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第6話「狂気の決意と、床板の上の青写真(ブループリント)」

ズリ……ズリズリ、という石畳を削る不快な音が、ようやく街から消えた夜。

フジィ王国の裏通りにある安宿の一室で、甕上悠かめがみ ゆうはたった一人、狂気じみた笑みを浮かべていた。


地獄のそり引き労働で稼いだわずかな日当。その大半を酒場でのメシ代(燃料補給)に注ぎ込み、残った数枚の銅貨で借りたこの部屋は、隙間風が容赦なく吹き込み、カビと藁の匂いが充満するひどい有様だった。前世でトップレーサーとして億単位の契約金を稼ぎ、豪華なモーターホームで寝泊まりしていた彼からすれば、本来なら一秒たりとも居たくないような最底辺の環境だ。

だが、今の悠にとってそんなことはどうでもよかった。

彼の脳内は今、世界最高峰のサーキットをコンマ一秒を削って走っている時以上の、凄まじい「チューナーズ・ハイ」に包まれている。


「フリクション(摩擦)をゼロにする。……いや、ゼロじゃダメだ。路面を蹴り出すためのトラクション(駆動力)は絶対に残さなきゃならねえ」


ブツブツと独り言を呟きながら、悠は部屋の隅から拾い上げた真っ黒な木炭を握りしめ、安宿の汚い床板にガリガリと線を引いていた。

酒場で転がった木の実を見て閃いた「車輪」という概念。それを、技術レベルが中世で止まっているこの世界で物理的に実現するための、青写真ブループリントの作成である。


スピードレーサーにとって、摩擦フリクションとは絶対的な敵であり、同時に最大の味方でもある。空気抵抗や駆動系の摩擦は最高速を容赦なく削り取る憎き敵だが、タイヤと路面が生み出す摩擦(グリップ力)がなければ、時速300キロでのコーナリングなど絶対に不可能だ。

だが、この世界で悠が今日一日かけてやらされた「そりを引きずる」という行為は、ただひたすらに自分の運動エネルギーを『滑り摩擦』という最悪の形で熱と不快な音に変換して捨てているだけの、物理学への冒涜、スピードへの冒涜だった。


「『転がり摩擦』への変換だ。接地面を『面』ではなく『点』にすることで、抵抗値は劇的に低下する。だが、ただの丸い板を切り出して箱にくっつければいいってもんじゃねえ。この世界の連中は、そりに数百キロの荷物を積んで引いてやがる。そんな重量を支えたまま『回転』させるには、強靭な『車軸シャフト』と、それを支える『軸受け(ベアリング)』の構造が絶対に必要だ」


床板の上に、前世で見慣れたディスクローターとハブ、そしてホイールの断面図に似た、原始的な車輪の構造図が次々と描かれていく。

タイヤという概念すらないこの世界で、いきなり現代のような複雑なマルチリンク式サスペンションや、中空構造の鍛造アルミホイールを作ることは不可能だ。まずは木材か、あるいは金属の塊から削り出したソリッドな「円盤」を作るしかない。

前世で悠が駆っていたツーリングカーは、数億円の予算と何十人ものエンジニアがミリ単位のセッティングを施したバケモノだった。カーボンモノコックのボディ、風洞実験で煮詰められたエアロパーツ、路面温度に合わせて何種類も用意されるスリックタイヤ。

それに比べれば、今彼が床に描いているのは、あまりにも原始的で、あまりにも惨めな木の板の集合体でしかない。


だが……どうしてだろうか。

最先端のカーボンパーツに囲まれていた時よりも、今のほうが何倍も『血が沸き立っている』のを悠は確信していた。


「ゼロから作る。俺の手で、俺の頭で、このノロノロした世界にスピードって概念を叩き込んでやる」


既存のルールの中でコンマ一秒を削るレースも最高だったが、ルールすらない未開の地に、自らの手で『最速のルール』を創り出す。これほどチューナー魂とレーサーの本能を強烈に刺激される事態があるだろうか。


「問題は、精度バランスだ」


悠は木炭を持つ手に力を込めた。

回転体において、中心の軸がわずか一ミリでもズレていれば、それは致命的な欠陥となる。歩くような速度なら問題ないかもしれないが、スピードを上げれば上げるほど遠心力による振動バイブレーションは増幅し、サスペンションのない直付けの車軸をへし折り、車体を一瞬にして空中分解させてしまう。

時速300キロの世界で、コンマ数グラムのホイールバランスの狂いがステアリングにどれほどの振動を伝えるか、悠は身をもって知っている。


「完璧な『真円』。そして、ミリ単位の狂いもない『ハブ穴』……。素人の木工細工じゃ絶対に作れねえ。俺の頭の中にある図面を、寸分の狂いもなく立体化できる、神業を持ったメカニック(職人)が必要だ」


そこで、悠の脳裏に一人の人物の顔がフラッシュバックした。

今日、地獄のそり引き労働で大理石の山を届けた、街の外れの石工工房。そこから出てきた、背は低いが丸太のように太い腕を持った、あの屈強な親方の姿だ。

ファンタジーの知識など皆無の悠でも、彼らが「ドワーフ」と呼ばれる種族であることくらいは、街の噂や看板の文字からなんとなく理解していた。


「あの親方、俺が運んだ大理石のブロックを点検する時、ただ眺めるだけじゃなく、指先の感覚だけで表面の水平とエッジの角度をミリ単位で確認してやがった」


そう、あのドワーフの親方の指先は、間違いなく一流の職人、いや、一流の「メカニック」のそれだった。

ドワーフ。ファンタジー世界ならお馴染みの種族だが、今の悠にとって彼らは魔法の武器を作る存在などではなく、『超高精度のCNCマシニングセンタ(工作機械)』と同義だった。彼らの筋肉と経験で叩き出される金属や木材なら、俺の要求する究極の「真円」に応えられるはずだ。


「決まりだな。明日の朝イチで、あのドワーフの工房に乗り込む。俺の頭の中にある最強のマシンの足回りを、あいつらのハンマーで叩き出してもらうんだ」


ガリッ、ガリガリッ!

夜が深まっても、悠の手は止まらない。

木製ホイールの直径、車軸の太さ、接地面積コンタクトパッチの計算、そして、木と石畳の間の摩擦係数。頭の中にある現代の物理法則と自動車工学の知識を、この原始的な世界でいかにして再現するか。

アドレナリンがドクドクと全身を駆け巡り、そり引き労働でボロボロになった筋肉の痛みなど完全に吹き飛んでいた。


やがて、安宿の小さな窓から白々と夜明けの光が差し込み始めた頃。

悠は木炭を投げ捨て、大きく伸びをした。

彼の足元の床板には、隙間もないほどにびっしりと、異世界初となる「車輪と車軸」の精密な図面と、それを組み込んだ台車のラフスケッチが描かれていた。それは、このスピードのない絶望の世界に対する、一人のスピードジャンキーからの強烈な宣戦布告状だった。


「待ってろよ、ドワーフのおっさん。お前らの常識レッドゾーンを、俺がぶち壊してやる」


真っ黒に汚れた手で顔を拭い、悠は不敵な笑みを浮かべた。

無一文の天才レーサーが、異世界のメカニックとタッグを組むための、最高にガソリン臭い夜明けだった。

これで、彼の「狂気の決意」は完全な設計図ブループリントとして形を成したのだ。

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