第3話「摩擦音の正体と車輪なき世界への絶望」
ズリ……ズリズリ……ッ!
石畳を削るような、鼓膜を不快に震わせる鈍い摩擦音。
スピード狂である甕上悠の耳にとって、それはブレーキパッドが完全に摩耗し、ローターの鉄板同士が削れ合っているような、背筋が凍るほどの「異音」だった。
「なんだ、このひでえ音は……。どこのどいつだ、サイドブレーキを引きずったまま走ってやがるのは!」
イライラと頭を掻きむしりながら、悠は音のする大通りの角へと足早に向かった。
彼の脳内には、整備不良の馬車か、あるいは車輪の軸が折れ曲がった手押し車のようなものが通り掛かっているビジョンが浮かんでいた。
だが、角を曲がって大通りに出た悠の視界に飛び込んできたのは、彼の常識と物理法則への理解を根底から覆す、あまりにも原始的で絶望的な光景だった。
「お、おい……嘘だろ……?」
そこにいたのは、粗末な服を着て、滝のように汗を流しながら「木の板」を引っ張る初老の男だった。
男の肩には太い麻縄が食い込んでいる。その縄の先には、分厚く無骨な木の板が繋がれており、その上には山盛りの野菜や木箱が積まれていた。男が一歩踏み出すたびに、木の板の底面が凸凹の石畳と激しく擦れ合い、あの「ズリズリ」という不快な摩擦音を撒き散らしているのだ。
悠の目は、無意識のうちにその「乗り物」のスペックをスキャンしていた。
ボディ剛性、最悪。サスペンション、皆無。空力、論外。
そして何より――。
「ない……! タイヤが……いや、丸いパーツ自体がどこにも付いてねえッ!」
悠は信じられないものを見る目で、男の足元を凝視した。
荷物を運ぶ木の板の下には、路面との摩擦を極限まで減らし、運動エネルギーを効率よく前進へと変換するための人類最大の発明、「車輪」が存在しなかった。ただ真っ平らな木の面が、石畳にベタッと押し付けられているだけだ。
「おい、あんた! なんでそんな頭の悪い運び方をしてるんだ!?」
あまりの非効率さに耐えきれず、悠はたまらず男に声をかけていた。
「あぁん?」
男は額の汗を汚れた袖で拭いながら、怪訝な顔で悠を睨みつけた。
「頭が悪いだと? 若いの、寝ぼけたことを言うな。こんな重たい荷物を運ぶには、こうやって頑丈な『そり』に乗せて引くのが一番安全で確実だろうが」
「そり、だと……? 雪の上じゃあるまいし、こんなミュー(摩擦係数)の塊みたいな石畳の上でそりを引くバカがいるかよ! その板の下に『丸いもの』を付けて転がせば、路面とのフリクションが減って、今の十分の一の力で何倍も速く進めるだろって言ってんだよ!」
悠はジェスチャーを交えながら、必死に回転運動の優位性を説明した。しかし、男の顔に浮かんだのは理解の光ではなく、完全に狂人を見るような呆れ顔だった。
「丸いもの? フリクション? なんだその魔法の呪文みたいな言葉は。そんな都合のいい魔法の道具があるなら、とっくに貴族様が使ってるわい! 邪魔だ、どけ!」
男は吐き捨てるように言うと、再び顔を真っ赤にして縄を引き、ズリ……ズリ……と地を這うような速度で去っていった。
悠はその場に立ち尽くした。
男の言葉が、悠の脳内で何度もリフレインする。
『そんな都合のいい魔法の道具があるなら』――。男は、車輪という概念を「魔法」だと言ったのだ。
慌てて周囲の通りを見渡す。
よく見れば、あの初老の男だけではない。若い男も、女性も、誰も彼もが荷物を運ぶ際には「そり」を引きずっていた。中には馬のような四足歩行の獣に荷物を引かせている商人もいたが、その獣が重い息を吐きながら引いているのも、やはり巨大な「そり」だったのだ。
「冗談じゃねえ……」
悠は絶望で視界がクラクラと揺れるのを感じた。
このフジィ王国という異世界には、エンジンやアスファルトが無いだけではない。そもそも「車輪(とそれを覆うタイヤ)」という概念すら存在していなかったのである。
スピード狂にとって、摩擦とは絶対的な敵だ。空気抵抗や駆動系の摩擦は最高速を容赦なく削り取る憎き敵であり、それをコンマ数ミリの世界で削り落とすことに心血を注いできた。
だが、目の前でこの世界の人々が行っているのは、ただひたすらに自分の運動エネルギーを熱と摩擦音に変換して捨てているだけの、スピードへの冒涜行為だった。
「こんなノロノロした世界で生きていけってのか……!? 摩擦抵抗をなんだと思ってるんだ。こんな非効率な世界、俺のテンションはエンスト寸前だぞ……!」
頭を抱え、石畳の上にへたり込む悠。
前世で時速300キロの世界を生きていた男にとって、歩く速度よりも遅い「そりの移動」しか存在しないこの世界は、まさに息の詰まるような地獄だった。
――グゥゥゥゥッ。
絶望に打ちひしがれる悠の腹の虫が、情けなく、しかし自己主張強めに鳴り響いた。
そう、彼は死んで転生してきたばかりの無一文だ。麻布の粗末な服を着ているだけで、財布など持っていない。スピード云々を嘆く前に、今日を生き延びるための「燃料」を補給しなければ、文字通りガス欠でゲームオーバーになってしまう。
「……クソッ。腹が減ってちゃ、文句を言うパワーも出ねえ」
ゆっくりと立ち上がった悠は、忌々しそうに足元の凸凹の石畳を蹴り飛ばした。
金はない。だが、前世の過酷なレース環境で鍛え上げられた、強靭な首回りの筋肉とブレない体幹という「エンジン(肉体)」だけは残っている。
「やるしかねえのか……俺の、この手で……!」
スピードを愛する天才レーサーが、皮肉にもこの世界で最も忌み嫌う「摩擦抵抗」の塊である「そり」を自ら引くという、屈辱的な労働へと足を踏み出そうとしていた。




