怠惰なる天才との遭遇 03
華やかな式典や緊迫した政治的会談が行われている中枢部から遠く離れ、ハズラは巨大な古代樹の太い枝を伝って、樹上都市の下層へと静かに降りていった。
何層にも重なり合うように構築されたこの都市は、下に降りれば降りるほど、その様相を劇的に変えていく。上層の枝葉が織りなす分厚い天蓋に太陽の光を完全に遮られ、この一帯は白昼であっても常に夕暮れ時のような薄暗さに包まれていた。清謐で神聖な魔力に満ちていた上層の空気とは打って変わり、肺を満たすのは、長きにわたって降り積もった落ち葉が発酵したような青臭い湿気と、生活の場特有の澱んだ匂いである。
ハズラは音を立てないように注意深く歩みをすり足気味にしながら、複雑に絡み合う苔むした枝道を進んでいった。紫苑から託された、世界最年少の魔導六杖であるルルティアの存在確認という重要な任務。統星から見出され、言葉と知識を与えられた側近として、ここで無為に時間を過ごすわけにはいかない。統星が求める広い視野を持ち、盤面を読み解くための情報を一つでも多く持ち帰らなければならないのだ。
足元には、無数の足跡によって踏み固められた深い苔の絨毯が広がっている。まるで終わりのない迷路のように入り組んだ薄暗い枝道を、自らの気配を極限まで薄めながら慎重に歩みを進めていたハズラは、不意に前方から響いてきた場違いな怒声にピタリと足を止めた。
「貴様という奴は! この誇り高き森の規律を、またしても乱すつもりか!」
感情を抑圧し、静寂を何よりも重んじるこの森においては、あまりにも異質で荒々しい声だった。声の出所は、巨大な樹洞を乱暴にくり抜いて造られた、隠れ酒場のような薄暗い店舗の前である。
ハズラはすぐに太い幹の陰に身を滑り込ませ、気配を殺したまま様子を窺った。
見れば、厳格な治安維持の任務に就いているであろう、堅牢な鎧に身を包んだエルフの衛兵たちが数人がかりで、一人の若いエルフの少女を取り囲み、今にも剣の柄に手をかけんばかりの激しい剣幕で問い詰めている。
しかし、ハズラの目を強く引きつけたのは、職務に忠実な衛兵たちの怒りの様相ではなく、彼らに幾重にも取り囲まれ、逃げ場を失っているはずの少女の、あまりにも異端な姿であった。
彼女は、本来ならば儀式や公的な場において着用されるような、伝統的で厳格な意匠が幾重にも施されているはずのエルフの魔導衣を身に纏っていた。だが、その着こなしは絶望的なまでにだらしなく、衣服に対する敬意など微塵も感じられない。首元をきっちりと覆うはずの襟は無造作に大きく開け放たれ、本来は優雅に垂れ下がるはずの長い袖は、動きやすさだけを求めたかのように乱暴に腕まくりされている。
太陽の光を編み込んだように美しく輝くずのエルフの金髪は、まるで何日も手入れを怠ったかのようにくすんだ色合いをしており、寝癖のように四方八方へと無差別に跳ねていた。エルフ特有の、無駄な肉が完全に削ぎ落とされたスレンダーな体型をしているものの、その立ち姿には凛とした緊張感が全くない。背骨の芯が抜けてしまったかのように姿勢は気怠げにぐにゃりと曲がり、白昼だというのに酷く酒に酔って、今にも倒れそうな千鳥足でフラフラと揺れている。
彼女の細い片手には、使い込まれた銀色の酒瓶がだらしなく握られ、もう一方の手には、魔術を行使するための神聖な杖の代わりであるかのように、長大なキセルが力なくぶら下がっていた。数千年の歴史と清謐な空気を保つこの森には到底似つかわしくない、発酵の進んだ強い酒の匂いと、鼻を突くような香りの強いタバコの煙の匂いが、彼女の周囲だけからむせ返るような濃密さで漂っている。
「……あー、うるさいっすねぇ。別にちょっとツケにしただけじゃないすか。後で払うって言ってるし……」
少女は、美しい顔立ちを歪めて世の中のすべてを斜めに見るような翠緑色の半眼を衛兵たちに向けると、ひどく面倒くさそうに首の後ろをボリボリと掻きながら、彼らの怒鳴り声を適当に聞き流していた。
どうやら、白昼からの度を越した泥酔に加えて、隠れ酒場での無銭飲食という金銭トラブルを起こし、目に余る素行不良の咎で、今まさに連行されそうになっているらしい。他種族との接触を頑なに断ち、内なる規律と清謐を何よりも重んじるユグドラフの社会において、彼女の存在はあまりにも退廃的であり、周囲の風景から浮き彫りになるほど極端な異端であった。
「問答無用だ! これ以上の見苦しい振る舞いは許さん、大人しく同行してもらおう!」
衛兵の一人がついに痺れを切らし、少女の細い腕を力任せに掴んで引き倒そうと、手荒に手を伸ばした。
その瞬間、ハズラの脳内で無数の思考が駆け巡った。他国の、それも閉鎖的なエルフの社会の治安維持活動に、異種族である自分が介入することは明らかな越権行為であり、外交上の無用な摩擦を生む危険性がある。しかし、衛兵たちが力を行使し、少女がそれに抵抗するような事態になれば、騒ぎはさらに大きくなり、ハズラ自身の隠密行動にも支障を来しかねない。何より、あの少女が放つ、周囲の空気を歪めるような独特の気怠さと異質さが、ハズラの直感に強く訴えかけていた。
ハズラは太い幹の陰から静かに歩み出ると、足音を立てずに衛兵と少女の間に滑り込むようにして割って入った。
「お待ちください。彼女の未払い金ならば、私が立て替えましょう」
ハズラは感情を交えない柔らかく、しかしはっきりとした口調で告げると、懐から銀貨を数枚取り出し、それを衛兵の目の前へと差し出した。
突然の異種族の介入に、衛兵たちは即座に警戒の表情を浮かべ、腰の剣へと手をかけた。しかし、ハズラが身に纏う上質で仕立ての良い軍服と、彼がグラン・ヴァルディア王国から招かれた公式な外交使節の一員であることを示す胸元の紋章に気づくと、その顔に露骨な戸惑いと躊躇いの色が広がった。
国家間の歴史的な式典の最中に、他国の重鎮の随伴者である使節を巻き込んで、下層での無銭飲食という些細な諍いを荒立てることは、彼らにとっても絶対に避けたい事態である。エルフの顔に泥を塗ることになりかねない。衛兵のリーダー格はハズラと差し出された銀貨を交互に見比べた後、忌々しそうに舌打ちをした。
衛兵はハズラの手から硬貨を乱暴に受け取ると、背後にいる少女を一度だけ鋭く睨みつけ、部下たちを促して足早にその場から立ち去っていった。
重装甲の足音が薄暗い枝道の奥へと消え、完全に彼らの姿が見えなくなると、残された少女は大きく、そしてひどく気怠げな安堵の溜息を長く吐き出した。
「はぁー……マジ助かったっす。あいつらウザすぎて、危うく魔法で吹っ飛ばすところだったし」
少女は手にしたキセルの吸い口を指先で器用に弄りながら、ひどくスレた独特の口調でハズラに向かって礼を言った。その声には危機を脱したばかりの緊張感の欠片もなく、間一髪で厄介事を回避させてくれた恩人に対する態度としては、あまりにもぞんざいで礼を失していた。
しかし、ハズラは彼女の無礼な態度を気にする様子もなく、ただ静かに、そして鋭く、目の前でフラフラと揺れる少女を観察し続けていた。
「アタシ、ルルティアって言うんすけど。あんた、見ない顔っすね。……まあいいや、ありがと」
ルルティア。
その短い名前の響きを聞いた瞬間、ハズラの心臓が、まるで冷たい氷の塊をぶつけられたかのように大きく跳ねた。
王都を出立する前、グラン・ヴァルディアの薄暗い執務室で紫苑から告げられた密命。世界最年少の魔導六杖、ルルティアの存在確認。
式典の場において、どれほど魔眼を凝らしても見つけ出すことができず、完全に空振りに終わったと諦めかけていたその名前が、今、全く予期せぬ形で、どん底のような下層の枝道で目の前の少女の口からあっさりと発せられたのだ。
ハズラは無意識のうちに微かに目を見開き、目の前で酒臭い息を吐きながら、気怠げにキセルを揺らして立つ少女の姿を、信じられない思いで改めて見直した。
どう見ても、ただの素行の悪い怠惰な不良娘にしか見えない。膨大な魔力を秘めた偉大なる魔術師としての威厳も、長年の修行によって培われた精神の研ぎ澄まされた気配も、彼女からは一切感じられない。
しかし、この数千年の間、外界との接触を絶ち、清謐と規律を何よりも尊ぶ厳格なエルフの社会において、これほどの異端が許容されているという事実。本来ならば重罪に処されてもおかしくないほどの退廃的な振る舞いが、ただの素行不良として衛兵に小言を言われる程度で済まされ、彼女がこの森のどこかで自由に生きることを許されているという現実そのものが、彼女が他者の追随を許さない特別な存在であることの、何よりの揺るぎない証左であった。
紫苑が探し求めていた、この世界の魔術の頂点に立つ六人のうちの一人。探していた伝説の魔術師、魔導六杖その人が、他でもないこの泥酔し、衛兵に絡まれていた自堕落なダメ人間である。ハズラは、あまりの落差と唐突な事実の判明に激しい目眩のようなものを覚えながらも、点と点が一つに繋がり、目の前の少女が探し求めていた標的であるという揺るぎない真実を、自身の脳裏へと決定的な確信として深く、そして強く刻み込んだ。




