霧の谷の要塞攻略戦 プロローグ
グラン・ヴァルディア王城、執務室。
分厚いベルベットのカーテンの隙間から、傾きかけた午後の陽光が鋭い帯となって室内に差し込んでいた。その光は宙を舞う微細な塵を照らし出し、部屋の主が積み上げている書類の山に、幾何学的な影を落としている。
室内を支配しているのは、重厚な沈黙と、さらさらと羊皮紙の上を走る羽ペンの乾いた摩擦音だけだった。
統星は、次々と持ち込まれる決裁書類に目を通し、署名を続けていた。
王子の責務は、華々しい戦場での指揮だけではない。父王から任された領地の管理、軍の編成、予算の配分、そして周辺諸国との折衝。地味だが膨大で、かつ一時の油断も許されない事務作業もまた、彼の覇業を底から支えるための重要な戦いであった。
インクの匂いと、古紙特有の枯れた香りが充満する部屋の中で、統星は眉間にわずかな皺を寄せながら、思考の海に沈潜していた。
ふと、書類の束がひと段落した瞬間、統星は手を休めずに口を開いた。
「――それで? あの『拾い物』はどうだ。使い物になりそうか」
その問いかけに対し、部屋の隅で彫像のように気配を消して控えていた老執事が、恭しく一歩前へ進み出た。
あの泥にまみれた少年――ハズラを彼に預けてから、数日が経過していた。
「ご報告申し上げます」
執事の声は、いつも通り沈着冷静で、澱みがない。しかし、長年彼を従えてきた統星の耳には、その声の奥に潜む、わずかな熱のようなものが感じ取れた。
「文字の読み書きにつきましては、まだ筆の運びと基礎的な単語を教えている段階です。長年ペンなど握ったこともなかった指ですので、慣れるまでには相応の時間を要するかと。……ですが」
執事はそこで言葉を区切り、一瞬だけ躊躇うように視線を伏せた。それは、教育の成果に対する称賛というよりも、自身の理解を超えた現象を目の当たりにした者が抱く、ある種の畏怖に近い反応だった。
彼は意を決したように顔を上げ、声を潜めて続けた。
「会話に関しましては……既に、我々と何ら遜色なく言葉を交わせるようになっております」
統星の手がピタリと止まった。
握られていた羽ペンの先からインクが一滴落ち、羊皮紙の上に黒い染みを作る。
黄金色の瞳が上がり、執事を射抜くように捉えた。
「……早すぎるな。教え始めてまだ数日だぞ? あの時は、私の問いかけに対して首を横に振っていたはずだが」
あの屋敷で出会った時、ハズラは確かに「喋れない」と示した。
異種族の言語体系は、発音一つとっても大きく異なる。いくら飲み込みが早くとも、わずか数日で流暢に操るなど、生まれたばかりの赤子が突然走り出すようなものだ。
統星の双眸に浮かんだ疑念の色を察し、執事は静かに首肯した。
「ええ。私も最初は耳を疑いました。教え始めた初日、彼が私の言葉を復唱した際のあまりの流暢さに、我が耳がおかしくなったのかと思ったほどです。ですが、本人に理由を問いただし、得心がいきました」
執事は、その時の光景を思い返すように目を細めた。
「彼に教えたのは発声の方法だけです。魔族特有の喉の震わせ方、舌の動かし方、息の抜き方。……それらを教えた瞬間、彼は堰を切ったように喋りだしました。たどたどしさなど微塵もなく、まるでずっと前からその言葉を使っていたかのように」
執事の言葉に熱が帯び始める。
「彼は元々、我々の言葉を完全に理解し、脳内で会話を構築済みだったのです」
統星は背もたれに体を預け、ほう、と小さく息を吐いた。
その脳裏に、あの薄暗い屋敷の柱に繋がれていた少年の姿が蘇る。
奴隷として鎖に繋がれ、尊厳を踏みにじられていた暗い日々。明日をも知れぬ恐怖の中で、ハズラはただ絶望して心を閉ざしていたわけではなかったのだ。
屋敷に出入りする魔族の密売人たちが交わす言葉。
取引される金額の数字、商品への罵倒、密談の内容。
それらすべてを耳にしながら、彼は誰に教わるでもなく、脳内で単語と意味を照らし合わせ、文法構造を解析し、自分だけの膨大な辞書を作り上げていたのだ。
家畜同然の扱いを受けながら、その精神だけは貪欲に観察を続け、いつか来るかもしれない反撃の日に備えて、知識という武器を研ぎ澄ませていた。
「これまでは、魔族特有の舌の使い方や発音のコツを知らなかったため、言葉をうまく音にできなかったに過ぎない……ということか」
「左様でございます。私がそれを指導したところ、脳内に蓄積されていた膨大な知識が音声となって溢れ出したのです。……教えれば教えるほど、乾いた砂が水を吸うように知識を吸収していきます。あのような底知れぬ聡明さ……長く教育係を務めてまいりましたが、殿下、そして紫苑様。お二方以来でございます」
自分を紫苑と並べたのは、老爺なりの気遣いだろう。
統星は自らの知性を卑下しているわけではないが、紫苑のそれが、人の域を超えた別次元の領域にあることもまた、誰よりも理解している。その紫苑と同列に語られるということは、つまり――。
老執事をして、そこまで言わしめるか。
統星は口元に薄い笑みを浮かべ、机の上で指を組んだ。
「なるほどな」
単に目が良いだけの便利な道具ではない。あの栄養失調で痩せこけた体の中には、極めて鋭敏で、かつ強靭な知性が眠っていたということか。
統星の胸の奥で、燻るような高揚感が頭をもたげた。
覇業を成すためには、力ある手駒が必要だ。だが、それ以上に必要なのは、自分の思考を理解し、背中を任せられる「知」ある片腕だ。
「あの極限状況下で思考を止めず、学ぶことを選んでいたか。……ふ、面白い。ただの異能持ちとして拾ったつもりだったが、どうやら中身もそれなりに詰まっているようだな」
統星は気勢を良くし、手元に積まれていた書類の山から、一通の封蝋された書類を手に取った。
それは先ほど、この国の内政を一手に引き受けている腹心、紫苑から回されてきたものだった。
封を切り、中身を広げる。
表題には『霧の谷・砦攻略戦』と記されていた。
統星はその文字を目で追ううちに、思わず苦笑を漏らした。
「……紫苑の奴、どこまで見通している」
統星の独り言に、執事が問いたげな視線を向ける。統星は書類を指先で弾いて見せた。
「西の国境にある霧の谷だ。ここ最近、森の民によるゲリラ活動が活発化しているらしい。あそこは霧によって視界が奪われる天然の要害。通常の軍隊であれば、敵の姿すら見えずに一方的に消耗するだけの難所だ」
そこに、視覚情報の解析に特化したハズラを投入すれば、どうなるか。
霧を透かし、隠れた敵の位置を正確に特定できる魔眼があれば、あの鉄壁の要害は、単なる狩り場へと変わる。
その効果が劇的であることは、軍略に疎い者でも想像に難くない。
「紫苑はこのタイミングで、あえてこの厄介な案件を私に投げてきた。……それはつまり、ハズラが短期間で言葉を話し、軍事作戦に同行できるレベルまで仕上がることを、彼女もまた計算に入れていたということだ」
普通なら、拾ってきたばかりの奴隷が数日で戦力になるとは思わない。
だが、あの紫苑なら。
ハズラとすれ違ったあの一瞬で、彼の中に眠る知性と可能性を見抜き、彼が言葉という武器を手に入れるまでの時間を正確に予測していたとしても不思議ではない。
「あいつが言葉を覚える頃合いを見計らって、この仕事を投げたか。『道具は揃ったわよ、あとは貴方が使いこなせるかしら?』とでも言いたげだな」
統星の言葉に、執事もまた、かつての教え子である才女の顔を思い浮かべたのか、目元を緩ませて静かに同意した。
「紫苑様であれば、あるいはそこまで見通していたのかもしれません。あの方の配剤に、無駄はございませんので」
統星は鼻を鳴らし、楽しげに書類を卓上に放り投げた。
優秀すぎる部下を持つと、王の仕事が減るどころか、より高度な決断を次々と迫られるらしい。
だが、悪くない気分だ。
自分の周りには、最高の人材が集まりつつある。ならば、舞台に上げてやるのが演出家たる王の務めだ。
「よし、連れて行くぞ」
統星は椅子を蹴るようにして立ち上がり、背もたれにかけてあった軍用のマントを掴んで翻した。
バサリ、と衣擦れの音が、これから始まる戦いの合図のように室内に響く。
「視界の悪い霧の中だ。あの魔眼、そして習得した言葉による報告が、実戦でどれだけ通用するか試してやる。準備をさせろ」
統星の瞳には、もはや書類仕事に向かう事務的な色はなかった。
獲物を前にした猛獣のような、獰猛で鮮烈な野心の光が宿っていた。
「畏まりました」
執事が深々と頭を下げる。
その一礼は、新たな側近の誕生に対する祝福のようでもあり、これから始まる過酷な運命への餞のようでもあった。
知性を開花させ始めた少年と、野心を燃やす若き王子。
そして、その背後で糸を引く聡明な予言者。
それぞれの思惑が交錯する中、二人の共闘が、いよいよ本格的な戦場で試されようとしていた。
統星は窓の外、西の空にかかる厚い雲を見つめた。
その向こう側にある霧の谷で、ハズラ自身がその真価を問われることになる。
「期待しているぞ、ハズラ」
誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉は、風に乗って、あるいはこれから戦場へ向かう少年の元へと届いたのかもしれない。




