第5話「摩擦地獄のチェッカーフラッグと、車輪創造への反逆」
ズリ……ズリズリズリッ!
石畳を削る不快な摩擦音が、ついにピタリと止んだ。
西の空がオレンジ色に染まり、街全体が長い影を落とし始めた頃。甕上悠は、指定された街の外れの石工の工房の前に、数百キロの資材を積んだ巨大な「そり」を無事に届け届けていた。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
肺が焼け焦げるような感覚。全身の筋肉は乳酸でパンパンに膨れ上がり、ゴワゴワの麻縄が食い込んだ両肩からはジワリと血が滲んでいる。額から流れ落ちた汗が目に入り、視界が塩辛く霞んでいた。
時速300キロの極限領域で戦ってきたレーサーとしての強靭な体幹と、路面へのトラクションを逃さない完璧な荷重移動。それがなければ、この非効率の極みである摩擦地獄を、たった一人で日の入りまでに完走することなど絶対に不可能だった。
「お、おい……嘘だろ。まさかお前さん、その大理石の山を、一人で引いてきたってのか……!?」
工房の中から出てきた屈強なドワーフ族の親方が、信じられないものを見る目で悠とそりを交互に指差した。通常、この量の資材を運ぶなら、馬のような荷獣を使うか、最低でも屈強な労働者が三人掛かりで引くのが常識なのだ。
「あぁ……そうだ。チェックを受けろ。荷物に傷一つねえはずだ」
悠は荒い息を吐きながら、肩から麻縄を乱暴に外し、地面に投げ捨てた。
親方は慌てて荷物を点検し、欠けや破損がないことを確認すると、ゴクリと唾を飲み込んでから革袋を取り出した。
「た、確かに受け取った。こいつは約束の報酬だ。お前さん、細っこいなりしてとんでもねえ馬力をしてやがるな」
「……馬力じゃねえ。効率よくトラクションを掛けただけだ。それより、早くその『燃料代』を寄こせ。マジでガス欠寸前なんだよ」
親方から銀貨1枚と銅貨数枚を受け取ると、悠は足早に工房を後にした。
やり遂げた達成感など微塵もない。あるのは、己のエネルギーの99パーセントを「地面との摩擦熱」として無駄に捨てさせられたことへの、どす黒い怒りとフラストレーションだけだった。
向かった先は、大通りから一本路地に入った場所にある、薄汚れた大衆酒場だ。
木の扉を蹴り開け、カウンターに銀貨を叩きつける。
「一番カロリーが高くて、すぐに出てくるメシと、水だ! 早くしろ!」
数分後、悠の目の前には、拳二つ分はあろうかという巨大な骨付きのロースト肉と、硬い黒パン、そして木製のジョッキになみなみと注がれた水がドンッと置かれた。
悠は野生の獣のように肉に食らいついた。味付けは粗塩だけの粗末なものだったが、今の彼にとっては極上のハイオクガソリンだ。咀嚼し、胃袋へと流し込むたびに、空っぽだったエンプティランプが消え、全身の細胞にエネルギーが充填されていくのを感じる。
「……ふぅ。なんとか、エンジンが焼き付くのは避けられたな」
骨についた肉の欠片までしゃぶり尽くし、ジョッキの水を一気に飲み干す。
物理的な「飢え」は満たされた。しかし、悠の魂の奥底で燻っている「スピードへの渇望」は、どうやっても誤魔化すことができなかった。
ふと、悠の視線が、酒場の床を転がる「ある物体」に釘付けになった。
コロコロコロ……。
酔っ払いの客がテーブルから落とした、丸い木の実だった。
その木の実は、凸凹の床板の上を、なんの抵抗もなく軽やかに転がって、壁際で小さく跳ねて止まった。
酒場にいる人間にとっては、誰も気にも留めない日常の些細な光景。だが、悠にとっては違った。その「回転運動」こそが、今の彼が最も欲してやまない、摩擦係数を極限までゼロに近づけるための絶対的な解答だったからだ。
「……なんで、気づかねえんだ」
悠は低く、地を這うような声で呟いた。
「木の実が転がることは知ってる。丸太が転がることも知ってるはずだ。だったら、なぜその丸太を薄く輪切りにして、軸を通して、あのクソ重たい木の板の下に取り付けようとしない!?」
この世界の人間は、決して馬鹿なわけではない。魔法という未知のエネルギーを操り、立派な石造りの建築物を立てる技術はあるのだ。
だが、彼らには致命的なまでに「発想の飛躍」が欠けていた。滑り摩擦を転がり摩擦に変換するという、人類史上最も偉大で、最もシンプルな物理法則の応用。それが、このフジィ王国にはスッポリと抜け落ちているのだ。
悠の脳内で、先ほどの「そり引き労働」の苦痛と、目の前の「転がる木の実」の残像が、激しいスパークを上げて結びついた。
「……だったら、俺が作ってやるよ」
悠の口角が、吊り上がった。
それは、かつてレースのファイナルラップ、死と隣り合わせの限界領域で彼が見せていた、あの狂気を帯びたスピードジャンキーの笑みだった。
「タイヤもねえ、サスペンションもねえ、エンジンもねえ。おまけにアスファルトもない、こんなノロノロした摩擦地獄の世界で、大人しく一生そりを引いて暮らすなんて、死んでもご免だ」
テーブルの上で、分厚いステアリングだこが刻まれた両手を強く握りしめる。
「俺が、この世界に『車輪』を産み落としてやる。フリクションをぶち壊し、風を切り裂くためのマシンを、俺自身の手で組み上げてやる。魔法だろうが魔物だろうが、使えるパワー(動力)は全部利用してやるさ」
それは、たった一人の男による、この世界の常識と物理法則に対する宣戦布告だった。
前世で限界を超えて命を散らした天才レーサーは、今、自らの手でゼロからマシンを創造する「狂気のメカニック」として、新たなスタートラインに立ったのだ。
「待ってろよ、異世界。お前らのぬるい日常を、俺のスピードでレッドゾーンまで引きずり上げてやる!」
酒場の喧騒の中、甕上悠の瞳の奥で、決して消えることのない反逆の炎が、高々と産声を上げていた。
世界最速の男による、狂気の異世界マシンビルド劇が、今まさに幕を開けようとしている。




