魔眼の奴隷の登用 04
執務室の重厚なオーク材の扉の向こう側からは、時折、紙が擦れる乾いた音と、ペン先が走る規則的な摩擦音だけが漏れ聞こえていた。
城内特有の静謐な空気が漂う中、案内してくれた老執事が、手慣れた所作で控えめに、しかし芯のある音で扉を叩く。
コン、コン、という硬質な音が静寂に波紋を広げた。
「入れ」
中から響いたのは、感情の波を感じさせない、しかしよく通る凛とした声だった。
執事が無言で扉を押し開け、背中で促す。ハズラは緊張で強張った足を無理やり動かし、分厚い絨毯が敷かれた室内へと一歩を踏み出した。
その瞬間、廊下からの風に乗って、ハズラの身から漂う洗い立ての石鹸の香りと、清潔なリネンの匂いが、室内の澱んだインクと羊皮紙の匂いに混じり、ふわりと空気を揺らした。
部屋の奥、豪奢なマホガニーの執務机に向かっていた統星の手が止まる。
彼はインク壺の縁で羽根ペンの余分なインクを丁寧に落とすと、ゆっくりと顔を上げた。
背後の大きな窓から差し込む日差しが、彼のプラチナブロンドの髪を透かし、王族の証である角のシルエットを逆光の中に浮かび上がらせている。その黄金色の瞳が、真っ直ぐにハズラを捉えた。
そこに立っていたのは、数刻前まで密売組織の屋敷で泥と煤にまみれていた、あの薄汚れた少年ではなかった。
城の使用人が纏うのと同等の、仕立ての良い濃紺のチュニックに身を包んだ少年だった。袖を通したばかりの張りのある生地が、ハズラの痩せ細った輪郭を補正し、幾分か健康的に見せている。
執事の手によって短く切り揃えられた黒髪は丁寧に拭き上げられ、濡れた艶を残している。これまでは伸び放題で表情を隠していた前髪も今はなく、露わになった額の下から、深い闇色の瞳がおずおずと主君を見返していた。
統星の視線は、整えられた襟元から、サイズの合ったズボン、そして磨かれた革靴までを、ゆっくりと滑り降りた。
それはかつて奴隷としての価値を見定めるために向けられた冷ややかな視線ではない。
これから共に覇道を歩むことになる者の装いを確かめる、主君としての厳しくも温かな関心を含んだ眼差しだった。
一拍の静寂の後、統星の端正な唇が僅かに綻んだ。
「……悪くない」
短く、けれど確かな肯定の響きがあった。
「見違えたな。身なりが整えば、その瞳の輝きもより際立って見える。その格好ならば、私の後ろを歩かせても誰も異を唱えまい」
統星はそう言うと、満足げに一つ頷き、手にしていたペンを置いた。
椅子を軽く回転させ、身体ごとハズラの方へ向き直る。
それは、ハズラを単なる報告対象としてではなく、対話すべき一人の相手として認めたという無言のサインだった。
「ご苦労だった」
統星は控えていた執事へ短く労いの言葉をかける。しかし、執事を下がらせる様子はない。これから話すことは彼にも共有すべきことなのだろう。
ハズラは、統星の正面に立ち尽くしたまま、胸の内でそっと安堵の息を吐いた。
不合格を突きつけられるような長い沈黙も、厳しい尋問もなかった。
ただ「よし」と認められ、存在を受け入れられた――その事実が、凍えていたハズラの心をじんわりと溶かしていくようだった。
統星は、机の上で指を組み、改めてハズラを正面から見据えた。
その黄金色の瞳は、先ほどまでの柔らかな色合いから、より真剣で、未来を見据える指導者の光へと切り替わっていた。
「さて、ハズラ」
名前を呼ばれ、ハズラの背筋が自然と伸びる。
「外見は整った。城で暮らすための準備はこれで十分だろう。だが……これからのことを考えれば、まだ足りないものがある」
問いかけるような口調に、ハズラは一瞬戸惑ったように瞬きを繰り返した。足りないもの。それは自身の能力のことだろうか、それとも忠誠心のことだろうか。
統星は、机の上に広げられた周辺諸国の地図を指先でなぞりながら、言葉を継いだ。
「あの交易街での動きを見る限り、お前が我々の言葉を聞き取ることができるのは間違いない。私が問いかけた時、お前は確かに頷き、逃走ルートを指し示した。私の命令を瞬時に理解し、迷うことなく行動に移したあの判断力は、並の兵士よりも優れていたと言っていい」
統星の視線が、ハズラの唇へと滑る。
「だが、お前はまだ、自分の意思を言葉にして私に伝えることができていない。……我々の言葉を、その口で喋ることはできるか? あるいは、この書類に書かれた文字を読み、戦況を書き記すことは?」
ハズラの喉が、小さく引きつった。
何かを答えようとして口を開く。伝えたいことは山ほどある。感謝の言葉も、忠誠の誓いも。
だが、そこから漏れ出たのは、意味を持たない空気の摩擦音だけだった。
魔族特有の複雑な発音体系や喉の使い方は、人族として生まれ育ったハズラにはあまりに異質であり、見よう見まねで模倣することすら叶わない壁だったのだ。
文字に至っては尚更だ。奴隷として生きてきた彼に、教育を受ける機会など一度として与えられなかった。
ハズラは悔しげに唇を噛み締め、自身の無力さを認めるように、力なく首を横に振った。
「……やはり、そうか」
統星は静かに頷いた。そこには失望の色はなく、ただ現状を正確に把握しようとする冷静さだけがあった。
「それが、今のお前が抱えている唯一の枷だ」
統星は諭すように語りかける。
「お前の眼がいかに優れていようとも、見た情報を私に伝えられなければ、その真価は発揮されない。遠くの敵を見通せたとしても、その数、配置、動きを正確に言語化し、報告できなければ、お前自身が歯痒い思いをするだろう」
統星は地図上の一点を指先でトントンと叩いた。
「私が求めているのは、ただ景色を映すだけの鏡ではない。映った映像を解析し、私に真実を報告する目だ。沈黙したままでは、お前のその素晴らしい才能が埋もれてしまう」
統星の言葉は、ハズラを責めているのではなかった。
むしろ、ハズラの中に眠る可能性が、言葉の壁によって阻まれていることを誰よりも惜しんでいるように聞こえた。
ハズラは俯き、身体の横で強く拳を握りしめた。
役に立ちたいという渇望。恩人に報いたいという熱情。それがあるのに、伝える手段を持たない自分が情けなかった。
重苦しい沈黙が、石造りの床に沈殿していく。
ハズラの心に、再び自己否定の影が落ちそうになった、その時だった。
「……だが、卑下することはない」
統星が力強い声で、その空気を断ち切った。
ハズラが顔を上げると、統星は椅子から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで執務机を回り込んでこちらへ近づいてくるところだった。
重厚な軍靴の音が、一定のリズムで石床を叩く。
彼はハズラの目前まで歩み寄ると、直立して固まるハズラと視線の高さを合わせた。
至近距離で覗き込む黄金の瞳は、隠された才能を見出した確信の光が宿っていた。
「私が評価しているのは、お前の眼だけではない。魔眼だけでは、あの成果は得られなかったからだ」
統星は、ハズラの肩にポンと手を置いた。その手は大きく、温かかった。
「重要なのは、お前が我々の言葉を正確に理解していたという事実だ。あの時、言葉が分からなければ私の意図を汲むことはできず、魔眼も宝の持ち腐れで終わっていただろう」
統星は微笑んだ。それは王族としての威厳ある笑みではなく、同じ志を持つ同志に向けるような、親愛の情に満ちたものだった。
「お前はただ漫然と生きていたわけではないはずだ。生き抜くために耳を澄まし、知識を貪っていた。その渇望こそが、私の求めていた資質だ」
ハズラの瞳が揺れた。
暗い倉庫の片隅、鎖に繋がれたままやり過ごした、果てしなく長い虚無の時間。
頭上を飛び交う異国の会話は、拒絶することすら及ばず、雨水のようにただ僕へと降り注いでいた。
それは覚えようと意識するまでもなく、いつしか意味を持つ言葉となってハズラの中に根付いていた。
ずっと無意味な雑音だと思っていたそれを、この人は知性として見出し、ハズラが生きるための武器に変えてくれたのだ。
「ならば、教えれば必ず覚えるはずだ。発声の方法、文字の読み書き、そして軍事知識。言葉を操る術さえ身につければ、お前は私の目となり、私に代わって世界を見通すことができるようになる」
統星は立ち上がり、ハズラの肩を力強く掴んだまま、その瞳を覗き込んだ。
「私はお前を、単なる駒として使い潰すつもりはない。私の覇業を支える、欠かせない側近として育てたいのだ。そのための訓練は、あるいは今までの生活よりも頭を使う、苦しいものになるかもしれん。……それでも、ついてこられるか?」
ハズラは弾かれたように顔を上げた。
その瞳から、先ほどまでの無力感は消え失せていた。
代わりに宿っていたのは、縋り付くような、しかし燃えるような確固たる意志の光だった。
言葉にはできない。今の彼には、まだそれを伝える術がない。
だが、ハズラは全身全霊を込めて、大きく、深く頷いた。
――あなたのためなら。
命を救い、人としての尊厳を与え、そして才能を見出してくれたあなたのためなら、どんな困難も乗り越えてみせる。
その無言の誓いを受け取った統星は、満足げに目を細めた。
「いい返事だ。ならば、善は急げだな」
統星はハズラから手を離すと、控えていた老執事へと向き直った。
「――聞いたな」
「は。仰せのままに」
執事は音もなく主人の傍らに進み出ると、深く腰を折った。その所作には、長年王家に仕えてきた者特有の、無駄のない洗練された美しさと、主人への絶対的な忠誠が滲んでいた。
統星はハズラを掌で示し、信頼を込めた口調で命じた。
「教育はお前に一任する。文字の読み書き、そして発声法だ。こいつの喉の使い方を矯正し、喋れるようにしてやれ」
「承知いたしました」
「こいつの魔眼の能力は、我が軍にとって切り札となり得る。だが同時に、他国に知られれば狙われる危険もあるということだ。不用意に他の者と接触させず、大切に育てろ。知識を授け、一人前の男にしてやってくれ」
それは奴隷の管理を命じる言葉ではなかった。
自らの覇業を共に成す人材として迎え入れ、その育成を託す真摯な依頼だった。
「……老骨に鞭打つことになるが、構わんな?」
「滅相もございません」
執事は表情を崩し、どこか嬉しそうに目を細めて一礼した。
「この身が朽ちるまで、殿下の覇道の礎となる所存です。必ずや、殿下のお役に立つ立派な側近に育て上げてご覧に入れましょう」
「頼んだぞ。……ハズラ」
統星は再びハズラの名を呼んだ。
「期待している。お前の声で、お前の見た世界を私に語ってくれる日を」
そう言い残すと、統星は再び執務机へと戻り、山積みになった書類へと向き直った。
ペンをインク壺に浸し、羊皮紙の上で走らせ始める。
その背中は、すでに個人的な感情のやり取りを終え、国を背負う王族としての孤独で多忙な時間へと戻っていた。
だが、その背中から発せられる空気は、先ほどまでよりも幾分か柔らかく、温かいものに感じられた。
「……参りましょう、ハズラ様」
執事の穏やかな声が、ハズラの耳を打った。
これまで「おい」や「お前」としか呼ばれてこなかった彼に対し、執事は敬意を込めて名を呼んだ。
ハズラはハッとして顔を上げ、執務机に向かう主人の背中を見つめた。
もう、統星がこちらを振り返ることはない。その広い背中は、遥か遠くの未来を見据え、そのために今なすべき責務に没頭している。
自分は望まれたのだ。
その事実は、ハズラの胸の奥底で消えることのない熱源となった。
泥の中を這いずり回り、ただ死なないように息をしていただけの時間は終わった。
これからは、あの黄金の瞳に見合う自分になるために、生きることができる。
ハズラは胸の奥が熱くなるのを感じながら、統星の背中に向かって、教わったばかりの不格好だが精一杯の敬礼をした。
音のない誓いを捧げると、彼は踵を返し、執事の後を追って歩き出した。
重厚なオーク材の扉が、音もなく閉ざされる。
閉まりゆく隙間から最後に見えたのは、書類の山に埋もれながらも、世界を統べるための策を練り続ける若き主人の横顔だけだった。
廊下に出ると、窓から差し込む光が、空気中を漂う塵をキラキラと照らし出していた。
ハズラは拳を強く握りしめ、前を向く。
その足取りは、部屋に入る前よりも、確かに力強くなっていた。
ここが、自分の生きる場所だ。
ハズラは新たな一歩を、しっかりと床に刻み込んだ。




