怠惰なる天才との遭遇 01
東の隣国、ユグドラフで開催される式典に向けて、若き王子である統星が出立の準備を進めていた頃のことである。
グラン・ヴァルディア王城の奥深く、限られた者しか足を踏み入れることを許されない重厚な執務室には、出発を控えた微かな慌ただしさと、それを覆い隠すほどの深い静寂が同居していた。高く澄み渡った秋の空から差し込む陽光が、磨き抜かれた窓ガラスを透過して室内の無垢材の床に四角い光の模様を描き出している。
空気はひんやりと冷たく、古い羊皮紙と微かなインクの匂いが漂っていた。先ほどまでこの部屋で統星から直接、ユグドラフ行きの随伴という大役を命じられたハズラは、自身の内側に渦巻く誇りと重圧を反芻しながら、静かに退出の礼をとろうとしていた。
かつては泥にまみれ、狭く暗い世界しか知らなかった自分が、今や王子の側近として他国への重要な外交の場に赴こうとしている。その事実は、ハズラに一人の人間としての強い自覚と、主君の期待に背くことはできないという鋭い緊張感を与えていた。
恭しく頭を下げ、部屋の重厚な扉へ向かって身を翻そうとしたその時、ふいに澄んだ声が室内の静寂を縫うようにしてハズラの背中を呼び止めた。
「ハズラくん。少し、いいかしら」
鈴を転がすような、それでいて有無を言わせぬ響きを持った声。
ハズラが足を止め、静かに振り返ると、部屋の片隅に置かれた豪奢な長椅子に腰を下ろしていた少女がゆっくりと立ち上がるところだった。彼女は王子の内政を全面的に支える腹心であり、表向きは宮廷占い師という肩書きを持つ紫苑である。
窓から差し込む斜光が、彼女の腰まで届く艶やかな薄紫色のロングヘアを神秘的に照らし出し、一本一本の髪が淡い光の糸のように煌めいている。その全てを見透かすようなアメジストの瞳が、手元の分厚い書類から上げられ、真っ直ぐにハズラを見据えていた。
彼女は、感情に流されることなく国全体を一つの盤面として捉え、最善の一手を見出し続ける並外れた内政官だ。統星が覇道を進むための血流とも言える物資や人員の差配を完璧にこなす彼女が、出立直前のこのタイミングで自分を引き止めたことには、明確な理由があるはずだった。
「はい。何でしょうか、紫苑様」
ハズラが柔らかく、しかし隙のない敬語で応じると、紫苑はふっと優雅な笑みを浮かべた。その微笑みは親しみやすさを感じさせながらも、どこか相手の思考の奥底までをも測るような深さを秘めている。
紫苑は静かな足取りでハズラとの距離を詰めると、周囲の空気を一段と引き締めるようなトーンで口を開いた。
「貴方に探ってきてもらいたい標的がいるの。今回のユグドラフ行きにおける、裏の任務と思ってちょうだい」
裏の任務。その言葉の響きに、ハズラの表情が僅かに引き締まる。外交使節としての表向きの随伴だけでなく、観測者としての自身の能力を必要とする極秘の命。それは、彼に対する確かな信頼の証でもあった。
「標的、ですか」
「ええ。世界最年少の『魔導六杖』、ルルティア・アッシュウッドよ」
魔導六杖。その言葉が紫苑の薄い唇から紡がれた瞬間、室内の空気がわずかに震えたようにハズラには感じられた。
ハズラであっても、その畏怖に満ちた呼称の意味は知っていた。特定の国家や陣営、あるいは種族といった一切の枠組みに縛られることなく、純粋に魔術の技量がこの世界の最高峰に達していると目される、わずか六人の人物を表す代名詞。公的な役職ではなく、圧倒的な実力を持つ術者たちに対する畏敬の念から自然発生的に定着した、生ける伝説たちの総称である。
その一人、しかも最年少の存在が、これから向かうエルフの国に潜んでいるという事実に、ハズラの黒い瞳に微かな驚きと警戒の色が走った。
「標的がいるユグドラフという国について、貴方もいくらかは知識を得ているわね?」
紫苑はハズラの反応を確かめるように、ゆっくりと歩調を合わせながら語り始めた。
「彼らは森全体を強力な古代魔法の結界で閉ざし、数千年にわたって他種族との交流を一切拒絶してきた。外界の覇権争いや血なまぐさい戦乱に干渉せず、頑なに非戦を貫いてきた閉鎖的な選民国家よ。それゆえに、あの分厚い緑の壁の向こう側に関する情報は、極端に制限されているの」
紫苑が微かに眉をひそめた。彼女が張り巡らせた優秀な情報網は、グラン・ヴァルディアの国内外を問わずあらゆる事象を網羅しているはずだ。しかし、その彼女をして制限されていると言わしめるほど、エルフの森の守りは固く、そして気難しかった。
「ルルティアという名に関しても、断片的な噂が風に乗って届く程度に過ぎないわ。魔術に関する天性の圧倒的なセンスを持ち、歴史上類を見ないと評されるレベルの超精密魔法操作を息をするように行う、規格外の天才。……そんな伝説的な魔術の腕前や武勇伝が実しやかに囁かれているけれど、それが果たして真実なのか、あるいは排他的な彼らが自国を大きく見せるために流した虚言なのか、私でさえ未だに判然としない状態が続いているの」
紫苑は窓の外の広大な空へと視線を移し、小さく息を吐いた。盤面を完全に掌握することを好む彼女にとって、真偽の定かでない伝説が隣国に存在しているという状態は、決して放置できるものではないのだろう。
だからこそ、物理的な遮蔽物や欺瞞を越えて真実を捉える力を持つハズラに、白羽の矢が立ったのだ。
「そこで、貴方には彼女の存在の確認と、噂される伝説が本当なのかを調べてきてもらいたいの」
紫苑のアメジストの瞳が、再びハズラを真っ直ぐに射抜いた。その眼差しには、王子の側近として急速な成長を遂げつつある少年への、強い期待が込められていた。
ハズラは無言で頷き、自らの内に秘められた力をどう行使すべきか、急速に思考を巡らせた。特定の感情や波長を記憶し、壁の向こう側に灯る魂の火を正確に捉える彼の異能は、姿を隠した相手を探し出すことに極めて長けている。広大な樹上都市の中で、他を圧倒するようなただならぬ気配を持つ存在の痕跡を見つけ出すことができれば、必ずや紫苑の求める情報に辿り着けるはずだ。
「もちろん、相手は伝説と呼ばれるほどの存在よ。こちらから無闇に接触を図ったり、敵対的な行動をとったりする必要は一切ないわ」
ハズラの真剣な表情を前に、紫苑は念を押すように言葉を継いだ。
「標的の魔術の実力そのものは、正確に測れなくても構わない。あくまで彼女が実在するのか、そしてその人となりや噂の真偽を確かめること。無理をして危険に身を晒すことは許さないわ。統星くんの外交の邪魔になっては元も子もないのだから」
「承知いたしました。私の目をもって、必ずや噂の真実を捉え、紫苑様の元へお持ちします」
ハズラは姿勢を正し、静かに、しかし確かな決意を込めて答えた。
かつては誰の目にも留まらない鎖に繋がれた存在だった自分が、今は国を揺るがすかもしれない伝説の真偽を確かめる役目を担っている。己に与えられた役割の重さと、主君たちが寄せてくれる信頼が、ハズラの胸の奥で熱い灯火となって燃えていた。
紫苑はハズラの淀みない返答に満足げに微笑むと、手元にあった羊皮紙の束を小さく整えた。カサリと乾いた音が、静かな執務室に響く。
「頼んだわよ、ハズラくん。貴方のその澄んだ目が、未知の森で何を見つけ出すのか、期待して待っているわ」
「はい。いってまいります」
ハズラは深く、丁寧に一礼をした。
頭を上げると、窓から差し込む秋の光が一層明るさを増しているように感じられた。未知なる森の奥深くに潜むという、世界最年少の天才魔術師。その姿を思い描きながら、ハズラは自らに課せられた密命を確かに胸へと刻み込み、重厚な執務室の扉を静かに開けて廊下へと足を踏み出した。
これから始まる過酷な外交の旅と、静かに火蓋を切ろうとしている情報戦の気配を全身にまといながら、ハズラはただ前を見据えて歩き始めた。




