豊穣の大地と三つ巴の戦渦 16
プレンブルク大平原での壮絶な激突から、泥と血に塗れた撤退行軍が始まってすでに数日の時が経過していた。
かつて見渡す限りの青々とした草の波が風に優しく揺れていた肥沃な大平原は、今や見る影もなく蹂躙され、無数の異形たちが踏み荒らす悪臭の漂う泥濘へと姿を変え果てている。人類同盟軍との激戦の余韻が冷めやらぬうちに、突如として北方の峻厳な山岳地帯から乱入してきた第三勢力、グルゴタ連邦。彼らの無慈悲な猛攻を前に、グラン・ヴァルディア本軍が血を吐くような思いで苦渋の撤退を決断してからというもの、将兵たちは休む間もなく重い足を引きずり続けていた。
吹き荒れる乾いた風が、戦場に散乱する死臭と、劣悪な油が酸化したような酸っぱい臭いを絶え間なく運んでくる。極限の疲労困憊に達している兵士たちの顔にはすでに生気がなく、ただ機械的に足を前に出すことだけが彼らをかろうじて前進させていた。鎧の隙間に入り込んだ泥が乾いて皮膚を擦り、先の戦いで負った生傷が鈍い痛みを訴え続けている。
第二部隊長のロイガーは、かつて大平原に轟かせていた獰猛な笑い声を完全に失い、刃こぼれした双刃の戦斧を杖代わりにしながら、苦しげな呼吸を繰り返していた。第三部隊長のクレイヴァンもまた、洗練された身のこなしは見る影もなく、泥にまみれた軍服を引きずるようにして歩いている。左翼の防衛線を死守し、兵士たちを狂気的な士気で支え続けたカネル・ルーチェは、自らも立っているのがやっとの状態でありながら、倒れそうになる兵士の肩を小さな体で懸命に支え、涙声で励ましの言葉をかけ続けていた。
陣の後方を歩むハズラは、乾ききった目をすがめながら、背後に広がる大平原の惨状を極めて静かな視線で見つめていた。彼の網膜に映るのは、大地を黒く塗り潰すようにして進軍していくグルゴタ軍の主力の姿である。彼らは撤退していくグラン・ヴァルディア軍を深く追撃することなく、その圧倒的な物量の矛先を、大平原のさらに奥にそびえ立つ人類同盟側の中心都市、プレンブルグの奪取へと完全に向けていたのだ。
戦場に捨て置かれた廃棄物やひしゃげた鉄屑を強引に繋ぎ合わせたジャンク兵器を無軌道に振り回し、耳障りな奇声を張り上げながら際限なく湧き出すゴブリン族。彼らの緑褐色の肌は、遠目から見れば大地を覆う不気味な苔のようにも見えた。そして、個としての自我を持たず、恐怖や痛みといった感情を一切見せずに死の特攻を繰り返す蟲人族。硬質な外殻を擦り合わせるカサカサという無機質な足音が、ゴブリンの喚き声に混じって不気味な和音を奏でている。
全く異なる性質を持つ二つの群れが交じり合ったその暴力的な質量は、巨大な黒い津波となってプレンブルグの高く堅牢な城壁へと殺到していく。彼らの動きには、高度な戦術的な意図も駆け引きも存在しない。ただ他者が精巧に築き上げた都市を、理不尽な暴力と数で破壊し尽くし、略奪するという無慈悲な意志だけが満ちている。
敵の主力であり、最大の脅威である無尽蔵の物量がプレンブルグという明確な標的へと一極集中したことで、この戦局には奇妙な空白が生まれていた。大平原を背にし、退却を急ぐグラン・ヴァルディア軍に対する追撃が、拍子抜けするほどに手薄なものとなっていたのである。
散発的に背後へと迫る蟲人やゴブリンの姿はあったものの、大平原で直面したあの絶望的な波状攻撃に比べれば、それはあまりにもまばらで統率を欠いていた。泥と血に塗れた重い足取りで歩みを進めるグラン・ヴァルディアの将兵たちも、背後から迫り来るはずの死の圧力が急速に薄れていくのを肌で感じ取っている。多大な犠牲を払って手に入れた穀倉地帯を理不尽に横取りされたという重く暗い屈辱に胸を焼かれながらも、敵の暴力的な質量が都市方面へと逸れたという現実が、退却を続ける軍の命脈に確かな猶予を与えていた。
だが、猶予が与えられたからといって、彼らの安全が保障されたわけではない。背後を突かれれば、疲弊しきった今の軍は脆くも崩れ去る危険性を孕んでいた。
やがて、退却ルートの行く手に、巨大な自然の壁が立ち塞がるように姿を現した。両側を険しい山肌が天を衝くようにそびえ立ち、谷底では荒れ狂う大河が白い牙を剥くように白波を立てて轟音を轟かせている過酷な狭所、ゼラン関隘である。
ここは、敵がどれほどの圧倒的な物量を誇ろうとも、大軍を横に展開することが物理的に不可能な地形であった。グラン・ヴァルディア軍の本隊がこのボトルネックを抜け切り、安全圏へと退避するまでの間、誰かが最も危険な殿を務め、敵の追撃を完全に遮断しなければならない。
その過酷な役目を担ったのは、アルカイド軍第一部隊長のゼルガノフであった。
薄暗い谷底の入り口で反転した彼は、漆黒の分厚い重鎧に身を包み、味方を守るための絶対的な防壁として無言で立ち塞がった。言葉を持たない首無し騎士である彼は、左脇に自らの兜ごと首を大事に抱えたまま、右手一本で巨大な大盾と長柄の戦斧を力強く構え直した。彼の重厚な鎧には、先の激戦で強化された騎士たちの放った無数の槍の痕や、魔術による焦げ跡が痛々しく残されている。しかし、その分厚い背中が放つ威圧感はいささかも衰えていない。
夕闇が迫る空の下、荒涼とした大地の土煙の中にすっくと立つその姿は、これから押し寄せるであろう強大な脅威を、ただの一歩たりともここから先へは通さないという、揺るぎない不動の意志を雄弁に物語っていた。
ゼルガノフの背後には、彼を信じて付き従う第一部隊の精鋭たちが、決死の防衛線を敷いて強固な陣形を構築している。彼らの目には極限の疲労の色が濃く滲んでいたが、自らの命を犠牲にしてでも同胞を故郷へ帰すという、悲壮なまでの覚悟が静かに燃え上がっていた。槍の穂先は寸分の狂いもなく揃えられ、盾は互いに隙間なく重ね合わされている。
遠く大平原の方角から、追撃の手を伸ばしてきた無数の蟲人族とゴブリン族が、不気味な足音と甲高い奇声を響かせながら狭い谷間へと雪崩れ込んできた。
しかし、横に広がることが許されない地形的優位は、ゼルガノフの強固な守りをさらに盤石なものとしていた。自我を持たず死の特攻を繰り返す蟲人族も、ジャンク兵器を無軌道に振り回すゴブリン族も、この狭所においては最大の武器である物量の利を活かすことができない。前方の仲間を押し退けるようにして少数の集団となり、縦に長く伸びて殺到してくる異形たちは、ゼルガノフの構える巨大な大盾の前に為す術もなく激突した。
凄まじい衝撃音が谷間に響き渡る。ゴブリンの錆びついた斧やガラス片を巻きつけた槍が大盾に激しく叩きつけられ、眩い火花を散らすが、漆黒の重鎧に身を包んだ巨体は岩礁のように微動だにしない。ゼルガノフは右手一本で長柄の戦斧を風を切る音とともに振り抜き、群がる敵をまとめて薙ぎ払った。鋭い刃が異形の肉を深々と切り裂き、鮮血が宙を舞う。胴体を両断された蟲人がなおも這い進もうと大顎を打ち鳴らすが、ゼルガノフの分厚い鋼のブーツが無慈悲にその外殻を踏み砕いた。
弾き飛ばされた敵兵たちは、悲鳴を上げる間もなく谷底の激流へと次々に叩き落とされていく。荒れ狂う大河は彼らの身体を瞬く間に飲み込み、白い水飛沫とともに下流へと荒々しく押し流していった。
第一部隊の兵士たちもまた、ゼルガノフの強靭な背中を支えるように槍を突き出し、狭い間口から侵入しようとする敵を的確に串刺しにしていく。彼らの連携は、疲労の極致にあっても一切の乱れを見せることはなかった。後方から迫る敵の圧力が増しても、彼らは互いの肩を支え合い、血と泥に塗れながらも一歩も退かずに戦い続けた。
結果として、追撃部隊との衝突はその狭さゆえに局地的な小規模のものに留められた。地形の利とゼルガノフの不動の守りにより、第一部隊はただの一歩も退くことなく、迫り来る無数の異形たちの追撃を完全に凌ぎ切ったのである。
追撃部隊を完全に抑え込み、ゼラン関隘という危険な隘路を抜け切ったことで、グラン・ヴァルディア本軍は致命的な損耗を避けたまま、西進の起点である戦闘都市アルカイドへと無事に生還を果たした。
見慣れた堅牢な石造りの城壁が地平線の先に姿を現すと、泥と血に塗れた兵士たちの間から、極度の緊張から解放された安堵の吐息が静かに漏れ出した。だが、彼らの歩みはどこまでも重く、足を引きずるような音が乾いた大地に響くだけであった。街の門をくぐる将兵たちの表情は一様に沈み込み、言葉を発する者は誰一人としていなかった。
大平原を制圧したはずの勝利の歓喜はどこにも残されておらず、街の通りには重苦しい沈黙だけが満ちている。アルカイドの住人たちも、帰還した軍のあまりにも凄惨な姿に息を呑み、静かに道を譲るしかなかった。
軍の最先鋒として常に陣頭を駆け抜け、誰よりも熱い闘争心を見せていた星辰第三将ファルシオンは、血と脂にまみれた無骨な大剣を背負い、深い沈痛の面持ちで城門をくぐった。彼の引き締まった褐色の肌には無数の傷が刻まれ、その背中はかつてないほどに重く沈み込んでいる。
純粋なる武人である彼にとって、目の前の敵に背を向けて逃げ出すことは、自身の存在意義を根底から否定するに等しい最大の禁忌であった。彼は、いかなる強敵を前にしても決して退かず、真っ向から道を切り拓くことのみに誇りを見出してきた男である。それでも彼は、己の中で燃え盛る闘争心と武人としてのちっぽけな誇りを完全に捨て去り、血を吐くような思いで撤退の決断を下したのだ。自らの矜持を無惨にへし折ってでも彼が守り抜こうとしたものは、自身のちっぽけな見栄ではなく、背後で力尽きかけていた数多の兵士たちの命に他ならなかった。
豊かな穀倉地帯を放棄するという代償は、軍にとってあまりにも大きかった。多大な犠牲を払い、死闘の末にようやく手にした人間界最大級の農業生産力を誇る大河の恵み。それを、突如として乱入してきた第三勢力の暴力的な物量に理不尽に明け渡すことになった事実は、将兵たちの心に暗く重い屈辱の楔を深く打ち込んでいる。
しかし、ハズラはただ絶望に打ちひしがれることなく、整然とした思考の中で、この敗北の裏側にある確かな真実を静かに見つめていた。
果てしなく湧き出す異形たちの狂気的な特攻に抗い続けていれば、疲弊しきったグラン・ヴァルディア軍は間違いなく無為にすり潰され、一人の生存者も残さずに全滅の憂き目に遭っていただろう。どれほど強靭な魔族であっても、限界を超えた肉体で無尽蔵の波を押し返すことは物理的に不可能だったからだ。
ファルシオンの苦渋に満ちた決断は、結果として、幾多の激戦をくぐり抜けて培われた有能な将兵たちの命を明日へと繋ぐことに成功したのだ。彼の主君である父王から預かった貴重な軍の損耗を最小限に抑え、最悪の事態である全滅を免れたこと。一時的な土地の喪失という感情的な敗北を差し引いても、それは軍を存続させるという大局的な視点において、戦術的な正しさを超えた、極めて論理的な最適解であった。
生き残った有能な将兵たちがいればこそ、統星の掲げる世界統一の覇道は再び前へと進むことができる。失った土地は、兵の命さえあれば何度でも奪い返すことが可能なのだ。
彼らがこうして致命的な打撃を避け、アルカイドの地に生還を果たしたという事実。それこそが、あの凄惨な戦場においてファルシオンが下した決断が、少しの狂いもない完璧な正解であったことの何よりの証明であった。ハズラは、泥に汚れた自身の軍服を軽く払いながら、指揮官としての孤独と重圧を背負うファルシオンの背中を見つめ、静かにその事実を心に刻み込んだ。




