第1話「極限のレースとレッドゾーンの向こう側」
「……チッ、まだ足りねえ。もっとだ……もっと回れ!」
焦げたラバーの匂い、高純度のレーシングガスが爆発する熱気、そして鼓膜を直接殴りつけるような甲高いエキゾーストノート。カーボン製のフルバケットシートに体を深く沈め、アルカンターラ巻きのステアリングを握りしめる男の目は、血走った狂気を帯びてタコメーターの針を睨みつけていた。
天才的なドライビングテクニックを持つレーサー・甕上悠は、今まさに自らの限界、いや、マシンの物理的な限界すらも超えようとしていた 。
現在、国内最高峰のツーリングカー選手権、最終戦のファイナルラップ。悠のマシンはすでに2位以下を遥か後方に置き去りにし、単独トップを独走していた。このまま無難に流して走れば、文句なしのシリーズチャンピオン。莫大な賞金と、栄誉あるタイトルが手に入る。チームのピットからは、無線のインカム越しに「ペースダウンしろ」「タイヤを持たせろ」という悲痛な指示が何度も飛んできている。
だが、悠は無線のスイッチを乱暴に切り捨てた。彼を突き動かしているのは、レースの勝利がもたらす栄光でも、巨額の賞金でもない。ただ純粋な、狂気とも言える「スピード」への渇望だった。極限のGフォースに内臓を押し潰され、一瞬のミスが死に直結する速度域の中でしか生きている実感を得られない、根っからのスピードジャンキーとしての業である。
「ぬるい……こんなスピードじゃ、俺の渇きは満たされねえんだよッ!」
右足の甲でアクセルペダルを床板が抜けるほど踏みつける。V型8気筒自然吸気エンジンは悲鳴にも似た咆哮を上げ、メーターの針はとうの昔にレッドゾーンへと突入していた。シリンダー内で爆発するエネルギーが、プロペラシャフトを介してリアタイヤへと暴力的なトルクを叩きつける。
路面温度は50度近く。すでに数十周を激走し酷使されきったスリックタイヤは、表面がドロドロに溶け、本来のグリップ力を失いかけている。車体は微小なギャップを拾うたびに神経質に暴れ、今にもコントロールを失って宙を舞いそうだ。それでも悠はアクセルを緩めない。
「ここだ……ッ!」
目前に迫るのは、コース最大の難所。前人未到のコーナリングスピードを要求される、魔のヘアピンカーブだ。常人ならば本能の恐怖に従って、コーナーの手前150メートルで強烈なブレーキングを行うはずの進入速度。しかし、悠の右足は依然としてアクセルをベタ踏みにしたままだった。コーナーまで残り100メートル、80メートル、50メートル。
「いける……俺の腕と、このマシンの限界の、さらに向こう側へ!」
コーナーの進入角ギリギリ、死と隣り合わせのタイミングで、悠はついに動いた。右足でフルブレーキングを行うと同時に、かかとでアクセルを鋭く煽る。ヒール・アンド・トウ。エンジン回転数を完璧に同調させながら、シーケンシャルミッションのギアを弾くようにシフトダウンしていく。
パンッ! バパンッ!
マフラーから未燃焼ガスが炸裂するバックファイアの轟音。悠は強烈な前荷重を作り出し、フロントタイヤをアスファルトに無理やり食い込ませながら、ステアリングをコーナーの内側へ一気に切り込んだ。
リアのトラクションが抜け、車体が猛烈な勢いで横っ飛びにスライドし始める。完璧なアングルと速度を保った、時速200キロオーバーの四輪ドリフト。空力パーツが空気を切り裂き、タイヤが悲鳴を上げながら白煙を噴き上げる。
悠の視線は、コーナーの頂点であるクリッピングポイントを正確に捉えていた。ステアリングの修正舵とミリ単位のアクセルワークで、滑る車体を完璧にコントロールする。このままコーナーを抜けられれば、間違いなくコースレコードを大幅に更新できる。異次元の速さを証明できる。
「――もらったァ!!」
悠の顔に、恍惚とした笑みが浮かんだ。
だが、物理の限界を超えた神業の代償は、一瞬の破綻として現れた。
ガンッッ!!
という、骨を砕くような鈍い衝撃音がコックピットに響き渡った。限界を超えて酷使されていた右リアタイヤが、強烈な横Gと摩擦熱に耐えきれず、完全にバーストしたのだ。
「なっ……!?」
路面を掴む「点」を失った瞬間、神業のバランスで保たれていたマシンの姿勢は一瞬にして崩壊した。時速200キロ近いスピードを保ったままコントロールを失った1.5トンの鉄の塊は、巨大なミサイルと化してコースアウトしていく。
悠の研ぎ澄まされた反射神経が、とっさにステアリングを逆方向に切り、フルブレーキを踏み込む。だが、タイヤを失ったマシンには何の物理的干渉も起こせない。
「クソッ、曲がれ! 止まれェェェッ!!」
祈るような絶叫も虚しく、視界いっぱいに分厚いコンクリートウォールとタイヤバリアが迫ってくる。
ドゴォォォォォォンッ!!!
激しい大クラッシュの中で、マシンのフロント部分は原型を留めないほどにひしゃげ、粉々に砕け散ったカーボンパーツとガラスの破片が宙を舞った 。悠の体は6点式シートベルトによってシートに強く締め付けられたが、首を支えるHANSデバイスの限界すら超える凄まじい衝撃が全身を貫いた。
内臓が弾け飛ぶような激痛の直後、彼の視界は急速にブラックアウトしていく。
(……クソッ、まだだ……俺は、もっと速く……)
スピードへの異常なまでの執着だけが、消えゆく脳細胞の中で渦巻いていた。
だが、限界を超えた大クラッシュにより、天才レーサー・甕上悠の命はここで終わりを告げようとしていた 。
薄れゆく意識の中、彼の目に映ったのは、勝利を祝福する白黒のチェッカーフラッグではなかった。
それは、痛みも音もすべてを白く塗りつぶすような、異常なほど眩しい光だった 。
極限のレースとレッドゾーンの向こう側で命を散らしたスピード狂の魂は、その眩い光に包まれ、車輪なき未知の異世界へと転生していくことになるのだった 。




