閉ざされた森の外交戦 05
車輪が乾いた土を深く噛み、ガタゴトと小刻みで不規則な揺れを伝えてくる。四頭立ての首なし馬が牽引する堅牢な馬車は、永遠にも等しい時を刻むユグドラフの巨大な神木群を背にし、グラン・ヴァルディア王国へと真っ直ぐに帰途の進路を取っていた。
人跡未踏の深い原生林の奥底に位置するエルフの選民国家での、あの張り詰めた式典から、すでに数日の時が経過している。窓の外を流れる景色は、太陽の光さえも拒絶するような鬱蒼とした枝葉の天蓋から、徐々に空の青さを覗かせる見晴らしの良い平原へと、その様相を変えつつあった。
数千年の時が育んだ分厚い苔の絨毯や、青々とした腐葉土の重苦しい匂いは薄れ、代わりにハズラの肺を満たすのは、吹き抜ける風が運んでくる乾いた草と土の香りだ。外界の戦乱や騒々しさを拒絶し続けてきた不可侵の領域をようやく抜け出し、エルフたちの研ぎ澄まされた耳すら届かない安全な境界の外側へと、一行は完全に足を踏み入れたのである。
ハズラは揺れる車内で姿勢を正し、自身の膝の上で軽く組んだ手に微かに残る汗の冷たさを感じながら、静かに呼吸を整えていた。彼の脳裏には、数日前にエルフ王の謁見の間で繰り広げられた光景が、いまだに色褪せることなく鮮明に焼き付いている。
森の主たちの御前に提示された、襲撃部隊の遺留品。仮想敵国である東の大国の正規軍の剣。それを揺るぎない証拠として冷然と突きつけ、気難しく排他的なエルフたちに共通の敵を強烈に認識させた統星の外交手腕は、まさに圧巻の一言であった。誇り高い彼らの精神に対する冒涜を巧みに煽り、強固な同盟関係を引き出した主君の圧倒的な威厳。あの張り詰めた空間で、ハズラはただ息を呑んでその一部始終を見守ることしかできなかった。
その鮮やかな手際の余韻が冷めやらぬ中、向かいの席に座る統星は、深く背もたれに身を預けている。戦場で甲冑を纏う猛々しい姿とは異なる、落ち着いた外套に身を包んだ若き王子は、目を閉じて静かに休息を取っているようにも見えた。月明かりのようなプラチナブロンドの髪が、窓から差し込む陽光を受けて微かに煌めいている。
一方、その隣に座る古騎族のジェベは、国家の命運を左右するほどの大仕事を終えたというのに、相変わらずの様子だった。彼は乾草色のくせっ毛を揺らしながら、窓の隙間から入り込む風を肌で感じ、眠たげな半眼でぼんやりと流れゆく景色を眺めている。式典の行きも帰りも、この掴みどころのない少年の態度は何一つ変わらない。
ガタゴトと車輪が軋む音と、風が木々を揺らす音だけが、単調な子守唄のように響き続けていた。
エルフの森の気配が完全に遠ざかり、グラン・ヴァルディアの乾いた風が馬車内を満たした、まさにその時だった。
「あの襲撃部隊の剣、どこで手に入れた?」
その静かな空間を切り裂くように、不意に統星が口を開いた。
感情の起伏を一切感じさせない、ひどく平坦で静かな声だった。しかし、統星の閉じていたはずの黄金色の瞳は薄く見開かれ、窓の外を見ていたジェベを真っ直ぐに射抜いていた。国家間の確固たる同盟を引き出すための決定的な鍵となった、あの都合の良すぎる遺留品。その真の入手経路を問いただす主君の静かな追及が、狭い馬車の中に波紋のように広がっていく。
その問いかけに、ハズラは内心で小さく首を傾げた。
あの仮想敵国の正規軍の剣は、行きの道中で奇襲を仕掛けてきたゲリラ部隊の死体が握りしめていたものではなかったか。ジェベ自身が、血と泥にまみれた遺留品の中から拾い上げ、エルフ王の御前で確固たる証拠として提示されたはずだ。なぜ今更、その出どころを主君が問いただす必要があるのか、ハズラには即座には理解できなかった。
しかし、追及を受けたジェベは、微塵の動揺を見せることもなく、窓枠から頬杖をついていた手をゆっくりと下ろした。
そして、視線を統星へと戻すと、まるで今日の夕食の献立を答えるかのような、ひどく軽薄で平坦な調子で口を開いた。
「ああ、あれ? 前の戦場で拾ったゴミだよ」
ハズラの口から、間の抜けた声が漏れた。
「……え?」
前の戦場で拾ったゴミ。その言葉の意味が、すぐにはハズラの脳内で処理しきれなかった。あの剣は、東の大国が送り込んできた暗殺部隊の装備であり、彼らがエルフの領土を侵犯した揺るぎない証拠だったはずだ。拾った不要物だというジェベの言葉は、一切悪びれる響きを持っていなかった。
ハズラの混乱をよそに、ジェベは乾草色のくせっ毛を微風に揺らし、飄々とした笑みを浮かべて言葉を続ける。
「金で雇ったゴロツキどもにあの剣を持たせてさ、『ここを通る馬車を襲え』って、あらかじめ僕が指示を出しておいたのさ」
その瞬間、馬車内の空気が完全に凍りついたようにハズラには感じられた。
車輪の軋む音も、外を吹き抜ける風の音も遠のき、ジェベの放った言葉だけが脳内で何度も何度も反響する。
金で雇ったならず者。馬車を襲えと指示した事実。
それはつまり、あの急峻な山岳地帯で、突如として無数の矢が馬車に降り注いだあの凄惨な奇襲そのものが、他ならぬジェベ自身の仕組んだ自作自演だったということだ。
東の大国の工作部隊など、最初から存在すらしていなかったのだ。
ただの金で雇われたならず者たちが、ジェベの思惑通りに動かされ、そしてジェベ自身の放った矢によって口封じの如く無残に射殺された。エルフ王の御前で提示されたあの重々しい証拠は、ジェベが用意したただの舞台小道具に過ぎなかったのである。
「な……」
ハズラは驚愕のあまり目を見開き、信じられないものを見るような視線をジェベへと向けた。
喉が干上がり、声の出し方を忘れてしまったかのように言葉が全く続かない。
味方であるはずの自分たちの命すら危険に晒すような恐ろしい襲撃を自ら画策し、他国の王室をも完全に欺くほどの壮大な嘘を、いとも容易く、しかも息を吐くように自然に実行してみせた目の前の少年。
ハズラは全身の血が引いていくのを感じながら、ただ呆然とジェベの顔を見つめ続けることしかできなかった。
自作自演の襲撃劇を告白したジェベは、馬車の座席に深く背中を預けたまま、再び窓の外を流れる景色へと視線を移した。そして、自らが描いた非情な絵図の真意を、まるで今日吹く風の向きを解説するかのように淡々と語り始めた。
「簡単な理屈さ。エルフたちに、仮想敵国である東の大国を『明確な敵』であると認識させる。それが僕たちの背後を安全にするための、最も効率的で確実な手段だったというだけだよ」
彼の黄金色の瞳は、感情の起伏を一切見せることなく、静かな理知の光だけを湛えている。
「彼らは他種族との交流を徹底して拒絶し、自分たちの聖域を何よりも重んじている。そんな気難しく排他的な連中が、自らの領土を荒らし、式典という神聖な場に泥を塗ろうとした国をどう扱うと思う? 一度でも敵対勢力だと見なした相手を、彼らは己の誇りにかけて、意地でも自国の領土内へは一歩たりとも侵入させないだろうさ」
ジェベのしなやかな指先が、何もない虚空で軽くタクトを振るうように動く。彼の脳内には、この馬車の中で広げていた大陸の地図が、新たな勢力図として鮮明に描き出されているかのようだった。
「これまではただ他種族を拒むだけの『中立国』だったユグドラフが、あの剣一本とちょっとした芝居のおかげで、東の大国からの干渉を物理的かつ完全に遮断する巨大な盾に変わったんだ。僕たちグラン・ヴァルディアが国境に軍勢を張り付け、多大な血と物資を消費して防衛線を維持するのに比べたら、拾った不要物と使い捨てのならず者に払った金だけで済んだんだからね。はるかに低いコストで出来上がった、決して崩れることのない最強の防壁さ」
ジェベはそう結論付けると、馬車の揺れに合わせて小さく肩をすくめた。彼の飄々とした態度の裏には、数千年続く選民国家の在り方すらも風の向きを変えるように容易く操ってみせた、計算し尽くされた戦略の成果だけが確固として存在していた。
ジェベの淡々とした、しかしあまりにも合理的な結論が車内に響き渡った後、そこには馬車の車輪が土を噛む単調な音だけが残された。
ハズラは口を半開きにしたまま、目の前に座る古騎族の将から完全に言葉を失っていた。
乾草色のくせっ毛を揺らし、窓の外の景色を退屈そうに眺めているジェベの横顔は、金で雇ったならず者を平然と捨て駒にし、誇り高い永世中立国を巨大な嘘で騙し討ちにした張本人とは到底思えないほど、いつも通りの飄々としたものであった。
最初から、ユグドラフという国を防壁として利用することだけが目的だったのだ。
そのために、自国の兵を一人も血に染めることなく、ただ一本の拾った剣と捨て駒を用意するだけで、エルフたちの仮想敵国に対する苛烈な憎悪を完璧に煽り立てた。数千年にわたって他種族を拒絶してきた強固な森の結界と、彼らの底知れぬ軍事力は、今やグラン・ヴァルディア王国の背後を何よりも安全に守る最強の盾として機能している。
ハズラの背筋を、氷のような冷たい汗がゆっくりと伝い落ちていった。
自身の持つ魔眼は、分厚い城門の裏に潜む伏兵や、霧の向こうの敵兵の座標を正確に透視することができる。戦場という局地的な盤面において、それは間違いなく強大な力であった。
しかし、ジェベが見渡し、そして意のままに動かしていた盤面は、ハズラの見ている世界とは桁違いに広く、そして想像を絶するほどに酷薄だった。
ジェベは、敵兵の命だけでなく、エルフたちの誇りや感情、さらには東の大国の思惑すらも、盤上の駒や地形のブロックと同じ単なる物理的な壁として計算し、配置してみせたのだ。
誰の目にも見えない大気の揺らぎを読んで必殺の矢を放つように、ジェベは国家と国家の間に流れる見えない感情や恐怖の揺らぎを完璧に読み切り、最も効率的な一矢を放って戦局そのものを支配してしまった。
これが、統星が学べと命じた国家間の力学なのだ。
剣を交え、魔法が飛び交う血生臭い戦場とは全く異なる次元に存在する、もう一つの戦場。笑顔で友好の杯を交わしながら、その裏で他国を盤上の駒として組み込み、自国の利益のためだけに操作する政治という名の底知れぬ謀略。中立国を意図的に敵対関係へと巻き込むというジェベの謀略を通じ、ハズラは国家間の政治の奥深さとその恐ろしさを、骨の髄まで深く思い知らされる結果となった。
ハズラは自身の震える両手を強く握りしめ、窓の外へと視線を向けた。
行きとは違い、どこか頼もしくさえ見えていた深く静寂な原生林の景色が、今は巨大で残酷な欺瞞の上に成り立っている不気味な舞台装置のように感じられた。国家間の政治の恐ろしさが、重く冷たい鉛のようにハズラの胸の奥底へと沈み込んでいく。自分がこれから身を投じていかなければならない世界の真の姿を前に、ハズラは深い眩暈を覚えるようだった。
血の匂いなど欠片もさせず、ただ言葉と計略だけで国を動かし、無数の命の行方を決定づけてしまう。奴隷時代に振るわれた暴力とは比べ物にならないほど巨大で、あまりにも静かな暴力。
その時、沈黙を保っていた統星が、静かな、しかし確かな重みを持った声で紡いだ。
「ジェベ。お前の策の鮮やかさは認めよう。だが」
黄金色の瞳が、驚愕に身を固くするハズラ越しに、飄々とするジェベを真っ直ぐに捉えていた。
「次からは、事前に私にだけはその絵図を知らせておけ。味方の命すらも盤上の駒とするならば、王たる私がその覚悟を背負わねばならん」
王者の威厳と、主君としての重い責任を帯びたその言葉に、ジェベはわずかに目を丸くした後、静かに深く頷いた。そのやり取りは、ハズラの魂の最も深い場所へと、上に立つ者の覚悟という消えることのない教訓として鋭く突き刺さった。




