豊穣の大地と三つ巴の戦渦 15
軍の全滅という避けがたい現実が、重苦しい絶望となって大平原を覆い尽くしていく。
だが、完全に崩壊しつつある陣形の最前線で、なおも猛然と大剣を振るい続けている男がいた。総大将ファルシオンである。彼は、無数に群がるゴブリンの波状攻撃の中で孤軍奮闘していた。
彼のしなやかな褐色の筋肉は、激しい運動によってとうに限界を迎えている。敵の血と脂をたっぷりと吸い込んだ無骨な大剣を振るうたびに、彼の口から荒々しい息が吐き出された。斬っても斬っても終わりの見えない異形の波。純粋なる武人である彼は、正面からの力押しには無類の強さを誇るが、痛みを無視してしがみついてくる特攻兵や、無秩序に押し寄せる小兵の波は、彼の体力を無為に消耗させるだけの泥沼であった。
ゴブリンの粗悪な槍が彼の頬を掠め、一筋の血が流れる。ファルシオンはその痛みに顔をしかめながら、大剣で三匹のゴブリンをまとめて薙ぎ払った。その瞬間、彼の視界の端に、決して後退しなかったはずのゼルガノフが膝をつきかけている姿が映った。ロイガーの動きは止まりかけており、クレイヴァンは無数の蟲人に囲まれている。そして足元には、数え切れないほどの味方の兵士たちが、無惨な骸となって積み重なっていた。
ファルシオンの腕の動きが、ふと止まった。
純粋なる武人であるファルシオンにとって、目の前の敵に背を向けて逃げ出すという行為は、自身の存在意義を根底から否定されるほどの最大の屈辱である。彼の本能は、このまま血の最後の一滴が枯れ果てるまで剣を振り続け、散りゆくことを望んでいたかもしれない。
だが、彼は単なる一人の戦士ではない。グラン・ヴァルディア王国を背負う星辰七将の一人、第三将である。
自らの背後には、彼を信じ、命を懸けてついてきた数多の兵士たちがいる。そして何より、彼がその剣を捧げた主君はグラン・ヴァルディアの父王であり、彼は国を背負う星辰七将の一人である。ここで己の武人としてのちっぽけな誇りを優先し、軍ごと全滅するということは、祖国に致命的な損害を与えることを意味していた。土地は後からいくらでも奪い返すことができる。だが、激戦をくぐり抜けて培われた経験と、将兵たちの命は二度と戻らない。ここで有能な将兵を失うことは、王国軍を預かる将として断じて許されることではなかった。
ファルシオンは、血に濡れた大剣の柄をギリギリと骨が軋むほどの力で握り締めた。腕の筋肉が限界を超えて痙攣を起こし、悔しさに噛み締めた奥歯から血が滲む。己の矜持をへし折る、あまりにも苦しい葛藤。しかし、大局を見据える将軍としての彼の目は、目前の絶望的な現実を前に、一つの揺るぎない結論を下していた。
「総員、戦線を下げろ! 武器を構えたまま後退! 我々はこれより撤退するッ!!」
大平原の空気を震わせるファルシオンの咆哮が、全軍に向けて轟き渡った。
それは、誰かの進言や作戦によるものではなく、一人の将が自らの責任と覚悟のもとに、部下の命と主君の未来を守るために下した、血を吐くような決断であった。
その号令は、多大な犠牲を払ってこの大平原を駆け抜けたグラン・ヴァルディア軍にとって、魂を引き裂かれるような苦渋の選択であった。しかし、彼らは誰一人としてその命令に逆らうことなく、泥と血に塗れた重い足取りで後退を開始した。
彼らの背後には、つい先刻まで自らの死力を尽くして勝ち取ったばかりの肥沃な大平原が広がっている。人間界最大の農業生産力を誇るオーデンベルク王国の要であり、大河の豊かな恩恵を受けるその穀倉地帯は、軍にとって何としても手に入れたかった最大の標的であったはずだ。
しかし今、その美しい緑の平野は、無数の黒い津波によって無惨に蹂躙されていく。
撤退していくグラン・ヴァルディア軍の背中を嘲笑うかのように、ゴブリン族の兵士たちが豊かな大地を錆びついた兵器で無闇に掘り返し、泥まみれの足で踏みにじっていく。彼らの不快な奇声が勝利の歓声のように響き渡り、蟲人族が無機質な足音を立ててその後に続く。確保したばかりの拠点は、抗いようのない圧倒的な物量によって、瞬く間に異形たちの手に落ちていった。
ハズラは後退する陣列の中で、極めて静かな視線でその光景をただ黙って脳裏に焼き付けていた。
自らが観測した絶望的な事実の通り、彼らはもっとも欲していた豊かな土地を、第三勢力の暴力的な物量に完全に明け渡すこととなった。吹き抜ける乾いた風が、勝者のいない戦場に土埃を巻き上げていく。目的であった土地を奪われるという取り返しのつかない結果をもって、大平原における彼らの壮絶な戦いは、確かな敗北としてここに幕を閉じたのである。
退却の号令のもと、グラン・ヴァルディア本軍は重い足取りで来た道を引き返していく。
夕闇が迫る空の下、誰もが言葉を失い、ただ足を引きずるような音が血に染まった大地に響いていた。カネルは涙を流しながらも、歩けなくなった兵士に肩を貸し、必死に励ましの言葉をかけ続けている。ロイガーもクレイヴァンも、屈辱と疲労に項垂れながら無言で歩みを進めていた。ファルシオンの背中は、敗北の責任を一身に背負い込むように重く沈んでいた。
ハズラが視線を前方へ向けると、彼らが向かっている先には、天を衝くような険しい岩肌と荒れ狂う大河に挟み込まれた、あの過酷な狭所、ゼラン関隘の入り口が見えてきた。大平原での自由を奪うそのボトルネックは、退却する味方の無防備な背後を守るためには、これ以上ないほど最適な防衛線となる。
そして今、その狭所の入り口へと反転し、迫り来る第三勢力の波に対して立ち塞がろうとしている一部隊の姿があった。
その先頭に立つのは、漆黒の分厚い重鎧に身を包んだ第一部隊長ゼルガノフである。
言葉を発することのない首無し騎士は、左脇に自らの兜ごと首を大事に抱え、右手一本で巨大な大盾と長柄の戦斧を静かに、だが力強く構え直した。彼の分厚い背中は、沈みゆく太陽を背に受けて巨大な影を大地に落としている。それは、これから押し寄せるであろう強大な脅威を、ただの一歩たりともここから先へは通さないという、絶対的な不動の意志を物語っていた。
誰かが最も危険な殿を務めなければ、退却する全軍の命脈は断たれる。ファルシオンや他の兵士たちを無事に逃がすため、ゼルガノフとその直属の部隊は、味方を守る要石として、薄暗い谷底で決死の防衛線を敷こうとしていたのだ。彼らの背中には、自らの命を犠牲にしてでも同胞を故郷へ帰すという、悲壮なまでの覚悟が滲んでいた。
全軍の命脈を繋ぐための最も合理的で強固なその陣容を、ハズラは一人の人間としての深い敬意を抱きながら静かに見つめ続けた。
数え切れないほどの将兵が血を流し、多大な労力と犠牲を払って大平原を制圧した。しかし、最終的にグラン・ヴァルディア軍の手に残されたものは、ゼルガノフたちが今まさに自らの命を懸けて守ろうとしている、あのゼラン関隘の砦ただ一つだけであった。
多大な犠牲を払ったこの戦争という事象が孕む残酷な現実と、その理不尽さをハズラは深く噛み締めていた。敗北の事実は揺るがない。だが、ファルシオンの決断により、彼らは生き残った。有能な将と強靭な兵士たちが生き残ったからこそ、統星の覇道を再び前へと進めることができるのだ。撤退する将兵たちの沈痛な足音だけが、暮れゆく空の下、いつまでも重く響き渡っていた。




