豊穣の大地と三つ巴の戦渦 26
歴史上類を見ないと評されるレベルの、規格外の超精密魔法。
ルルティアの脳内では、ハズラが指定した座標データと、城を傷つけてはならないという制限が瞬時に極めて複雑な術式へと変換され、完璧な形で構築されていた。
彼女は魔力が作用する空間と出力を、極小の単位、パーセント単位で完全に制御する。
余剰なエネルギーの漏出を一切許さず、注ぎ込んだ魔力を無駄なく百パーセントの効率で破壊現象へと変換していく。
次の瞬間、キーフェルンブルク城の城壁の上から、空気を引き裂くような鋭い破裂音が連続して響き渡った。
それは、周囲に広がる大規模な爆発ではなく、極めて限定された空間の圧力が一気に解放されたことによる、鋭利な音だった。
ハズラの魔眼の視界の中で、信じがたい光景が展開されていた。
城の構造を支える柱や、頑丈な石壁には指一本、石の欠片一つ触れることなく、敵将ギルバの足元や逃げる先々の石畳だけが、指先ほどの狂いもなく連続して爆破されていく。ルルティアは直接ギルバを攻撃するのではなく、彼が避けた先、逃げる先へと的確に魔法を打ち込み、逃げ道を一つずつ塞いでいったのである。
熱や爆風といった意図しない余波は、魔法の絶対的な制御によって周囲へ逃げることを許されず、すべて計算された指向性を持って解放された。
安全な高台にいると信じ切っていたギルバは、自らの周囲で連続して発生する迫り来る精緻な爆発から逃れるため、無様な悲鳴を上げながら、自ら城壁を降り、混乱極まる前線の戦場へと飛び出さざるを得なかった。
指揮系統の要であり、後方から一方的に戦局を支配していたはずのギルバが突如として前線に転がり出たことで、ゴブリン族と蟲人族の連合軍に致命的な動揺が走った。元より個人の判断能力に乏しく、指揮官の存在によってのみ無慈悲な物量戦術を成立させていた異形の群れは、指揮を完全に喪失したことで陣形を維持できなくなった。恐怖を知らず特攻を繰り返す蟲人族は無軌道に突撃を繰り返し、ゴブリン族はジャンク兵器を振り回しながら同士討ちすら始める始末である。前線の連携は、もはや完全に崩壊していた。
その足並みが乱れ、烏合の衆と化した敵陣の隙を、グラン・ヴァルディア軍の助攻部隊が見逃すはずもなかった。
「みんなー! いっくよー! 悪いやつらをやっつけちゃえー!」
戦場の後方から、血と泥に塗れた戦地にはあまりにも不釣り合いな、天真爛漫で澄み切った声が響き渡る。愛らしくアレンジされた軍服の裾を揺らしながら、カネルが無邪気な笑顔で声援を送っていた。
その声と笑顔は、彼女を狂気的なまでに愛する配下の兵士たちにとって、いかなる魔法の支援よりも強力な起爆剤であった。極限の熱狂状態へと陥ったカネル軍の兵士たちは、常軌を逸した士気と限界を突破した戦闘力をもって、混乱する敵陣へと猛然と雪崩れ込んだ。彼らの剣は迷いなく異形の肉体を切り裂き、圧倒的な勢いで敵の群れを蹂躙していく。
一方、城の側面から展開していた第七軍所属の魔法兵オルセンの部隊もまた、容赦のない猛攻を開始していた。
「……さて、仕事の時間だ」
狂信的なカネル軍とは対照的に、無精髭を生やしたドライな中年男であるオルセンの瞳には、熱狂など微塵も存在しない。「軍人は仕事」と完全に割り切った冷徹な態度のまま、彼は魔法を併用した緻密な白兵戦を展開する。泥濘にもがく敵の足元を凍結させて機動力を奪い、体勢を崩したところへ無駄のない一撃を正確に叩き込む。契約と指示を寸分の狂いもなく遂行する彼の刃は、一切の感情を交えることなく、まるで作業をこなすかのように敵兵の命を各個撃破で刈り取っていった。
極めて狡猾で残忍な性格を持ち、他者の命や痛みを単なる消費資源としか見ていなかった敵将ギルバ。安全な場所から他者の死を嘲笑っていた彼は今、自らが使い捨ての弾丸として戦場に投下し続けていた部下たちが、強軍の圧倒的な武力の前に次々と無惨に蹴散らされていく光景を目の当たりにしていた。
狂気的な士気で迫るカネル軍と、冷徹に命を刈り取るオルセン軍。グラン・ヴァルディア軍の理不尽なまでの猛攻によって、彼を守るべき肉の壁はみるみるうちに削り取られ、ギルバは次第に逃げ場のない窮地へと追い詰められていくのだった。
絶対的な安全地帯から戦場へと強制的に引きずり出され、キーフェルンブルク城の制圧が目前に迫る中、グルゴタ連邦の将軍ギルバは完全な窮地に陥っていた。
これまで他者の命や痛みを単なる使い捨ての消費資源として嘲笑い、後方から無慈悲な物量戦術を指揮してきた狡猾で残忍な彼であったが、今や自らが死の淵に立たされている。周囲を塞ぐ三方向からの包囲網は確実に狭まり、逃げ道は完全に断たれていた。絶望的な状況下で、ギルバの狂気に満ちた頭脳は、崩壊した戦局を逆転させるための最後の一手を必死に模索し始める。
血走った濁った瞳が、戦場の混乱の中でただ一点に縫い付けられた。それは、星辰第七将ラングレーが立つ陣頭である。
他の部隊が進撃を続ける中、ラングレーは静かな眼差しで指揮を執るのみであった。自ら前線に出て剣を振るう素振りを見せないその立ち姿は、ギルバの目に、戦闘能力に劣る極めて脆弱な標的として映った。軍の頭脳であるあの指揮官の首さえ取れば、この絶望的な形勢を一気に逆転させることができる。
戦場の狂騒が頂点に達したその時、ギルバは三方向の包囲網の間に生じた一瞬の隙を突いた。
残忍な咆哮を上げ、ギルバは地を蹴る。その手には、他国の廃棄物から作られた無軌道で醜悪なジャンク兵器が握られていた。赤茶けた凶刃を不気味に軋ませながら構え、ギルバは己の全ての殺意と執念を刃に込め、無防備に見えるラングレーの陣頭へと一直線に死の特攻を仕掛けた。
赤茶けたジャンク兵器の凶刃が、今まさにラングレーの眼前にまで迫っていた。
それは通常であれば死を覚悟するしかない絶体絶命の状況である。しかし、極度の合理主義者であり、グラン・ヴァルディア軍の頭脳を担う星辰第七将ラングレーの佇まいには、一切の焦りも感情の揺らぎも見られなかった。首元まで襟を立てた分厚い漆黒の軍用コートが特攻の風圧に揺れる中、彼の姿勢は微動だにしない。
ラングレーは、色付きの丸眼鏡を中指で静かに押し上げた。その奥にある瞳には迫り来る死への恐怖など微塵もなく、ただ目前の事象を処理するための冷徹な演算結果だけが浮かんでいた。
彼は最小限の、全く無駄のない流れるような動きで自ら刃を振るった。
精密な軌道で放たれたラングレーの一撃は、猛烈な勢いで特攻を仕掛けてきたギルバの急所を、寸分の狂いもなく正確に貫いていた。
致命の一撃を受け、ギルバの肉体は完全にその動きを停止する。敵将を自らの手で討ち取ったラングレーは、表情一つ変えることなく静かに刃を引き抜くと、抑揚のない極めて低い声で、ただ事実を語るように言葉を紡いだ。
「……星を冠する将の最低要件だ。知略のみで生き残れるほど、我が国は甘くない」
指揮官であるギルバのあっけない死は、瞬く間に戦場全体へと伝播していった。無慈悲な物量戦術を指揮し、配下の命を単なる消費資源としてしか扱っていなかった狡猾な将の喪失。それは、圧倒的な数だけを頼りとしていたグルゴタ連邦軍にとって、致命的な瓦解を意味していた。指示を失ったゴブリン族は手にしたジャンク兵器を無軌道に振り回すことしかできなくなり、自我を持たない蟲人族もただ無意味にその場を徘徊するばかりとなる。強固な波として押し寄せていた前線の連携は跡形もなく消失し、彼らは戦う集団としての抵抗の意志を完全に失って崩壊していった。
統制を失い、無防備な隙を晒す異形の群れ。その決定的な好機を、グラン・ヴァルディア軍が決して見逃すはずがなかった。カネルの無邪気な笑顔と声援を背に受け、極限の士気と狂気的なまでの愛情を維持し続けていたカネル軍の兵士たちは、怒号を上げながら一気に前進を開始した。彼らは指揮系統を失って烏合の衆と化した敵を次々と蹴散らし、怒涛の勢いでキーフェルンブルク城内へと雪崩れ込んでいく。
やがて、城内に響いていたゴブリン族の奇声と蟲人族の不気味な羽音は完全に途絶えた。血と泥に塗れた激戦の喧騒が嘘のように引き、広大な松林とプレンブルグ大平原の境界に位置するキーフェルンブルク城の周辺には、重く静かな静寂が降りていた。
空を覆っていた土煙が冷たい風に流され、やがて視界が鮮明に開けると、そこには一切の戦火の爪痕を残していない完璧な姿の城がそびえ立っていた。分厚い石積みの壁には剣が弾かれた傷一つなく、防衛機構の歯車や堅牢な門扉に至るまで、全てが本来の機能を保っている。
ドルニエ湿林と峻厳なグルゴタ山脈の境界を塞ぐグレンツフェルス関所。
複雑な水路と沼地が交差する要衝、ヴァッサーバッハ水塞。
そして、大平原と林道を同時に監視するこのキーフェルンブルク城。
グルゴタ連邦の進軍ルート上に点在するこれら三つの重要拠点を、無傷で攻略するという極めて困難な条件は、星辰第七将ラングレーの緻密な戦術と、それに呼応した助攻部隊の各々が自らの役割を完璧に遂行したことで達成された。
陣形の中腹で静かに佇むハズラは、自身の脳裏に構築した精緻な戦術地図を改めて俯瞰していた。三つの拠点がグラン・ヴァルディア軍の完全な支配下に置かれた今、北方の山脈の奥底からプレンブルグ大平原へと雪崩れ込んでいたグルゴタ連邦の進軍ルートは、完全に物理的に封鎖されたことを示している。
ゴブリン族の無軌道な群れや、蟲人族の特攻といった無慈悲な物量戦術を最大の武器としていたグルゴタ連邦の軍勢は、もはや大平原へと介入する手段を根本から断たれた。第三将ファルシオンが率いる主攻部隊の背後を完全に確保し、いかなる邪魔も介入させないという、助攻部隊に与えられた極めて重大な任務は、今ここに完遂されたのである。
色付きの丸眼鏡の奥で、ラングレーは感情を一切交えない極めて冷徹な視線を、眼前の城壁へと向けていた。彼の脳内では、すでに次なる盤面への演算が静かに開始されている。
制圧されたこれらの拠点は、ただ敵の進軍を一時的に食い止めるための単純な防衛線ではない。戦後、王都セプテントリオンから派遣されてきたカイリが、地形そのものを操作して人工的なボトルネックを生み出し、長大な分断防壁を構築していく。その途方もない計画において、これらの砦は防壁の巨大な要石として機能する絶対的な基盤となるのだ。
静寂に包まれたキーフェルンブルク城を見上げるハズラの胸の奥底には、主君である統星の果てしない覇道が、また一つ確固たる前進を遂げたという確信が満ちていた。
これら三つの拠点は、これから大平原を真の支配下に置くための、そしてグラン・ヴァルディアの未来の防衛基盤を未来永劫盤石なものとするための、最も完璧な布石としてこの地に完成したのである。




