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喫茶店GG(ジジィ) 〜この世とあの世の境界線〜  作者: やはぎ・エリンギ


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第十一話 最後の一杯

私は、まだ十六のつもりでいる。

二十六の顔をして、十六の言い分を抱えている。

どちらの私が謝るのかを、私はまだ決めていない。

 サイフォンの下で、火が燃えていた。

 下の器の水に、細かい泡がついている。壁面をつたって上がって、水面で消える。数が増えて、糸のような対流が立つ。

 湯が鳴る音がした。

 その音を聞きながら、わたしは戸口へ歩いた。

 床がある。霧は板張りの上に張りついて、動かない。歩いても足首に絡まない。五か月で初めて、わたしはこの店の中を普通に歩いた。

 引き戸に手をかけた。

「葉山さん」

 添島さんの声がした。

「くくったか」

「くくりました」

「そうか」

 それだけだった。この人は、止めるときは止める。止めないときは何も言わない。九月にわたしが名前を知った男は、そういう人だった。

 戸を引いた。

 鈴が鳴った。うちの台所の風鈴の音がした。

 外は、白かった。

 雨が降っている。音がしない。板塀は見えない。軒先のランタンの青い火だけが、頭の上で燃えている。

 その白の中に、赤があった。

 一メートルもない。傘の布地の織り目が見える。骨が八本ある。柄を握る指の関節が白い。

 三沢真昼が、そこに立っていた。

 わたしは、敷居のこちら側にいた。

 敷居は、木でできている。五か月、わたしは何十回もこれをまたいだ。またぐときに、いつも何も感じなかった。

 いま、線に見える。

 こちら側と、あちら側を分ける線だ。この一本を、この子は十年またげなかった。またげない理由を、みんなが「持っていないから」と説明した。持っていない者は入れない。この店は、痛みの借金でできている。

 その説明を、わたしは八月に聞いて、おかしいと思った。おかしいと思って、三か月、何もしなかった。

 おかしいと思うだけの人間を、わたしは仕事で何百人も見ている。取材先で、読者の投書で、社の会議で。おかしいと言って、それで終わる。終わったあと、誰かが外に立ちつづける。

 十年前から、この子はこの位置にいる。雨と霧の夜に、この街のどこかに現れる路地の、軒の外に立っていた。入れなかった。持っているものが何もなかったからだと、みんなが言った。

 わたしは、口を開いた。

「わたしは、葉山灯です」

 真昼の目が、動いた。

「北央新聞の記者です。訃報欄を担当しています。人が死んだ知らせを受け取って、三行にする仕事です」

 雨は音を立てない。わたしの声だけが、白の中に出ていった。

「四年間、その仕事をしました。名前と、年齢と、住所と、死んだ日と、通夜と、葬儀と、喪主。それだけを、三行に入れます。ほかは入りません」

 真昼は、動かなかった。

「十年前の六月二十日の紙面に、あなたの三行があります」

 赤い傘が、少し傾いた。

「三沢真昼さん、十六歳、北央市南栄町、十七日死去、通夜は二十日午後六時、葬儀は二十一日午前十時、南栄斎場、喪主は父の三沢和敏さん」

 わたしは、それを暗唱した。

 十月四日に、資料室の合本で読んだ。三回読んだ。三回で覚えた。四年やっていると、三行は一度読めば入る。

「わたしが書いたものではありません。当時のわたしは十八で、まだ社にいませんでした」

 真昼の唇が、少し開いた。

「わたしが書いたのは、その八年後です」

 わたしは、続けた。

「交通安全の連載が組まれたとき、候補に十年前のこの事故がありました。記者があなたの家を訪ねる予定でした。わたしがデスクに頼んで、外させました」

「……」

「妹の件だからと言いました。母がまだだめなのでと言いました。嘘です」

 わたしは、自分の声が震えていないことに気づいた。

 震えなくていい。震えるのは、こちらの都合だ。

「あなたの家に、記者が行かなかったのは、わたしのせいです」

 真昼は、こちらを見ていた。

「十年、わたしはあなたを、妹を殺した子として置いていました。置いて、一度も見ませんでした。

 実家に帰るたびに、あなたの家の前の道を通っています。角の赤い屋根の、二軒隣です。通りながら、一度も見ていません」

 わたしは、そこで一度、息を吸った。

「見ないことにしていたのは、見ると、順番が変わるからです」

 雨が降っている。音がしない。

「順番の始まりは、わたしです。わたしがあの夜、妹を家から出しました」

 赤い傘の下で、丸い顔が、こちらを向いた。

 頬に、線が三本走っていた。

「三沢真昼さん」

 わたしは、名前を呼んだ。

「入ってください」

 わたしは、右手を差し出した。

 掌を上に向けて、敷居の外へ出した。雨に当たった。冷たかった。

 真昼は、動かなかった。

 三秒あった。

 四秒目に、傘が下りた。

 赤い布が畳まれて、その下から、十六歳の顔が出てきた。

 濡れていた。髪も、頬も、制服の肩も、全部濡れていた。十年ぶんの雨だった。

 水から上がってきた人の顔をしていた。

 その子が、手を伸ばした。

 わたしの掌に、触れた。

 冷たかった。

 奥の霧の中の妹には、触れられなかった。指が通った。この子には、触れた。冷たい手の重みが、こちらの掌に乗った。

「入ります」

 真昼は、そう言った。

 声は、大きかった。

 うちの玄関で「おじゃましまーす」と叫んでいた、あの声だった。


 真昼が敷居をまたいだとき、鈴が鳴った。

 わたしの耳には、うちの台所の風鈴の音がした。真昼が顔を上げて、天井のほうを見た。

「なにこれ」

「何が聞こえましたか」

「うちの、リビングの時計。三時になると鳥が出るやつ」

 真昼は、そう言った。

「おじいちゃんの家にあったのを、お母さんがもらってきたの。うるさいって、お父さんが」

 わたしは、その説明を聞いた。

 五か月、わたしはこの鈴の音を祖父の家の風鈴だと思っていた。違った。うちの台所だった。この子には、リビングの鳩時計だった。

 鈴は、その人が生きていたころに聞いた音を鳴らす。

 真昼が生きていたころは、十年前の六月十七日までだ。

「あんた」

 添島さんが、椅子から立った。

「入れたのか」

「入りました」

「そんな簡単に」

「簡単ではありませんでした」

 わたしは、そう答えた。

 真昼は、店の中を見回していた。カウンター。七席。逆にまわらなくなった時計。振り子だけが動いている。サイフォンの下の青い火。

「十年、見てた」

 真昼は言った。

「窓から。中がこんなだって、知ってた。でも、入れなかった」

「なぜ入れなかったか、聞いていますか」

「聞いた。払うものがないから、って」

 真昼は、カウンターの端の席に手を置いた。

「そう言われて、そうだと思ってた」

 そこで、この子は言葉を止めた。

「ほんとは、あるの」

 わたしは、その一言を受け取った。

「マスター」

 真昼は、カウンターの内側の人を見た。

 見て、動きが止まった。

「え」

「はい」

「なんで、しずくの顔してるの」

 わたしは、この子が二十六歳の顔を見て雫だと分かったことに驚いた。

 驚いてから、当然だと思った。この子は十年前まで、雫と毎日一緒にいた。中学の三年間、同じ部活だった。うちの居間で、二人でスマートフォンを見て笑っていた。

「この方は、雫の未来です」

 わたしは言った。

「なり損ねたほうです」

 真昼の顔が、崩れた。

 崩れる、という表現をわたしは仕事で使わない。三行に入らないからだ。いま、目の前でそれが起きている。眉が下がって、口が開いて、頬の筋肉が全部下へ落ちた。

「わたしのせいだ」

 真昼は言った。

「マスター」わたしは言った。「この人の代金は、何ですか」

 その人は、真昼を見ていた。

「あります」

「あるんですか」

「ずっとありました」

 その人は、そう言った。

「入れなかったのは、持っていなかったからではありません。差し出せなかったからです」

「差し出せない」

「この方は、自分に代金があることを、認めていませんでした」

 わたしは、真昼を見た。

 真昼は、床を見ていた。板張りの床。霧が張りついている。

「言います」

 真昼は言った。

「言っていいですか」

「どうぞ」

「わたし、あの日、しずくを誘いました」

 店の中が、静かになった。

「お父さんの車。鍵は玄関の靴箱の上。うちの親、鍵を隠さない人で。前から一回だけ乗ってみたくて、でも一人だと怖くて」

 真昼は、両手を体の前で組んでいた。

「夜だったら誰も見てないと思ったの。雨だったから、余計に。県道なら車が少ないし、まっすぐだし」

「妹に、なんて言って誘いましたか」

「言ってない」

 真昼は、顔を上げた。

「言ってないの。あの日、しずくから電話が来たから」

 わたしは、動きを止めた。

「お姉ちゃんと喧嘩したって。家出るって。どっか行きたいって」

「……」

「だから、じゃあ乗せてってあげるって、わたしが言った」

 真昼の声が、震えていた。

「わたしが言わなかったら、しずく、コンビニで時間つぶして帰ってた。そういう子だから」

 わたしは、そのとおりだと思った。

 雫は、そういう子だ。腹が立って家を出て、二時間で戻ってくる。三年生のときに一度やっている。あのときはコンビニでアイスを食べて、九時に帰ってきた。

「県道に出て、しばらく走って」真昼は続けた。「そしたら、しずくの携帯が鳴ったの」

 わたしは、内ポケットのガラケーを思った。

 九時四十分。九時四十五分。九時四十八分。九時五十一分。

「四回、ですか」

「四回。しずく、出なくて」

「なぜ出なかったか、言ってましたか」

「じいちゃんだって」

 真昼は、そう言った。

「じいちゃんからだ、お姉ちゃんの差し金だ、って。出たら謝れって言われるから出ないって」

 わたしは、そこで息が止まった。

「四回目のとき、しずくが、うるさいなって言って、携帯を見たの」

「……」

「そのとき、わたし、しずくのほうを見た」

 真昼は、両手を握っていた。

「一秒くらい。何の電話って聞こうとして、顔を見た。戻したら、対向車のライトがあった」

 店の中の誰も、何も言わなかった。

「ハンドル切ったのは、わたしです」

 真昼は、そう言った。

「切らなかったら、たぶん、止まれた。切ったから、向こうの車線に入った」

 わたしは、その説明を、記者として聞いていた。

 十年前の紙面の三段見出しと、事故現場の略図と、カーブの途中で対向車線に入っている矢印。あの矢印の理由が、いま、目の前で言葉になった。

 裏が取れた。

 十年かかって、取れた。取ったところで、何も書けない。

「わたし」

 真昼が言った。

「ずっと、しずくに謝りたかった」

「……」

「でも、わたしが謝ったら、しずくが許さなきゃいけなくなるでしょう」

 その一文が、わたしの中に落ちた。

「許すのって、しんどいと思って。だから、言わないでいた。十年」

 わたしは、この子を責めるつもりでここに立っていた。

 十年、そのつもりでいた。責める権利を、姉として持っていると思っていた。持ったまま、一度も使わなかった。使わなかったのは、優しさではない。使えば、順番が動くからだ。

 いま、使えなかった。

 責めるための十年を、わたしは目を逸らして使ってしまった。

 その十年で、この子は窓の外に立っていた。

「マスター」

 わたしは言った。

「この人に、出してください」

 その人が、こちらを見た。

「一杯しかありません」

「知っています」

「あなたが決めると申し上げました」

「決めました」

 わたしは、真昼のほうを見なかった。見ずに言った。

「この人に出してください」

 サイフォンの湯が、上がりきっていた。

 その人は、粉を落とした。竹べらを一度入れる。粉の面に切れ目を入れて、湯とすれ違わせる。

 香りが、立った。

 わたしの鼻には、何も来なかった。

 真昼が、顔を上げた。

「なにこれ」

「何の匂いがしますか」

「……日なた」

 真昼は、そう言った。

「四月の。しずくと、あかりさんと、三人で写真撮ったときの」

 わたしは、その言葉で、思い出した。

 高校の入学式の日だ。玄関の前で、母が二人を撮った。わたしは寝ていたと、そう思っていた。

 違った。

 わたしは、起きていた。

 一枚だけ、三人で撮っている。母が「あかりも入りなさい」と言って、寝間着の上にカーディガンを羽織って、二人のあいだに立った。あの写真は、封筒の中にない。母のアルバムのほうに入っている。

 十年、忘れていた。

 払ったのではない。ただ、忘れていた。


 真昼がカップを持ち上げた。

 湯気は立たない。色は薄い。この店の最後の一杯は、紅茶より薄い茶色をしている。

 飲んだ。

 真昼の肩が、下がった。

 八月に野辺さんを見たときと、同じ動きだった。中から荷物が抜けて、抜けたぶんだけ位置が変わる。

「あ」

 真昼は、自分の手を見た。

「軽い」

「何が抜けましたか」

「わかんない。……なんか、ずっと持ってたやつ」

 真昼は、カップを両手で包んだ。

 十年、この子が持っていた申し訳なさが、いま、どこかへ行った。

 その人は、通り道だと言った。この人の中には何も残らない。真昼の十年は、この人を通って、わたしの知らないところへ行った。

「先輩」

 Tシャツの人が、添島さんを呼んだ。

「なんだ」

「俺、そろそろ行きます」

 添島さんは、空のカップを回した。

「そうか」

「はい」

「どこへ行くんだ」

「分かんないです」

 その人は、椅子から降りた。

「分かんないですけど、たぶん、ここじゃないところです」

 その人は、戸口のほうを見た。

「死んだ俺にできる最後のことって、生きてる人間の邪魔をしないことだと思うんですよ」

「そうか」

「先輩」

「なんだ」

「素麺のつゆ、薄いのが正解です」

 添島さんは、初めて声を出して笑った。

「濃いのが正解だ」

「薄いです」

「濃い」

 二人は、それ以上言わなかった。

 Tシャツの人は、わたしのほうを向いた。

「葉山さん」

「はい」

「帰れる側にいてくれて、ありがとうございます」

「まだ、帰ってません」

「帰りますよ」

 その人は、笑った。音がなかった。

「俺、三月に笑い声を払ったでしょう。あれ、いま思うと、いちばん高いやつでした」

「なぜですか」

「声がないと、こっち側の人にしか届かないんですよ」

 その人は、戸口へ歩いた。

「葉山さんには、届いてました?」

「届いてました」

「よかった」

 戸が開いた。鈴が鳴った。

 わたしは、その音を聞いた。

 うちの台所の風鈴だった。あの人には、何が鳴ったのか分からない。聞いておけばよかったと思ったときには、戸が閉まっていた。

 振り返ると、席が空いていた。

 丸椅子が七つある。そのうちの一つに、さっきまで人がいた。いまはいない。

 それだけだった。

 カップも消えていた。あの人が両手で包んで、底を覗きこんでいた白いカップが、カウンターの上にない。洗って伏せてあるのでもない。最初からなかったように、木目だけがある。

 わたしは、その場所を見ていた。

 三月から七月まで、この人は生きていた。七月二十日に死んだ。そのあとの四か月近くを、この店で過ごした。値上がりの話をして、素麺のつゆで言い争って、音のない笑いかたをしていた。

 それが良かったのかどうか、わたしには分からない。

 四か月ぶん、この人は死んだあとに喋った。喋れたのは、三つ目の掟が誰にも死のことを言わせなかったからだ。言わせない仕組みが、この人に四か月をくれた。

 それを親切と呼ぶのか、先延ばしと呼ぶのかを、わたしは決められない。

 決められないまま、席を見ていた。

「添島さん」

 わたしは言った。

「うん」

「あなたは、どうしますか」

 添島さんは、空のカップを見ていた。

 十年、この人はこのカップの前に座ってきた。空のまま、乾いたまま、内側の白いままで。

「マスター」

「はい」

「請求は、変わってないか」

「変わっていません」

「妻への未練、だな」

「はい」

 添島さんは、カウンターに両手を置いた。

「半分だけ払う」

 その人は、動かなかった。

「半分は、できません」

「できるだろう。差し出すぶんには杯はいらんと、あんたは八月に言った」

「差し出すぶんには、いりません」

「じゃあ、半分差し出す」

「半分を、どう分けますか」

 添島さんは、そこで言葉を探した。

 長かった。振り子の音が、十回以上した。

「あの夜、無線を断らなかったこと」

 添島さんは、そう言った。

「休憩を家で取らなかったこと。鍵の話を本気で聞かなかったこと。四日探して見つけたこと。……その、あとのほうだ」

「あとのほう」

「見つけたときの記憶を、持ってってくれ」

 わたしは、この人の横顔を見た。

「それを渡したら、あなたの中に何が残りますか」

「痛いところが、半分残る」

 添島さんは、そう答えた。

「全部は払わない。半分は俺のもんだ」

 添島さんは、そう言った。

「無線を断らなかったこと。休憩を家で取らなかったこと。鍵の話を聞かなかったこと。それは渡さん」

「なぜですか」

「そこに、あいつが住んでる」

「半分の分けかたは」

 その人が言った。

「どちらが半分かを、こちらでは決められません」

「じゃあ、誰が決める」

「あなたが決めました。いま、口に出した順に」

 添島さんは、自分の言った順を思い返す顔をした。

 無線を断らなかったこと。休憩を家で取らなかったこと。鍵の話を聞かなかったこと。四日探して見つけたこと。四つ並べて、最後の一つだけを渡すと言った。

「四つのうち、一つか」

「あなたが半分と呼ぶなら、半分です」

 その人は、両手をカウンターの上に出した。

 受け取る形だった。

 添島さんは、目を閉じた。

 閉じて、五秒あった。それから、開いた。

「軽くならんな」

「はい」

「半分だと、こんなもんか」

「半分は、半分です」

 添島さんは、空のカップを見た。

「飲めるか」

「飲めません」

「そうか」

「豆が、ありません」

 その人は、そう言った。

 添島さんは、笑わなかった。

 怒りもしなかった。

「そうか」

 そう繰り返して、カップから指を離した。

 十年間、この人は一杯も飲まない。今夜も飲まない。これから先も、飲む場所がなくなる。

 救われていない。

 わたしは、そのことを、この人の隣で見ていた。


 真昼が、奥へ歩いた。

 わたしより先だった。カップを置いて、椅子から降りて、一度も止まらずに奥へ行った。

 奥の席に、紺色の肩がある。

 真昼は、その前に立った。

「しずく」

 雫は、顔を上げた。

「なに」

「わたし」

「うん」

「わたしだよ」

 雫は、首をかしげた。

「ごめん、誰だっけ」

 真昼の背中が、そこで止まった。

 止まって、動かなくなった。肩が下がって、両手が体の横で開いた。

 十年、この子は窓の外に立っていた。入れば言えると思っていた。入って、言って、それで何かが済むと思っていた。

 言う相手が、この子を忘れていた。

「そっか」

 真昼は、そう言った。

「そうだよね」

 その二言で、この子は引き下がった。引き下がって、こちらへ戻ってきた。すれ違うときに、目が合った。

 赤くなっていた。

 わたしは、奥へ歩いた。

 床がある。霧は板の上に張りついている。カウンターの端から先も、床が見えた。

 奥の席に、雫がいた。

 制服を着て、掌を見ている。指が線をなぞっている。速さが遅い。端から端まで行くのに、六月の三倍かかっている。

 顔が、薄い。

 九月に見えるようになった顔が、十一月には透けている。肩の輪郭の向こうに、壁の板目が見える。

 わたしは、隣に座った。

「しずく」

 雫は、顔を上げなかった。

「しずく」

 もう一度呼んだ。

 顔が、上がった。

「なに」

 こちらを、見ていない。

 目のあたりは、こちらを向いている。焦点が合っていない。わたしの向こうの、霧のあたりを見ている。

 九月には、目が合った。名前を呼んだとき、こちらを向いた。

 いまは、合わない。

 死者は、赦された瞬間だけ生者と目が合う。

 その話を、わたしはまだ知らない。知らないまま、目が合わないことを、この子が減ったせいだと思った。

「あなたに、言いたいことがあります」

「うん」

「十年前の、六月十七日のことです」

 雫は、掌に目を戻した。

「知らない」

「知らなくていいです」

「知らない話、されても困る」

 その言い方に、棘があった。

 わたしは、そこで止まった。

 五か月、この子は一度も、こういう声を出さなかった。「ねえ」と言って、「わかんない」と言って、「そっか」と言った。全部、平らな声だった。

 いま、棘がある。

「怒ってますか」

「怒ってない」

「怒ってますよね」

「怒ってないってば」

 雫は、掌を閉じた。

「怒る相手が、いないもん」

 その一文で、わたしの息が止まった。

「わたし、ずっとここにいるの。ずっと待ってて、誰を待ってるか忘れて、それでも待ってて。だんだん薄くなって、指も透けて」

 雫の声が、大きくなった。

「怒りたいよ。誰かに、なんで来ないのって言いたいよ。でも、言う相手が分かんないの。分かんないまま、十年」

 わたしは、口を開いた。

「わたしです」

「え」

「あなたが待っていたのは、わたしです」

 雫の指が、止まった。

「わたしは、葉山灯です。あなたの姉です」

 わたしは、そう言った。

 言った瞬間に、また、あの重さが腹の底に来た。名乗るたびに来る。名は錨だと、この人は言った。錨は重い。

「十年前の六月十七日、家の玄関で、わたしはあなたに言いました」

 雫は、動かなかった。

「もう帰ってこなくていい、と言いました」

 言った。

 自分の声で、聞いた。低くて、早口で、面倒くさそうな、二十八歳のいまと同じ声で。

「あなたは、それを聞いて、家を出ました。三沢さんに電話をして、車に乗って、県道で」

 わたしは、そこまで言って、止まった。

 止まったのは、そこから先を言う資格の話をしようとしたからだ。

 やめた。

 資格の話は、こちらの都合だ。

「ごめんなさい」

 言った。

 五か月、この店で一度も言えなかった四文字だった。

 十年、一度も言わなかった四文字だった。

 言えなかった理由を、わたしは知っている。

 謝ると、その謝罪が本物かどうか分からなくなるからだ。本物でなかったら、謝られた側が損をする。損をさせるくらいなら、言わないほうがいい。

 十年、そう思ってきた。

 嘘だった。

 本物かどうかを気にしていたのではない。本物かどうかを判定される場に、立ちたくなかっただけだ。判定するのは相手で、判定される側は、その結果を受け取らなければならない。

 わたしは、受け取りたくなかった。

 いま、受け取る。

「あの夜、あなたに言った言葉を、一生分取り消させて」

 雫の肩が、動いた。

「取り消せないのは、知ってます。言ったことは消えません。四年、人の一生を三行にしてきて、それだけは分かってます。消えたものは、消えたままです」

 わたしは、両手を膝の上で握っていた。

「取り消せないまま、取り消させてください」

「……」

「一回言った言葉を、一生かけて取り消します。毎日取り消します。死ぬまで取り消します。それを、一生分と呼ばせてください」

 雫は、何も言わなかった。

 わたしは、続けた。

「あの夜、わたしは、帰ってきてほしかった」

 声が、そこで割れた。

「もう帰ってこなくていいと言って、あなたが玄関を出て、戸が閉まって、その音を聞いた瞬間に、思いました。帰ってきてほしいと思いました」

「……」

「追いかければよかった。玄関を開けて、名前を呼べばよかった。十歩でした。玄関から門まで、十歩です」

 わたしは、その十歩を、十年数えている。

「行きませんでした」

「なんで」

 雫が、聞いた。

「意地です」

 わたしは、そう答えた。

 言い訳を作らなかった。作れば楽になる。楽になるものを、わたしは五か月ここで払いつづけて、もう手元にない。

「十八のわたしは、意地を張りました。それだけです」

「ふうん」

「帰ってきてほしかった」

 わたしは、繰り返した。

「あの夜も、今日も」

 雫は、こちらを向いていた。

 まだ、目は合わない。

 わたしは、内ポケットからガラケーを出した。

 開いた。未送信ボックスを開いた。

「これ、あなたのです」

 画面を、雫のほうへ向けた。

 宛先:おねえちゃん

 6月17日 21:39

 ねえ おねえちゃん

 雫は、その画面を見た。

 薄い顔の中で、目のあたりが動いた。

「わたし、これ」

「打ちましたか」

「打った」

 雫は、そう言った。

「打ってる途中で、じいちゃんから電話が来て。切って、また打とうとして、また来て」

「四回来ました」

「うるさいなって思った」

 雫の声が、震えた。

「うるさいなって思って、それで、まひるが」

 その先を、この子は言わなかった。

 言わなくてよかった。裏はもう取れている。

「続きを」

 わたしは言った。

「打とうとしていた続きを、覚えていますか」

 雫は、画面を見ていた。

 長かった。

 振り子の音がしていた。時計の針は止まっている。振り子だけが、左右に振れている。

「わたしが読みましょうか」

 わたしは言った。

「たぶん、こうです。ねえ、おねえちゃん」

 そこまで読んだ。

 読んで、止めた。

「ここから先は、わたしが言うと、あなたが言ったことになりません」

 雫が、顔を上げた。

 薄い顔の、目のあたりが、こちらを向いた。

「なかなおりしよ」

 雫は、そう言った。

「ねえ おねえちゃん なかなおりしよ」

 八文字の続きが、十年ぶりに、この世に出た。

 雫の目が、こちらを見た。

 合った。

 焦点が、わたしの顔に来た。薄い目の、その中心が、わたしを見ている。

「お姉ちゃん」

 雫は、そう言った。

「言ってよ、もっと早く」

 わたしは、うなずいた。うなずくことしかできなかった。

「十年だよ。十年、ここにいたんだよ。名前も忘れて、顔も忘れて、待ってることだけ覚えてて」

「うん」

「ずっと怒ってた。お姉ちゃんのこと、ずっと怒ってた」

「うん」

「でも」

 雫は、そこで、笑った。

 十六歳の顔が、笑った。右側だけ口が上がる、あの笑いかただった。

「待ってた甲斐があった」

 雫は、そう言って、店の中を見回した。

 見回した目が、カウンターの端で止まった。

 真昼が、そこに立っていた。

「まひる」

 雫が、名前を呼んだ。

 真昼の肩が、跳ねた。

「思い出した」

 雫は、そう言った。

「まひるだ。うちに来て、玄関でおじゃましまーすって叫ぶ子」

 真昼は、口を押さえた。

「バド、あんたのほうが上手かった。ずるかった」

「ずるくない」

 真昼は、そう言った。声が裏返っていた。

「ずるくない。練習してた」

「知ってる」

 雫は、笑った。

「知ってて、ずるいって言ってた」

 真昼が、床に座りこんだ。

 膝から落ちた。両手を床について、そのまま頭を下げた。何か言おうとして、音にならなかった。肩だけが動いていた。

「まひる」

 雫が言った。

「謝んなくていいよ」

 真昼の肩が、止まった。

「え」

「謝んなくていい」

「でも」

「謝られたら、わたし、許さなきゃいけないでしょ」

 真昼が、顔を上げた。

 十年前に、この子が言わないでいた理由と、同じ言葉だった。同じ理由で、二人とも黙っていた。

「しんどいじゃん、それ」

 雫は、そう言った。

「だから、なし。謝るのなし。……乗せてくれてありがとう、でいい?」

 真昼は、答えられなかった。

 答えられないまま、うなずいた。何度もうなずいた。


 わたしは、妹の顔を見ていた。

 薄い。透けている。壁の板目が向こうに見える。

 見えているのに、はっきりしている。九月にガラケーの光を当てて確かめた顔と、同じ顔だった。今夜は、光を当てなくても分かる。

 写真と並べなくても、分かる。

 戻ってきていた。

「マスター」

 雫が、カウンターのほうを呼んだ。

 二十六歳の顔をした人が、こちらを見た。

「あなた、わたしなんだよね」

「そうです」

「変な感じ」

「はい」

「お姉ちゃんとしゃべってた?」

「毎晩、しゃべっていました」

「わたしのこと、なんて言ってた」

 その人は、答えなかった。

 答えない代わりに、少しだけ笑った。

「お代を」

 雫は、そう言った。

 自分から、そう言った。

「十年、払わなかったやつ。今日、払います」

 その人は、両手をカウンターの上に出した。

 受け取る形だった。

「お代は」

 雫は、わたしのほうを見た。

 見ながら、言った。

「お姉ちゃんへの未練。ぜんぶ」

 わたしは、口を開いた。

 止めようとした。

 止めなかった。

 止めれば、この子はここに残る。残って、忘れて、薄くなって、最後は霧になる。それは十年の延長で、救いではない。三日前に、わたしは自分でそう言った。

「ぜんぶ、でいいんですか」

 わたしは聞いた。

「うん」

「半分は」

「半分は、いらない」

 雫は、そう言った。

「半分残したら、また待っちゃう。わたし、待つの、もういい」

 わたしは、うなずいた。

 うなずくのに、三秒かかった。

「分かりました」

「お姉ちゃん」

「うん」

「泣かないの」

「泣いてます」

「そっか」

 雫は、笑った。

「じゃあ、いいや」

 その人が、両手を下ろした。

 受け取り終えた形だった。何も起きなかった。音もしなかった。光もしなかった。ただ、雫の肩から力が抜けて、背中が伸びた。

「軽い」

 雫は言った。

「ほんとに軽い」

 わたしは、その言葉を五か月ぶん聞いている。

 野辺さんが言った。真昼が言った。わたし自身が七回、体でそれを覚えた。軽くなるというのは、この店でいちばん幸福な出来事で、いちばん取り返しのつかない出来事だった。

 今夜だけ、違う気がした。

 違うと思いたいだけかもしれない。

「お姉ちゃん」

「うん」

「わたし、これから、どうなるの」

 わたしは、答えを持っていなかった。

 添島さんも知らない。マスターも「私は知りません。まだ行っていませんので」と言った。誰も知らない。

「分からない」

 わたしは、そう答えた。

「分からないけど、待たなくていい」

 雫は、しばらく黙っていた。

「うん」

 その一音が、軽かった。

 カウンターの内側で、二十六歳の顔をした人が、こちらを見ていた。

 見ていて、何も言わなかった。

 この人は、雫が言えなかった一つでできている。その一つが、いま、言われた。

 言われたものは、減る。

 わたしは、その人の輪郭を見た。

 袖から出ている手の先が、少し薄くなっていた。

 わたしは、カップを見た。

 真昼が飲み干した白いカップが、カウンターの上にある。

 空だった。

 底に、黒も茶色も残っていない。乾いている。指で触れた。

 温度が、なかった。

 冷たくもない。この部屋と同じで、この部屋には温度がない。五か月かけて、湯気が消えて、色が抜けて、温かさが抜けて、最後に冷たさも抜けた。

 ゼロだった。

 その瞬間に、音がした。

 高い音だった。

 金属を、木の槌で叩いた音。壁の時計の中から出た。針は止まったままだ。振り子も、止まっていた。

 止まっているものが、鳴った。

 一つ。

 添島さんが、椅子から立った。

「二時だ」

「はい」

「あんた、出るか」

「出ません」

「そうか」

 この人は、それ以上言わなかった。

 十年、四つ目の掟を守ってきた人だ。目ではなく耳で守れと、九月にわたしに教えた。鳴ってからでは遅い、と。

 その人が、いま、座り直した。

「俺も残る」

「添島さん」

「最後まで見る。十年通って、閉店を見んで帰るやつがあるか」

 真昼は、床に座ったままだった。

 雫は、椅子に座って、こちらを見ていた。

 二十六歳の顔をした人は、カウンターの内側に立っていた。

 誰も、出ていかなかった。

 二つ。

 午前二時の鐘が鳴った。それは店の終わりの合図で、妹が待つことを終えた、十年越しの返事だった。


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