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魔族王子に拾われた奴隷少年、魔眼で戦場を支配し世界統一の軍師になる  作者: 久能のの


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豊穣の大地と三つ巴の戦渦 24

 グレンツフェルス関所の完全なる無傷での制圧。その確かな勝利の成果は、極度の緊張状態のもとで死線を潜り抜けた兵士たちの間に、深い安堵の波となって広がりかけていた。カネルの無邪気な笑顔と、それに呼応して湧き上がる兵士たちの熱狂的な歓声が、冷たい山麓の空気を微かに暖かく震わせている。


 だが、星辰第七将ラングレーが指揮を執る助攻部隊にとって、この勝利はまだ作戦の序段階を終えたに過ぎない。彼らに与えられた絶対的な使命は、第三勢力であるグルゴタ連邦の進軍ルート上に点在する三つの拠点を完全に掌握し、プレンブルグ大平原へと向けて進撃する主攻部隊の背後を盤石なものとすることである。休息を促すような甘い空気は、軍の頭脳であるラングレーの静かな、しかし有無を言わせぬ号令によって即座に断ち切られた。兵士たちは歓喜を心の奥底へとしまい込み、再び武器を握り直して次なる目標への行軍を再開した。


 部隊が向かう第二の目標は、ドルニエ湿林のさらに奥深く、川沿いの蛇行する水路と底なしの沼地が複雑に交差する地理的な要衝に築かれたヴァッサーバッハ水塞であった。

 この水塞は、湿林内の迷路のように入り組んだ水上交通網を掌握するための、極めて重要な防衛拠点として機能している。関所から水塞へと至る道程は、兵士たちの体力を容赦なく削り取る過酷なものであった。足を踏み出すたびに、分厚く堆積した腐葉土が水をたっぷりと含んだ泥濘となってブーツに絡みつく。視界は鬱蒼と茂る巨大な松林によって遮られ、昼間であっても薄暗い陰鬱な影が落ちていた。鼻を突く湿った土と澱んだ水の匂いが、戦場の異様な空気と混ざり合い、兵士たちの呼吸を重くしていく。


 やがて、鬱蒼とした木々の隙間が大きく開け、澱んだ広大な沼地の向こう側に、堅牢な石造りの砦がその全容を現した。ヴァッサーバッハ水塞である。

 首元まで襟を立てた分厚い軍用コートを纏うラングレーは、部隊に停止の合図を送ると、色付きの丸眼鏡の奥にある感情の読めない瞳で水塞を見据えた。彼の脳内では、現在あの砦に立て籠もって防衛側に回っているゴブリン族と蟲人族の種族的な特性が、極めて合理的な思考プロセスによって分解され、分析されていた。

 彼らグルゴタ連邦の最大の強みは、自身の命や恐怖を全く顧みることなく繰り返される「何も考えない吶喊」であり、そして無尽蔵の繁殖力を背景とした絶え間ない「波状攻撃」である。それは平地においてこそ、抗いがたい暴力の津波となって相手を呑み込む力を発揮する。だが逆に言えば、個人の判断力が極端に低く、知性が欠如している彼らは、状況に応じた臨機応変な対応が求められる「拠点防衛」という任務を根本的に不得手としているのだ。

 ラングレーの思考は、一つの明白な結論を導き出していた。敵の最大の武器である無慈悲な突撃と波状攻撃さえ、地形を利用した戦術によって完全に封じてしまえば、彼らは決して恐るべき相手ではない。


 ラングレーの指示に従い、第七軍は水塞の正面へと堂々と陣を構えるような愚を犯さなかった。彼らが布陣を敷いたのは、水塞との間に川沿いのぬかるんだ水辺や、一度足を踏み入れれば身動きが取れなくなる泥深い沼地など、足元が極めて悪く移動が困難な地形を大きく挟んだ、反対側の高台であった。泥濘と水路という自然の障害物を防壁として巧みに利用し、敵が本能のままに突撃してきた際のスピードと破壊力を物理的に削ぎ落とすための、計算し尽くされた完璧な配置である。


 その陣形の最前列、わずかに視界が開けた水際の手前に、一人の女性がひどく不機嫌そうな顔をして立っていた。第七軍に所属する斥候兼書記官、シンクレアである。

 彼女は泥はねを極端に嫌い、水たまりを避けるように器用に爪先立ちでバランスをとっていた。厳格な魔族の軍隊にはおよそ似つかわしくない、軽薄でけだるげなギャル口調を好む彼女は、この不快な湿林での任務に心の底からうんざりしていた。


「あー、マジで最悪。なんでこんな泥んこ遊びみたいな場所で仕事しなきゃなんないわけ? ブーツ汚れたらどうしてくれんのって感じ。テンション下がるわー」


 口を開けば不満ばかりがこぼれるシンクレアであったが、その瞳の奥には、彼女の本質である極度の効率主義の光が鋭く宿っていた。無駄な労力や非合理的な作業を何よりも嫌悪する彼女にとって、自分の服をこれ以上汚さないための最短かつ最良の方法は、与えられた弾着観測の任務を誰よりも早く、そして完璧に終わらせることに他ならない。

 彼女の視界の中で、水塞の向こう側に群がる異形たちの姿が捉えられる。ジャンク兵器をでたらめに振り回すゴブリン族の不規則な動きと、自我を持たずにただ整然と密集している蟲人族の不気味な塊。シンクレアの脳内では、敵の移動速度、密集度合い、そして眼下に広がる沼地が敵の足にもたらすであろう抵抗力といった複雑な要素が、凄まじい速度で暗算されていく。彼女はそれらの情報を組み合わせ、敵の連携が崩れる度合いを示す独自の明確な数値データへと瞬時に変換した。


「はいはい、サクッとお仕事終わらせますか。あいつら、あの泥沼に足突っ込んだら一気にスピード落ちて詰まるっしょ。その密集したところに一発ぶち込めば最高に効率いいじゃん」


 無駄を嫌う彼女の計算は、味方の攻撃が最大の効果を発揮する一点を完璧に割り出していた。彼女は脳内に構築した基準となる方位を元に、後方で待機する魔法兵たちに向けて澱みなく数値を読み上げ始めた。


「敵の密集地点。方向、十一時。距離、二百八十歩。高度、十五分。……要求されたデータ、納品完了。あとはそっちで、さっさと片付けてよね」


 シンクレアは、要求された完璧な座標の情報を最速で味方へと提示した。泥汚れを嫌う手で軽く前髪を払いながら、彼女の顔には面倒な作業を最短で終わらせたという、ドライな満足感だけが浮かんでいた。


 シンクレアによって算出された正確無比な情報は、即座に第七軍の魔法部隊へと伝達された。

 部隊の先頭に立つのは、魔法兵のオルセンである。無精髭を生やし、軍服をどこか気怠げに着崩したドライな雰囲気の中年男であった。彼の瞳には、主君への狂信的な忠義も、祖国のために命を懸けるというような熱狂も一切宿っていない。彼にとって軍隊に所属して戦うということは、崇高な理念などではなく、単なる労働契約に基づく「仕事」に過ぎなかった。

 オルセンは手渡された数値の束に淡々と目を通すと、短く息を吐き出し、背後に控える魔法兵たちへと振り返った。


「一戦目の関所では、俺たちは休ませてもらったからな。その分の借りは、ここでしっかり返さなければ仕事にならない」


 淡々とした、ひどく事務的な響きの声だった。しかし、感情の起伏がないその言葉の裏には、与えられた契約と指示を寸分の狂いもなく遂行するという、熟練の兵士としての確固たる意志が存在している。

 オルセンは部隊に対して魔力展開の準備を指示すると、自らも愛用の杖を構え、眼前の空虚な空間を見据えた。彼に与えられているのは、敵を殲滅することだけではない。後の増改築の基盤とするため、拠点となる水塞の施設には一切の傷をつけてはならないという、ラングレーからの厳しい指示である。

 シンクレアが弾き出したデータは、視界の通らない水塞内部の、敵が最も密集している空間を完璧に割り出している。オルセンの脳内で、その無機質な情報が魔力の出力、指向性、そして射角へと瞬時に変換されていく。目標地点までの正確な距離、湿林を吹き抜ける風向き、そして大気中の水分がもたらす魔力の減衰率。すべての計算を終えたオルセンは、一切の力みを感じさせない静かな動作で杖の先を天へと向けた。


「撃て」


 その短く平坦な合図とともに、オルセンと彼の率いる魔法部隊から、膨大な魔力の奔流が一斉に天に向けて解き放たれた。

 空気を鋭く引き裂くような飛翔音を響かせ、無数の魔法の光弾が空高くへと打ち上げられる。それらはドルニエ湿林の鬱蒼とした松林の樹冠を越え、美しい放物線を描きながら、複雑な地形の奥に位置するヴァッサーバッハ水塞へと正確無比に降り注いでいった。


 次の瞬間、水塞の内部から鼓膜を激しく震わせるような重低音が連続して響き渡った。

 それは、施設の城壁や防衛機構そのものには一切のダメージを与えることなく、敵陣の真上から防壁の裏側のみを正確に捉えた、完璧な遠距離魔法射撃であった。寸分の狂いもない着弾は、安全なはずの砦の内部で息を潜めていたゴブリン族と蟲人族の密集地帯だけを無慈悲に抉り取っていく。

 頭上から降り注ぐ逃げ場のない死の雨。それは、知能が低く本能のままに動くグルゴタ連邦の異形たちにとって、耐え難い根源的な恐怖と激しい怒りを煽るものであった。


 目に見えない遠方からの理不尽な攻撃に激昂したゴブリン族の耳障りな奇声と、蟲人族が興奮して震わせる不気味な羽音が、水塞の奥底から爆発するように湧き上がる。魔法の脅威から逃れ、目の前の攻撃者を物理的に排除しようとする破壊の本能に突き動かされた敵兵たちは、自ら堅牢な水塞の守りを捨て、泥に塗れた醜悪な姿を外の湿地へと現し始めたのである。

 怒り狂った獣のような咆哮を上げ、グルゴタ連邦の群れは本能のままに、第七軍が陣取る対岸の高台へ向けて一斉に吶喊を開始した。

 赤茶けたジャンク兵器を頭上で無軌道に振り回すゴブリン族と、ただ一直線に死の特攻を仕掛ける蟲人族の波。平坦な大地であれば、それは眼前のあらゆるものを押し潰す絶望的な暴力の津波となるはずであった。


 しかし、彼らと第七軍の間には、意図的に選ばれた過酷な泥濘の地形が大きく横たわっている。

 川沿いの入り組んだ水路と、一度足を踏み入れれば容易には抜け出せない底なしの沼地。水をたっぷりと含んで泥濘と化した分厚い腐葉土が、容赦なく異形たちの足元に絡みつき、その進行を激しく妨害する。恐怖を知らぬ蟲人族は泥に深く足を取られて前のめりに大きくつまずき、機動力を頼みとするゴブリン族も泥水を派手に跳ね上げながらもがき苦しみ、その歩みを極端に遅らせていく。


 平地であれば抗いがたい質量兵器となったはずの群れの突撃は、足場の悪さによってスピードに致命的なばらつきを生じさせていた。

 泥に足を取られてもがく者、水路の深みにはまって身動きが取れなくなる者、泥を這うようにして遅れて進む者。それらが入り乱れた結果、グルゴタ連邦最大の強みであるはずの、絶え間なく押し寄せる波状攻撃は物理的に完全に成立しなくなっていた。強固な一枚の壁として押し寄せるはずだった陣形は無惨に間延びし、前後の繋がりを失って、ただ泥の海に散らばる不規則な点と点へと瓦解していったのである。


 その致命的な隙を、魔法兵オルセンは見逃さなかった。


「さて、ここからは泥仕事だ。手早く終わらせるぞ」


 軍人としての役割を完全に割り切っているドライな中年男は、陣形が崩壊し、泥濘の中で孤立している敵兵たちへと静かに、しかし確実な足取りで肉薄していく。彼はここから、部隊を率いて魔法を併用した白兵戦へとその戦術を極めて器用に切り替えていた。

 泥に深く足を取られ、武器を振り被る動作が極端に遅れたゴブリン族の眼前に滑り込むと、オルセンは片手で手短な魔法陣を展開し、至近距離から指向性の衝撃波を放って相手の体勢を完全に崩す。そして、相手が体勢を立て直すよりも早く、もう一方の手に握った鋭い刃で、首筋や胸といった急所を無駄なく正確に切り裂いていく。

 蟲人族が機械的な特攻を真っ直ぐに仕掛けてくれば、オルセンは足元の水面を瞬時に魔法で凍結させ、相手の機動力を根本から奪い取る。氷に足を取られて動けなくなった標的を、彼は感情を交えることなく確実な一撃で沈めていった。

 オルセンの動きには、戦場特有の熱狂も、敵に対する憎しみも存在しない。ただ契約と指示のみを完璧に遂行するための、最適化された殺戮の工程があるだけだった。間延びした陣形の中で前後の支援を失い、孤立無援となった敵兵たちは、彼の冷静かつ的確な各個撃破の前に為す術もなく崩れ落ち、次々とその命を刈り取られていく。


 波状攻撃という最大の脅威を完全に無力化されたグルゴタ連邦にとって、残された運命はただの一方的な蹂躙でしかなかった。

 間延びし、完全に分断された陣形のまま泥濘でもがくゴブリン族と蟲人族の群れに対し、グラン・ヴァルディア軍は一切の容赦なく刃を振り下ろしていく。水辺と沼地に足を取られ、機動力も数による圧倒的な圧力も失った異形たちは、もはや抗う術を持たぬただの的と化していた。

 悲鳴や怒号が湿林の木々に吸い込まれるように消えていく中、孤立し泥に足掻く敵兵たちは次々と的確に命を絶たれ、濁った水の中へと静かに沈んでいく。特攻の勢いを完全に殺された彼らに反撃の余地は残されておらず、第七軍の兵士たちによって一方的に蹴散らされていった。


 拠点となる施設には、決して傷をつけてはならない。

 兵士たちはその指示に従い、敵の肉体のみを確実に破壊していく。泥まみれの乱戦にあっても、彼らの振るう剣の軌道や魔法の余波が、水塞の石壁や重要な防衛機構に触れることは決してなかった。


 やがて、湿林に響き渡っていたおぞましい奇声と、泥を激しく跳ね上げる足音は完全に途絶えた。

戦いの喧騒が嘘のように静まり返り、血に染まった水面の向こうに、ヴァッサーバッハ水塞がその威容を現す。ドルニエ湿林内の複雑な水上交通網を掌握するその重要拠点は、戦火の爪痕を何一つ残すことなく、ただ静かにそびえ立っていた。

 事前の緻密な計算と厳格な指示の通り、彼らは施設に一切のダメージを与えることなく、その堅牢な水塞を完璧な無傷の状態で手中に入れたのである。勝利の報告を受けたラングレーは表情を変えることなく、次なる最終目標であるキーフェルンブルク城へと、すでにその冷徹な視線を向けていた。ハズラもまた、自らが収集すべき新たな情報を求めて、静かに歩みを進めるのであった。

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