魔眼の奴隷の登用 02
執事は迷いのない足取りで、城の裏手に位置する静寂に包まれた回廊へとハズラを導いた。
磨き上げられた石造りの床は、二人の足音をコツコツと硬質なリズムで反響させている。
南向きの居室が並ぶその回廊は明るく、窓からは柔らかな光が満ちている。 そこにあるのは、安らぎと生活の温もりを感じさせる、厚みのある木製の扉たちだった。
その長い回廊の突き当たり、一際厚みのある重厚なオーク材の扉の前で、執事は静かに足を止めた。
腰元から取り出した鍵束が、チャリと金属的な音を立てる。
彼はその中から一本の鍵を選び出すと、鍵穴へと滑り込ませた。
乾いた解錠の音が、しんと静まり返った廊下に大きく響き渡る。
執事がノブを回し、ゆっくりと、しかし確かな重みを持ってその扉を押し開いた。
「こちらが本日より、貴方に割り当てられた部屋でございます」
執事は扉の脇へと退き、恭しく片手を差し向けて、その先にある新たな生活の場へとハズラを促した。
執事に促され、ハズラは恐る恐るその部屋へと足を踏み入れた。
一歩足を踏み出した瞬間、足裏に伝わってきたのは、磨き込まれた木の床の滑らかな感触だった。
石造りの回廊の冷たさとも、奴隷小屋の湿った土の感触とも違う。日差しを吸い込んだ木材特有の温もりが、冷え切っていたハズラの足を優しく迎え入れる。
それは、靴を履いたまま上がることを躊躇わせるほどに上質で、清潔な感触だった。
部屋の中は、決して広いとは言えなかった。
だが、正面に設けられた小窓からは手入れされた中庭の緑が覗き、柔らかな午後の日差しが室内に黄金色の帯を描いている。
空気には淀みがなく、干したばかりのリネンのような、乾いた清潔な匂いが満ちていた。これまでハズラの肺を満たしていた腐臭や鉄錆の臭いは、ここには微塵も存在しない。
ハズラの視線は、部屋に置かれた調度品の一つ一つを、信じられないものを見るように彷徨った。
壁際には、分厚い敷布団が敷かれた木製の頑丈な寝台。そのシーツは雪のように白く、皺ひとつない。
隣には書き物をするための実用的な机と椅子があり、反対側の隅には衣服を収めるための収納が整然と配置されている。
貴族が使うような豪華な装飾は何一つない、極めて簡素で機能的な部屋だ。
しかし、腐った藁屑の上で雑魚寝し、汚物にまみれた牢獄の床しか知らぬハズラにとって、そこは王族の寝室にも等しい、目が眩むような空間だった。
自分一人のために用意された、雨風を凌ぐ屋根と壁。
誰にも脅かされず、奪われることのない安全な場所。
そこにある家具の一つ一つが、彼がこれまで一度も所有することを許されなかった「人間らしい生活」の象徴として、静かに彼を迎えていた。
ハズラは吸い寄せられるように部屋の中央へと進み、呆然と立ち尽くした。
窓から差し込む光の中を、微細な塵が踊っている。
そのあまりに穏やかな光景は、ここが魔界の城の深奥であることを忘れさせるほどだった。
ハズラは、部屋の奥に設えられたベッドへと足を向けた。
恐る恐る伸ばした指先が、純白のシーツに触れる。
その感触は驚くほど滑らかで、下にあるマットレスは指を押し返すような弾力に満ちていた。藁を詰めただけの硬い寝床や、冷たい石の床とは比較にならない。一度横たわれば、泥のように眠りに落ちてしまいそうな心地よさが、指先から伝わってくるようだった。
本当に、これが現実なのだろうか。
ハズラは指先の感触を確かめるように、何度もシーツを撫でた。
夢なら覚めてほしくない。だが、もしこれが何かの間違いで、後から「お前の場所はここではない」と馬小屋へ突き飛ばされたとしたら。その落差に、自分の心が耐えられる自信がなかった。
湧き上がる不安に耐えきれず、ハズラは振り返って執事を見上げた。
「あの」と震える声が出る。
「ここが、僕の部屋、なのですか? 僕一人で、ここを使っていいのですか? 他に、誰か入ってくる人はいないのですか?」
言葉は途切れ途切れだったが、その瞳には切実な問いが浮かんでいた。
彼にとって寝床とは、鎖に繋がれた数多の奴隷たちと重なり合い、互いの体温で寒さを凌ぐ場所だった。一人きりの空間など、想像すらしたことのない贅沢だったのだ。
ハズラの問いに対し、執事は表情一つ変えず、静かに首を横に振った。
「いいえ、他には誰もおりません。ここは貴方のための部屋でございます」
執事の言葉は淡々としていたが、そこには揺るぎない肯定があった。
「統星様より、この城に仕える者として、相応の扱いをするようにと厳命を受けております。ゆえに、ここは貴方だけの聖域。何人たりとも、貴方の許可なく立ち入ることは許されません」
貴方だけの聖域。
その言葉の響きに、ハズラは息を呑んだ。
ただの道具ではなく、一人の人間として尊重されている。その実感が、温かい塊となってハズラの胸を満たしていった。
執事は、感動に震えるハズラの様子を静かに見守っていたが、やがて務めを果たすべく、淡々とした、しかし丁寧な口調で言葉を継いだ。
「生活における細かな決まり事について、ご説明申し上げます」
執事は部屋の扉の裏に貼られた羊皮紙を指し示した。
「食事は一日に三度、下層の食堂にて用意されます。時間は鐘の音に合わせて定まっておりますので、遅れぬようご注意ください。また、この部屋の掃除や衣服の洗濯につきましては、週に一度、専門の係が回ります。汚れた衣服は指定の籠に入れておくように」
それは、軍隊のように規律正しいが、同時に生活を保障された者だけが享受できる秩序ある暮らしの説明だった。
今日生き延びるために泥水を啜り、明日をも知れぬ恐怖に怯える必要はない。
ここでは、明日も、その次の日も、当たり前のように食事が与えられ、清潔な服が用意されるのだ。
「そして、何より重要なことですが」
執事は一度言葉を切り、ハズラの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「公務以外の時間において、この部屋での過ごし方は貴方の自由でございます。身体を休めるもよし、思索に耽るもよし。ここは貴方が、次の務めのために英気を養うための場所……すなわち、安息の地でございます」
安息。
その言葉の響きが、ハズラの胸に重く、温かく響いた。
誰かの許可を得ずに眠っていい。誰の顔色も窺わずに、ただ自分のために時間を使っていい。
それは、奴隷だった彼にとって、想像すら及ばないほどの特権だった。
ハズラは胸の奥から込み上げる熱いものを噛み締めた。
この温かい部屋も、清潔な服も、そして人間としての尊厳も。すべてはあの御方、統星様が与えてくれたものだ。
単なる道具としてではなく、一人の人間として扱い、居場所をくれた主君。
(僕は……あの御方のためなら)
ハズラは拳を握りしめた。
この恩義に報いるためなら、自分の持つこの眼も、命さえも惜しくはない。
与えられた安息は、単なる休息ではない。主君の覇業を支えるための刃を研ぐ時間なのだと、ハズラは心に深く刻み込んだ。




