魔眼の奴隷の登用 01
見上げるほどに巨大な城壁が、天を衝くようにそびえ立っていた。
それが、奴隷の少年ハズラが初めて目にした、魔界の強国グラン・ヴァルディア王国の姿だった。
石造りの重厚な門をくぐり、城の深奥へと続く長い回廊を進むにつれ、ハズラの背中は無意識のうちに小さく丸まっていく。
視界の端を行き交う兵士たちは皆、人族とは比較にならないほど強靭な肉体を持っていた。彼らが纏う空気は、肌を刺すような濃厚な魔力の気配に満ちている。
そんな強者たちが、ハズラの先を歩く主人の姿を認めた瞬間、まるで雷に打たれたように直立不動の姿勢を取り、畏敬の念を込めて敬礼を送るのだ。
ガシャン、という鎧の擦れる音が、規律と絶対的な忠誠を示して回廊に響き渡る。
だが、統星はそれを当たり前のものとして、軽く片手を上げて応えるだけだった。歩調を緩めることすらない。その背中には、生まれながらの王族だけが持つ、圧倒的な自負と威圧感が漂っていた。
ハズラはその威容に押し潰されそうになりながら、主人の長い影に隠れるようにして、必死に足を動かし続けた。
「顔を上げろ、ハズラ。ここが私の国、グラン・ヴァルディアだ」
統星は背後をついてくるハズラを振り返ることなく、朗々とした声で告げた。
その言葉に促され、ハズラはおっかなびっくり顔を上げる。
視界に飛び込んできたのは、戦場の荒野とは対極にある光景だった。磨き上げられた石造りの床は鏡のように光を反射し、天井には精緻な彫刻が施されている。壁に飾られたタペストリーには、歴代の王たちの勇姿が鮮やかに描かれていた。
その圧倒的な文明の輝きに、ハズラは息を呑んだ。ここは魔族たちの王城だ。人族であり、しかも底辺の奴隷である自分が、足を踏み入れていい場所ではないのではないか。そんな場違いな感覚が胸を締め付ける。
不意に、統星が足を止めた。
彼がゆっくりと振り返ると、その端正な表情には一切の揺らぎがなかった。黄金色の瞳が、射抜くようにハズラを見据える。
「今日から貴様は、この国のために、そして何より私の覇業のために働いてもらう。拒否権はないと思え」
それは、有無を言わせぬ絶対的な宣告だった。
だが不思議と、ハズラの胸に恐怖は湧かなかった。むしろ、世界から捨て置かれた自分に明確な役割を与えられたことへの安堵が、温かい灯火のように胸の奥に宿るのを感じていた。
ハズラは統星の瞳を真っ直ぐに見返し、深く頷いた。言葉はなくとも、その意思を示すように。
「……と言いたいところだが」
統星の黄金色の瞳が、不意に険しく細められた。
彼はハズラの頭の先からつま先までを、まるで市場に並んだ品物を値踏みするように視線を走らせると、露骨に眉を顰めた。
「まずはその見た目をどうにかしろ。私の側近くに置くのに、そんな薄汚い格好ではみっともなくて敵わん」
指摘されて、ハズラは自分の体を見下ろした。
戦場から連れてこられたままの姿は、泥と埃にまみれ、着ている物はボロボロの布切れ同然だった。髪も伸び放題で脂ぎり、顔の半分を覆っている。
絢爛豪華な王城の回廊において、ハズラの存在はあまりに異質だった。美しい絵画の上に、誤って落とされた一滴の墨汁の染みのように、そこにあるだけで調和を乱している。
統星は呆れたように鼻を鳴らすと、虚空に向かって指を弾いた。
パチンッと乾いた音が回廊に響いた瞬間、それまで誰もいなかったはずの柱の影から、音もなく一つの人影が現れた。
「お呼びでしょうか、統星様」
現れたのは、一人の老執事だった。
背筋は定規で引いたように真っ直ぐ伸びており、着ている燕尾服には皺一つない。白髪を綺麗に撫で付けたその佇まいは、まるで最初からそこの壁の一部であったかのように自然で、気配というものが完全に消されていた。
「これを見ろ」
統星は顎でハズラを指し示した。
「戦場から拾ってきた。私の側近くに置くつもりだが、見ての通り酷い有様だ。城に置いても恥ずかしくない程度に磨き上げろ」
執事はハズラの方へ顔を向け、その全身を一瞥した。
泥と埃にまみれ、獣のような臭いを漂わせる奴隷の少年。しかし執事は眉一つ動かさず、汚れた物を見るような侮蔑の色も見せず、ただ恭しく一礼した。
「畏まりました。直ちに」
執事は表情を変えぬままハズラに向き直り、穏やかだが有無を言わせぬ口調で片手を差し出した。
「では、こちらへ。まずはお湯を使わせましょう」
「頼んだぞ」
統星はそれだけ言い残すと、踵を返した。
「終わったら執務室へ連れてこい」と言い添え、返事も待たずにマントを翻して回廊の奥へと消えていく。その背中は、一度もハズラを振り返らなかった。
主人の姿が見えなくなると、それまで場を支配していた圧倒的な威圧感がふっと消失した。
後に残されたのは、静寂と、得体の知れない老執事、そして取り残されたハズラだけだった。
「……」
執事は、統星が去った方向へ深々と一礼していた姿勢をゆっくりと戻すと、改めてハズラの方へと向き直った。
感情の読めない静かな瞳が、ハズラを見下ろす。
「では、参りましょうか」
執事は恭しく、しかし拒絶を許さない手つきで通路の先を促した。
ハズラは無言で一つ頷くと、遅れることなく執事の背中を追った。
◇
案内された場所は、王城の一角にある広大な石造りの浴場だった。
扉を開けた瞬間、熱気とともに濃厚な湯気が溢れ出し、ハズラの視界を白く染めた。豊富に湧き出る湯が床を叩く音が、高い天井に反響している。
ハズラにとって、これほど大量の湯を見るのは生まれて初めての経験だった。戦場の泥水や、奴隷小屋で与えられる冷たい水しか知らぬ彼にとって、そこは夢の世界のように幻想的だった。
老執事は手慣れた動作でハズラの体に纏わりついたボロ布を剥ぎ取ると、躊躇なく洗い場へとかがませた。
「失礼」
短く断りを入れると、執事は手桶で汲んだ湯を、容赦なくハズラの頭から浴びせた。
熱いほどの湯が頭皮を伝い、冷え切っていた背中を流れ落ちる。ハズラは驚きに身を縮こまらせたが、執事は構わず、硬いブラシと石鹸を使って、長年染み付いた垢と汚れを徹底的に磨き落とし始めた。
皮膚が赤くなるほどの強さだった。だが、そこに悪意はない。ただ目の前の汚れを排除し、主人の所有物として恥ずかしくない状態に仕上げるという、事務的な遂行意志だけがあった。
足元の排水溝へ流れていく湯が、瞬く間に泥のような濁った黒色に変わっていく。
それはハズラがこれまで生きてきた過酷な時間の澱そのものだった。染み付いた絶望や、奴隷という焼き印のような臭いが、湯とともに剥がれ落ちていく。
体が洗い清められると、次は髪だった。
伸び放題で脂ぎり、視界を遮っていたボサボサの黒髪に、冷たい鋼の感触が触れる。
執事が取り出した銀色の鋏が、小気味よい音を立てて動き始めた。
ジャキ、ジャキ、と乾いた音が湿った空気に響くたびに、重苦しく視界を覆っていた黒い束が床に落ちていく。
ハズラは抵抗することもなく、人形のようにされるがままその身を任せていた。
首筋に触れる執事の指先は冷やりとしていたが、その手際はおそろしく正確で、迷いがない。
数分の後、ハズラの頭は軽く、そして涼しくなっていた。世界が広がったように視界が開ける。
執事は最後にもう一度、ハズラの頭からたっぷりと湯をかけ、切り落とされた髪ごときれいに洗い流した。
洗い終えたハズラの体から滴る水滴を、執事は厚手の布で手早く、しかし丁寧に拭き取った。
濡れた床の上に、一揃いの衣服が差し出される。
それは召使いが身につけるような、装飾のない簡素な濃紺のチュニックとズボンだった。生地は麻や綿の実用的なもので、決して貴族が着るような上等な品ではない。
だが、ハズラにとっては、それがまるで王族の衣装であるかのように輝いて見えた。
これまでハズラが身に纏っていたものといえば、穴だらけの麻袋か、死体から剥ぎ取った血にまみれたボロ布だけだった。
目の前にある服には、汚れもなければ綻びもない。洗濯され、陽の光を吸い込んだような清潔な匂いがした。
「さあ、腕を通して」
執事に促され、ハズラは恐る恐るチュニックに袖を通した。
身構えていたような、粗悪な布特有の皮膚を刺す痛みはない。
ふわりと肌を包み込む柔らかさと、糊の効いた生地の清潔な感触に、ハズラは思わず息を呑んだ。
冷え切っていた心を温めるような、不思議な安心感がそこにはあった。
続いてズボンを穿く。驚くべきことに、そのサイズはハズラの痩せた体躯に吸い付くようにぴったりだった。
ベルトで無理やり縛る必要も、裾を引きずることもない。
執事は一瞥しただけで、ハズラの体の寸法を正確に見抜いていたのだ。
ボタンを一つずつ留めていくたびに、ハズラは自分が奴隷という記号から切り離されていくような感覚を覚えた。
首輪も鎖もない。汚れも臭いもない。
ただの清潔な服を着た一人の人間として、彼はそこに立っていた。
支度が整うと、執事は部屋の隅に置かれていた大きな姿見の向きを変え、ハズラの正面に向けた。
「いかがですかな」
鏡の中に、一人の見知らぬ少年が立っていた。
短く整えられた黒髪は清潔で、前髪の隙間からは、今まで隠れていた理知的な額が覗いている。
頬はまだ栄養失調気味にこけ、肌も病的なほど白いままだ。あばら骨が浮くほど細い体躯は変わらない。
だが、その瞳は、深い夜のような静寂を湛えた、光のない黒色だった。派手な輝きこそないが、そこには物事を冷静に見据える静かな知性が浮かんでいた。
身につけた紺色の衣服は、彼の痩せた体に品位を与え、その線の細さを知性的な佇まいへと変えていた。
ハズラは呆然と立ち尽くし、恐る恐る鏡の中の像へと手を伸ばした。
指先が冷たい鏡面に触れると、鏡の中の少年も同じように手を伸ばしてくる。
自分の頬をつねってみると、鏡の向こうでも同じ顔が痛みに顔をしかめた。
そこに映っているのは、薄汚れた奴隷のハズラではない。
どこにでもいる、普通の、年相応の少年の姿だった。
「これが……僕、なんですか」
思わず漏れた声は震えていた。
これまで、水溜りやガラスの破片に映る自分の顔を見たことはあったが、それはいつも泥にまみれ、絶望に歪んでいた。
こんなふうに、背筋を伸ばし、人間らしい顔をした自分を見るのは初めてだった。
執事は何も言わず、ただ静かに頷いて肯定した。
その無言の肯定が、ハズラには何よりも雄弁に感じられた。
自分はもう、ただの使い捨てられる道具ではない。
名前を呼ばれ、体を清められ、服を与えられた、一人の人間なのだ。
鏡の中の自分を見つめ続けるハズラの胸の奥に、湯の温かさとは違う、じわりとした熱いものが込み上げてきた。




