豊穣の大地と三つ巴の戦渦 25
グレンツフェルス関所、そしてヴァッサーバッハ水塞。ドルニエ湿林に点在する二つの重要な拠点を、助攻部隊は事前の計画通り、施設に一切の傷をつけることなく完璧な無傷の状態で制圧した。
鬱蒼と茂る松林の影と、足元に絡みつく泥濘の支配する陰鬱な領域を抜け、彼らはついに最終目標へとその歩みを進めていた。
湿気を多分に含んだ空気が徐々に乾いたものへと変わり、視界を遮っていた木々がまばらになり始める。その境界線を越えた先には、プレンブルグ大平原の広大な景色が広がっていた。
そして、その平原と松林の境目という絶好の地勢を支配するようにそびえ立っているのが、攻略の最終目標であるキーフェルンブルク城であった。
見上げるほどの威容を誇るその城は、視界の悪い林道と、遮蔽物のない開けた大平原という、全く異なる二つの地形を同時に監視し、完全に封鎖することができる戦略上の要衝である。分厚い石造りの城壁は、長きにわたって人間たちの領土を守り抜いてきた歴史の重みを感じさせたが、今は第三勢力であるグルゴタ連邦の異形たちによって不法に占拠されていた。
グラン・ヴァルディア軍の頭脳である第七将ラングレーは、陣頭に立ってその堅牢な城壁を静かに見据えていた。
首元まで襟を立てた分厚い軍用コートを纏う彼の姿には、微塵の感情の揺らぎも見受けられない。色付きの丸眼鏡の奥にある瞳は、ただ純粋な計算と合理性のみで目の前の障害をいかに排除するかを思考している。
このキーフェルンブルク城もまた、後にカイリが構築する長大な分断防壁の要石として機能するため、既存の施設にただの一つの傷もつけることなく制圧しなければならない。
極めて難易度の高い厳命を果たすべく、ラングレーは城を逃げ場のない檻へと変えるための包囲網を構築した。
「これより、城を三方向から完全に包囲する」
抑揚のない、低く平坦なラングレーの声が響いた。その言葉は、軍の指揮系統の頂点に立つ者としての絶対的な意思を伴い、各部隊の指揮官たちへと伝達されていく。
「正面はカネル・ルーチェの軍勢。側面の一つはオルセンの部隊。そしてもう一方の側面は、私が率いる本陣が担当する。各個、連携して進軍を開始せよ」
ラングレーの指示は、ただの兵力の分散ではない。全く異なる個性と強みを持つ部隊を最適に配置し、敵の逃げ道を物理的かつ心理的に塞ぐための完璧な戦術であった。
城の正面に陣取ったのは、カネルが率いる軍勢であった。
彼女は、愛らしくアレンジされた軍服の裾を軽やかに揺らしながら、最前線に立つ兵士たちの前へと進み出た。艶やかなピンクブロンドのリングレットが風に舞い、ルミナスピンクの瞳が城壁に群がる醜悪なゴブリン族や蟲人族の姿を捉えている。
これから始まるのは血で血を洗う死闘であるにもかかわらず、彼女の表情には恐怖や悲壮感など微塵も存在しなかった。
「みんな、いよいよ最後のお城だよ! ここを突破すれば、きっと美味しいご飯が待ってるからね! 一緒に頑張ろう!」
カネルの澄み渡るような天真爛漫な声と、一切の陰りのない無邪気な笑顔が、荒涼とした戦場に響き渡る。
その姿は、血と泥に塗れた景色の中であまりにも不釣り合いであったが、配下の兵士たちにとっては、いかなる強力な魔法支援をも凌駕する絶対的な力であった。
彼女の笑顔を曇らせないためならば、己の命など惜しくはない。カネルの声援を受けた瞬間、兵士たちの内側で常軌を逸した熱狂が爆発した。
怒号のような鬨の声が大気を震わせ、彼らの士気と戦闘力は、理屈や肉体の限界を超えて一気に跳ね上がる。
一方で、城の片側の側面を担うのは、第七軍所属の魔法兵オルセンが率いる部隊である。
無精髭を生やし、軍服を気怠げに着崩したドライな中年男である彼は、熱狂や狂信とは無縁の場所にいた。
彼にとって戦争とは、熱い思いをぶつけるものではなく、労働契約に基づく「仕事」に過ぎない。オルセンは無言のまま杖を構え、眼前の敵陣をただの標的として見据えていた。
彼の背後には、同じく第七軍の斥候兼書記官であるシンクレアが控えている。
「あーあ、早く終わらせてシャワー浴びたいんだけど。オルセンサン、サクッと片付けてよね」
「言われるまでもない。契約分の仕事はこなす」
軽薄なギャル口調で効率を求めるシンクレアと、指示を寸分の狂いもなく遂行するオルセンの組み合わせは、感情に流されない緻密で容赦のない猛攻を城の側面へともたらすことを約束していた。
残るもう一方の側面には、ラングレー自身が指揮を執る本陣が布陣を敷いた。
極めて合理的な知将の統率のもと、三つの部隊がキーフェルンブルク城を完全に包囲し、一斉に進軍を開始する。
グルゴタ連邦の進軍ルートを物理的に断ち切るための最後の戦いが、大平原と松林の境界で今、幕を開けたのである。
カネル軍の後方に位置し、戦場全体を見渡すことのできる小高い丘の上に、ハズラは立っていた。
彼の眼下に広がるのは、混沌そのものと言える光景であった。赤茶けたジャンク兵器をでたらめに振り回し、奇声を上げるゴブリン族の群れ。そして、自我を持たず、ただ機械的に前進と攻撃を繰り返す蟲人族の黒い波。
それらは明確な陣形も戦術も持たず、ただ圧倒的な物量という暴力となって、城の周囲を埋め尽くしている。
物理的な数の暴力がぶつかり合う中、通常の視覚情報だけで敵の指揮系統の要となるターゲットを絞り込むことは、砂浜から一粒の特定の砂金を見つけ出すようなものであり、不可能に近い。
ハズラは静かにまぶたを閉じ、意識を自らの内側、深遠な精神の領域へと沈み込ませた。
呼吸を整え、周囲の喧騒を意識の端へと追いやり、彼に与えられた唯一無二の異能である魔眼を発動させる。
目を見開いた瞬間、彼の普段は光のない濁った黒色の瞳が、ドプリと赤黒く充血し始めた。眼球の奥から脳髄へと突き抜けるような強い熱と痛みが走るが、ハズラはそれを表情に出すことなく耐え抜く。
同時に、ハズラの視界から世界のあらゆる色彩が急速に奪い去られ、音のないモノクロームの濃淡だけで構成された静謐な空間へと反転した。
城の前庭や見張台に群がる敵兵たちの魂の火は、どれも均一で、単純な闘争本能しか感じられない。ハズラがさらに情報を求めて視線を走らせていくと、ふと、キーフェルンブルク城の城壁の上、戦況を見下ろすように姿を現した一つの影を捉えた。
その影の胸元に、生命の証である「魂の火」が、周囲の単一化された波長とは全く異なる、どす黒く濁ったような光を放って浮かび上がったのである。
不気味に燃え盛るその魂の火は、ハズラの精神に直接、吐き気をもよおすような悪寒を伝えてきた。
他者の死を嘲笑うような、極めて醜悪で強烈なゆらぎ。ハズラは痛みに耐えながら、その波長の性質を客観的な視点で解析していく。
そこから読み取れたのは、自陣の兵士たちがどれほど無惨に死のうとも一切の痛みを感じず、他者の命や苦痛を単なる消費資源としてしか計算していない、底知れぬ狡猾さと残忍さであった。
前線から遠く離れた安全な場所から、自らの手を汚すことなく無慈悲な物量戦術を指揮し、他者が精巧に築き上げたものを理不尽な暴力で破壊することに暗い悦びを見出している精神。
その醜悪さは、ハズラが奴隷時代に見てきた、自らの欲望のために他者を物扱いする人間たちの姿と重なるものがあった。
しかし、ハズラは過去の記憶に引きずられることなく、目の前の情報を論理的に処理する。間違いない。この醜悪な魂の火の持ち主こそが、戦場を無慈悲に支配している指揮官、第三勢力グルゴタ連邦の敵将ギルバである。
ターゲットの存在を完全に捕捉したハズラは、無意識のうちに両手の拳を強く握りしめた。
彼が次に行うべきは、この敵将をどう排除するかという戦術の構築である。
ラングレーからの厳命により、キーフェルンブルク城に一切の傷をつけることは許されていない。城壁の上のギルバを討つために、大掛かりな魔法攻撃や破城槌を用いて壁を破壊することはできないのだ。
ならば、城を傷つけることなく、敵将だけを城の内部から戦場へと強制的に引きずり出し、指揮系統を麻痺させるしかない。
ハズラは即座に歩測と目測を行い、ギルバの存在する空間を数値化していく。敵将の絶対座標を、自身を中心とした時計の文字盤へと深く刻み込み、距離と高度を割り出す。
「ルルティアさん」
ハズラは、隣に立つ少女へと静かに声をかけた。
「あー? 何っすか。アタシ、今いい気分なんすけど」
エルフの天才魔術師ルルティア・アッシュウッドは気怠げな翠緑の半眼をハズラに向けた。
王都の紫苑から贈られた高級な酒をすでに飲み干した彼女の頬はほんのりと赤く染まり、空になったガラス瓶を片手に芳醇なアルコールの香りを漂わせていた。
「敵の指揮官の座標を特定しました。しかし、城には傷をつけてはならないという条件があります。指揮官の退路を断つように魔法を連続で放ち、城外へと誘導し追い立てることは可能ですか」
ハズラの問いかけに対し、ルルティアは空の酒瓶を軽く振ると、面倒くさそうに首の後ろをボリボリと掻いた。
「はぁー……。また傷をつけちゃダメってやつっすね。マジで細かい作業ばっかりで面倒くさすぎっすよ。適当にドカンと丸ごと吹き飛ばすほうが楽なんすけどね」
「それは許可されていません。今後の防衛機構構築のための重要な施設なのです」
「はいはい、わかったっすよ。酒の恩もあるし、約束通り手伝ってやるっす。で、どこを狙えばいいんすか」
彼女の態度は、大軍の命運を左右する極秘任務を請け負う者とは思えないほど、日常的で投げやりなものであった。しかし、ハズラは彼女の内側に秘められた圧倒的な力を信頼していた。彼は感情を交えない平坦な声で、算出したばかりの正確な数値を伝達していく。
「目標地点。方向、十一時。距離、三百六十歩。高度、十七分。対象の周囲の石畳へ、威力を抑えた爆発を連続して発生させてください。周囲の壁や柱への魔力の余波は、極限まで抑え込み、対象を城外へ誘導する必要があります」
軍の共通言語である時計の文字盤を用いた客観的で正確な情報を聞いたルルティアは、大きく欠伸を一つ噛み殺した。
「十一時方向、距離三百六十、高度十七分……了解っす。まあ、アタシにかかればそんなの息をするより簡単っすよ」
彼女は気怠げな半眼を、ハズラが示した城の方向へと向けた。
その瞬間、彼女の周囲の空気が、微かに、しかし決定的に変質したのをハズラは肌で感じ取った。
ルルティアの体勢はだらりとしたままであり、空の酒瓶を手放すことさえしていない。杖を構えるわけでもなく、大仰な詠唱を紡ぐわけでもない。ただ、彼女の視線が空間の一点を正確に捉えただけであった。だが、その見えない魔力の奔流は、ハズラの想像を絶する精度と密度を伴い、まさに解き放たれようとしていた。




