角いランタン。

 わたしは、そのマッチをもらった覚えがない。手に取った覚えも、ポケットに入れた覚えもない。コートは昨日クリーニングから戻ってきたばかりで、ポケットの中は空だった。取りに行ったときに自分で確認している。

 箱を開けた。

 軸木は十七本。数えた。数えたのは、数えると落ち着くからだ。頭の赤い軸木が十七本、隙間なく並んでいる。使った跡のあるものは一本もない。

 閉じて、掌の中で握った。

 紙の表面が、少し湿っていた。昨夜の霧を吸ったまま、まだ乾いていないのだと思った。エンジンをかけて、駐車場を出て、会社へ向かった。今日の訃報欄には三人分の名前が入る予定になっている。

 信号待ちで、また箱を握った。

 マッチの箱は、湿った指先の感触を、まだ覚えていた。


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