027.荒野の果てへ
少女は、走っていた。
その蜜色の髪を振り乱して、小さな靴で、小さな体で。
それでも精一杯に走っていた。
『いいかい、とにかく奥で隠れていなさい。生き延びるんだ、クリアナ』
祖父が残した言葉を頼りに、不安と恐怖に押しつぶされそうになりながらも階段を駆け上がって最上階の廊下を走る。
乾季から雨季の到来を知らせる嵐が、屋敷を襲っていた。
外では馬のいななきが聞こえる。
雷が、すぐ傍で落ちた。
短い廊下の筈なのに、それは長く長く感じられて――。
その一番奥の暗がりに、彼女は姿を落とした。
頭を抱えて顔を伏せてうずくまり、叫びたくなるような恐怖を必死でこらえる。
その時間は、数秒だったか数時間だったかも分からない。
彼女には一秒が何日にも感じられていた。
胸を占めていたのは、死の恐怖。
父も母も、自分に逃げろと言ったまま行方がつかない。
生きているのだと思っても、心のどこかでもうこの世にいないのだと呟いてしまう。
しかし彼女はすべての予感を心の奥に押し込めていた。父も母も何処かで元気にしているのだと。そう思わなくては、生きていられなかった。
そして、今。
祖父が傍にいない苦痛は耐え難いものになっていた。
たった一人で自分を守ってくれた人。
しかし彼は戻ると言ったのだ。だから絶対に泣いたりはしない。いい子にして待っていると約束したのだ。
――がたがたがたっっ!!
突如の音にクリアナは肩を飛び上がらせた。
体中の体温がみるみる欠落していくのが感じられる。
しかし、次の言葉を耳にした瞬間、クリアナはそこから飛び出していた。
「クリアナ」
「おじいさま!!」
――ピシャアンッッ!!
雷に照らされ、彼の姿が露になり、思わずクリアナは息を呑む。
体中傷だらけで無残な姿になった彼が、重い体をひきずりながら弱々しい目をこちらにむけていた。
「おじいさま……っ! 大丈夫ですか!?」
「クリ、アナ、私の認識が甘かった……。お前だけでも見逃して貰おうと思ったが……、無理だった。今はなんとか扉を閉めて奴らの侵入を阻止しているが、破られるのも時間の問題だ。急いで逃げなさい!」
「おじいさまは……!?」
「私はいいから……早く……」
「そんなの……そんなの嫌よ……」
クリアナはふるふると首を振って祖父の手を握り締めた。
「一緒に逃げましょう! おじいさま、お願い!」
「クリアナ、わかっておくれ……」
「おじいさ――」
「いたぞ!! ここだ!」
がたがたと家が揺れた気がした。
祖父カラルの瞳が絶望に揺れ、呆然とするクリアナを抱きしめる。
「すまない……」
兵士たちに取り囲まれるのは一瞬のことだった。
その冷たい雰囲気に、心さえも凍ってしまいそうな――。
カラルは必死で兵士に訴える。
「頼む、この子だけは助けてやってくれ!! まだたった12歳の子なんだ、何故殺す必要がある!?」
「殺す理由はある。お前たちは分かっていないかもしれないが――」
氷のような声が、耳に響いた。
ちゃき、という剣を構える音、そして鎧が揺れる音、自分を見つめる数々の視線――。
祖父の服を握り締めて、瞳を固く閉じた。
体温が、血液が全てなくなってしまったかのように体が冷たい。
雨の音がする。強い強い、雨の音。
湿った、不思議な空気。春の香りがする、くすぐったいような柔らかな空気。
暗い暗い、そんな夜のこと――。
「これがこの世のシステムだからだ」
――ドス……ッ!
***
「お前の祖父は、戻ってきた。しかしその直後、お前は祖父もろとも殺された。お前がここに縛られている理由は、祖父が戻ってこない哀しみじゃない。現実を見つめようとしないお前自身が、自分を縛っているんだ」
なぜだか痛みを覚えるような声で彼は語る。
「そん、な……」
クリアナの記憶は、ピュラたちの心の中にも直接映しだされていた。
あまりにも残酷すぎる、彼女の結末を――。
セルピが涙をこらえきれずに首を振る。
『あ……』
クリアナの体が、沈んだ。
そのまま地にへたりこむ。
今まで、この近辺を通る者たちを何人もその手にかけていた。
そうやって世界が壊れれば自分も解き放たれると思っていたからである。
なのに。だというのに。
――すべては現実を拒否した自分から始まったのだ。
『わた、し……』
どうしたらいいのか、わからなかった。自分が殺意を持って人を殺めたことは事実だ。それは絶対に変えられない。
許されないことをしてしまった苦しみと、自分の弱さを知った悲しみに胸が押しつぶされそうだった。
「クリアナ……」
ピュラが一歩一歩、静かに踏み寄ってくる。
雨は殴るような雨から、いつのまにかしとしとと降る雨へ変わっていた。
ピュラはクリアナの目の前まで来て、膝をついて視線を合わせる。
燃えるような橙色の瞳が、静かな光を放っていた。
「もう終わったことは変えられないわ」
クリアナの瞳に涙が浮かぶ。
しかしピュラはふっとその顔をゆるめて、静かに呟いた。
「でも、現実を認めて受け止めなきゃだめよ。嘆くだけじゃ前と変わらないわ。しっかりその胸に受け止めて、前を向いて行きなさい。ちゃんと過去を背負っていくのよ」
『……現、実』
繰り返すようにクリアナが呟く。ピュラは静かに頷いてみせた。
「真実がどんなことであろうと、真実を全員が知るなんてことはありえないわ。それが現実よ。だから、真実はこうだったから、とか、そういうことじゃなくて、」
手を伸ばして、蜜色の髪に触れる。
そのままくしゃりと撫でて、僅かに笑った。
「今ある現実を、目を背けずに受け入れて、強くあろうとするのよ」
クリアナの瞳から涙がぽろぽろと零れ落ち、床に滲みる。
『あ……ピュラ、さっ……』
「大丈夫よ、あなたなら次に生きるときはもっと強くなれるわ。負けちゃだめよ」
『……は、い……っ』
泣きじゃくる彼女に、ピュラはまた頭を撫でた。
受け入れることの辛さを、彼女は知っている。
残酷すぎる現実に抗うことは出来なくとも、その流れの中で強くあること。彼女はそんな強さを持っているのだ。
「クリアナちゃん……」
セルピがとてとてと歩いてきて、クリアナの手をとって笑う。
「クリアナちゃん、ボク、クリアナちゃんと会えてよかったよ。だってすごく楽しかったもん。だからね、忘れないでほしいんだ。クリアナちゃんはボクたちをあったかくさせてくれたこと、あとお友達になってくれたこと。……ね?」
『……はいっ……』
初めてクリアナの顔にわずかな笑顔が戻った。つられてセルピもくすくすと笑い出す。
「……セルピ」
「にゃ?」
横を向くと、ピュラが気まずそうな顔でセルピを見つめていた。
「ちょっと感動に水をさすようで悪いんだけど」
「え?」
「……鼻水、拭きなさいよ」
「ふにゃっ!」
セルピの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「あーもうトロいわね! ほらハンカチ!」
「ありがとう~」
ピュラが突き出したハンカチを貰ってセルピは鼻をかむ。
「やれやれ、一時はどうなるかと思ったよ」
「あんたっていつも疲れた顔してるわね」
「誰のせいだと思ってるの、誰の……」
クリュウは溜め息をつきつつその場に座り込んだ。
「そういえばスイは生きてるの?」
「死んではない」
「あらそ。ならほっといても平気ね」
一応傷だらけのスイはそれだけで済まされた。
『クリアナ』
ぼう、と部屋に灯火が灯った。
やわらかで暖かな煌きだ。
クリアナの目に、光が溢れる。
『おじいさま……!』
その老紳士は口元を微笑ませてそっと目を細める。
『ずっと待っていたよ』
『あ……』
クリアナが立ち上がって、長い髪を僅かにゆらめかせた。
一歩一歩、それは小さくとも確実に近寄っていく――。
『おじいさま……』
彼はずっとここで待っていたのだ。
彼女が現実を知るまで、しっかりと受け止めるまで。
待っていて、くれたのだ……。
――ああ、そうか。
――帰ってくるべきなのは、ただいまを言うべきなのは、
『ただいま……』
クリアナは祖父の胸に、たった一人の家族に体を預けた。
涙が、熱い涙が零れ落ちてゆく。
『おかえり、クリアナ』
そんな彼女を、しっかりとカラルは抱きしめた。
そして、ピュラたちの方に視線を向ける。
クリアナも腕を離して、振り向いた。
『ありがとう……』
静かに灯火が消えていく。
『あなたたちに会えて、本当に良かった……。ありがとう……』
セルピが手を振り、その横でピュラが笑っている。
クリュウが頷いて見送り、彼を肩に乗せたスイが静かに見守っていた。
彼女にとって誰よりも何よりも、素敵な旅人たち――。
きっと、次に生きるときはそんな人になれることを祈って。
雨が、そこにしか降らなかった長い長い雨が、
今、止んだ。
***
4人はクリアナとカラルの亡骸を屋敷の外に埋め、小さな墓を作った。
屋敷は古びたまま佇んでいる。このまま風に吹かれて、いつか崩れて消えていくのだろう。
そして彼らもまた、その場を去っていった。
進路は南へ。それぞれの目的を果たす為に。
荒野の果てに、夕日は落ちる。
今日も、そして明日も。
しかし、本当の果てなど何処にもないのだ。
歩いていけども、その果てはその場から見たものであって、決して手は届かないのだから。
そして、手が届かないからこそ、人々はそれを求めるのだ。
荒野の果てに、夕日は落ちて――。
小さな少女の物語は誰にも伝わることはない。
それを知っているのはたった数人の者なのだから。
しかし、その数人は知っているのだ。
荒野の果てで起きた、その出来事を――。
だから、きっとそれでいいのだと思う。
そして彼らは今日も歩き続けるのだ。
果てを目指して、この黄昏の大地を。
***
「ふー、あの山を越えれば町なのね」
ピュラが目の前に見えてきた山に目を細める。
リ・ルーの終点にあるその山を越えれば、このフローリエム大陸南端の町に着くはずになっていた。
「わーい、ようやく町だねっ!」
「はしゃぐのはまだ早いわよ。あの山、結構きつそうに見えるし。あー、頑張っていかなきゃねー」
一行は順調に足を進め、遂に最後の難関へと挑んだ。
――が。
ぱらぱらぱらぱら……。
「あら、雨?」
丁度、頂上を越えたあたりのことである。
ピュラは空を見上げて手を差し伸べる。
すると、ぽつぽつと水滴が手に降ってきた。
「今、乾季よね?」
「山よりこっちは海だから、雲があってもおかしくないよー?」
セルピがその博識ぶりを発揮してくれる。
そう、丁度そこから見えるのは広大な海の水平線。
そして目下には次なる港町、コラソンの町並みが横たわっていた。
ピュラは空の向こうにある厚い雲に眉を潜める。
「やだ、嵐がきそうね……」
「そうみたいだな」
スイが目を細めてその雨雲を眺めた。
灰色のどんよりとした雲は嵐の前座だ。海から湿った風が吹いてくる――。
「ってもうすぐこっちにきそうじゃないっ!! どうするのよ、こんな町を目の前に足止めなんて冗談じゃないわよ!」
「といってもどうすれば……」
「嵐が来る前に町に行くわよ!!」
「え、えええ!!?」
「よーし、競争ね。町に来れなかったら自分の無力さを呪いなさい。よーい、」
「にゃー、かけっこ?」
「どんっっ!!」
かくして。
……かくして。
――一同は放たれた矢の如く、山肌を駆け下りていくのだった。
目指すはフローリエム南端の町へ、そして次なる大陸へ――。
-Bitter Orange,in the Blaze-




