濁流の水上要塞攻略戦 01
磨き抜かれた窓ガラスの向こうに、グラン・ヴァルディア王都セプテントリオンの活気ある街並みが広がっていた。分厚い石造りの城壁の向こうからは、行き交う兵士たちの熱気や、軍馬のいななきが微かに風に乗って届いてくる。
王城の奥深く、重厚な木製の扉に守られた執務室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。壁際の本棚には皮張りの書物が整然と並び、部屋の空気を古い紙と乾いたインクの匂いで満たしている。
広々とした執務机に向かう統星は、手元に広げられた一枚の羊皮紙をじっと見つめていた。彼の月明かりのようなプラチナブロンドの髪が、窓から差し込む陽光を受けて微かに煌めく。その黄金色の瞳に宿っているのは、遥か彼方の地平を見据えるような透徹した光であった。
統星の視線の先にあるのは、国境を流れる広大な大河の図面である。
グラン・ヴァルディア王国が将来的に他国への進軍を行うにあたり、あるいは国内の物流を円滑に循環させるにあたり、この大河は王国の命脈とも言える重要な血管であった。しかし現在、その血管の要衝に、得体の知れない障害物が鎮座している。大河を不法に占拠し、通行を物理的に妨げている巨大な「水上要塞」の存在についての報告書が、統星の机上に数日前から積まれていた。
ただの盗賊の砦であれば、地方の守備隊に一任すれば済む話である。だが、相手は広大な大河のど真ん中に陣取り、幾度かの討伐隊を退けているという。物流の停滞は、国家の体力を静かに、しかし確実に削り取っていく。世界統一という途方もない覇業を見据える統星にとって、このような足元の不安要素を放置しておくことはできなかった。この大河の制圧は、避けては通れない確実な布石である。
「ハズラ。出立の準備はできているか」
統星が羊皮紙から視線を上げずに問いかけると、部屋の片隅に音もなく控えていた少年が、静かに一歩前に出た。
かつては泥にまみれていた奴隷の少年は、今や仕立ての良い鉄紺の軍服を身に纏い、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。前髪の隙間から覗く光のない黒い瞳には、過酷な過去を生き抜いてきた者特有の静けさと、主君への深い忠誠が宿っていた。
彼は戦局の裏側に隠された真実を読み解く、統星の頼れる観測者である。遮蔽物越しに魂の波長を透視する彼の魔眼は、未知の水上要塞を攻略するにあたり、決して欠かすことのできない力だった。
「はい、統星様。いつでも向かえます」
ハズラが短く、感情を交えない声で答えると、統星は満足げに頷いた。
その時、コンコンと控えめながらもリズミカルなノックの音が執務室の扉から響いた。統星が入室を促すと、重い扉が軋む音を立てて開き、二つの影が室内へと滑り込んでくる。
実行部隊として召集された、ランカスター家の双子の姉妹であった。
姉の鈴蘭・ランカスターは、機動力を最優先した軽装のビスチェ風アーマーを纏い、白銀のツインテールを歩調に合わせて軽快に揺らしている。彼女の両手には、取り回しを良くするために柄を切り詰めた二本の槍が握られており、猫のように細くなった金緑色の瞳には、これから向かう戦場への好奇心が隠しきれない様子で輝いていた。
「お呼びと聞いて飛んできたよ、統星様。次の相手はどんなやつ? あんまり弱っちいと欠伸が出ちゃうんだけど」
鈴蘭が軍の将らしからぬ軽い口調で笑いかけると、そのすぐ後ろから、静かな足音とともに妹の水仙・ランカスターが進み出た。
水仙は姉とは対照的に、防御と安定性を重視したロングスカート状の腰布を纏い、背中には彼女自身の身長の倍以上はある長大な一本槍を背負っている。白銀の髪を太い三つ編みにまとめ、半分閉じられたようなアンニュイな瞳で、ただ静かに統星を見据えていた。
「……姉様、口が過ぎます。統星様、水仙、ただいま到着しました。指示を」
感情の起伏を感じさせない平坦な声で水仙が言うと、統星は口元に微かな笑みを浮かべた。
直感とスピードに優れ、戦場を縦横無尽に駆け回る鈴蘭。そして、いかなる重装甲をも粉砕して貫く絶対的な火力を持つ水仙。対照的な戦闘スタイルを持つ二人が戦場で繰り出す極めて精密な連携は、強固な防衛線を打ち破るための最大の矛となる。
未知の水上ギミックを突破するためには、力任せの突撃だけでは足りない。ハズラの観測によって見出された針の穴のような隙を、この双子ならば確実に食い破ることができると統星は確信していた。
「待っていたぞ。標的は国境の大河を塞ぐ水上要塞だ。水上の戦いとなるが、貴公らならば地の利の不利も覆せると見込んでの召集だ」
「水の上! それは面白そう。足場が揺れるくらいの方が、戦いは燃えるってもんだよ」
鈴蘭が二本の槍をくるりと回して笑うと、水仙は「……私は足場が固い方が好きですが」と小さく呟いた。
必要な戦力は揃った。統星は机上の図面を丸めて立ち上がり、威厳に満ちた黄金色の瞳で三人を見渡した。
「これより、我が軍は大河へと進軍する。行く手を阻むものはすべて排除し、大河の支配権を我が手中に収める。遅れるな」
統星の静かでありながらも絶対的な号令が下り、彼らは執務室を後にした。
◇
活気に満ちた王都の城門が大きく開かれ、統星率いる軍勢は出立の時を迎える。先頭を進む統星は愛馬の手綱を引き、その後ろをハズラが静かに追う。双子の姉妹もそれぞれの武器を携え、隊列の要所を固めていた。
抜けるような青空の下、蹄の音がリズミカルに土を打ち、軍勢は平原を越えて国境の大河へと向かう。進むにつれて風の匂いが変わり、乾いた土の香りから、たっぷりと水分を含んだ青臭い匂いへと変化していく。それは、間もなく視界に広がるであろう広大な水域の存在を無言で告げていた。
数日の進軍を経て、ついに彼らの視界が開けた。
うねるような平原の先に現れたのは、対岸が見えないほどに広大な大河であった。灰褐色の濁った水が、途方もない質量をもって重々しく流れている。大地の裂け目を流れる巨大な血管のようなその川は、ただ水が流れているというだけで、人を容易には寄せ付けない自然の威容を放っていた。
しかし、統星の目を引いたのは、その雄大な自然の姿ではない。
川幅が最も狭まり、船の航行において避けては通れない急所とも言える水域。そこに、大河の滔々とした流れを物理的に塞き止めるようにして、異様な巨大構造物が横たわっていた。
それが、不法占拠された水上要塞であった。
馬を止め、遠眼鏡を使わずとも肉眼でその全貌を捉えた瞬間、統星の周囲に控えていた古参の部下たちから、一様に戸惑いと嫌悪の入り混じった息が漏れた。
それは要塞と呼ぶにはあまりにも醜悪で、いびつな姿をしていたからだ。
堅牢な石材や、切り出された真新しい木材などで構成されているわけではない。構成しているのは、どこからか流れ着いたのであろう沈没船の腐りかけた残骸、水分を吸って黒ずんだ巨大な流木、赤錆が浮いた無数の鉄板、そして泥にまみれたひしゃげた瓦礫の数々である。
それらの廃材が、まるで無秩序な巨大生物の巣のように、あるいは川に流れ着いた巨大なゴミの吹き溜まりのように、複雑に絡み合い、重なり合って一つの巨大な人工島を形成している。苔むした船首が奇妙な角度で天を突き、千切れた帆布が強風に煽られて不気味にバタバタと音を立てていた。
統一された設計思想など微塵も感じられない、狂気じみたガラクタの集合体。それが、グラン・ヴァルディア軍の進軍を阻む水上要塞の正体であった。
「……なんという不格好な。あれが要塞だと?」
統星の斜め後ろで馬を進めていた副官が、顔をしかめて吐き捨てるように言った。
「ただのゴミの山ではないか。あんな腐りかけた木材の寄せ集め、我らの重装船団の衝角で一突きにすれば崩れ去りましょう。いや、それすらも惜しい。火矢を放って焼き払えば、一刻も経たずに灰燼に帰すはずです」
「同感です。あのような悪趣味な瓦礫の山に、我が軍の精鋭を突入させるなど馬鹿げております。殿下、即座に破壊の命を」
周囲の部下たちが次々と同調し、破壊工作を進言する。彼らの目には、あの構造物が軍事的な脅威というよりも、ただの不快な障害物としてしか映っていなかった。
しかし、統星は部下たちの進言に即答することはなかった。
彼は愛馬の上で静かに姿勢を正し、黄金色の瞳を細めて、大河の中央に陣取るゴミの山をじっと観察し続けていた。
統星の視線は、要塞の外観の醜悪さには向いていない。彼が見つめていたのは、要塞を構成する廃材が水面に接している境界線と、そこに生じている大河の水流の変化であった。
一見すると無秩序に突き出しているように見える沈没船の船首。だが、その角度は川の上流から押し寄せる強烈な水圧を正面から受けるのではなく、絶妙な斜めの角度で受け流している。それだけではない。受け流された水流が、隣り合う別の流木や鉄板の壁にぶつかることで、大河の本来の流れとは異なる人工的な渦や不自然な淀みを意図的に生み出していた。
川の中央にあるべき最も深く安全な本流が、要塞の奇妙な形状によって二つに割られている。そして、その割れた水流は、岸に近い浅瀬の方へと、目に見えない力で誘導されるように流れていく。
もし、この要塞の不格好な外見に油断し、正面から船を突入させようとすればどうなるか。
船は、抵抗の少ないその人工的な渦に無意識のうちに巻き込まれ、操舵の自由を奪われたまま、水面下に隠されたであろう暗礁や罠の密集地帯へと引きずり込まれる。
ただのゴミの山ではない。
この廃材の不規則な配置はすべて、大河の途方もない水流のエネルギーを巧みに制御し、侵入者を最も不利な水域へと誘い込むための、緻密で恐るべき計算に基づいたものである。
「……見事だ」
統星の唇から、感嘆の吐息とともに低い声が漏れた。
部下たちが驚いて統星の顔を見る。その黄金色の瞳には、不快感ではなく、極めて純度の高い興味と称賛の光が宿っていた。
「殿下? あのような瓦礫の山が、見事と仰るのですか」
「お前たちには、あれがただのゴミの吹き溜まりに見えるか。ならば、その目をよく凝らしてみろ。あの廃材の角度、水の流れの変わり方。あれは偶然できたものではない。圧倒的な水理学の知識と、空間を支配する異常な才能によって組み上げられた、芸術的な防衛機構だ」
統星の言葉に、部下たちは言葉を失い、再び水上要塞へと視線を向けた。彼らにはやはりただのゴミの山にしか見えなかったが、主君がそこに見出しているものが確かな真実であることを、これまでの経験から痛いほど理解していた。
統星の胸の奥で、野心の炎が静かに、しかし熱く燃え上がった。
ありあわせの廃材と流木だけで、大河の力を飼い慣らし、これほどまでに強固で計算し尽くされた陣地を構築してみせる設計者。もし、この未知の才能を持つ者に、グラン・ヴァルディアの潤沢な資材と環境を与えたならば、一体どれほどの要塞を、あるいはどれほどの都市を造り上げるというのか。
世界統一という果てしない覇道を進む上で、強靭な兵士だけでは足りない。盤面を構築し、地を固めることのできるこのような特異な才能こそが、今もっとも欲しているものだった。
水上要塞という構造物そのものの維持には、もはやなんの執着もない。あのガラクタの山は沈めてしまっても構わない。だが、その奥でこの大河を支配している「設計者」だけは、決して失ってはならない。
統星は手綱を引き、振り返って部下たちに毅然とした声で告げた。
「作戦を変更する。火矢による焼き討ちは許可しない。あれはただ破壊して終わらせるには、あまりにも惜しい」
「では、殿下。いかがなさるおつもりですか」
「無力化し、奪い取る。あの要塞を設計した指揮官を、生きて我が軍に迎え入れる」
生け捕り。それは、単純な破壊工作とは比較にならないほど難易度の高い作戦への移行を意味していた。見えない罠が張り巡らされているであろう敵の陣地の奥深くまで踏み込み、中枢を制圧しなければならない。部下たちの間に緊張が走るが、統星の決定を覆せる者は誰一人としていない。
「ハズラ」
統星が呼ぶと、ハズラは馬を進めて主君の傍らに寄り添った。
「お前の目が頼りだ。あの不格好な壁の向こうに潜む罠も、敵の息遣いも、すべて見つけ出せ。俺たちを最も安全な道筋で敵将の元へと案内しろ」
「承知いたしました、統星様。いかなる死角も、この目に映し出してみせます」
ハズラは深く頷き、静かな決意を込めて答えた。
続いて、統星は双子の姉妹へと視線を向けた。鈴蘭はすでに槍の柄を軽く叩いて準備運動を始めており、水仙は無表情のまま、長大な槍の石突きを地面にトンと落として見せた。
「鈴蘭、水仙。ハズラが見出した道を、お前たちの槍でこじ開けろ。どれほど複雑な罠であろうと、お前たちの連携ならば食い破れるはずだ」
「任せてよ! どんなガラクタの迷路か知らないけど、全部あたしが跳び越えて、水仙がぶっ壊してあげるから!」
「……姉様の言う通りです。いかなる障害も、貫きます」
頼もしい返答を受け、統星は満足げに微笑んだ。
大河からの風が強まり、統星のプラチナブロンドの髪と、背中のマントを大きくはためかせる。彼は腰の剣の柄に手をかけ、全軍に向かって鋭く、よく響く声で号令を下した。
「全軍、船に乗れ! これより水上要塞の攻略を開始する。あのゴミの山の奥に潜む天才を、我がグラン・ヴァルディアの歴史に引きずり出せ!」
統星の号令に応え、兵士たちの力強い鬨の声が大河の畔に轟いた。
彼らは次々と用意されていた船に乗り込み、櫂を構える。水と廃材で構成された未知の死地へ向けて、覇道を往く軍勢の進軍が、今まさに始まろうとしていた。




