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喫茶店GG(ジジィ) 〜この世とあの世の境界線〜  作者: やはぎ・エリンギ


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13/14

第十二話 開店

もう、待っていない。

待っていない私は、たぶん、もう私ではない。

だから最後の三行は、姉に聞かせる。

 鐘は、二つで止まった。

 三つ目が来なかった。午前二時なら、二つで終わる。この店の時計は、二時になったことを、二回の音で伝えた。

 音が消えたあと、店の中は静かだった。

 雨の音はしない。振り子は止まっている。誰も動かない。

 わたしは、隣の妹を見た。

 雫は、椅子に座っていた。

 薄い。

 さっきより薄くなっている。制服の紺が、灰色に近づいていた。肩の輪郭の向こうに、壁の板目が見える。板目のほうが、はっきりしてきていた。

「お姉ちゃん」

「うん」

「見てて」

 わたしは、うなずいた。

 うなずいて、目を開けたままにした。まばたきをすると、そのぶん見られない。五か月、わたしはこの子の顔を見られなかった。見られるようになったのは、ついこのあいだだ。

 雫の指先が、白くなった。

 透けていたところが、白くなる。透明ではない。白い。霧と同じ色になって、そこから外へ、細く流れはじめた。

 煙ではなかった。

 煙は上へ行く。これは、横へ行く。

 水にたらした墨が、色を失いながら広がっていくのに似ていた。混ざったところから、薄くなる。

 わたしは、それを見ていた。

 見ながら、消えていく、という言葉を頭の中で探した。

 違った。

 その言葉ではなかった。

 店の中の空気が、明るくなっていた。

 床に張りついていた霧が、薄くなっている。壁ぎわの白いものが減って、壁の板目がはっきりしてきた。天井が見える。梁が見える。六月から一度も見えなかった奥の壁が、見えた。

 晴れていた。

 雫が霧になっているのではない。雫がほどけたぶんだけ、この部屋の霧が減っている。

 十年ぶんの白が、いま、晴れていく。

「お姉ちゃん」

 雫の声が、遠くなっていた。

「なに」

「わたし、名前、しずくだったよね」

「そう」

「よかった」

 雫は、笑った。

 右側だけ口が上がる、あの笑いかただった。

「じゃあね」

 わたしは、返事をしようとした。

 さよなら、という言葉を、口が拒んだ。掟ではない。わたしが拒んだ。

「またね」

 わたしは、そう言った。

「またねって、また会えるみたいじゃん」

「会えないの」

「会えないよ」

 雫は、そう言った。

「でも、いいよ。またねで」

 その言葉が、最後だった。

 輪郭が、なくなった。椅子の上に何もない。丸椅子が一つ、そこにある。座面に、へこみもない。

 わたしは、その椅子を見ていた。

 泣かなかった。

 泣きかたは、三時間前に思い出している。思い出したのに、出なかった。出るべきものが、そこになかった。

 かわりに、部屋が明るかった。

 わたしは、六月のことを思い出した。

 初めてこの店に入った夜、奥は霧だった。カウンターの端から先が白くて、その中に人の輪郭がいくつも座っていた。数えようとして、数えられなかった。三つに見えて、次に見ると四つあった。

 あれは、何だったのか。

 いま、その場所に、何もない。

 壁がある。板目がある。椅子が七つ並んでいて、そのうちの六つが空いている。

 常連は、いない。

 いなくなったのではない。最初から、あそこにいたのは霧だった。霧は、誰かの待ちかたが溜まったものだ。溜まった白の中に、人の形が見えた。見えたのは、わたしがそこに人を見たかったからだ。

 十年ぶんの待ちかたが、いま、晴れている。

 晴れたあとに残るのは、板目と、椅子と、明るさだけだった。


 カウンターの内側で、音がした。

 わたしは、そちらを向いた。

 二十六歳の顔をした人が、下の器を持っていた。持っている手が、薄い。

 袖から先が、白い。指の形は分かる。分かるのに、向こうのガラス戸棚が透けて見える。

「マスター」

「はい」

「あなたも」

「はい」

 その人は、下の器を台に置いた。置く直前に力を抜く、あの手つきだった。五か月、わたしはこの手だけを見てきた。この手にだけ、この人の時間が集まっていると思っていた。

 思っていたとおりだった。集まっていた時間が、いま、ほどけている。

「あの子が終わったので、私も終わります」

「終わる」

「私は、あの子が言えなかった一つでできています。言われたので、もう、ありません」

 わたしは、カウンターに手を置いた。

「あなたは、何だったんですか」

「なり損ねた大人です」

「それは聞きました」

「では、もう一つ」

 その人は、こちらを見た。

 薄くなった顔の中で、目だけが、まだ濃かった。子どもの目だった。

「私は、この店です」

 わたしは、動きを止めた。

「あの子の待ち合わせが、店の形を取りました。店の形を取るには、店をやる者が要ります。私は、そのために出てきました」

「じゃあ、店が消えるのは」

「私が消えるからです。順番は、逆でもかまいません。同じことです」

 その人は、カウンターの下の木箱を閉めた。

 底に、豆はない。

「マスター」

「はい」

「一つだけ、聞かせてください」

「はい」

「GGって、何ですか」

 その人は、答えなかった。

 答えない代わりに、こちらを見た。

「あなたは、どう読みましたか」

「ジジィと読みました」

「はい」

「祖父の呼び名です。妹がつけました」

「はい」

「それでいいんですか」

「あなたには、それです」

 その人は、そう言った。

「添島さんには、別のものです。あの方は、あれをずっと、奥さんの頭文字だと思っていました」

 わたしは、添島さんのほうを見た。

 添島さんは、こちらを見なかった。空のカップを見ていた。

「美代子さん、ですよね」

「そうだ」

「頭文字は、Gじゃありません」

「知ってる」

 添島さんは、そう答えた。

「知ってるんだが、初めて見た日に、Gだと思ったんだ。理由は分からん。十年考えて、分からん」

 わたしは、それ以上聞かなかった。

 この人は十年、分からないことを分からないまま持ちつづけている人だ。看板の読み方だけが例外である理由はない。

「あの看板は」その人は続けた。「読む人の数だけ、意味があります。私にも、私の読み方があります」

「教えてください」

「教えません」

「なぜ」

「教えると、あなたの読み方が、一つ減ります」

 わたしは、その答えを受け取った。

 受け取って、この人が最後まで、わたしに何かを渡さない人だったことを確かめた。

 渡さないのが、この人の優しさだった。

「マスター」

「はい」

「あなたは、五か月、一度も飲みませんでした」

「はい」

「最後に、飲みませんか」

「豆が、ありません」

「知っています」

 その人は、しばらく黙っていた。

 黙ってから、笑った。

 初めて見る笑いかただった。皺のない顔で、口を開けて、肩が動いた。声は出なかった。声の出ない笑いを、わたしはこの店で何度も見ている。

「いりません」

 その人は、そう言った。

「コーヒー、ごちそうさま」

「え」

「私の分は、あなたが飲んでくれた」

 わたしは、自分が飲んだ五か月ぶんのカップを思い出した。

 八回だ。八回飲んだ。毎回、祖父の家の匂いがした。あの匂いは祖父の家ではなく、わたしと雫が最後に一緒にいた朝の、うちの台所だった。

 同じ家だ。

 この人は、九年間、他人のカップの上でその匂いを嗅いでいた。九年のうちの五か月を、わたしが隣にいた。

「一つ、言わせてください」

 わたしは言った。

「はい」

「わたしは、五か月、この店を不思議なものだと思っていました」

「はい」

「雨と霧の夜に出る店で、掟が五つあって、代金を記憶で払う。そういう決まりでできた、こちら側とは別のものだと思っていました」

「はい」

「違いますね」

 その人は、答えなかった。

「この店は、わたしが建てたんですね」

 わたしは、そう言った。

「十年、わたしは妹のことを考えないようにしていました。真昼さんのことも、祖父のことも、母のことも。考えないようにしたぶんが、どこかへ行かなきゃいけない」

「はい」

「行った先が、ここですか」

「あなただけではありません」

 その人は、そう答えた。

「添島さんも、森口さんも、野辺さんも、あなたと同じことをしました。皆さんが少しずつ置いていったもので、この店は建っています」

「建材が、後悔ですか」

「はい」

 わたしは、店の中を見回した。

 七席のカウンター。逆にまわらなくなった時計。低い軒。黒い板壁。

 全部、誰かが見ないことにしたものでできている。

「じゃあ、この店がなくなるというのは」

「誰も、置かなくなったということです」

「置かなくなる日が、来ますか」

「来ません」

 その人は、はっきりそう言った。

「だから、また建ちます。別のところに」

「足りましたか」

 わたしは聞いた。

「足りました」

 その人の輪郭が、白くなった。

 割烹着の白と、区別がつかなくなった。区別がつかなくなったところから、外へ、細く流れた。

 部屋が、また明るくなった。


 最初に、ランタンが消えた。

 軒先だ。外にある。見えないはずだった。見えた。壁が薄くなっていて、その向こうの青い火が、こちらから見えた。

 火が細くなって、芯のところで縮んで、消えた。

 外が、暗くなった。

 次に、時計だった。

 壁の振り子時計が、止まったまま、輪郭から薄くなった。文字盤の数字が消えて、針が消えて、振り子が消えて、木の枠が消えた。

 壁に、掛かっていた跡があった。

 その跡も、消えた。

「葉山さん」

 添島さんが、立っていた。

「行くぞ」

「はい」

「あんた、鐘のあと残ったな」

「残りました」

「何も起きんかったな」

「起きませんでした」

 添島さんは、空のカップを見た。

 十年、この人の前にあったカップだ。乾いていて、内側が白い。

 そのカップが、消えた。

「マスター」

 わたしは、カウンターの内側を見た。輪郭が白い。

「四つ目を、破りました」

「はい」

「鐘の前に出ろと書いてありました。出ませんでした」

「はい」

「わたしたちは、どうなりますか」

 その人は、こちらを見た。

「今夜は、出ても残っても、もう同じです」

「同じ」

「出る場所が、なくなりますので」

 わたしは、店の中を見回した。

 壁が薄い。天井が薄い。この部屋そのものが、いま、外になろうとしている。出るための内側が消えれば、内側にいたことも消える。

 掟は、店があるあいだの決まりだった。

「行くぞ」

 わたしたちは、戸口へ歩いた。

 真昼が、床から立ち上がった。制服が濡れている。十年ぶんの雨が、まだ乾いていない。

「まひるさん」

 わたしは、その名前を呼んだ。

「はい」

「あなたは、どうしますか」

 真昼は、店の中を見回した。

 壁が薄い。天井が薄い。カウンターの欅の木目が、見えなくなっていた。

「わたし、行きます」

「どこへ」

「分かんないです」

 真昼は、そう言った。

「でも、しずくが行ったほうです。たぶん」

「そうですか」

「あかりさん」

 真昼が、わたしを見た。

「うちの親に、会わないでください」

 わたしは、そこで止まった。

「なぜですか」

「会って、謝るつもりでしょう」

「……はい」

「やめてください」

 真昼は、はっきりそう言った。

「うちの親は、十年、誰にも謝られてないんです。誰も来なかったから。いま急に来て謝られたら、十年が全部、間違いだったことになる」

 わたしは、その理屈を、記者として理解した。

 理解して、受け入れられなかった。

「じゃあ、わたしは何をすればいいんですか」

「知らないです」

 真昼は、そう言った。

「自分で考えてください。わたし、もう十六なので」

 その一文で、この子は十六歳のまま終わることを選んだ。

 助言をしない。許しも出さない。宿題だけ置いて、行く。

「まひるさん」

「はい」

「乗せてくれてありがとう、って、妹が言いました」

「聞きました」

「わたしからも、一つだけ」

 わたしは、言った。

「三行に、しました。あなたのことを。十年前に、うちの新聞が」

「知ってます」

「読んだんですか」

「読みました。窓の外は寒いんで、暇なんです」

 真昼は、そう言った。

「三沢真昼さん、十六歳、南栄町、十七日死去。通夜二十日、葬儀二十一日。喪主は父の三沢和敏」

「……」

「うちのお父さんの名前が出てるのが、いちばんつらかった」

 わたしは、その一言を、記者として聞いた。

 三行のうち、いちばん短い部分だ。喪主の名前。書式で決まっている。書かないという選択肢はない。

 書かれた側が、どこを読むかを、わたしは四年で一度も考えなかった。

「三行じゃ足りません」

 真昼は、そこで、笑った。

 丸い顔の、目が線になる笑いかただった。うちの玄関で「おじゃましまーす」と叫んでいた子の顔だった。

「足りないままでいいですよ」

 そう言って、赤い傘を拾った。

 差さずに、肩に担いだ。

 サイフォンが、消えた。

 カウンターの上の、上下二つのガラスの器が、同時に薄くなって、それから、なくなった。

 ガラスの割れる音は、しなかった。


 外に出ると、雨が上がっていた。

 板塀はなかった。駐車場のアスファルトの上に、わたしと添島さんが立っていた。区画のプレートが三枚、傾いている。軽自動車が二台、停まっている。

 空が、白みはじめていた。

 十一月二十六日の朝だ。

「雪が降るな」

 添島さんが言った。

「予報では、今日からです」

「そうか」

 わたしたちは、駐車場の真ん中に立っていた。

 十歩ぶんの板塀も、低い軒も、四角いランタンも、木の看板もない。米屋のシャッターが下りている。テナント募集の紙が日に焼けている。

「十年だ」

 添島さんが言った。

「はい」

「終わったな」

「はい」

「俺はな」

 添島さんは、そこで言葉を切った。

「明日から、どこで休憩を取ればいいのか、分からん」

 わたしは、答えられなかった。

「営業所で取るよ」

 添島さんは、そう言って、自分の車のほうへ歩いた。黒いタクシーが、米屋の前に停まっている。

「葉山さん」

「はい」

「あんたの妹は、行ったな」

「行きました」

「うちのは、いなかった」

 わたしは、その言葉の重さを、五か月かけて教えられている。

 添島さんの妻は、あの店にいなかった。奥の霧にも、窓の外にもいなかった。十年前の六月十七日に、あの店に来て、コーヒーを飲んで、それからどこかへ行った。

 行った先を、この人は知らない。

「探しますか」

 わたしは聞いた。

「探さん」

 添島さんは、そう答えた。

「十年探した。もういい」

「……」

「未練を半分渡した。渡したぶんは、軽くなってない。軽くなってないってことは、あれは半分じゃなかったってことだ」

 わたしは、この人の背中を見ていた。

「じゃあ、何を渡したんですか」

「見つけたときの記憶だ」

 添島さんは、車のドアを開けた。

「四日目のことは、もう出てこん。出てこんが、探した四日は残ってる。走った道も、無線で頼んだことも、全部残ってる」

「それでいいんですか」

「よかない」

 添島さんは、運転席に座った。

「よかないが、あいつを探した四日は、俺が女房のためにやった最後のことだ。それは渡さん」

 ドアが閉まった。

 窓が下りた。

「葉山さん」

「はい」

「あんた、記者だろう」

「はい」

「書くなよ」

 わたしは、うなずいた。

「書きません」

「そうか」

 窓が上がった。

 タクシーは、川のほうへ走っていった。テールランプが二つ、朝の白い中で一つになって、消えた。

 わたしは、駐車場に残った。

 コートのポケットに、手を入れた。

 四角いものが二つ、入っていた。

 出した。

 マッチ箱が二つ。わたしのものと、美代子さんのもの。同じ大きさ、同じ角の丸まりかた、同じ摩擦面の擦れかた。

 表の印刷を見た。

 薄かった。

 GGの二文字が、灰色になっている。紙の白のほうが強い。指でこすると、黒い粉がついた。続けてこすると、二文字目が消えた。

 もう一つの箱も、同じだった。

 わたしは、両方を開けた。

 軸木は、十七本あった。

 減っていない。減っていないのに、頭の赤が、色を失っていた。朱色だったものが、灰色に近い桃色になっている。

 わたしは、二つとも閉じて、ポケットに戻した。

 車に乗った。

 エンジンをかけて、ワイパーを一度動かした。雨は上がっている。ガラスに、細かい水滴が残っていた。

 出発する前に、フロントガラスの向こうを見た。

 白いものが、落ちてきた。

 一つ、二つ。

 雪だった。


 三月に、野辺さんを見た。

 駅前の交差点だった。作業着を着て、ヘルメットを小脇に抱えて、信号を待っていた。髭が剃ってあって、靴が新しかった。

 信号が青になって、その人はわたしの横を歩いた。

 目は合わなかった。

 八月に、スーパーで一度会っている。あのときは目が合って、他人に向ける薄い会釈をされた。今回は、会わなかった。

 わたしは、その背中を見送った。

 四千二百八十万円は、法的にはまだあの人のものだ。取り立ての電話も鳴る。ただ、それを恐怖として受け取る人が、もういない。

 いないまま、あの人は働いている。

 不幸と呼ぶ根拠を、わたしはいまも持っていない。持っていないまま、またいつかこの人を見かけたら、そのときは名前を聞こうと思った。

 聞いて、答えが返ってこなかったら、そのとき考える。

 その年の十二月、わたしは母のところへ行った。

 年末の休みに帰って、二日いた。父の入院の話をして、正月の予定を決めて、それから、雫の写真を見た。母のアルバムのほうだ。

 三人で写った一枚が、あった。

 高校の入学式の日。玄関の前。寝間着の上にカーディガンを羽織ったわたしが、雫と真昼のあいだに立っている。

「これ」

「あかり、覚えてないでしょ」

「覚えてなかった」

「寝てたのに、無理やり起こしたのよ。三人で撮っときなさいって」

 母は、そう言って、笑った。

「よかった、撮っといて」

 わたしは、その写真を借りた。

 コピーではなく、現物を借りた。母は、いいわよ、と言った。

 二月に、雪が溶けはじめたころ、わたしは南栄町へ行った。

 角に赤い屋根の家がある。その二軒隣だ。歩いて七分。実家に帰るたびに前を通っていて、十年、一度も見ていない家だった。

 門の前に立った。

 表札に、三沢とある。

 インターホンがある。押せば、たぶん誰かが出る。出たら、名乗ることになる。北央新聞の葉山と申します。十年前に、こちらのお嬢さんと一緒に亡くなった、葉山雫の姉です。

 そこから先を、わたしは持っていない。

 真昼は、来るなと言った。うちの親は十年誰にも謝られていない、いま急に来て謝られたら、十年が全部間違いだったことになる、と。

 自分で考えてください、とも言った。

 わたしは、門の前に立っていた。

 四分か、五分だ。近所の人が一度、犬を連れて通った。会釈をされたので、会釈を返した。

 それから、手を上げた。

 インターホンではなく、扉のほうへ。

 木の扉だ。古い。塗装が剥げている。十年前もこの扉だったのだろうと思った。

 拳を作って、扉に近づけた。

 ノックの音が、二月の朝に響いた。

 三回叩いた。

 音は、思っていたより大きかった。木の扉は、古いほうがよく鳴る。

 足音がした。

 わたしは、名乗る言葉を用意していなかった。用意しないまま来た。用意すると、それは取材になる。取材に来たのではない。

 鍵が開いた。

 扉が開いて、五十代の後半くらいの女の人が出てきた。エプロンをつけている。丸い顔で、頬に肉がついていた。

 その顔を、わたしは知っていた。

 十年前の玄関で、この人の娘が「おじゃましまーす」と叫んでいた。同じ顔だった。

「はい」

 わたしは、口を開いた。

「葉山です」

 その人の表情が、動いた。

「葉山って」

「葉山雫の、姉です」

 三月の風が吹いた。二月の終わりの、まだ冷たい風だった。

 その人は、扉を持ったまま、しばらく黙っていた。

「あがって」

 そう言われた。

 謝る言葉を、わたしは持っていない。持っていないまま、靴を脱いだ。

 三沢の家には、一時間半いた。

 お茶を出された。緑茶で、湯呑みが熱かった。この三年で、わたしがいちばん熱いと感じた飲み物だった。

 真昼さんのお母さんは、最初の三十分、天気の話をした。今年は雪が多いとか、隣の家の梅が咲いたとか。

 わたしは相槌を打った。

 打ちながら、この人はわたしを試しているのではなく、たぶん、何を話せばいいのか分からないだけだと思った。

 三十分過ぎたところで、この人が言った。

「あなた、記者さんなんですってね」

「はい」

「うちの子のこと、書きに来たの」

「いいえ」

「じゃあ、何しに」

 わたしは、そこで初めて、自分が何をしに来たのかを言葉にした。

「八年前に、うちの新聞が、こちらに取材に来る予定がありました」

 その人の手が、止まった。

「交通安全の連載でした。県内の交通死亡事故の遺族を訪ねる企画で、候補にこの事故が入っていました」

「聞いてないけど」

「来なかったからです」

 わたしは、湯呑みを置いた。

「わたしが、外させました」

 その人は、しばらく何も言わなかった。

「なんで」

「妹の件だから、と言いました。母がまだだめなので、と言いました。嘘です」

「嘘」

「順番が変わるのが、怖かったからです」

 わたしは、その人の顔を見た。

「事故の始まりは、うちの妹です。妹が家を出たのは、わたしがそう言ったからです。それを認めると、真昼さんを責められなくなる」

 その人は、湯呑みを両手で包んだ。

「責めてたの」

「責めていました」

「口に出して?」

「一度も」

「じゃあ、うちは知らなかったわ」

 その人は、そう言った。

「知らないまま、十年、誰も来なかったの」

 わたしは、うなずいた。

「それが、いちばんきつかった」

 その人は、そう言った。

「責められたほうが、まだよかった。責められたら、こっちも言い返せるでしょう。誰も来ないと、言い返す相手がいないの」

 わたしは、真昼の言葉を思い出した。

 いま急に来て謝られたら、十年が全部間違いだったことになる、と。あの子は、そう言った。

 あの子の言ったことと、この人の言ったことは、違っていた。

 十六歳が、親のことを全部分かっているわけではない。当たり前のことだった。

「今日、謝りに来たわけじゃないんです」

 わたしは言った。

「じゃあ、何」

「八年前に来なかった記者が、来ました」

 その人は、わたしを見た。

 見て、それから、目のあたりを手のひらで押さえた。

「遅いわよ」

「はい」

「ほんとに、遅い」

「はい」

 わたしは、鞄から封筒を出した。

 十二月に母から借りた、三人で写った一枚が入っている。

「これ、真昼さんが写っています」

 その人は、封筒を受け取らなかった。

 受け取らずに、中身だけを見た。玄関の前の、四月の日なた。制服の袖の長い二人と、寝間着の上にカーディガンを羽織った十八歳。

「うちにも、あるわ」

 その人は言った。

「同じ日の。うちのお母さんが撮ったやつ」

 三年後の春、わたしは会社を移った。

 北央新聞ではない。県をまたいだ隣の市の、もっと小さい新聞社だ。編集局は二十人を切っている。給料は下がった。

 移った理由は、面接で聞かれて、こう答えた。

 訃報欄を、三行ではなく書きたいんです。

 面接官は、うちにそんな枠はないと言った。わたしは、作らせてくださいと言った。半年待たされて、月に一度、四百行の枠がついた。

 いまは、月に一人だ。

 その月に亡くなった市内の人のうち、一人を選んで、遺族に会いに行く。話を聞く。二時間か、三時間。それから、四百行にする。

 先月は、七十九歳の女性を書いた。

 四十年、市の給食センターで働いた人だ。定年のあと、近所の子どもに折り紙を教えていた。折り紙は鶴しか折れなかった。鶴だけを二十年教えた。習った子が、いま三十歳になって、自分の子どもに鶴を教えている。

 四百行あっても、足りなかった。

 足りないまま、出した。

 三行に収まらない人生を、三行に収めない書き方で。

 わたしは、それを毎月やっている。

 やりながら、三行のほうも、まだ書いている。日々のおくやみ欄は、うちでもわたしの担当だ。名前と、年齢と、住所と、日付と、通夜と、葬儀と、喪主。

 三行は、三行のままだ。

 一行も増やせない。

 増やせないことを、わたしはもう、冷たいと思っていない。

 三行に入らないものを、一度、自分の中に通す。通した跡は、紙面に出ない。出ないまま、こちらに溜まる。

 溜まったぶんを、月に一度、四百行にする。

 それが、いまのわたしの仕事だ。


 その年の十一月、取材で隣の県へ行った。

 山を越えた先の、川沿いの市だ。日帰りの予定が、事故で高速が止まって、帰れなくなった。駅前のビジネスホテルに部屋を取った。

 夜、雨が降った。

 十時ごろ、窓の外が白くなった。

 川から上がってきていた。街灯の光の輪が、根元から食べられていく。気温が落ちている。

 わたしは、ホテルを出た。

 傘をささずに歩いた。知らない街だ。商店街のアーケードを抜けて、川のほうへ向かった。

 耳の奥は、鳴らなかった。

 三年鳴っていない。あの音は、わたしを呼ぶための音だった。呼ぶ必要がなくなったので、鳴らない。

 十五分ほど歩いて、古い通りに出た。

 シャッターの下りた店が並んでいる。金物屋、印判屋、その隣が空き店舗。

 その隣に、路地があった。

 板塀ではなかった。コンクリートの塀のあいだの、人ひとりぶんの幅だ。奥に、灯りが一つ浮かんでいる。

 橙色だった。

 わたしは、その光を見ていた。

 行かなかった。

 呼ばれていないからだ。あの路地は、呼ばれた者にしか見えない。見えたということは、わたしは呼ばれている。呼ばれているのに、行かない選択が、初めてできる。

 十分ほど、そこに立っていた。

 奥の戸が開いた。

 音は聞こえない。灯りの形が変わって、人が出てきたのが分かった。

 小さい影だった。

 その影が、通りのほうへ向かって、頭を下げた。

 こちらにではない。誰にでもない。店を出た客に向けた見送りの角度だった。

 わたしは、頭を下げ返した。

 それから、背を向けて、歩いた。

 ホテルに戻って、部屋の電気をつけた。

 鞄から、マッチ箱を二つ出した。三年、持ち歩いている。表の印刷は、もう完全に消えていた。ただの茶色い紙の箱だ。

 軸木は、十七本ある。

 わたしは、一本抜いた。

 三年で、初めて抜いた。摩擦面に当てて、こすった。

 火が、ついた。

 十年以上、誰かのポケットの中にあって、湿って、乾いて、また湿った軸木が、普通に燃えた。

 わたしは、その火を見ていた。

 小さい。橙色だ。指のところまで来る前に、吹き消した。

 煙が上がった。

 硫黄の匂いがした。

 箱を振って、数えた。

 十七本あった。


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