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第2話「未知の景色と失われたアスファルトの匂い」

「……うっ……」


全身の骨という骨を粉砕し、内臓をミンチにするような、あの絶望的な衝撃と激痛はどこへ消えたのか。

猛烈なGフォースから解放された甕上悠かめがみ ゆうの鼓膜を打ったのは、耳をつんざくようなV8エンジンの咆哮でも、金属がひしゃげガラスが砕け散る絶望のクラッシュ音でもなかった 。

チッチッチッ、という場違いなほど長閑な小鳥のさえずりと、頬を撫でる柔らかな風。

重苦しい鉛のような瞼をこじ開けると、そこにはピットガレージの無機質な天井でも、集中治療室の眩しい蛍光灯でもなく、突き抜けるような青空と、どこか古びたレンガ造りや木組みの建物の壁が広がっていた。


「ここは……どこだ……?」


ひび割れた声を出して、悠はゆっくりと上体を起こした。寝かされていたのは、硬いアスファルトの上ではなく、土と薄っすらと生えた雑草の上だった。

咄嗟に自分の身体を見下ろす。極限の炎から身を守るための、難燃性素材ノーメックスで作られた分厚いレーシングスーツは影も形もない。代わりに身に纏っていたのは、ゴワゴワとした麻布のような、ひどく粗末で時代遅れな衣服だった。頭を強固に守っていたカーボンヘルメットも、頸椎を保護するHANSデバイスも消え失せている。

だが、不思議と身体に痛みはなかった。あれほどの速度でコンクリートウォールに激突したのだ。常識的に考えれば、即死、良くても全身の骨折で一生寝たきりの状態になるはずの限界を超えた大クラッシュだった 。


「俺は……あのコーナーで死んだのか」


悠は自らの手のひらを見つめた。レーシンググローブに包まれていたはずの素手には、長年アルカンターラ巻きのステアリングを力一杯握りしめてきたことで形成された、レーサー特有の分厚い「ステアリングだこ」がしっかりと残っていた。このタコだけが、自分が間違いなく「甕上悠」というスピード狂であったことを証明する唯一のテレメトリー(記録)のように思えた 。

冷静な頭で、最後の瞬間のマシンの挙動をトレースする。リアタイヤのバースト、失われたトラクション、コントロール不能に陥った1.5トンの車体。時速200キロオーバーでの壁への直撃。

「ああ、間違いない。物理の法則に従えば、あそこで俺の命は確実にレッドゾーンを振り切って、エンジンブローしたってわけだ」

死を受け入れるのは早かった。極限のスピードの世界で生きるということは、常に死の恐怖と隣り合わせということだ。コーナーの進入でブレーキを遅らせるたびに、彼は死神とチキンレースを繰り広げてきた。だからこそ、自分のミスとマシンの限界で命を落としたことに、後悔も未練もなかった。


悠はふらつく足取りで立ち上がり、周囲の空気を深く肺に吸い込んだ。


「……なんだ、この空気は。気持ち悪いくらい『綺麗』じゃねえか」


思わず悪態をつく。彼の鼻腔を満たしたのは、湿った土の匂い、草花の青臭さ、そして微かな獣の糞の匂いだった。

そこには、悠が愛してやまない匂いが一切存在しなかった。焦げたラバーの匂いもない。高純度のハイオクガソリンが燃焼する匂いもない。ブレーキパッドが削れる鉄の匂いも、真夏のアスファルトが熱せられた匂いもない。

スピードジャンキーにとって、それはあまりにも無機質で、刺激がなさすぎる「無臭」の世界だった。酸素濃度だけは無駄に高いが、アドレナリンを沸騰させる「ガソリンの匂い」という最高のスパイスが完全に欠落している。


路地裏のような場所から大通りへと歩み出た悠は、そこで決定的な違和感――いや、決定的な「現実」を目の当たりにすることになる。


「おいおい、冗談だろ……?」


目の前に広がるのは、見渡す限りの石畳の街道と、中世ヨーロッパの歴史映画からそのまま抜け出してきたような街並みだった。行き交う人々は皆、悠と同じような粗末な布の服や、見慣れない民族衣装を着ている。中には、無骨な鉄の剣を腰に下げた兵士や、先が光る杖を持った魔法使いのような出で立ちの者まで歩いていた。

足元の路面に目をやると、ひどく凸凹した石畳が続いている。「ミュー(摩擦係数)は最悪、ギャップだらけでサスペンションが底突きしそうな悪路だ」と、無意識のうちにレーサーの目線で路面状況を分析してしまう自分がいた。

ふと、通りを歩く恰幅の良い商人が「ようこそフジィ王国へ!」と別の旅人に大声で声をかけているのが聞こえた。どうやら、自分が目を覚ましたこの場所は「フジィ王国」と呼ばれる国らしい 。言葉がなぜか自動的に翻訳されて理解できるのも、ファンタジー特有の都合の良いお約束というやつだろう。


状況は完全に把握できた。自分が死んで、見知らぬ異世界に転生したこと 。魔法や魔物が存在するかもしれない、いわゆる剣と魔法のファンタジー世界だということ。

だが、悠にとってそんなファンタジー要素はどうでもよかった。彼を強烈に苛立たせているのは、もっと根源的な問題だった。


「……遅え」


無意識に呟いた言葉には、どす黒いフラストレーションが混じっていた。

街全体が、あまりにも「遅い」のだ。人々の歩く速度、動物の歩み、すべてがスローモーションのように感じられる。時速300キロの世界でコンマ1秒を削るために生きてきた男の動体視力と脳内プロセッサにとって、この街の移動速度は、まるで時間が止まっているかのような強烈なストレスだった。


「たまんねえな。こんなノロノロした世界で、一生歩いて過ごせってのか? スピードの快感も、コーナーを攻めるスリルもねえ。ただ息をして、寿命が来るのを待つだけのアイドリング状態。冗談じゃねえぞ……!」


スピードの禁断症状が、早くも悠の身体を蝕み始めていた。手持ち無沙汰になった両手が、無意識に架空のステアリングを握る形に曲がる。右足が、存在しないアクセルペダルを求めてピクピクと痙攣する。

せめて、何か速い乗り物はないのか。馬でもいい、いや、馬車でもいいから、風を切る感覚を味わいたい。

そう思って周囲を血走った目で探り始めた悠の耳に、ひどく耳障りな音が飛び込んできた。


ズリ……ズリズリ……ッ!


それは、何か重たいものを地面に強引にこすりつけるような、およそ「効率」という言葉から最もかけ離れた、不快な摩擦音だった。


「あぁん? なんだ、あのひでえ音は。誰か、ブレーキを引きずったまま走ってやがるのか?」


整備不良の車でも走っているのかと、イライラしながら音のする方へと視線を向けた悠。

しかし、そこで彼が目撃したものは、ある意味で死のクラッシュよりも恐ろしい、スピードジャンキーにとっての「究極の絶望」だった。

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