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第4話「無一文のスピードジャンキー」

「……マジで、ガス欠寸前だ」


腹の虫の自己主張は、次第にアイドリング不調のエンジンのような、深刻なノッキング音へと変わってきていた。

甕上悠かめがみ ゆうは、見知らぬ異世界の石畳をフラフラと歩きながら、己の肉体というマシンの『燃料ゲージ』が完全にエンプティを指していることを痛感していた。

限界を超えたクラッシュの末に命を落とし、この「フジィ王国」に転生したばかりの彼には、当然ながらこの世界の通貨など一銭も持ち合わせていない。着ているのはノーメックスのレーシングスーツではなく、ゴワゴワとした麻布の服だけだ。まさに文字通りの「無一文のスピードジャンキー」である。 車輪が存在せず、誰も彼もが重たい「そり」をズリズリと引きずって歩くこの絶望的なまでに遅い世界で、スピード云々を嘆く前に、まずは今日の「燃料メシ」を補給しなければ完全にエンジンストップしてしまう。


「どうにかして、日銭を稼がねえと……」


通りすがりの商人の会話や、街の看板(なぜか自動翻訳されて読める)から情報を拾い集めた悠は、街の中心部にあるという「ギルド」なる施設へと足を運んだ。生活資金を稼ぐための、日雇いの仕事を見つけるためだ。 木造りの重厚な両開き扉を押し開けると、むせ返るような熱気と、汗と酒、そして獣の脂が混じったような強烈な匂いが鼻腔を突いた。中は薄暗く、剣や杖で武装した冒険者らしき屈強な男たちや、商会の人間たちが所狭しとひしめき合っている。

悠は無骨なカウンターに向かい、そこに立つ恰幅の良いギルドの受付職員に声をかけた。


「おい、あんた。手っ取り早く、今日中にメシ代が稼げる仕事はないか?」


受付の男は、悠の頭の先から足元までを値踏みするようにジロリと舐め回した。粗末な服に、武器一つ持たない丸腰。体つきも、重厚な鎧を着込む戦士たちに比べれば、どこか細身に見えるのだろう。


「なんだ、新顔か。見かけない顔だが、お前さんみたいなヒョロい優男に回せるような魔物討伐の依頼なんざ無いぞ。死体処理の手間が増えるだけだからな」

「魔物なんて興味ねえよ。俺の取り柄は『操縦』と『体力』だけだ。荷物運びでもなんでもいい、一番手っ取り早く金になる仕事を出してくれ」


悠が鋭い視線で睨み返すと、受付の男は鼻で笑いながら一枚の羊皮紙をドンッとカウンターに叩きつけた。


「威勢だけはいいな。なら、ちょうどいいのが残ってる。裏通りにある問屋から、街の外れの石工の工房まで、切り出した大理石と木材を運ぶ仕事だ。『そり引き』の重労働だが、日当はそこそこいいぞ。ただし、日が暮れるまでに運びきれなかったら報酬は無しだ」

「上等だ。そのエントリー、俺が引き受けた」


悠は乱暴に羊皮紙をひったくると、指定された裏通りの問屋へと向かった。

問屋の裏庭に案内された悠を待っていたのは、彼の「メカニック魂」を根底から逆撫でするような、史上最悪の乗り物――いや、もはや乗り物と呼ぶことすらおぞましい、巨大な「木のそり」だった。

その上には、見上げるほどに積み上げられた大理石のブロックと、太い丸太がロープで無造作に縛り付けられている。総重量は優に数百キロを超えているだろう。そして、その巨大な板の先端には、人間の肩に掛けるための太くて汚らしい麻縄が伸びていた。


「おいおい……冗談じゃねえぞ。マジでこれを、人間の力だけで引きずって運べってのか?」

悠は頭を抱えた。


タイヤも、サスペンションも、ベアリングも存在しない。ただひたすらに、木と石畳という巨大な摩擦係数ミューを生み出す接地面が、ベタッと大地に押し付けられているだけだ。


「こんなクソみてえな空力とフリクションの塊、エンジン(俺)のパワーをなんだと思ってるんだ……!」


文句を言っても腹の虫は収まらない。悠は覚悟を決め、太い麻縄を自らの肩と胸に斜め掛けにした。ゴワゴワとした縄の感触が、素肌に食い込んで痛い。


「……行くぞ」


グッ、と前傾姿勢になり、足の裏全体で石畳を捉える。

普通の人間ならば、この数百キロの摩擦の塊を前にして、すぐに音を上げてしまうだろう。受付の男が「ヒョロい優男」と嘲笑ったのも無理はない。

だが、悠はただの男ではない。時速300キロの極限領域でマシンをねじ伏せ、数Gにも及ぶ強烈な重力加速度(Gフォース)に何十周も耐え続ける、バケモノじみたフィジカルを持つ「レーサー」なのだ。その細身に見える身体の下には、重いヘルメットと強烈な横Gから首を守るための丸太のような頸部筋肉、そしてペダルワークとステアリング操作をミリ単位で安定させるための、鋼鉄のような体幹コアが隠されている。


「トラクションを……逃がすな!」


悠の脳内で、無意識のうちに物理演算が始まった。

ただ力任せに前に引くのではない。縄の角度、自らの体重の掛け方、石畳の凸凹ギャップに対する足の置き場。どうすれば路面に100%の『駆動トルク』を伝え、そりを前進させるベクトルの力を最大化できるのか。


「フゥゥゥゥッ……!」


鋭く息を吐き出し、強靭な体幹の筋肉を一気に収縮させる。

前世でフルブレーキング時に数トンの圧力をペダルに掛けていた強靭な脚力が、石畳を強烈に蹴り上げた。

ズズズズズズズズッッ!!!

その瞬間、絶対に動かないと思われた巨大な大理石の山が、不快な摩擦音を立てながら、滑るように前進を始めたのだ。


「おおっ!?」


周囲で作業をしていた問屋の男たちが、信じられないものを見る目で悠の姿を振り返った。「あの優男が、あんな重いそりを一人で引きやがったぞ!?」

だが、周囲の驚愕とは裏腹に、そりを引く悠の表情はどす黒い怒りとフラストレーションで満ちていた。

重いそりが動いたことへの達成感など微塵もない。彼を支配しているのは、自分の全精力が「摩擦」という無駄な抵抗によって熱と音に変換され、ただ捨てられていることへの猛烈なストレスだった。

ズリ……ズリズリズリッ!

一歩進むごとに、全身の筋肉が悲鳴を上げ、大量の汗が滝のように噴き出す。

だが、どれだけエンジンの回転数(心拍数)を上げても、この不快な木の板は「歩く速度」以上には絶対に加速しない。


「遅え……。遅え、遅え、遅えッ!!」


悠の口から、呪詛のような言葉が漏れ続ける。

時速300キロの世界で生きてきた男が、時速4キロの非効率な摩擦地獄に囚われている。これほどの屈辱、これほどの拷問が他にあるだろうか。

汗が目に入り、肩の皮が剥け血が滲んでも、悠はそりを引く足を止めなかった。

(こんなクソみたいな世界で、一生こんなノロノロした地獄を味わうつもりはねえ……!)

絶望的な摩擦音の中で、スピードジャンキーの瞳には、狂気に満ちた執念の炎が宿り始めていた。

この地獄のそり引き労働が、彼の中で「ある決意」を爆発させるための、強烈な圧縮工程コンプレッションになろうとしていることを、今はまだ誰も知らなかった。


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