濁流の水上要塞攻略戦 02
統星の静かでありながらも絶対的な威厳を伴う号令が下り、グラン・ヴァルディアの精鋭軍は次々と用意されていた平底の船に乗り込んだ。屈強な兵士たちが息を合わせて櫂を水面に下ろすと、水を掻き分ける重々しい音が大河の畔に響き渡る。
灰褐色の濁った水が、途方もない質量をもって滔々と流れていた。大地の裂け目を流れる巨大な血管のようなその川は、ただそこに存在しているというだけで、人を容易には寄せ付けない自然の威容を放っている。船底に当たる波は荒々しく、水面を渡る風はたっぷりと水分を含んだ青臭い匂いを運んできていた。
空は薄曇りで、太陽の光は濁流の上に鈍い反射を投げかけている。船団の先頭を行く統星は、愛馬を船の中央に立たせ、自身もまた揺れる甲板の上に微動だにせず立ち尽くしていた。彼の月明かりのようなプラチナブロンドの髪が川風に煽られて大きくはためき、背中に羽織ったマントがバタバタと音を立てる。その黄金色の瞳は、遥か前方に鎮座するいびつな巨大構造物、すなわち沈没船や流木、瓦礫を複雑に組み上げて造られた水上要塞から一時も離れることはなかった。
「あはは、けっこう揺れるね!」
統星の乗る船のすぐ後方を進む船から、戦場には不釣り合いなほど明るく、鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。実行部隊として召集された双子の姉、鈴蘭である。彼女は機動力を最優先とした軽装のビスチェ風アーマーを身に纏い、船の舳先に片足で立って見事なバランスをとっていた。両手には取り回しを良くするために柄を切り詰めた二本の槍が握られており、白銀のツインテールが風に乗って元気よく跳ねている。彼女の金緑色の瞳には、これから向かう未知の戦場への好奇心と、好戦的な光が隠しきれないほどに溢れていた。
「……姉様、落ちますよ。水の上は足場が安定しないので、あまり好きではありません」
鈴蘭のすぐ背後で、妹の水仙が感情の起伏を感じさせない平坦な声で呟いた。彼女は姉とは対照的に、防御と安定性を重視したロングスカート状の腰布を纏い、自身の身長の倍以上はある長大な一本槍を杖のようにして甲板に突き立てている。白銀の髪を太い三つ編みにまとめた彼女の姿は、揺れる船上にあっても地面に根を張った大樹のように静かで、一切の揺らぎを感じさせなかった。
双子の対照的な様子を背中で感じながら、統星のすぐ傍らに控えていたハズラは、前髪の隙間から覗く光のない黒い瞳で周囲の状況を静かに観察していた。
「ハズラ。あの要塞について、出発前に現地の守備隊から上がってきた報告書には目を通したな」
統星が前方を見据えたまま、風の音に負けない通る声で問いかけた。
「はい、統星様。すべて記憶しております」
ハズラは感情を交えない、淀みない声で答える。彼らは無謀な突撃を仕掛けようとしているわけではない。事前の情報収集は、戦を制するための第一歩である。
「この大河の通行を不法に占拠している組織の規模、人員、そして武装の程度。それらは寄せ集めの盗賊団に毛が生えた程度のものに過ぎない。本来であれば、我が軍の精鋭を投入するまでもなく、地方の守備隊で十分に蹂躙できる程度の戦力だ」
統星の言葉に、周囲の兵士たちが深く頷く。グラン・ヴァルディアの正規軍と、不法占拠を企むならず者たちとでは、そもそも兵の練度も士気も比較にならない。
「しかし、現実はどうだ。幾度か編成された討伐隊は、ことごとくあのゴミの山に阻まれ、大河の藻屑へと消えた。その理由は兵力でも武装の差でもない。あの要塞を設計し、水流を支配している『頭目』の存在にある」
統星の黄金色の瞳に、鋭い知性の光が宿る。
「守備隊が捕らえた密輸業者の口を割らせて得た情報によれば、あの要塞の一切を取り仕切っているのは『カイリ』と名乗る若き職人だという。どこかの国に属するわけでもなく、正規の軍事教育を受けたわけでもない、ただの流れの建築家らしい。だが、あの水流の操作と防衛機構の構築を見れば、彼がただのならず者ではないことは明白だ」
カイリ。その名前を、ハズラは自らの脳裏に深く刻み込んだ。
一見すればただの無秩序な廃材の山にしか見えない要塞が、実は大河の途方もない水流のエネルギーを巧みに制御し、侵入者を破滅のルートへと誘導するよう緻密に計算された陣地であること。それを独学で、しかも限られたガラクタのような資材だけで造り上げたという事実。統星がなぜ破壊ではなく「生け捕り」に固執したのか、その理由がハズラにも痛いほどに理解できた。
魔界と人間界のすべてを統一するという果てしない覇道において、盤面を構築し、過酷な環境すらも味方につけることのできる特異な才能は、どれほどの軍勢よりも価値がある。あのカイリという未知の天才は、王子の覇道において決して失ってはならない存在だ。
船団が大河の中央を目指して進むにつれ、水面の様子はさらに荒々しさを増していった。川幅が狭まる要衝に近づいているため、水の流れが急激に速くなっているのだ。
ザバァッ、という大きな水音が船のすぐ横で弾けた。
ハズラが視線を向けると、濁った水面を突き破るようにして、無数の巨大な川魚の群れが空中に跳ね上がったところだった。灰褐色の鱗を持ち、大人の腕ほどもある太い胴体をくねらせて、力強く跳躍している。それは、この過酷な濁流という環境に適応し、逞しく生き抜いている生命の輝きそのものであった。
やがて、巨大ないびつな構造物である水上要塞が、いよいよ目前に迫ってきた。
沈没船の船首が奇妙な角度で突き出し、赤錆の浮いた鉄板と腐りかけた木材が幾重にも折り重なっている。近づけば近づくほど、その外観の醜悪さと、そこから発せられる得体の知れない威圧感が、兵士たちの間に無言の緊張を強いていく。
その時、甲板の先端に立っていた統星が、ふいに片手を高く掲げた。
「全船、櫂を止めよ! 進軍停止だ!」
その鋭く、よく通る声に、漕ぎ手たちは一斉に動きを止める。船団は惰性で少し進んだ後、激しい水流に抗いながらその場に留まった。
「殿下、いかがなされましたか。要塞のバリケードまでは、まだ距離がありますが」
副官が怪訝そうな顔で尋ねる。見たところ、要塞の周囲を囲む廃船の壁までは、まだ弓矢も届かないほどの距離が空いている。水面には何も障害物は見当たらず、このまま直進すれば一気に距離を詰められるはずであった。
しかし、統星の黄金色の瞳は、要塞の壁ではなく、自分たちの船のすぐ前方に広がる「何もない」水面を鋭く睨みつけていた。
「静かにしろ。……水の音を、よく聞くのだ」
統星の言葉に、周囲の者たちは息を潜めて耳を澄ませた。
大河の滔々とした流れの音。風が吹き抜ける音。その自然が織りなす壮大な不協和音の中に、極めて微かな、しかし決定的な違和感が混じっていた。
チョロチョロと水が何かにぶつかって細かく砕けるような音。そして、水面の一部が、まるで目に見えない岩礁でも潜んでいるかのように、不自然に盛り上がり、細かな渦を巻いている箇所がいくつもある。
「……これは」
ハズラもまた、その水流の異常に気づき、眉をひそめた。




