第十二話 開店
もう、待っていない。
待っていない私は、たぶん、もう私ではない。
だから最後の三行は、姉に聞かせる。
鐘は、二つで止まった。
三つ目が来なかった。午前二時なら、二つで終わる。この店の時計は、二時になったことを、二回の音で伝えた。
音が消えたあと、店の中は静かだった。
雨の音はしない。振り子は止まっている。誰も動かない。
わたしは、隣の妹を見た。
雫は、椅子に座っていた。
薄い。
さっきより薄くなっている。制服の紺が、灰色に近づいていた。肩の輪郭の向こうに、壁の板目が見える。板目のほうが、はっきりしてきていた。
「お姉ちゃん」
「うん」
「見てて」
わたしは、うなずいた。
うなずいて、目を開けたままにした。まばたきをすると、そのぶん見られない。五か月、わたしはこの子の顔を見られなかった。見られるようになったのは、ついこのあいだだ。
雫の指先が、白くなった。
透けていたところが、白くなる。透明ではない。白い。霧と同じ色になって、そこから外へ、細く流れはじめた。
煙ではなかった。
煙は上へ行く。これは、横へ行く。
水にたらした墨が、色を失いながら広がっていくのに似ていた。混ざったところから、薄くなる。
わたしは、それを見ていた。
見ながら、消えていく、という言葉を頭の中で探した。
違った。
その言葉ではなかった。
店の中の空気が、明るくなっていた。
床に張りついていた霧が、薄くなっている。壁ぎわの白いものが減って、壁の板目がはっきりしてきた。天井が見える。梁が見える。六月から一度も見えなかった奥の壁が、見えた。
晴れていた。
雫が霧になっているのではない。雫がほどけたぶんだけ、この部屋の霧が減っている。
十年ぶんの白が、いま、晴れていく。
「お姉ちゃん」
雫の声が、遠くなっていた。
「なに」
「わたし、名前、しずくだったよね」
「そう」
「よかった」
雫は、笑った。
右側だけ口が上がる、あの笑いかただった。
「じゃあね」
わたしは、返事をしようとした。
さよなら、という言葉を、口が拒んだ。掟ではない。わたしが拒んだ。
「またね」
わたしは、そう言った。
「またねって、また会えるみたいじゃん」
「会えないの」
「会えないよ」
雫は、そう言った。
「でも、いいよ。またねで」
その言葉が、最後だった。
輪郭が、なくなった。椅子の上に何もない。丸椅子が一つ、そこにある。座面に、へこみもない。
わたしは、その椅子を見ていた。
泣かなかった。
泣きかたは、三時間前に思い出している。思い出したのに、出なかった。出るべきものが、そこになかった。
かわりに、部屋が明るかった。
わたしは、六月のことを思い出した。
初めてこの店に入った夜、奥は霧だった。カウンターの端から先が白くて、その中に人の輪郭がいくつも座っていた。数えようとして、数えられなかった。三つに見えて、次に見ると四つあった。
あれは、何だったのか。
いま、その場所に、何もない。
壁がある。板目がある。椅子が七つ並んでいて、そのうちの六つが空いている。
常連は、いない。
いなくなったのではない。最初から、あそこにいたのは霧だった。霧は、誰かの待ちかたが溜まったものだ。溜まった白の中に、人の形が見えた。見えたのは、わたしがそこに人を見たかったからだ。
十年ぶんの待ちかたが、いま、晴れている。
晴れたあとに残るのは、板目と、椅子と、明るさだけだった。
カウンターの内側で、音がした。
わたしは、そちらを向いた。
二十六歳の顔をした人が、下の器を持っていた。持っている手が、薄い。
袖から先が、白い。指の形は分かる。分かるのに、向こうのガラス戸棚が透けて見える。
「マスター」
「はい」
「あなたも」
「はい」
その人は、下の器を台に置いた。置く直前に力を抜く、あの手つきだった。五か月、わたしはこの手だけを見てきた。この手にだけ、この人の時間が集まっていると思っていた。
思っていたとおりだった。集まっていた時間が、いま、ほどけている。
「あの子が終わったので、私も終わります」
「終わる」
「私は、あの子が言えなかった一つでできています。言われたので、もう、ありません」
わたしは、カウンターに手を置いた。
「あなたは、何だったんですか」
「なり損ねた大人です」
「それは聞きました」
「では、もう一つ」
その人は、こちらを見た。
薄くなった顔の中で、目だけが、まだ濃かった。子どもの目だった。
「私は、この店です」
わたしは、動きを止めた。
「あの子の待ち合わせが、店の形を取りました。店の形を取るには、店をやる者が要ります。私は、そのために出てきました」
「じゃあ、店が消えるのは」
「私が消えるからです。順番は、逆でもかまいません。同じことです」
その人は、カウンターの下の木箱を閉めた。
底に、豆はない。
「マスター」
「はい」
「一つだけ、聞かせてください」
「はい」
「GGって、何ですか」
その人は、答えなかった。
答えない代わりに、こちらを見た。
「あなたは、どう読みましたか」
「ジジィと読みました」
「はい」
「祖父の呼び名です。妹がつけました」
「はい」
「それでいいんですか」
「あなたには、それです」
その人は、そう言った。
「添島さんには、別のものです。あの方は、あれをずっと、奥さんの頭文字だと思っていました」
わたしは、添島さんのほうを見た。
添島さんは、こちらを見なかった。空のカップを見ていた。
「美代子さん、ですよね」
「そうだ」
「頭文字は、Gじゃありません」
「知ってる」
添島さんは、そう答えた。
「知ってるんだが、初めて見た日に、Gだと思ったんだ。理由は分からん。十年考えて、分からん」
わたしは、それ以上聞かなかった。
この人は十年、分からないことを分からないまま持ちつづけている人だ。看板の読み方だけが例外である理由はない。
「あの看板は」その人は続けた。「読む人の数だけ、意味があります。私にも、私の読み方があります」
「教えてください」
「教えません」
「なぜ」
「教えると、あなたの読み方が、一つ減ります」
わたしは、その答えを受け取った。
受け取って、この人が最後まで、わたしに何かを渡さない人だったことを確かめた。
渡さないのが、この人の優しさだった。
「マスター」
「はい」
「あなたは、五か月、一度も飲みませんでした」
「はい」
「最後に、飲みませんか」
「豆が、ありません」
「知っています」
その人は、しばらく黙っていた。
黙ってから、笑った。
初めて見る笑いかただった。皺のない顔で、口を開けて、肩が動いた。声は出なかった。声の出ない笑いを、わたしはこの店で何度も見ている。
「いりません」
その人は、そう言った。
「コーヒー、ごちそうさま」
「え」
「私の分は、あなたが飲んでくれた」
わたしは、自分が飲んだ五か月ぶんのカップを思い出した。
八回だ。八回飲んだ。毎回、祖父の家の匂いがした。あの匂いは祖父の家ではなく、わたしと雫が最後に一緒にいた朝の、うちの台所だった。
同じ家だ。
この人は、九年間、他人のカップの上でその匂いを嗅いでいた。九年のうちの五か月を、わたしが隣にいた。
「一つ、言わせてください」
わたしは言った。
「はい」
「わたしは、五か月、この店を不思議なものだと思っていました」
「はい」
「雨と霧の夜に出る店で、掟が五つあって、代金を記憶で払う。そういう決まりでできた、こちら側とは別のものだと思っていました」
「はい」
「違いますね」
その人は、答えなかった。
「この店は、わたしが建てたんですね」
わたしは、そう言った。
「十年、わたしは妹のことを考えないようにしていました。真昼さんのことも、祖父のことも、母のことも。考えないようにしたぶんが、どこかへ行かなきゃいけない」
「はい」
「行った先が、ここですか」
「あなただけではありません」
その人は、そう答えた。
「添島さんも、森口さんも、野辺さんも、あなたと同じことをしました。皆さんが少しずつ置いていったもので、この店は建っています」
「建材が、後悔ですか」
「はい」
わたしは、店の中を見回した。
七席のカウンター。逆にまわらなくなった時計。低い軒。黒い板壁。
全部、誰かが見ないことにしたものでできている。
「じゃあ、この店がなくなるというのは」
「誰も、置かなくなったということです」
「置かなくなる日が、来ますか」
「来ません」
その人は、はっきりそう言った。
「だから、また建ちます。別のところに」
「足りましたか」
わたしは聞いた。
「足りました」
その人の輪郭が、白くなった。
割烹着の白と、区別がつかなくなった。区別がつかなくなったところから、外へ、細く流れた。
部屋が、また明るくなった。
最初に、ランタンが消えた。
軒先だ。外にある。見えないはずだった。見えた。壁が薄くなっていて、その向こうの青い火が、こちらから見えた。
火が細くなって、芯のところで縮んで、消えた。
外が、暗くなった。
次に、時計だった。
壁の振り子時計が、止まったまま、輪郭から薄くなった。文字盤の数字が消えて、針が消えて、振り子が消えて、木の枠が消えた。
壁に、掛かっていた跡があった。
その跡も、消えた。
「葉山さん」
添島さんが、立っていた。
「行くぞ」
「はい」
「あんた、鐘のあと残ったな」
「残りました」
「何も起きんかったな」
「起きませんでした」
添島さんは、空のカップを見た。
十年、この人の前にあったカップだ。乾いていて、内側が白い。
そのカップが、消えた。
「マスター」
わたしは、カウンターの内側を見た。輪郭が白い。
「四つ目を、破りました」
「はい」
「鐘の前に出ろと書いてありました。出ませんでした」
「はい」
「わたしたちは、どうなりますか」
その人は、こちらを見た。
「今夜は、出ても残っても、もう同じです」
「同じ」
「出る場所が、なくなりますので」
わたしは、店の中を見回した。
壁が薄い。天井が薄い。この部屋そのものが、いま、外になろうとしている。出るための内側が消えれば、内側にいたことも消える。
掟は、店があるあいだの決まりだった。
「行くぞ」
わたしたちは、戸口へ歩いた。
真昼が、床から立ち上がった。制服が濡れている。十年ぶんの雨が、まだ乾いていない。
「まひるさん」
わたしは、その名前を呼んだ。
「はい」
「あなたは、どうしますか」
真昼は、店の中を見回した。
壁が薄い。天井が薄い。カウンターの欅の木目が、見えなくなっていた。
「わたし、行きます」
「どこへ」
「分かんないです」
真昼は、そう言った。
「でも、しずくが行ったほうです。たぶん」
「そうですか」
「あかりさん」
真昼が、わたしを見た。
「うちの親に、会わないでください」
わたしは、そこで止まった。
「なぜですか」
「会って、謝るつもりでしょう」
「……はい」
「やめてください」
真昼は、はっきりそう言った。
「うちの親は、十年、誰にも謝られてないんです。誰も来なかったから。いま急に来て謝られたら、十年が全部、間違いだったことになる」
わたしは、その理屈を、記者として理解した。
理解して、受け入れられなかった。
「じゃあ、わたしは何をすればいいんですか」
「知らないです」
真昼は、そう言った。
「自分で考えてください。わたし、もう十六なので」
その一文で、この子は十六歳のまま終わることを選んだ。
助言をしない。許しも出さない。宿題だけ置いて、行く。
「まひるさん」
「はい」
「乗せてくれてありがとう、って、妹が言いました」
「聞きました」
「わたしからも、一つだけ」
わたしは、言った。
「三行に、しました。あなたのことを。十年前に、うちの新聞が」
「知ってます」
「読んだんですか」
「読みました。窓の外は寒いんで、暇なんです」
真昼は、そう言った。
「三沢真昼さん、十六歳、南栄町、十七日死去。通夜二十日、葬儀二十一日。喪主は父の三沢和敏」
「……」
「うちのお父さんの名前が出てるのが、いちばんつらかった」
わたしは、その一言を、記者として聞いた。
三行のうち、いちばん短い部分だ。喪主の名前。書式で決まっている。書かないという選択肢はない。
書かれた側が、どこを読むかを、わたしは四年で一度も考えなかった。
「三行じゃ足りません」
真昼は、そこで、笑った。
丸い顔の、目が線になる笑いかただった。うちの玄関で「おじゃましまーす」と叫んでいた子の顔だった。
「足りないままでいいですよ」
そう言って、赤い傘を拾った。
差さずに、肩に担いだ。
サイフォンが、消えた。
カウンターの上の、上下二つのガラスの器が、同時に薄くなって、それから、なくなった。
ガラスの割れる音は、しなかった。
外に出ると、雨が上がっていた。
板塀はなかった。駐車場のアスファルトの上に、わたしと添島さんが立っていた。区画のプレートが三枚、傾いている。軽自動車が二台、停まっている。
空が、白みはじめていた。
十一月二十六日の朝だ。
「雪が降るな」
添島さんが言った。
「予報では、今日からです」
「そうか」
わたしたちは、駐車場の真ん中に立っていた。
十歩ぶんの板塀も、低い軒も、四角いランタンも、木の看板もない。米屋のシャッターが下りている。テナント募集の紙が日に焼けている。
「十年だ」
添島さんが言った。
「はい」
「終わったな」
「はい」
「俺はな」
添島さんは、そこで言葉を切った。
「明日から、どこで休憩を取ればいいのか、分からん」
わたしは、答えられなかった。
「営業所で取るよ」
添島さんは、そう言って、自分の車のほうへ歩いた。黒いタクシーが、米屋の前に停まっている。
「葉山さん」
「はい」
「あんたの妹は、行ったな」
「行きました」
「うちのは、いなかった」
わたしは、その言葉の重さを、五か月かけて教えられている。
添島さんの妻は、あの店にいなかった。奥の霧にも、窓の外にもいなかった。十年前の六月十七日に、あの店に来て、コーヒーを飲んで、それからどこかへ行った。
行った先を、この人は知らない。
「探しますか」
わたしは聞いた。
「探さん」
添島さんは、そう答えた。
「十年探した。もういい」
「……」
「未練を半分渡した。渡したぶんは、軽くなってない。軽くなってないってことは、あれは半分じゃなかったってことだ」
わたしは、この人の背中を見ていた。
「じゃあ、何を渡したんですか」
「見つけたときの記憶だ」
添島さんは、車のドアを開けた。
「四日目のことは、もう出てこん。出てこんが、探した四日は残ってる。走った道も、無線で頼んだことも、全部残ってる」
「それでいいんですか」
「よかない」
添島さんは、運転席に座った。
「よかないが、あいつを探した四日は、俺が女房のためにやった最後のことだ。それは渡さん」
ドアが閉まった。
窓が下りた。
「葉山さん」
「はい」
「あんた、記者だろう」
「はい」
「書くなよ」
わたしは、うなずいた。
「書きません」
「そうか」
窓が上がった。
タクシーは、川のほうへ走っていった。テールランプが二つ、朝の白い中で一つになって、消えた。
わたしは、駐車場に残った。
コートのポケットに、手を入れた。
四角いものが二つ、入っていた。
出した。
マッチ箱が二つ。わたしのものと、美代子さんのもの。同じ大きさ、同じ角の丸まりかた、同じ摩擦面の擦れかた。
表の印刷を見た。
薄かった。
GGの二文字が、灰色になっている。紙の白のほうが強い。指でこすると、黒い粉がついた。続けてこすると、二文字目が消えた。
もう一つの箱も、同じだった。
わたしは、両方を開けた。
軸木は、十七本あった。
減っていない。減っていないのに、頭の赤が、色を失っていた。朱色だったものが、灰色に近い桃色になっている。
わたしは、二つとも閉じて、ポケットに戻した。
車に乗った。
エンジンをかけて、ワイパーを一度動かした。雨は上がっている。ガラスに、細かい水滴が残っていた。
出発する前に、フロントガラスの向こうを見た。
白いものが、落ちてきた。
一つ、二つ。
雪だった。
三月に、野辺さんを見た。
駅前の交差点だった。作業着を着て、ヘルメットを小脇に抱えて、信号を待っていた。髭が剃ってあって、靴が新しかった。
信号が青になって、その人はわたしの横を歩いた。
目は合わなかった。
八月に、スーパーで一度会っている。あのときは目が合って、他人に向ける薄い会釈をされた。今回は、会わなかった。
わたしは、その背中を見送った。
四千二百八十万円は、法的にはまだあの人のものだ。取り立ての電話も鳴る。ただ、それを恐怖として受け取る人が、もういない。
いないまま、あの人は働いている。
不幸と呼ぶ根拠を、わたしはいまも持っていない。持っていないまま、またいつかこの人を見かけたら、そのときは名前を聞こうと思った。
聞いて、答えが返ってこなかったら、そのとき考える。
その年の十二月、わたしは母のところへ行った。
年末の休みに帰って、二日いた。父の入院の話をして、正月の予定を決めて、それから、雫の写真を見た。母のアルバムのほうだ。
三人で写った一枚が、あった。
高校の入学式の日。玄関の前。寝間着の上にカーディガンを羽織ったわたしが、雫と真昼のあいだに立っている。
「これ」
「あかり、覚えてないでしょ」
「覚えてなかった」
「寝てたのに、無理やり起こしたのよ。三人で撮っときなさいって」
母は、そう言って、笑った。
「よかった、撮っといて」
わたしは、その写真を借りた。
コピーではなく、現物を借りた。母は、いいわよ、と言った。
二月に、雪が溶けはじめたころ、わたしは南栄町へ行った。
角に赤い屋根の家がある。その二軒隣だ。歩いて七分。実家に帰るたびに前を通っていて、十年、一度も見ていない家だった。
門の前に立った。
表札に、三沢とある。
インターホンがある。押せば、たぶん誰かが出る。出たら、名乗ることになる。北央新聞の葉山と申します。十年前に、こちらのお嬢さんと一緒に亡くなった、葉山雫の姉です。
そこから先を、わたしは持っていない。
真昼は、来るなと言った。うちの親は十年誰にも謝られていない、いま急に来て謝られたら、十年が全部間違いだったことになる、と。
自分で考えてください、とも言った。
わたしは、門の前に立っていた。
四分か、五分だ。近所の人が一度、犬を連れて通った。会釈をされたので、会釈を返した。
それから、手を上げた。
インターホンではなく、扉のほうへ。
木の扉だ。古い。塗装が剥げている。十年前もこの扉だったのだろうと思った。
拳を作って、扉に近づけた。
ノックの音が、二月の朝に響いた。
三回叩いた。
音は、思っていたより大きかった。木の扉は、古いほうがよく鳴る。
足音がした。
わたしは、名乗る言葉を用意していなかった。用意しないまま来た。用意すると、それは取材になる。取材に来たのではない。
鍵が開いた。
扉が開いて、五十代の後半くらいの女の人が出てきた。エプロンをつけている。丸い顔で、頬に肉がついていた。
その顔を、わたしは知っていた。
十年前の玄関で、この人の娘が「おじゃましまーす」と叫んでいた。同じ顔だった。
「はい」
わたしは、口を開いた。
「葉山です」
その人の表情が、動いた。
「葉山って」
「葉山雫の、姉です」
三月の風が吹いた。二月の終わりの、まだ冷たい風だった。
その人は、扉を持ったまま、しばらく黙っていた。
「あがって」
そう言われた。
謝る言葉を、わたしは持っていない。持っていないまま、靴を脱いだ。
三沢の家には、一時間半いた。
お茶を出された。緑茶で、湯呑みが熱かった。この三年で、わたしがいちばん熱いと感じた飲み物だった。
真昼さんのお母さんは、最初の三十分、天気の話をした。今年は雪が多いとか、隣の家の梅が咲いたとか。
わたしは相槌を打った。
打ちながら、この人はわたしを試しているのではなく、たぶん、何を話せばいいのか分からないだけだと思った。
三十分過ぎたところで、この人が言った。
「あなた、記者さんなんですってね」
「はい」
「うちの子のこと、書きに来たの」
「いいえ」
「じゃあ、何しに」
わたしは、そこで初めて、自分が何をしに来たのかを言葉にした。
「八年前に、うちの新聞が、こちらに取材に来る予定がありました」
その人の手が、止まった。
「交通安全の連載でした。県内の交通死亡事故の遺族を訪ねる企画で、候補にこの事故が入っていました」
「聞いてないけど」
「来なかったからです」
わたしは、湯呑みを置いた。
「わたしが、外させました」
その人は、しばらく何も言わなかった。
「なんで」
「妹の件だから、と言いました。母がまだだめなので、と言いました。嘘です」
「嘘」
「順番が変わるのが、怖かったからです」
わたしは、その人の顔を見た。
「事故の始まりは、うちの妹です。妹が家を出たのは、わたしがそう言ったからです。それを認めると、真昼さんを責められなくなる」
その人は、湯呑みを両手で包んだ。
「責めてたの」
「責めていました」
「口に出して?」
「一度も」
「じゃあ、うちは知らなかったわ」
その人は、そう言った。
「知らないまま、十年、誰も来なかったの」
わたしは、うなずいた。
「それが、いちばんきつかった」
その人は、そう言った。
「責められたほうが、まだよかった。責められたら、こっちも言い返せるでしょう。誰も来ないと、言い返す相手がいないの」
わたしは、真昼の言葉を思い出した。
いま急に来て謝られたら、十年が全部間違いだったことになる、と。あの子は、そう言った。
あの子の言ったことと、この人の言ったことは、違っていた。
十六歳が、親のことを全部分かっているわけではない。当たり前のことだった。
「今日、謝りに来たわけじゃないんです」
わたしは言った。
「じゃあ、何」
「八年前に来なかった記者が、来ました」
その人は、わたしを見た。
見て、それから、目のあたりを手のひらで押さえた。
「遅いわよ」
「はい」
「ほんとに、遅い」
「はい」
わたしは、鞄から封筒を出した。
十二月に母から借りた、三人で写った一枚が入っている。
「これ、真昼さんが写っています」
その人は、封筒を受け取らなかった。
受け取らずに、中身だけを見た。玄関の前の、四月の日なた。制服の袖の長い二人と、寝間着の上にカーディガンを羽織った十八歳。
「うちにも、あるわ」
その人は言った。
「同じ日の。うちのお母さんが撮ったやつ」
三年後の春、わたしは会社を移った。
北央新聞ではない。県をまたいだ隣の市の、もっと小さい新聞社だ。編集局は二十人を切っている。給料は下がった。
移った理由は、面接で聞かれて、こう答えた。
訃報欄を、三行ではなく書きたいんです。
面接官は、うちにそんな枠はないと言った。わたしは、作らせてくださいと言った。半年待たされて、月に一度、四百行の枠がついた。
いまは、月に一人だ。
その月に亡くなった市内の人のうち、一人を選んで、遺族に会いに行く。話を聞く。二時間か、三時間。それから、四百行にする。
先月は、七十九歳の女性を書いた。
四十年、市の給食センターで働いた人だ。定年のあと、近所の子どもに折り紙を教えていた。折り紙は鶴しか折れなかった。鶴だけを二十年教えた。習った子が、いま三十歳になって、自分の子どもに鶴を教えている。
四百行あっても、足りなかった。
足りないまま、出した。
三行に収まらない人生を、三行に収めない書き方で。
わたしは、それを毎月やっている。
やりながら、三行のほうも、まだ書いている。日々のおくやみ欄は、うちでもわたしの担当だ。名前と、年齢と、住所と、日付と、通夜と、葬儀と、喪主。
三行は、三行のままだ。
一行も増やせない。
増やせないことを、わたしはもう、冷たいと思っていない。
三行に入らないものを、一度、自分の中に通す。通した跡は、紙面に出ない。出ないまま、こちらに溜まる。
溜まったぶんを、月に一度、四百行にする。
それが、いまのわたしの仕事だ。
その年の十一月、取材で隣の県へ行った。
山を越えた先の、川沿いの市だ。日帰りの予定が、事故で高速が止まって、帰れなくなった。駅前のビジネスホテルに部屋を取った。
夜、雨が降った。
十時ごろ、窓の外が白くなった。
川から上がってきていた。街灯の光の輪が、根元から食べられていく。気温が落ちている。
わたしは、ホテルを出た。
傘をささずに歩いた。知らない街だ。商店街のアーケードを抜けて、川のほうへ向かった。
耳の奥は、鳴らなかった。
三年鳴っていない。あの音は、わたしを呼ぶための音だった。呼ぶ必要がなくなったので、鳴らない。
十五分ほど歩いて、古い通りに出た。
シャッターの下りた店が並んでいる。金物屋、印判屋、その隣が空き店舗。
その隣に、路地があった。
板塀ではなかった。コンクリートの塀のあいだの、人ひとりぶんの幅だ。奥に、灯りが一つ浮かんでいる。
橙色だった。
わたしは、その光を見ていた。
行かなかった。
呼ばれていないからだ。あの路地は、呼ばれた者にしか見えない。見えたということは、わたしは呼ばれている。呼ばれているのに、行かない選択が、初めてできる。
十分ほど、そこに立っていた。
奥の戸が開いた。
音は聞こえない。灯りの形が変わって、人が出てきたのが分かった。
小さい影だった。
その影が、通りのほうへ向かって、頭を下げた。
こちらにではない。誰にでもない。店を出た客に向けた見送りの角度だった。
わたしは、頭を下げ返した。
それから、背を向けて、歩いた。
ホテルに戻って、部屋の電気をつけた。
鞄から、マッチ箱を二つ出した。三年、持ち歩いている。表の印刷は、もう完全に消えていた。ただの茶色い紙の箱だ。
軸木は、十七本ある。
わたしは、一本抜いた。
三年で、初めて抜いた。摩擦面に当てて、こすった。
火が、ついた。
十年以上、誰かのポケットの中にあって、湿って、乾いて、また湿った軸木が、普通に燃えた。
わたしは、その火を見ていた。
小さい。橙色だ。指のところまで来る前に、吹き消した。
煙が上がった。
硫黄の匂いがした。
箱を振って、数えた。
十七本あった。




