辺境の密売組織殲滅戦 04
岩壁の隙間を抜けた先に、それはあった。
まるで巨人が大地をスプーンで抉り取ったかのように、広大な窪地がぽっかりと口を開けていた。
周囲を高く鋭い岩山に囲まれたその場所は、荒野に吹きすさぶ狂暴な風さえも遮断する天然の防壁となっていた。外からは完全に死角となり、空を飛ぶ鳥の目でもなければ、その存在に気づくことすらできないだろう。
そこは、まさに完璧な隠れ家だった。
乾いた砂の上には豪奢な馬車が停められていた。
馬車の周囲には、護衛として雇われた屈強な傭兵たちが屯し、既に野営の準備を始めている。焚き火の煙が細く立ち上り、肉の焼ける匂いが漂っていた。
彼らの様子に、追われる者特有の悲壮感や緊張感は微塵もなかった。
無理もない。彼らは確信しているのだ。追っ手は自分たちが作った偽の痕跡に釣られ、遥か北の街道を血眼になって走っているはずだと。
武装を解いて地面に座り込み、酒瓶を回し飲みして下卑た笑い声を上げている者さえいた。
「へっ、今頃グラン・ヴァルディアの堅物どもは、北の街道で地団駄を踏んでる頃だろうぜ」
「違いねえ。あいつらは融通が利かねえからな。街道以外に道があるなんて思いもしねえさ」
岩陰からその弛緩しきった光景を見下ろしながら、統星は唇の端を冷ややかに吊り上げた。
なるほど、と彼は思う。
彼らの読みは正しかった。相手が常識に縛られた凡人であれば、だが。
統星は無言のまま、ゆっくりと腰の剣に手をかけた。
鞘から滑り出る刃が、微かな金属音を立てる。
それが、処刑の合図だった。
「――殲滅せよ」
短く、氷のように冷たい命令が下される。
次の瞬間、静寂は蹂躙へと塗り替えられた。
「なっ……!?」
酒を煽っていた傭兵の一人が、頭上から降り注ぐ殺気に気づいて素っ頓狂な声を上げた。だが、彼らが事態を認識し、武器に手を伸ばした時には、全てが終わっていた。
岩山の頂から、死角となっていた亀裂から、漆黒の騎兵隊が一斉に雪崩れ込んだのだ。
ドドドッ!という地鳴りと共に、騎兵たちが垂直に近い崖を駆け下りる。
重力を無視したかのようなその機動力は、生物としての馬の限界を遥かに超えていた。疲れを知らぬ首なしの軍馬が、悪夢のように窪地を埋め尽くす。
「て、敵襲! 敵襲だッ! 構えろぉおお!!」
「馬鹿な! どこから湧いてきやがった!?」
傭兵たちの悲鳴は、瞬く間に鉄と肉がぶつかり合う鈍い音にかき消された。
逃げようと背を向けた者の背中に、正確無比な槍の一撃が突き刺さる。
剣を抜こうとした者の手首が、すれ違いざまの斬撃によって宙を舞う。
統星の近衛兵たちは、無駄な雄叫び一つ上げることなく、ただ淡々と、作業のように敵の戦力を削ぎ落としていく。
物理的な距離など、彼らの脚力の前では存在しないに等しかった。窪地という閉鎖空間は、一瞬にして逃げ場のない処刑場へと変貌した。
圧倒的な戦力差だった。
数においても、個々の質においても、そして何より予期せぬ奇襲を受けたという精神的な崩壊において、勝負は目に見えていた。
瞬く間に周囲を黒い軍服の兵士たちに取り囲まれ、喉元に切っ先を突きつけられた傭兵たちは、顔を引きつらせて両手を挙げるしかなかった。
「ひっ……降参! 降参だ! 金で雇われただけなんだ!」
「助けてくれ!」
命乞いをする傭兵たちを一瞥もせず、統星は悠然と馬を進めた。
その視線の先にあるのは、窪地の中央に停められた豪奢な馬車ただ一つ。
兵士たちが粗暴に扉をこじ開け、中から一人の男を引きずり出す。
上等な絹の服を着た小太りの男が、砂利の上に無様に転がされた。かつて交易街の裏社会を牛耳り、グラン・ヴァルディアに害毒を撒き散らしていた黒幕のなれの果てだ。
男は顔面蒼白で、信じられないものを見るように統星を見上げた。
脂汗の浮かんだ顔は恐怖と混乱で引きつり、唇がわなないている。
「あ、あり得ない……このルートは誰にも知られていないはずだ……! 古地図にも載っていない、魔法による探知も遮断する結界を張った場所を選んだのに!」
男の悲鳴のような叫び声が、窪地に木霊した。
その言葉は、統星の判断――いいや、あの少年の指差しが正解だったことの、何よりの証明となった。
周囲を固めていた騎兵隊長をはじめ、部下たちの表情が一変する。
彼らは驚愕と、ある種の畏怖が入り混じった視線を、統星の腕の中にいる小柄な少年へと向けた。
常識的に考えれば、やはりあり得ないことだったのだ。
目に見える痕跡もなく、魔法でも探れないこの隠れ家を、彼は街の屋敷にいながらにして正確に指し示していた。
それは単なる運や勘ではない。この薄汚れた少年には、自分たちの理解を超えた「何か」が見えている。
砂の上に這いつくばった黒幕の男は、震える視線を上げ、自分を見下ろす統星へと向けた。
「ひっ、あ、あぁ……。わ、私はただ商売を……」
男はブツブツと譫言のように言い訳を繰り返していたが、ふと統星の鞍の前方に、見覚えのある薄汚いボロ布の塊を見つけ、その表情を凍りつかせた。
恐怖が、急速にどす黒い怒りと侮蔑へと塗り替わる。
自分の完璧な逃走計画が、まさか自身の所有物であった道具によって破綻させられたのだと気づいた瞬間、男の理性が弾け飛んだ。
「……き、貴様、まさか」
男はここが敵軍の包囲下であることも忘れ、泡を飛ばして絶叫した。
「ハズラ! そこにいるのはハズラか! この役立たずのゴミめ!」
男の剣幕に、統星の腕の中にいた少年がビクリと肩を震わせる。
その反応を見た男は、かつての所有物に対する支配者意識を剥き出しにして喚き散らした。
「その不気味な眼で余計な真似をしおって! 誰に飼われていたと思っているんだ、この恩知らずが! 殺してやる、そのふざけた眼球ごと――」
「騒々しい男だ」
男の罵詈雑言は、統星の静かな一言によって断ち切られた。
声量は決して大きくない。だが、その声に含まれる絶対的な格の違いが、男の喉を凍りつかせた。
統星は、喚く男を路傍の石ころを見るような冷淡な目で見下ろしながら、小さく呟く。
「ハズラ、か」
男の命乞いや言い訳など、統星にとっては雑音に過ぎない。
だが、その汚い口から吐き出された言葉の中に、一つだけ価値ある情報が含まれていた。この盤面をひっくり返した、勝利の鍵となった少年の名前だ。
統星は視線を男から外し、腕の中の少年へと向けた。
ゴミと罵られたその少年こそがこの盤面における最大の功労者であることを、統星は正しく理解していた。
統星はそれ以上男に言葉をかける価値もないとばかりに、控えていた部下たちに顎でしゃくった。
「連れて行け。その威勢の良さが、王都の尋問官の前でも続くか見ものだな」
「は、離せ! 私は……!」
兵士たちに両脇を抱えられ、引きずられていく男の悲鳴が、岩壁に虚しく反響して消えていった。
敵の制圧が完了し、喧騒が去った荒野に再び乾いた風の音だけが戻ってきた。
統星は愛馬の肩を軽く叩いて労うと、軽やかな動作で鞍から飛び降りた。
続いて、鞍の前方に乗せていたハズラの方へ手を伸ばし、地面へと下ろす。
「……っ」
ハズラの足が硬い岩肌に着いた瞬間、その膝がガクンと折れた。
支えを失った体は糸の切れた人形のように崩れ落ちそうになったが、統星が片手でその細い肩を掴み、支える。
長時間の乗馬による疲労の反動だろうか。ハズラは肩で息をし、脂汗を流して震えていた。
統星は、目の前でうずくまる少年の顔を覗き込んだ。
その時だった。
「――ほう」
統星の喉から、感嘆とも納得ともつかぬ吐息が漏れた。
先ほどまで、狂気を孕んだように赤黒く充血し、異様な光を放っていた少年の双眸。
そこから、急速に色が引いていくのを統星は見た。
まるで燃え尽きた炭火のように、赤黒い輝きがスッと消失していく。
充血が収まり、そこに残ったのは、どこにでもいる栄養失調の少年のような、光のない濁った黒色の瞳だけだった。
この世界には稀に、生まれつき特異な感覚器官を持って生まれてくる者がいる。
常人には聞こえない音域を聞き取る耳や、見えないはずのものを視覚情報として捉えてしまう変異した眼球。いわゆる異能に分類される力が存在するという話は、統星も知識として持っていた。
(なるほど……そういうことか)
統星の中で、一つの確信が生まれた。
初めて会った時からずっと赤かったため、これまではそれが生来の色素なのか、あるいは病気なのか判別がつかなかった。
だが、今その色が消えたということは、あの赤色は能力行使による充血であり、一時的な変異だったということだ。
(使用時のみ赤く染まる、特異な眼球……『魔眼』か)
ならば辻褄が合う。あの屋敷での指差しは、当てずっぽうなどではない。
こいつは実際に、ここを視ていたのだ。
「顔を上げろ」
統星の静かな命令に、ハズラはびくりと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。
今はもう黒一色に戻った瞳が、不安げに統星を見上げている。
痩せこけた頬、生気のない顔色。一見すれば、何の価値もないただの弱者だ。
だが、統星はその奥に眠る、国一つを動かすに値する目の価値を見定めていた。
「よくやった。貴様の眼は本物だ」
短く、淡々とした言葉。
しかしそこには、王族としての強かな計算と、確かな信頼の響きがあった。
それは、ゴミのように扱われてきた少年の人生において、初めて与えられた肯定だった。
ハズラは目を見開き、信じられない言葉を聞いたかのように呆然と統星を見つめ返した。
「殿下、この少年をどうなさいますか? 正規の手続きでは、捕虜として収容所へ送ることになりますが」
部下の一人が、手帳を取り出しながら事務的に尋ねた。
どれほど役に立ったとはいえ、相手は敵対組織にいた人族の奴隷だ。軍規に照らせば、他の捕虜と同様に処理するのが妥当であり、特別扱いする前例はない。
だが、統星の返答は即座にして明確だった。
「必要ない。こいつは軍の管理下には置かん」
統星はハズラの細い腕を掴み、自分の近くへと引き寄せる。
そして、周囲の兵士たち全員に聞こえるよう、朗々とした声で宣言した。
「こいつは私が個人的に徴用する。今この瞬間から、私の直属だ」
その言葉に、兵士たちはどよめいた。
王族が人族の奴隷を、それも公的な戦利品としてではなく、自身の私的な側近として抱え込むなど前代未聞だ。
しかし、統星の瞳に宿る絶対的な意志を見て、異を唱えられる者はいなかった。
彼らは、常識外れのルートで敵を追い詰めた主君の判断を、そしてその成果をもたらした少年の価値を、既に目の当たりにしているからだ。
「帰還するぞ。丁重に運べ。……これ以上、余計な傷を増やすな」
統星は短く命じると、自らは軽やかに愛馬の背へと飛び乗った。 すぐに部下の一人がハズラを抱き上げ、自身の馬へと乗せる。
それは単なる慈悲ではない。
自らの覇道を切り拓くための、得難い武器を手に入れた王としての合理的な判断だった。
夕日が荒野を行く騎兵隊の影を長く伸ばしていた。
その先頭を行く統星の背中を見つめながら、ハズラは安堵したように、静かに意識を手放した。




