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Bitter Orange, in the Blaze.  作者: 紅崎ナヤ
七.想いはちぎれて
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090.Cloak for...?



 この時代の夜は暗い。

 一般的な生活の出来る庶民ならランプの一つでも持っているのだが、たったそれだけで光のない夜を照らし出すことはできないだろう。

 彼らは日の出と共に起きだし、日が沈むのと共に眠る日々を送っているのだ。

 そんな中で、唯一の例外が貴族であった。

 彼らはその財力で夜の中に光を見つけたのだ。

 炎の魔法を利用したからくりでいたるところに光源を作る――その機能は後に庶民にとって当たり前の存在となるのだが、この時代はそうもいかない――という方法を開発し、彼らは自らの屋敷にそれを取り付けた。

 屋敷はどこも明るく、夜でも煌々と輝いている。そこに夜という空間の恐怖はない。

 だから、彼らは忘れてしまうのだ。

 真の暗闇の、そのどんなに恐ろしいかを――。


 ――ガシャンッッ!!

 スイはマントを盾代わりにして窓ガラスを突き破った。屋敷の中は真の闇に落ちてしまっている。

 先ほど彼はこの屋敷に光を供給していた装置を破壊したのだ。緊急用に装置は二つついているのだが、もう一つは既にハルリオが逆側で壊してくれていたのだろう。

「照明機器が壊されたぞっ!」

「早く灯りを持ってこい! 見張りの奴らは何をしていたんだっ!」

「矢を放つなっ! 味方にあたる!」

 突然光を失った内部は、一気にパニックに陥っているようだった。スイはその暗闇をすり抜けるようにして走る。

 同じ部屋にいようと、その暗さに侵入者がどこにいるのかも彼らは分からないのだ。

 通路に飛び込み、暗がりを縫うようにして奥へと進んだ。

 至るところで聞こえるバタバタという足音。どこかに光が灯った。誰かが松明を灯したのだろう。

 急がなくてはいけない。屋敷の中の兵士が多い分、この暗闇だけが頼りなのだ。

 だが、兵士たちの方の混乱もひどいものだった。

 まるで世界に一人になってしまったかのような黒い空間。もしかしたら今隣に暗殺者がいるのかもしれない――、そう思うだけで身の毛がよだつ思いを味わうことになる。

 それは明らかに彼らの動きを鈍らせていた。

 スイはそのまま一気に通路を駆け抜ける。屋敷の構造まではよくわからないから――これは持ち前の方向感覚と勘に頼るしかない。

 そんな中、ふと珍しく冷静な言葉をスイは聞きつけていた。

「油を目一杯持ってくるんだ。今すぐに」

「……はっ?」

「ランプ用でも食用でもなんでもいい。落ち着いて行動するんだ」

 どうやら上の者が兵士たちに命令を下しているらしい。まるで乱れもない声……、若い青年の声に聞こえるのにとても落ち着いている。

 だが、それはどこかスイの胸に突っかかる声であった。なんだろうか、この違和感は。とても……とても、嫌な予感が胸を駆け抜けた。

 しかし今は立ち止まっている暇はない。構わず回廊を突っ切る。

 暗い回廊の奥に影が揺らめいた。兵士のひとりだ。――その奥に、階段。

 スイは瞳を細めながら音も立てずに兵士の方向へ走り、その足を振り上げた。

「――がっっ!!」

 突然の不意打ちに兵士がひるんだ隙に階段に飛び込む。

「いたぞ! 階段だっ!」

 兵士のうめき声に気付いた他の者が叫ぶ。数多の気配が階段へと向かう。

 しかしこの暗闇の中では作戦もなにもあったものではない。ばらばらとろくに陣も組まずに押し寄せてくる。

 そのひとりが松明を片手に階段に足をかけた。後から次々と他が続く。

 兵士は必死で階段を駆け上がりながら二階に向けて叫んだ。

「おいっ、そっちに侵入者が行った! 至急援護を――ッ!」

 言葉は最後まで続かない。既に駆け上がって進んだと思われたスイが、突然影から飛び出してきて、再びその兵士に正面から蹴りをくらわせたのだ。

 落ちた松明にゆらりと大きな影が映る。闇の奥底にある色をした瞳がこちらを見下ろしたと思った瞬間には、その兵士の平衡感覚は失われていた。

 階段を転げ落ちると共に、上ってきた仲間たちが巻き添えになって共に落ちていく。狭く暗い階段だ、瞬く間に通路は完全に塞がれてしまった。

 その様子に一瞥もくれずスイは走り出す。室内のこもった生ぬるい空気に一風が吹き込む。

 一気に二階の回廊も突っ切って、彼は次の扉を開け放った。

 しかし、次の瞬間にその足は横に飛んでいる。飛んできた矢は虚しく空を切って絨毯に突き刺さった。

「ふん、反射神経だけはいいみたいだな」

 回廊の奥の部屋には次の階段。――しかしその部屋には既にいくつもの松明が灯されていた。

 スイは暗がりに潜んだまま中をうかがう。

 そこには鎧をまとった長身の男が槍を構えて待っていた。横には従者らしき兵士の姿も見える。どうやら矢を放ったのは彼の方らしい。

「さあどうする? オレを倒さないと先には進めんぞ」

「え、エイドさん! ここは自分に任せて上へおあがりください!」

 するとエイドと呼ばれた長身の男は不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「お前が先に行け」

「で、ですが……っ!」

「オレは戦いたくてここに雇われたんだよ。それともお前が奴を一人で止められるとでも思ったか」

「それは………」

 兵士が口ごもった瞬間だった。エイドが目を剥き、槍を前に掲げる。そうでもしなかったら今ごろ彼はまともに切りかかられていただろう。

「な……っ!」

 目もとまらぬ速さの出来事に、兵士は口を半開きにしたまま硬直する。

 突然飛び出してきたスイの剣を捕らえたまま、エイドは不敵に笑った。

「先に行って領主の守りを固めろっ! へ、久々に骨のある奴と戦えそうだぜ!」

「は……はいっ!」

 淡々と剣を構えるスイの姿に怖気づいたのか、兵士は身を翻して階段を駆け上がり始めた。

 その間にもスイは体勢を立て直して剣を振りかぶる。

 ――エイドの持つ巨大な槍の切っ先が煌きを残して薙がれた。金属同士がぶつかって甲高い音がはじける。

 暫くお互いの武器を交差させたまま、エイドは笑みすら零してみせた。

「上出来だ!」

 短く刈り込まれた濃い金髪。頬には十字の傷が刻まれている。褐色の肌からしてキヨツィナ大陸南部の出身だろうか。

 恐らくきっとこの館で雇われたギルドの者なのだろう。風貌が他の兵士たちと一線を画している。

 そしてその動きも――だ。

 扱いづらい巨大な槍を手にしているのに、その動きに無駄はない。

 まるで風に舞う一枚の葉のようにそんな槍をかわしたスイは、すかさずその懐に飛び込んだ。槍はリーチが長い分、その中に入ってしまえば攻撃が難しくなるからだ。

 しかし……読みは、失敗だった。

 刹那に低い声の呟きが耳に届く。

 ふっと、背筋が氷結するような言葉が……。

「――精霊の御名において」


 その瞬間、部屋に目を開けるのも困難なほどのスパークが炸裂した。



 ***



 だんっ、と絨毯の上を足が蹴った。数メートル離れたところに難なく着地する。コンマ3秒の差で彼が飛んだところでトラップが作動し、矢が飛び交う。

「そこか!」

 そのトラップの作動音に気付いた兵士が走る。暗闇の中ではほのかな松明だけが頼りだ。

 しかし、その飛び込んだ暗がりが、兵士の見た最後の情景となった。

 ――ざんっっ!!

 一瞬松明に光ったのは薄い金色の髪が流れる様。

 どさりと倒れる音と共に、また地を蹴る音。

「急げっ! 2階にあがらせるな!」

 誰かがそう叫んだ。気配が階段へと集まっていく。

 しかし、ハルリオの判断は早かった。飛ぶように窓ガラスに近寄ると、横にあった燭台をもぎ取ってそこに叩きつける。

 パリィィンッッ!!

 甲高い音。砕けたガラスの破片が舞い踊る。しかしそれを確認する間もなく彼の姿は横に飛んでいた。

「なんだ、今の音はっ!」

 ふっとハルリオの口元に笑みが走る。

「外に逃げたようです! 逃がしてはなりません、急いでください!」

 彼は大声でそう叫んだ。暗がりでは誰が喋っているのかもわからないのだ、光のない中での声は強力な武器ともなる。

「よし、続けぇっ!!」

 誰かがそう叫ぶと共に、一気に指令が渡った。既に侵入者は音もなく数人を倒しながら階段へと突き進んでいるというのに、だ。

 松明の灯った階段を猫のように素早く登る。二階の回廊は松明がついていたから、出てきたと同時に腰から引き抜いた短剣を素早く投げつけた。

 まずひとつの灯りが消える。素早く灯りの数を瞳が捉える。あと……3つだ。

「きっ、来たな!」

 その姿に気付いた兵士が目を剥く。しかしその判断は遅れていた。何故ならそこにいたのがまるで貴族のような風貌をした麗人だったのだから……。

 ヒュンッ、と鋭い音と共にハルリオの手から短剣がまた投じられる。その正確さは獲物を確実に放さない。

 続けざまに投げられた短剣が部屋の全ての照明を消してみせた。ハルリオは両手で剣を持ち直して駆け出す。

 ふっと耳元にざわつくものを感じて体を斜めに倒した。

 なにかが引き絞られる音と共に、髪をわずかにかすめて矢が飛び交う。

「――暗視魔法ですか。少々厄介ですね」

 口の中だけでそう呟くと、ハルリオは迷わず目を閉じた。月明かりに慣れればようやくぼんやりと見えるくらいの視界なら、聴覚のみにまかせて戦った方がいい。

 ――暗視魔法。その名の通り暗闇の中でも目がきくようになる魔法のことだ。

 しかし確かそれはかなりの上位魔法に入るものだから――恐らく術者である弓使いは一人なのだろう。

 ふっと肩の力を落とす。神経を張り巡らせて、暗がりの中になにかが動く、音を……。

 次に投じられた矢は――確かにハルリオの心臓のある部分を狙っていたが、届くことはなかった。

 矢が辿りつく前に、彼がそれを叩き落してしまったからだ。

「――っ?」

 明らかに術者が狼狽する。まさかこの暗闇の中でかわされるとは思わなかったのだ。

 思わず思考が停止してしまう。次の行動を考えようとする体が――動く。

 ハルリオはその空気の乱れをすかさず捉えていた。驚いた影が弓を弾くよりも早く、その喉元に剣の切っ先を合わせる。

 ――彼の空色の瞳がゆっくりと開くころには、その場に血だまりが広がっていた。

 しかし息のひとつもつかずに冷徹な瞳は次の目標を見据えている。

 回廊の奥に見える、次の階段だ。

 宙に浮いているような速さで回廊を一気に駆け抜ける。途中のトラップもなんなくかわし続けて――。

 ――今までに幾度もこなしたことを、ひとつひとつ。

 家を出て、抜け殻のようになった体でしてきたことを。

 何度となく血をすった剣を両手にして。

 そんな形でも生きていけるくらいの力を持ってしまったから。

 だから、今だってこうして走っているのだ。

 なにかを考えることをやめてしまったあの日。

 感情なんか消えてしまえとさえ思った。

 そうしてそれは現実になった。

 思っていたよりもずっとずっと簡単に物事は進むようになって。

 その流れの中で好きなように剣を振るうだけで、日常は進んでいくようになった。

 ――だけれど、それでもどうしてか胸を焦がす出来事は今でも彼の心の奥底に。

 何故だか心に染み付いて離れない、出来事が、ひとつだけ。

 それが……。



 ***



「―――まさか避けてみせるとは」

 その声は、驚愕とも歓喜ともとれぬ色をしていた。

 男の目の前で痺れをこらえながら立ち上がろうとするのは、青髪の剣士。


 ――スイは歯を食いしばって、再び剣を握りなおしてみせた。

 あの瞬間、槍使いの男――エイドと呼ばれていたか――が突如として放った魔法を直接くらっていたら、今ごろ感電死していただろう。

 それだけその雷魔法は強力だった。違和感を直感で感じた瞬間、身を引いたからなんとかかすめる程度ですんだのだ。

 しかし体中が先ほどのようにうまく動かない。鉛になってしまったかのように腕が、重い……。

 張り詰めた空気の中、それでもスイはエイドを静かに見据えて剣を構えた。

「――上等っ! 楽しませてくれる!」

 エイドの槍技が容赦なく降りかかる。スイは痛みすら痺れた足で石畳の部屋を蹴って、その切っ先をかわした。

 もう少し腕を休ませないと、巨大な槍を止める自信がなかったからだ。

 だが狭い部屋だ。みるみる追い詰められる。敵の懐に向かえば魔法の一撃が待っているだろう。

 剣がとても重い。痺れた片手で持つにはとても重過ぎて、両手をつかっている。

 背中が壁についた。じりじりと寄ってくるエイドの姿。薄い唇を噛み締める。

 振り上げられた槍をやむを得ず剣で受け止める。

 体中がきしみ悲鳴をあげた。崩れ落ちそうになる足を必死で叱咤し、まさに自分の体を切り裂こうとする刃を押さえる。

 しかし耐えられなくなるのも時間の問題だった。軽く弾かれて、背中を強く打つ。

 かはっ、とむせた口から血が滴った。しかし構っている暇はない。すぐにまた二発目が襲い掛かってくる。


 ――これから俺が教えるのは剣術なんかじゃない。


 ふっと、そんな言葉が不意に心の中に生まれた。

 懐かしい声だ、どうしてこんなときにそんな声が……。

 どこかでかすむ視界に、静かに橙のひかりが差し込んでくる。


 ――戦場におきてや決まりごとは存在しない。あるのは生か、死、それだけだ。


 これは――。

 いつだったか、教えてもらったことだ。

 あの草原であのひとがいっていた、ことば……。


 ――所詮剣など殺傷の為にあるもの。相手を殺すために剣はあるんだ。

 ――そこに誇りなんてものはどこにもない。それは単なる個人の妄想だ。

 ――わかるか。それでもお前は剣をとるか。


 まだ幼い自分には難しかった言葉の数々。

 それははじめて、剣を持った日のこと……。

 夕暮れに染まった町外れ。

 小さな手が、血に染まったような夕日の色を吸い込んだ剣を。


 その、とてもとても深い悲しみを含んだ、あのひとの、瞳と――。


 ――わかった。お前に、剣の使い方を教えてやる。

 ――ひとをころし、自分が生きるための方法だ……。


 刹那、スイの目が光を取り戻した。

 巨大な槍の切っ先が描く形をその瞳に映す。

 不思議と恐怖はない。弾くようにではなく、――流れるように体を傾けた。

 ――ズンッ!!

 必殺の槍の一突きはスイを捉えそこなった。エイドの瞳がはじける。

「なに……っ!?」

 剣を握り締めた。そろそろ痺れもとれてきた、……まだ、まだ握れる。


 ――武器は剣だけじゃない。周りを見渡せ。全てを味方につけるんだ。


 隙を狙って横に飛ぶ。今は一刻も早く背中に壁という状況を打破しなければならなかったからだ。

「チッ!」

 エイドが舌打ちをしながら向かってくる。

 すかさず火の灯ったままの燭台を背後に見つけ、ひったくるとエイドの方向に向けて投じる。

 それを槍で防いだ彼の一瞬の隙をついて上から切り込む。

 二つの武器が甲高く打ち合わさり、火花が散って薄暗い部屋に舞った。

 しかしこちらが上から切り込んでいる分、こちらの方が優勢なのは確かだ。


 ――相手の動きだけじゃない。表情、目の動き……すべてを読め。


 キィンッ、と嫌な音を鳴らして双方が一度武器を凪ぎあう。しかし振り払いに時間がかかったのはエイドの方だった。

 彼の瞳が僅かに揺れる。口が僅かに動いた。――詠唱だ。

 スイの動きは目にも止まらぬほどだった。すかさず剣を槍にもう一度叩き下ろす。

 人はひとつのことにしか全力を注ぐことができない。集中力を魔法の為に費やすと、その分、持つ槍に込められる力は弱くなる――。

「……クッ!」

 詠唱は途中で途切れた。魔法独特の収束していく空気の流れがふっと緩む。

 そこからは剣と槍の打ち合いが暫く続いた。ただ、ゆっくりと確実にスイの方がその槍使いを押していく……。


 ――その上に立ち向かえるだけの技術があって、初めて勝てるんだ。


 両手剣としては小ぶりで、片手剣にするには大ぶりなその剣を右手に。

 まるでそうなることが初めから決まっていたかのように体が動く。

 戦いの最中に別のことなど考えている暇はない。

 しかし――、それでも、頭の中に流れてくる言葉は止まることを知らなかった。

 いつしか聞いたそれらのひとつひとつに、まるで力が与えられているようで。

 ただ、それはまたひとつひとつ、どこかで哀しみを呼び覚ますもので……。

 弾かれた剣の反動を利用して一度後ろに下がる。相手にも既に余裕はない。

「――こんな奴とやりあったのは生まれて初めてだ」

 息をきらせながらこちらを見据えるエイドの瞳。

 対するスイも、僅かに息をきらせながらエイドの瞳を見据えていた。

 スイは思う。確かに強い。そこらの剣士では太刀打ちできない力と素早さを持ち合わせている。

 しかし――彼は知っているのだ。

 今目の前にいるよりもずっと――そして自分の更に高みにいる、そんな『最強』の名を手にした一人の青年を。

 不意にスイの瞳に走った鋭い光に、エイドは戦慄すら覚えた。

 早い。

 彼が動いたと思った瞬間には。

 紺碧がかった青の髪が、今にも目の前に。

 槍でそれを防ごうとしたが、間に合うことはなかった。

 ――ギィィンッッッッ!!

 今日一番の甲高い音。

 室内だというのに、空気が動いたような気さえした。

 巨大な槍は主の手を離れて地に突き刺さり。

 そんなエイドの首筋に、剣の切っ先――。

 エイドはスイの瞳を見た。

 黒よりも深い海の色をした瞳は、……何の表情すら読み取ることができなかった。

 暫く、辺りを沈黙が守る。


「……殺せよ」

 勝敗は、誰にでもわかるものであった。

 エイドは小さく笑ってみせる。既に彼は手ぶらだ。スイがほんの少し腕に力を込めれば、その命は断たれることになるだろう。

「アンタが勝ったんだ、オレに悔いはないぜ」

 だが、スイの顔は何の表情も浮かべずに、まるで固まったようにあるだけで――。

 もしもエイドがスイと見知った者ならば。彼のことをよく知るものであったならば……。

 きっと、スイの剣を持つ手が僅かに震えていたことに、気付いたであろう。


 ――相手は容赦なく斬れ。

 ――お前の剣は、人を斬るためにあるんだ。

 ――お前は……その道を選んだんだろう?


 どくん、どくん、

 心臓が悲鳴をあげた気がしていた。

 覚悟はしていたはずなのに?

 選んだのは自分だったはずなのに?

 強くなりたいと、確かにあのときに願ったはずなのに。


 ――強くなりたいか。

 ――それが、どんなに辛い道であっても、か。


 唇を噛み締めた。血の味がする。

 やはり自分は震えているのだと。

 いくら頭の中に同じフレーズが鳴り響いたとしても。

 ただ、その先を踏み出すことも出来ずに……。

 動け。動け。

 いくらそう腕に命令したところで。

 心が、締め付けられるだけで……。


「おい、どうした。今更怖気づいたか?」

 やっとエイドが怪訝そうな顔をする。しかしスイは……やはり動かない。

「オレはな、単に戦いたかっただけだ。それで負けたんだ、殺されて文句はいわねえ」

「――」

 スイの唇がかすかに動いた気が……した。

 しかしそれは次第に確実に、ひとつの言葉を成すようになっていく。

「悔いがないだと?」

「――?」

 まるで独り言のようにも思えた、彼の囁き。

 そのかすれたような声は、ひどく部屋に響くものであって……。

「悔いがなかったら殺されてもいいのか」

 エイドは気付いた。

 スイの瞳がこちらを見ている。

 ……否、その瞳は、こちらの瞳のその奥――その更に奥にある、彼自身を見つめているのだと。

「死ぬ理由なんかどこにもない。なのに死ぬというのか」


 ――戦っているときは自分を殺せ。

 ――感情的になるな。

 ――そうなったら……お前の負け、だ。


 止まらない。

 いくら頭の中に声が響いたとしても。

 その海の瞳は――。

 感情を捨てろ。捨てろ。

 そう、自身で願ったとしても……。

 それでも、動けずに。


「お前を知っている誰かを……世界を残して、誰かになにかを背負わせて……それでも死にたいのか」

 まるで透明な声だと思った。

 静かな、音色。

 瞳はただ無表情だったわけではない。

 初めから、哀しみを一杯に湛えていたのだ。

「だったらアンタはどうするんだ」

 エイドは静かにそう呟いた。

「そうやってアンタは人が殺せないのかよ。そりゃアンタの弱ささ」

「人を殺すことに強さも弱さもない」

 スイはその切っ先を喉元にあてながら、……まるでなにかをこらえるような顔をしていた。

 いつだったか兄に言われた言葉を……すべて。

 すべて理解して、なのにその通り冷酷になることも出来ずに――。

「――あるのは哀しみだけだ」

 腕を、あとほんの数センチ。たったそれだけ動かすことすら出来ずに。

 やはり、自分は兄のようになれないのだと……。

 それがまたひとつ、彼の心に傷を生む。

「そんな度胸でよくここまでこれたな」


 スイの剣の切っ先が。

 静かに下ろされた。

「いいのかい? オレは隙を狙ってアンタを背後から襲うかもしれない」

「――別に」

 あまりにもそっけない声。

「そうやって結局殺せずに、これからも生きていくのかよ」

 スイは何も言わなかった。表情ひとつとして変えることはない。

 ただ、おもむろ剣をしまって。

 全てを心にしまいこんで――。

「――アンタ、名前は?」

 次の階段に視線をやって。

 行くべき先へと。

 動き出す――、


「スイだ」


 ぴん、とエイドの瞳が弾けた。

 一瞬聞き間違えたかとさえ思う。

 今では貴族中で有名になった名前。

 炎の中に姿を消した孤高の銀髪鬼。

 彼は、その――。


 後姿は、みるみる遠ざかる。

 両手でも抱えきれないくらいの苦悩を、その胸に秘めた影が。

 そのまま、ゆらりとゆらめいて、消えていった。



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