極寒の白銀要塞籠城戦 05
限界を超えた魔眼を行使し、一筋の血涙を流しながらもハズラは統星へ索敵情報をもたらした。
「……統星様。敵軍の意識は、完全に正面の城壁に釘付けになっています。その一方で、後方の高台、敵将カネルの周囲を取り巻く守りは、驚くほど手薄です。……そこが、唯一の死角です」
限界を超えた魔眼の行使により、一筋の血涙を流しながらもハズラがもたらしたその索敵情報。それは、音のないモノクロームの視界の中で、無数の「魂の火」が砦の正面一点のみに狂気的なベクトルを集中させているという、戦場の特異な歪みを見抜いたものであった。その観測情報こそが、統星が待ち望んでいた起死回生の反撃の鍵となる。
統星は即座に、砦に残された僅かな守備兵たちに過酷な命を下した。彼らをあえて砦の正面へと集中配置させ、防衛の要として立たせる。それは囮となることを意味していたが、兵士たちは主君の意図を深く理解し、最後の気力を振り絞って重い武器を構えた。
狂暴な波状攻撃を繰り返すコルデア軍の兵士たちは、目の前の城壁に守備兵の塊が現れたのを見るや否や、その異常なまでの執念をさらに燃え上がらせた。彼らの血走った視線と狂気的な殺意は、血を流して抵抗する砦の正面へと完全に吸い込まれていく。彼らにとって、目の前の障害を乗り越えて勝利を捧げることだけがすべてとなり、それ以外のあらゆる事象が彼らの視野から完全に消失していった。
その狂信的な集中による視野の狭窄こそが、統星の待ち望んでいた決定的な隙であった。
統星は城壁の死角となる裏口へと素早く身を翻し、選び抜かれた僅かな精鋭部隊を率いて雪原へと飛び出した。彼に付き従うのは、通常の魔族を頭二つは凌駕する巌鉄である。分厚い超重装フルプレートアーマーに身を包んだ巌鉄は、無数の打撃を受けてひしゃげた鎧を軋ませながらも、主君の盾となるべくその巨大なウォーハンマーを握り直した。
猛吹雪を隠れ蓑にした統星たちの突撃、すなわち敵本陣への逆落としは、狂気に囚われたコルデア軍の本隊に全く察知されることなく開始された。
膝まで埋まるほどの深い雪を蹴立てながら、精鋭たちは一言も発することなく険しい斜面を駆け上がる。凍てつく風が容赦なく体温を奪い、肺に取り込む空気は刃のように冷たい。それでも彼らの足取りに迷いはなく、ハズラが事前に示して見せた安全な経路を正確になぞるようにして、敵本陣が置かれている後方の高台へと肉薄していった。
前線への波状攻撃に人員を割きすぎた結果、やはり敵本陣は致命的なまでに手薄となっていた。高台の頂が白く霞む視界の中に現れた瞬間、残されていた少数の護衛兵たちが侵入者に気づき、慌てて槍や剣を構えた。
しかし、統星の研ぎ澄まされた剣閃がヒュンと風を切って先陣の武器を弾き飛ばすと、それに続く精鋭たちが雪煙を上げながら容赦なく襲い掛かった。ズシンと大地を揺らすような重い足音を響かせて前に出た巌鉄が、その太い腕で巨大なウォーハンマーを豪快に横薙ぎに振るう。ゴギィッという鈍い骨の砕ける音とともに、複数の護衛兵が紙切れのように雪原へと吹き飛ばされていった。
統星の剣と巌鉄の圧倒的な破壊力の前では、残された護衛など何ほどの障害にもならなかった。雪煙と血飛沫が舞う中、精鋭たちは迅速かつ淀みない動きで周囲の敵を排除し、ついにその高台の頂へと完全に到達した。
激しい息を吐き出しながら周囲を見渡した統星たちの目に飛び込んできたのは、凄惨な血みどろの乱戦から完全に隔離されたかのような、あまりにも異質な光景であった。
吹き荒れる吹雪の中で、そこだけが別の空間であるかのように、敵将カネル・ルーチェが立っていたのだ。自軍の兵士たちが砦の正面で命をすり減らし、次々と雪に倒れ伏しているというのに、彼女は軍服を愛らしくアレンジした衣装を纏い、眼下の戦場に向かって無邪気に両手を振り続けていた。
彼女の周囲には、戦場特有の焦燥感も、死の恐怖も、血の匂いすらも存在しないように見えた。
巌鉄が、逃げ場を塞ぐように彼女の背後へと音もなく立ち塞がった。「歩く要塞」と称されるその巨漢は、静かに、だが決して逃れられない力で太い腕を伸ばし、小柄で華奢な敵将の身柄を完全に拘束した。
圧倒的な質量と武力による制圧。その場にいる誰もが、彼女が恐怖に顔を引きつらせて泣き叫ぶか、あるいは無駄な抵抗を試みて暴れるものと予想していた。
しかし、武器も道具も一切持たないカネルは、巌鉄の鋼のように硬い腕に捕らえられても、抵抗する素振りを全く見せなかった。それどころか、彼女は自らが拘束されたという絶望的な状況を悪びれる様子すらなく、振り返って巌鉄を見上げると、天真爛漫な笑顔を浮かべてふわりと首を傾げたのだ。
「あ、捕まっちゃった。えへへ、ごめんねみんな」
過酷な吹雪と死の気配が交錯する凍てついた戦場において、そのあどけない声はあまりにも場違いであった。狂気すら感じさせるほど無邪気なその響きに、歴戦の将である巌鉄でさえ、ほんのわずかに戸惑いの色を瞳に浮かべたほどだ。統星もまた、底知れぬ無垢さを前にして微かに眉を動かしたが、すぐに覇者の顔へと戻り、捕らえた敵将を促して砦の方向へと歩を進めた。
猛威を振るう吹雪の中、白銀の砦の城壁では未だに絶え間ない怒号と剣戟の音が響き渡っていた。矢が深々と肉に突き刺さろうと、凍てつく石壁から突き落とされようと、一切怯むことなく壁を這い上がってくるコルデア軍の狂気的な突撃は、もはや止める術がないように思われた。彼らの瞳は血走り、口からは獣のような咆哮が漏れている。
しかし、その血みどろの光景を見下ろす城壁の縁、戦場にいる誰もが仰ぎ見るであろう最も目立つ高所に、一つの影が姿を現した。統星である。彼は、敵本陣への突撃によって捕らえたばかりの敵将カネルを伴って歩み出ると、その身柄を眼下で狂乱する敵兵たちへと容赦なく晒し上げた。
愛らしく着崩した軍服に身を包み、艶やかなピンクブロンドの髪を冷たい風に揺らす無防備な少女の姿。殺戮の場にはあまりにも不釣り合いなその姿が城壁の上に立ち現れた瞬間、戦場を支配していた熱狂に劇的な変化が訪れた。
城壁に取り付き、死を恐れぬ執念で武器を振るっていたコルデアの兵士たちが、まるで自らの心臓を射抜かれたかのようにその動きをピタリと硬直させたのである。狂信に濁っていた瞳は、頭上のカネルの姿を捉えた途端に驚愕に見開かれ、彼らの肉体を限界を超えて突き動かしていた見えない操り糸が、ぷつりと断ち切られたかのように全身から力が抜け落ちていった。
カラン、という硬質な音が、重い雪に吸い込まれるように響いた。
一人の兵士が、手にした剣を無意識に取り落とした音だった。それを皮切りに、次々と鈍い金属音が連鎖していく。ガシャリ、コトリと、槍が、斧が、折れた剣の柄が、彼らの手から力なく滑り落ち、容赦なく吹き付ける雪の上に無造作に投げ捨てられていった。
そして、武器を捨てた兵士たちは、雪に塗れた膝をガクンと折り、誰の命令を受けるでもなく一斉にその場へ深々とひれ伏した。一人残らず、冷たい大地に額を擦りつけるようにして平伏したのだ。
直前まで砦を物理的に押し潰さんばかりの勢いで吹き荒れていた兵士たちの怒号も、肉が切り裂かれる悲鳴も、金属が打ち合う激しい音も、まるで初めから幻であったかのように消え去った。残されたのは、凍てつくような風がヒュウオォォと吹き荒れる音と、静かに降り積もる雪の気配だけである。
何千という兵が武器を捨てて雪にひれ伏し、身動き一つしないその光景は、泥沼の激戦の最中にあった白銀の砦に、不気味なまでの異様な静寂をもたらしていた。
分厚い雪が降り積もる城壁の下、先ほどまでの血なまぐさい狂乱が嘘のように静まり返った戦場で、コルデアの兵士たちは誰一人として立ち上がろうとはしなかった。彼らは投げ捨てた武器の傍らで、凍てつく雪の上に深くひれ伏したまま、城壁の上に立つ統星と、捕らえられたカネルの姿をただ見上げている。
やがて、その異様な静寂を破るように、一人の兵士が雪に顔を擦り付けんばかりにして叫び声を上げた。それに呼応するように、次々と他の兵士たちからも悲痛な声が上がり、それは大合唱となって吹雪の空に響き渡った。
「我々はどうなっても構いません! 殺してくれてもいい! どうか、カネル様だけは助けていただけないでしょうか!」
凍えるような冷気の中で、彼らのひび割れた頬にはとめどなく熱い涙がボロボロと流れ落ちていた。先ほどまで自らの命を投げ打って城壁に群がっていた狂気は完全に影を潜め、今や彼らの顔に浮かんでいるのは、ただひたすらな懇願の色だけであった。
統星は城壁の上から、眼下で雪に額を擦り付ける敵兵たちを黄金色の瞳で静かに見下ろした。彼らの狂気じみた必死の訴えの中には、敗軍の将兵となったことへの無念さや、これから自らに降りかかるかもしれない死への恐怖は、微塵も含まれていなかった。
彼らの心を満たしているのは、ただ純粋にカネルの身の安全を案じる思いだけだった。それは主君に対する絶対的な忠誠という枠組みを超えた、ひたむきで無邪気な少女を理不尽な運命から守り抜きたいと願う、痛ましいほどに純度の高い愛情に他ならなかった。自らの命という最大の対価を支払ってでも、彼女の命だけは繋ぎ止めたい。兵士たちの胸の奥底にあるのは、親が子を想うような、切実で温かい感情だったのである。
その血を吐くような願いの言葉だけが、凍てついた白銀の戦場に悲痛な木霊となっていつまでも響き続けていた。統星は吹き付ける雪風の中でマントを翻し、この戦場の結末をどう導くべきか、その透徹した思考を静かに巡らせていた。




