069.流れに背く術
――知ってるだろ? 孤高の銀髪鬼クイール。
――そいつの本名はクォーツ・クイール。
――そしてそのたった一人の家族であり、たった一人の義理の弟が、
――スイ・クイール
錆びて動かなくなっていた針は、いつのまにか風に溶け、消えてしまっていた。
そこに残されたのはただの空虚。なにもない、なにも動けない。
頭に鉛が詰まったように、体がうまく支えきれず、僅かに揺らいだ。
水中で呼吸するとこんな感覚なのだろうか、胸が苦しい。
まるで自分が世界の上に立っているのだと感じられない。
そうして、どうすることもできない。
そのなんと苦しく悲しいことか――。
「――他になにか質問があるかい、ピュラ」
フェイズは言いながら軽く肩をすくめてみせた。
そんなおどけたような仕草をピュラは一瞥すると、スイに視線を向ける。
「そうなの?」
「……」
一番知られたくなかったことだった。
誰にも気付かれずに、ただひっそりとしていたかった。
しかし……しかし。
この現実を、一番望んでいたのは、自分ではないだろうか……?
ただそうやって、自分だけで支えるには悲鳴をあげてしまいそうな事柄を、彼女に知っていてほしかった、……そうだったのではないか。
だから、彼には何も言うことができない。
後悔するのは、いつだって遅すぎる――。
「……そうなのね?」
じん、と火傷のような痛みが胸をつんざいた。
「聞いてるのよ、答えて」
「――」
呼吸をするのもままならないまま、無理に息を吸い込んだ。
「……そうだ」
しかし彼女の瞳は激昂するわけでもない、燃え上がるわけでもない。ただ、強い強いひかりを映して――。
「どうするー? 別にピュラたちがついてくる分には俺も構わないけど」
「そんな得体の知れないところに黙ってついていくと思う?」
「さーな、でもスイはそこに行くんだぞ?」
「……」
軽く手を広げて、笑うのは彼ただ一人。
「それじゃーな、これから世界になにが起こると思うかー?」
まるで軽い冗談でも言うかのように唇に乗せる。
セルピは呆然としたようにその場に佇み、ピュラは変わらぬ強いひかりを湛えた瞳でフェイズを睨んでいた。
いつもの明るい口調で、すらすらと言葉だけが紡がれる。
「ウッドカーツ家、貴族の最高峰。300年という時を経て、今じゃ跡継ぎ争いが酷いことになってる。しかも現在、邪魔だっていうんで家臣たちが殺したはずだった本家の次男が生きてるかもしれないっていう噂がたって家の中は目茶目茶さ」
フェイズは樹にその体をもたれて、ついと手を差し出してみせる。
「エスペシア家、ウッドカーツ家の右腕。それが今、表立った発表はないが家長の娘が謎の失踪をしたっていって、これまた酷い騒ぎになってる」
ぴくん、とセルピの肩が震えた。思わず自分の口元を押さえて顔を俯かせる……。
「サドロワ家、ウッドカーツ家の左腕。元々南の地方は貧困が激しい土地だったからな、しかもナチャルアに手をだして大損害を被ったらしいぞー?」
頭の中を過ぎるナナクルの姿。きっと彼女ならナチャルアを守り通すだろう、その強さと遺跡の力で……。
「こうして貴族の御三家は今どこも非常に混乱してる。しかもなー、皆自分の利益しか考えていねーから、他の下級貴族はその間を付けねらってのし上がろうとする。混乱が広がる原因さ」
平衡感覚が半分失われていた気がした。
しかしフェイズの語りは止まることをしらない。
「……そう、今が最大のチャンスだなー。貴族政権は倒れないようにみせかけてもうガタガタもいいところなのさ。だから、もしもそれに一斉に民衆が立ち上がって攻撃をけしかけたら……?」
にこやかに笑ったまま、突き出した拳を握って、――ぱっと開く。
「世界が、動く」
――ピュラの耳元で、ピアスが煌いた。
古の英雄がつけていたとされる幸福と再生の象徴、ガーネットピアス。
彼女は静かに、口を開いた。
「……なんでそれを、私たちに教えるの?」
フェイズの瞳がその深みを増していく……、
「そんな大それた貴族の情報と、あなたたちの狙い、スイの過去……。私に教えて、何の利益があるの?」
「分からないかい?」
その声の深さに、クリュウは恐れすら感じた。
緑の背景に見合わぬ紫色。自然から孤立した、相反する色――。
「――ナンパさ。な? 一緒に戦ってみないかい?」
スイの瞳が、幾度か瞬いた。
そんなことをさせるわけにはいかないと、心がわめいて。
しかし彼にそれを叫べる力があるわけでもなくて。
ゆったりと、時だけがゆるやかに過ぎ去っていく。
「混乱が始まったらギルドなんか機能すると思うかー? それよりはこっちで働いてもらった方が安泰だと思うけどなあ」
ピュラは立ったまま、動かなかった。
取り乱すわけでもなく、戸惑うわけでもなく、ただ目の前の現実を直視していた。
だから、彼女は冷静に判断を下す――。
「ここで断ったら、私とセルピの身が危険にさらされるわね。そんな動きがあることを知ってしまったもの」
「ピュラ……」
クリュウが不安そうにその名前を呼ぶ。しかしピュラは一度も視線をフェイズから逸らさなかった。
いつフェイズが動いても対応できるように、だ……。
「フェイズ、あなた……謀った、わね?」
「おや、ピュラは頭がいいなあ」
笑いながらフェイズは赤紫の髪をかきあげた。
太陽はみるみるうちに昇っていき、また一日がはじまっていく。
全ては流れてゆき、もうなにひとつとして後戻りは出来ない。
「あなたの狙いはスイを連れて行くだけじゃないわね。スイと、『その連れ』も一緒に巻き込みたかったのね?」
「悪いなー、あのオッサン一々悪どいからさ。俺に課せられた使命は、スイを連れて行くことと、――その『人質』を捕獲することさ?」
わざとらしく語尾をあげて首を傾げてみせる。
「そうでなきゃスイが逃げ出すとでも思ったんじゃねーの?」
俺の知ったこっちゃないけどな、といわんばかりに再度肩をすくめた。
「森の前で足跡をつけて、私たちに道標を示したのも、あなたね」
「さて、そんなことしたっけかなー」
不敵にも見える笑顔。この青年には、笑顔以外の表情がないのだろうか?
「じゃ、どーする?」
そこで、暫く言葉がぷっつりと切れた。
まるで絵にでもなってしまったかのように、彼らは動かない。
フェイズは太陽のような笑顔で返事を待っている。
セルピが胸の上で拳を握って、じっとピュラの判断を待っていた。
そんなピュラは口を閉ざしたまま、フェイズを睨んでいる。
クリュウは、スイのマントを掴んだまま、なにをすることもできずにいた。
――スイは。
自分が立っているので、精一杯だった。
その目が見るのは、一人の緋色の少女――。
ただ、瞳が突然跳ね上がったのは、彼女が自分の方を向いたからだ。
風のない森は静かに佇み、朝の早い時間は穏やかに落ちる。
そんな森を背景に、彼女はじっと自分の顔を見つめた。
「あなたは、本心から、この人たちに力を貸してもいいと思ってる?」
「……」
こちらから目を離さずに、言葉を放つ娘。
いつか、同じ瞳でこちらを見つめていた少女がいた。
決して怖じをみせることなく、ただ前を向いて。
しかし、その少女は――?
「――本心から、といったら嘘になる」
喉が、そう紡いだ。
ピュラから視線を離すことも出来ずに、その痛みを感じながら……。
「だが、俺が必要とされているなら――」
手袋をした拳を握り締めた。布がこすられて、小さく鳴る。
「それなら、行く……」
「……そう」
ピュラは小さく頷いて、フェイズに視線を向けた。
フェイズはピュラにまた笑いかけ、彼女の答えを促した。
彼女は僅かに目を伏せて、視線をさまよわせる。
――そうして。
にこっと笑顔へとその顔を転じさせた。
「いいわ、『人質』とやらになってやるわよ」
それぞれの瞳が、はじける。
「えっ……ちょ、ピュラ……っ」
「別にね、私は周りがどう動こうと、なんだっていいの」
クリュウの言葉を遮ってピュラは続けた。
「どんなことが待ち受けてたって、生き抜いてやるわ。私は、自分の力と運を信じているもの」
言ってから、自分の胸に手の平をあてる。
――微笑みは、そのままに。
「でもね、本当に私を連れて行っていいの? なにするかわからないわよ?」
フェイズは心底おもしろそうに笑っているだけだった。
「いーんじゃねーの? そこは俺の管轄外だし」
「セルピはどうするのかしら?」
ピュラは後ろにいたセルピへと振り向いた。
彼女は唇を噛み締めながらじっと俯いたままだったが……、なにかを決心したように頷いて、顔をあげる。
「ボクも……、ボクも、行くよ」
その言葉は何故だか重みを感じさせて心を小さく震わせたが、ピュラは気にしなかった。
「ピュラ、……セルピ、」
スイが一人一人の名前を呼ぶ。
彼は少しためらった後に……呟いた。
「いいのか?」
「仕方ないでしょ。でもいいんじゃない、たまにはこーんな危険なことするのも。それにあんたには結構世話になったからね」
その笑顔が、妙に響く。
何が間近で起ころうと、何に巻き込まれようと、そこで強く光輝いている。それが彼女の生き方。
流れに流されるわけでもないし、抗うわけでもない。ただ、その細い足で立っている。
だから、その生き方が胸に痛い……。
「まあ悪いようにはされないと思うけどなー」
フェイズその髪をかきあげると、上着の裾をひるがえして背を向けた。
「それで、どこに行くの?」
そうピュラが問うと、ちらりと流し目で彼女を見て小さく笑う。
「スイの故郷、廃墟の港町レムゾンジーナ。そこにヘイズルっていう変なオッサンがいるのさ」
***
息が詰まるような一日だった。
しかしそんな一日にも、いつしか終わりがくる。
そうして次の日へと続いていく……。
ドトラからは、ほぼ海沿いに北へと歩いていた。
しかし、旅の道中はそれぞれ無言だった。
だが、あそこで様々問いただされるよりは良かったのかもしれない。
ただ……。
スイは木陰で海を眺めていた。
もう夜もすっかり落ちている。誰もが寝静まっていた。
「……結局、巻き込んだ」
「……」
ぽそっと透明な呟きを漏らすと、クリュウがその瞳を揺らめかせる。
大きな木を背にもたれて立ったまま……、視線は海の果て。
深く重たい青が支配する夜の景色。
ふと自分の拳に目を落として、……その拳を、握った。
いつだったか、血まみれの剣を握った手。
そうして血にまみれた手。
彼は抗う術を知らない。
いつだって彼は運命を受け流していたのだから。
一度だってそれに歯向かったことなどないのだから。
その身を、ただ流れに任せて。
だから、どうすれば流れに背けるのか、彼はそれすら知らない……。
「どうして、こうなるんだろうな」
「スイ……」
いつも通り、彼の表情には何も浮かぶことがない。
ただ、夜の闇が落ちて、影も更に深く落ちる。たったそれだけ――。
「でもこうなったらもう仕方ないんだから……、スイが、ピュラとセルピを守ってあげなきゃ」
「守れると思うか?」
じっとクリュウはスイの瞳を見つめた。
「フレアは守れなかった、……いや、守るという意志すらなかった」
ただ、その時が永遠に続くものだと思って、身を任せていただけ……。
力があるように見せかけて、いつだって自分は、無力だ。
それが歯痒くて、心の内側が悲鳴をあげるのに、それなのに、なにをすることもできない。
そうして心の中にそれらをさまよわせている――。
「でもね、ピュラもセルピも強いから、きっと大丈夫だよ」
「……」
クリュウは光を宿した羽根をゆっくりと動かせながら、言った。
「スイ、自分で自分を許してあげなかったら、いつまでも動けないよ?」
心の暗がりに落ちた、囁き。
潮風に木々が揺れて涼やかな音をたてた。
耳には遠く遠く、波間の吐息……。
「無理に変わろうなんて思わなくていいと思う。ただ、前をみて歩かなきゃ……」
ふるふると小さな頭を振る。
まるで気が遠くなってしまいそうな、静寂の中――。
「もう自分が幸福になれないって思うほど、悲しいことはないから」
スイはそっと視線を水平線へと移した。
瞳に映る、静かな海の情景。
懐かしい海の匂いが吹き抜ける。
「……そうだな」
かすれた喉で、囁いた。
彼女は言った。
周りで何が起ころうと、何に巻き込まれようと、構わないと。
そこで自分が生きていけると信じている、と。
どんな現実も、立ち向かってみせる――と。
その強さが、欠片ほどでもあれば。
――静寂の夜はまだ、明けないまま。




